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日記・コラム・つぶやき

2018年5月 3日 (木)

【12年前の母との対話】

  信頼できる”真の政治家”

 ある日、私は、母に単刀直入に訊ねた。「ねぇ、お母さん、小沢さんって、 

信頼できる人?」と。すると、母が即答した。 

 「私は、信頼しているよ。あの方は、どんなに人から悪く言われようと、 

弁解ひとつしない。 

 それに第一、他人の悪口は、決して言わない方だね。私は、小沢さん

は、今の日本の政治家の中で一番、信義を尊ぶ方だと思うよ。

 

 それに、あの方は、確たる『政策』を持っているでしょうが。 

安倍さんは、”再チャレンジ”と言われるけれど、それこそニートといった、

本来チャレンジできない人々は、一体どうなるの? 

 その点、小沢さんは、なかなかチャレンジできない人でも、希望を

持って働けるような、そんな地道な施策をやってくれるような

気がするんだよ。 

 若い人たちが将来の展望を開けるような政治は、今の自民党の

やり方では無理だね。

 

 第一、政権が長すぎたね。確かに一時期、下野したことはあったけれ

ど、一年足らずで返り咲いたね。 

 でも、あの時、自民党員は、もっと”苦労”すればよかったと思うよ。 

そうすれば、その後、国民に対して、もっと”思いやりのある政治”が

できたと思う。 

 やはり、小沢先生に一度、国政を司っていただきたいね。私は、

心から、そう思うよ」と。

 

 ところで、われわれ人間にとって、無論、お金は大事である。

だが、あえて極言すれば、私は、人間にとって金品より”重たいもの”

があると思う。

 それは、人間間の「信頼感」だと思うのだ。

 

 かつて、日本人は誠実、努力家、器用と同時に、”信頼に足る”という

徳性を持っていたと思う。 

 だが戦後、アメリカ(=ユダヤ)的な価値観が導入されて以来、

人間間「信頼」や「信義」が疎かにされた。 

 そして、ただ勝者として勝ち残ればいいという風潮になってしまった。

この傾向は、小泉内閣以来顕著となり、安倍内閣になって、

ますます加速化された気配さえある。

 

 「信なくば、立たず」という言葉がある。政治家にとって「生死の狭間」

とも言える選挙が、時にはお金の多寡や組織力によって左右

される反面、人間(あるいは、国民)による”信頼”が、

政治にとって、いかに大事かということを表す言葉である。

 

 言うまでもなく、「信」が「信」を呼び、”不信”が”不信”を招くのが、

世の常である。つまり、他者から信頼されれば、人は信頼で応え、

反対に信頼されなければ、自分も他者を不信の目で見てしまう。

 

 この世には、いろいろな人がいるけれど、一つの基準に従えば、

その人が”信じられる人”か、それとも”信じられない人”かに

大別されよう。

            Photo

 

 

 では、わが国の政治指導者の場合は、一体どうだろうか? 

至って正直に述べれば、私は小沢氏は前者で、小泉氏や中曽根氏、

それに安倍氏は後者だと思える。無論、これには、異論もあろう。

 だが、それが軽妙な”ワンフレーズ”であろうと、「美しい」という

形容詞だけの、単に耳に聞こえのいい言葉であろうとも、そこに 

”真実”や”実質”がなければ、聞く人の胸底には響かない。

 

 それに後者のお三方に共通する性向は、各々 が多少の差こそ

あれ、共通して、自己の言葉に陶酔する”ナルシスト”だという

ことだ。

 他方、小沢氏は、常に語る言葉を一語一語選び、

かつて一度たりとも、自分の語る言葉に酔うなどと

いうことは無かったであろう。 

 

 例えば、彼らの「語る言葉」を文章にすると、おのずとその違いが

分かろう。 

小沢氏の場合、先ずそのままの形で文章になる。 

 だが小泉氏の場合は、ほとんどが感動詞と単語だけなので、もともと

文章が成立しない。 

 さらに安倍氏の場合は、飾り言葉や意味の分からない外国語表現が

多く、一体何を言っているのかさっぱり分からず、

結局、読み手にとって、

全く”文章にならない”といった具合である。

 

 

 ところで、母に、彼女が最近読んだ小沢一郎著『小沢主義』について、

感想を聞いた。 

 私が、「どうだった?」と問えば、母は、「この本は私のような者でも、

政策のことが理解できるように書かれていて、感動したよ。

 

 でも、小沢さんは、理知的であるけれど、山川草木、”目に見えぬもの”

に対する畏れを持っておられるのかどうか。・・・・ 

 けれど、人に察知されぬところで大事にしておられる、と

信じたい。 

 だけど、この本を読む限り、小沢さんは、政策重視の

”真の政治家”思うよ」という言葉が返ってきた。 

                Photo_2

 

 

”真の政治家”という、母の言葉は重い。 

 確かに、若い頃から”現場”を熟知し、重視する人であり、かつ「農林

水産業」に生きる人々をよく知っていた小沢氏は、「選挙の重大さ」

「人々の生活の大切さ」「何より国民のための政治」

「国民の意識向上」「国民と政治家間の信頼と連帯」

「日本人としての誇りと自信」などの大事さを力説する。

 彼は、本著の中で、「国民のレベル以上の政治家は生まれない」と

いう至言について言及している。 

 そして、「もし、日本の政治が貧困であるとしたら、その責任は他でも

ない。国民自身にある。僕はそれを言いたい」と断言する。 

 この言葉は、一見酷薄な印象を与える。無論、この言葉の含意は、

小沢氏自身でなければ理解できないかも知れない。

 

 しかし、ここで、小沢氏は、まるで他人事のように”国民だけを”

糾弾しているとは思えない。 

 つまり、あえて理屈を言えば、彼自身も、その責任ある日本国民

「一人」でもあるのだ。

 

 言うなれば、これは、決して単に他者を責める言辞ではなく、むしろ、 

御自分を含めた日本の全国民に対する”自己批判”の一文でもあると 

思うのだ。

 

 そして、先述した「信なくば、立たず」と、自らを律して国政に関わって

きた政治家は、他の誰よりも小沢一郎その人だったのでは

ないだろうか。 

 私は最近、その思いをますます強くしている。 

 

 何より大事な点は、小沢氏は若き日に、日本の「歴史」に通暁した

結果、今後、必ず到来するであろう、我が国の未曾有の”国難”を、

誰よりも強く、かつ深刻に認識したのではないか

ということだ。

 

 若き日に、彼は、自らの眼前に、”何か、大変なもの”を観たと思う。 

”何か”を実感したと言ってもいいだろう。 

 この認識の深さと卓抜な想像力は、自民党の政治家諸氏の比では

ないと思う。 

 そして、この今後の”国家的危機”に果敢に挑戦し、それを克服する

に足る政治指導者こそが、私は、小沢一郎氏自身であると思う。

 

 彼はまた、貧しく、かつ弱き人々の真の苦しみや”痛み”を充分知って

いる人でもある。 

 むしろ彼は、その方々と同じ「目線」で、いつも日本の政治を観ている。 

この感性は、彼が宮沢賢治や石川啄木と同じ岩手県の出身であること

と、決して無関係だとは思えない。 

           Photo_3

 

 そして、何より彼は、単に若者だけでなく、日本国民の一人ひとりを、

心底信頼しているのである。それゆえ本著で、彼は、次のように

確言する。 

 「僕は信じる。日本は変わることができる。日本人は自己改革し

うる」と。 

 国民と政治指導者が互いに信頼し合えてこそ、本来の「政治」や

「政治改革」が可能だと思うのだ。 

 

 小沢氏は、政治家と国民が互いに信頼し合い、ともに協力・協働

できる国づくりを目指している。そして彼は、われわれに、

こう訴えているように思えるのだ。

 つまり、「皆さん、日本を公正な、もっといい国にしていこうでは

ありませんか!」と。 

私はそこに、心から信頼できる”真の政治家”を見るのである。 【了】 

 

 (上記の文章は、既述したように、12年前のものである。だが、この

思いは、今日も、全く変わらない。 

 日本国民にとって、小沢氏に、本来、相応しい活躍の場が与えられ

ない、という以上の不幸はないであろう。 

 むしろ、政治の状況は、当時よりも、かなり悪くなっていると感じる。

 

 まさに、今日の日本は、”地獄行き間違いなし”の運命を感知でき

ない愚者たちの楽園だ。 

 今、日本国民は、戦後最大の危機に直面していると思うのだ。

 

 生前、母は、「小沢さんに、一度、総理になって欲しい」と、

語っていた。母は、その願いを叶えることなく、

瞑目した。 

 しかし、母と同じ思いでいる人々は、今でも、日本国内に、

かなり多いのではないだろうか。 

 或るアホな政治家が、「適材適所」という言葉を、徒に有名

にした。

  だが実際は、総理大臣や財務大臣を始め、「不適材不適所」と

いうのが、日本の全社会領域での特徴だと思う。

 このような現状は良くないと考え、今後、政治・社会改革に乗り

出す日本人が、より多く登場することを、私は、心より

念じたい。)

 

 

 

 

 

 

 

2018年4月 8日 (日)

「母の旅立ち」

 母が亡くなりました。

 私事ですが、母・渡邉エイ(92) が亡くなりました。丁度、一年前の今日 

(4月8日)のことです。 

 母は、昨年の同日、午前零時13分に、瞑目いたしました。

この時刻は、お医者様から、公式に告げられた時刻です。

 厳密に申しますなら、その前日の午後11時55分に、母の心臓は、

すでに最後の動きを止めていました。

 病院のナースからの急の報せを受けて、病室に駆け込みました時、

母の心停止を伝えるモニターの警報音が、悲しく鳴り響いておりました。 

       001no2_3


 実は、その日(4月7日)は、母の父・永田作太郎(83)が亡くなりまして、

丁度54年目にあたります。

 まさに、前世から約束されていた感じです。共に信仰心の篤かった母と

祖父との、深い絆を感じずにはいられません。

 因みに、平安末期に活躍しました西行法師が、美しい和歌を残しています。

それは、「願わくは、花の下(もと)にて春死なん、

その如月の望月のころ」というものです。

 できれば、桜が咲き、潔く散る頃に亡くなりたいものだ、と彼は願いました。

西行は、自らの希望通りに亡くなりましたが、母も祖父も、実にいい季節に

”旅立った”と思います。

   Photo


 母の92年の生涯を、一言で申しますなら、それは、「よく働き、よく読み、

そして、よく祈った人生」でした。

 母は少女時代、零落した実家の苦境を救うために、高等小学校を卒業して、

専門教育を、たった1年受けたばかりの満13歳で、「福助(フクスケ)」という

繊維会社の経理として、働き始めました。

 90歳になりましても、思わず新聞の求人広告に目をやるほどの、仕事熱心な

人でした。

 また母は、たいへんな読書家でした。重度の脳梗塞で倒れる前日まで、

難解な政治、及び歴史関係の書物を読むことを、たいへん楽しみにして

いました。

 さらに、母は、よく祈った人でした。

日蓮宗徒(身延山・久遠寺派)としての、毎朝夕1時間ずつの勤行は、

母の唯一の喜びであり、生き甲斐でした。

 加えて、母は、祖国日本を、深く愛した人でした。

「今度、また人間に生まれ変われるならば、ぜひ日本に生まれたいね」と、

常日頃申しておりました。

 母が生涯、決して忘れなかったものがあります。

それは、すべての人々に”感謝する心”です。

感謝・報恩の思いこそ、母が最も大切にした心の在り方だったと思います。

 

 そんな母が、最も尊敬し、かつその活躍を希望した政治指導者がいます。

小沢一郎、その人です。

 「小沢さんに、一度、総理になってもらいたいね」と、時折、申していました。

”この母の夢が、いつか叶えばいいな”というのが、私の正直な思いでした。

 散りゆく桜を見る度に、私は死ぬ日まで毎年、母を思い出すことに

なります。

 まさに、桜の花のように、潔い一人の日本人でありたいものです。 【了】

2017年12月28日 (木)

一人の日本人の「本音」

   現代日本の”肥溜め”、アベ政権!

 ”肥溜め”と言っても、多くの人々は、余りピンと来ないだろう。 

この言葉をイメージできるのは多分、65歳以上ぐらいの、それも地方

出身者ではなかろうか。 

 高齢者とはいえ、幼少期から大都会で生活した方々には、全く馴染み

が無いかも知れない。

 

 しかし、まことに幸いなこと(?)に、私共、いなかで生まれ育った者に

とっては、この”肥溜め”という存在は、実にリアルなものだった。 

 正直、少年期の私たちは、慣習的に、それを、「肥たご」と呼んでいた

ように記憶している。

 

 俳優の西田敏行氏(70)などは幼少期、誤って、あの中に落ちてしまった

ことがあるという。これなどは、実に得難い体験だ。 

 だが正直、あの中に入りたいとは思わない。第一、あの特有の臭いが 

堪らない。 

  しかし、あの悪臭を放つ肥溜めも、昔は、実に貴重な存在だった。

あのお陰で、様々な野菜類が、見事に実ったのである。 

 

 だが、今日の日本で、耐え難い悪臭を放つ”肥溜め”のような存在が

ある。他ならぬ、アベ政権である。 

 われわれは、いつまで、あの、どう仕様も無い阿呆と付き合わなければ

ならないのか! 

 古代中国の殷朝最後の王、紂王(ちゅうおう)でさえ、アベほどには愚か

ではなかったであろう。 

 「あんな者と比較するな!」と、紂王に怒られそうだ。 

 確かに、アベの、あの耐えられない程の軽さ、愚かさ、そして邪悪さを、 

一体、何と表現しよう。

 だが正直、私は、表現したいとも思わない。 

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 「類は友を呼ぶ」というが、同じような波長を持った強欲な守銭奴や

売国奴たちが、彼の周りに群がる。そして、思い切り、彼を賛美する。 

 これ程の痴態、醜態が、一体、この日本のどこに存在しようか!

 

 私には、その彼らの姿が、十返舎一九の滑稽本『東海道中膝栗毛』

の中で、弥次喜多が、若い娘に化けた狐にだまされて、風呂と思って、

肥溜めに浸かっている姿に見えてしまうのだ。

 

 「モリ、カケ、スパ、リニア」など、アベ絡みの国富収奪が、意図的に 

伏せられ続けている。 

 しかし、こんな悪しき状況が許されるはずがない。

 

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 だが、国家は、他国から攻め込まれて、滅ぶのではない。 

多くの国民が、道徳を軽んじ、易きに流れ、社会の公正、公平に反する

ことを、平気で行うところに、国の滅びの兆しが見え始める。 

今の日本が、まさに、そうではないか! 

 不正を不正と思わず、悪を悪と断じず、「政治や経済に道徳など要らない」

と強弁するところに、個人や社会の堕落が始まる。 

 そういった社会や国家が早晩、滅亡するのは、火を見るよりも明らかだ。

 

 

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       ( 実に寒々とした、アベの国連演説風景。ー  

          しかし、これが現実!  世界は正直、そして厳格だ。)

 

 

 「アベ自身が”国難だ”」というのが、心ある日本国民の本音ではないか!

 (決して、我儘の心からではなく)「嫌なものは嫌、醜いことは醜い、

悪い事は悪い」と言えるのが、本来の日本人の、ピュアーな心性の

はずだ。

 

 しかしながら、アベ政権は、様々な欺瞞、不正、不義、不公正、不公平、

 さらには、飽くなき”暴力性”の集合体だ。 

 その悪臭プンプンたる存在を、私は、現代日本の”肥溜め”と書いた。

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  しかし、実際の肥溜めは、前述したように、実に有益なものだった。

だが、アベ政権は、99%の日本国民に、限り無い害悪を及ぼすことは

あっても、決して幸いや福祉をもたらすことはない。

 一日、いや一秒でも早くアベが退陣し、真に国民主体の国政の刷新が

行われることこそ、われわれ日本人が、真に求めるものだと思うのだ。

                                          【了】

 (*追記: 私事だが、今日〔12月28日〕は、私の68回目の誕生日である。

 こんな、”臭い文章”を、まさか、自分の誕生日に書くことになるとは、

 予想だにしなかった。

  だが正直、私は、これを、書かずにはいられなかったのだ。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2017年11月22日 (水)

見えざる「真理」を求めて(4)

  ジョン・F・ケネディの命日に思う

 

   Photo     

        Photo_2



 今日(11月22日)は、ジョン・F・ケネディの54回目の命日です。 

実は、私の父も、全く同じ日に亡くなりました。18年目となります。 

 18年前の今日は、熊本城内の黄葉した銀杏の葉が、青空に映えて、

実に美しい日でした。この光景を、私は、父が入院していたホスピスの

ベランダから見ることが出来ました。(* 下のものは、どなたかの写真を、

拝借したものです。)

     Photo_3

 心から尊敬するケネディ大統領と父が、全く同じ日に亡くなったことに、 

私は、深い感銘を覚えずにはいられません。 

 実は、ケネディは、父の兄と同年でした。 

 

 ところで、最近目にしたブログで、54年前の、あの暗殺の日、当時39歳

だったパパ・ブッシュが、暗殺現場に居たことが明らかになりました。 

 何故、彼は、そこに居たのでしょうか? 

 正直、若い頃から、ケネディ研究をしていた私は、この事実を知って 

いました(パパ・ブッシュと、CIA長官アレン・ダレスとの絡みで)。

 

 唯、ブッシュ(当時、彼はCIAのエージェント)が、不審な動きをしていた

ことで、ダラス署の警察官に連行されていたことまでは、知りませんで

した。 

 同ブログに依ると、その連行の光景を心配そうに見守るブッシュ・ジュ

ニアの姿が残っているようです。 

 

 「あなたは、ケネディが暗殺された時、どこで、何をしていた?」という 

ことは、米国民に共通して問われる質問です。 

 また、この”歴史的瞬間”を、米国民は、決して忘れることは無いと

言われます。 

 同事件は、彼らにとって、それほどまでに衝撃的な出来事でした。 

 

  それゆえ、あの日、あの時に、ブッシュ親子が、暗殺現場に居た

いうことは、歴史的に、決して”軽いこと”だとは思えません。 

 むしろ、厳密に究明されるべきことでしょう。 

 これは何も、両者が、テキサス州を地盤として政治・経済活動をした

からだと、軽くあしらえることではありません。 

 そこには、実に深い”アメリカの闇”が潜んでいると思います。私は、 

アメリカは、世界の超大国という以前に、史上稀に見る「犯罪国家」だ

と確信しています。 

 

 ところで、本日は、皆さんに、政治とは全く違った視点から、一つの

哲学的”真実”について、考えて戴きたいのです。 

 その参考に、ある作品を貼り付けます。どうか、よろしかったら、

ご高覧ください。 

 (拡大して、ご覧になると、いいですね。初めは、無音ですが、14秒目

ぐらいから、音が出てきます。

 正直、「銀河連盟」という言葉には、未だピンと来ませんが、

全体の内容は、たいへん有益だと感じます。)    

https://youtu.be/mLyGfG1CluM

                                            【了】

2017年10月12日 (木)

【いつか見た光景】

 1960年の安保闘争時、私は、熊本市内に住む小学5年生だった。 

正直、”醜い”という言葉は知らなかった。 

 だが、心からそう感じた一人の「人間の顔」があった。 

それは、退陣直前の岸信介の顔だ。 

 国会議事堂内で、もみくちゃにされる彼の引き攣った顔が、当時の

私の心に焼き付いた。 

 それ以後、私は、彼以上に醜い顔を見ることはなかった。・・・・・

今日の安倍晋三の顔を見るまでは。ー

 素より、ここで言う「醜さ」とは、肉体的容貌における美醜の問題ではない。 

むしろ、あらゆる邪念が表出した顔つきのことである。 

 多感な少年期の私は、当時の岸首相の顔に、”それ”を感じたのだ。 

それは、まさに、小さな胸一杯の”嫌悪感”だった。 

 

 国内で、これから起こる政治現象は、規模こそ違え、1960年当時に、 

限りなく似て来ると思う。 

 そこに、私は、”いつか見た光景”を、心底、感じてしまうのだ。

 

 ところで、

 (これらの写真は、一体、何を物語るのか?)

 Photo

      ( 退陣前の岸の写真と思われる。それにしても、インディアン姿の

      男児は、一体、誰? もしかして、加計孝太郎? 

       でも、どうして?・・・・ )

            Photo_3
 
                     (これは、友と言うより、むしろ兄弟ではあるまいか!

             因みに、加計は、安倍の3歳年長。ー

            心から信頼できる”兄”だったのではないか。)

        Photo_4
            (人間、変われば、変わるもの。ー  特に、加計。)

   まさに、「歴史は、繰り返される」。ー  それに、「百聞は、一見に

  如かず」である。                              【了】

 

 

 

 

 

 

     

 

2017年6月16日 (金)

見えざる「真理」を求めて(3)

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       生死を超えるもの

 暗殺される直前まで、ガンディーは、決して死を怖れてはいなかった。 

彼にとって、すべては、神(ラーマ)の計らいによるものだった。 

 それゆえ、暗殺される10日前の1月20日、彼の暗殺を企てた爆破事件が 

起きた時にも、彼は、至極悠然としていた。

 

 事実、暗殺者ナトゥラーム・ゴードセー等は、拳銃による暗殺以前に、 

ガンディーの爆殺を計画し、決行した。 

 だが、それは失敗に終わり、仲間の一人マダンラル・パーワが捕らえら

れた。 

 それだけに、彼らの暗殺計画は、極めて切羽詰まったものだった。

 

 他方ガンディーは、集会に集まった人々や多くの信奉者を前に語りかけ

いる最中、かなり近くで爆発があった時も、まるで何事も無かったかの

ように話を続行した。 

 礼拝集会は、いつもの順番どおり、開会の合唱、ガンディーの言葉、

コーラン、聖書、ギーターの朗唱と続き、最後に「イシュワール(ヒンドゥー

の神々)」と「アッラー(イスラムの神)」の二つの宗教の神々に、「我ら

すべてに英知を与えたまえ」と祈り献じた。

 

 この爆破事件の実行犯、マダンラル・パーワに対しても、ガンディーは、 

何の憎しみも覚えず、むしろ彼の「勇気」を褒め称えた。彼は言う。 

 「その若者は、勇敢な戦士だ」と。そして、かつて爆弾事件を起こして、 

英国によって処刑され、民族的英雄になったバガッド・シンとマダンラルを 

同列に論じた。ガンディーは、語り続ける。 

 「彼らは、子供のようなものだ。理解力が無い。私がいなくなった後で、 

彼らは、この老人がいつも言っていた事は正しかったと悟るだろう」と。

 

 この爆破事件後、ニューデリーの警視総監がガンディーに、警備の強化

申請したが、彼は、それを固く拒否した。ガンディーは言う。 

 「私の生命は、神の御手にあるのですよ」と。そして彼は、「ラーマ(神)

だけが、私の護りです」とも述べた。 

 「たとえ、あなたが、100万人の警官で護って下さったとしても、ラーマが 

私の死を望まれるなら、誰も私を救うことはできないでしょう」というのが、 

彼の信念だった。

 

 ガンディーは、非暴力主義運動の担い手や参加者に求めたこと、つまり 

「死を怖れないこと」、あるいはそれ以上のことを、自分にも課した。 

 事実、暗殺の前日、彼は、「孫娘」のマヌに、次のように語っていた。 

「もしわたしが病気で死ぬようなことがあったら、ー  たとえそれが、小さな 

吹き出物であったとしても、おまえは屋根の上から世間に向かって、わたし

偽のマハートマーだったと叫ばなければなりません。 

 一方、もしだれかが、わたしに銃弾を発射したとき、わたしがうめき声

一つたてず、唇に『ラーマ』の御名を唱えながら、裸の胸に弾丸を受ける

ことができたなら、そのとき初めて、わたしが本物のマハートマーだったと、

言っておくれ。それは、インドの民衆にとって、よろこびをもたらすことに

なるでしょう」。 

 そして、この言葉は翌日、現実のものとなった。 

            (拙著『マハートマー・ガンディーの政治思想』より) 

 

 このエピソードの中に、ガンディーは、すでに”生死を超えていた”とは 

言えないだろうか。 

 では、「生死を超えるもの」とは、一体何だろうか?

 

 それは、一つには、「信仰」である。 

  如何なる宗教においても、それが真の信仰である限り、そこには、生死

超えて、”永遠”を感得する思いがある。 

  上記に見られるように、ガンディーには、「ラーマ神」に対する不屈の

信仰があった。これは、彼が、亡き母から受け継いだものだった。 

 ガンディーは、常に万物の中に”神”を見た。そして、神が臨在する

すべてのものを信じたとも言える。

 

 「生死を超える」二つ目は、「愛」である。 

ガンディーは、一切無辺のものを愛した。 

  上記のごとく、彼は、自分を殺そうとする者さえも許し、愛した。 

イエスの言葉の中に、「友のために死するほど、深き愛はない」というもの

がある。 

 自らの犠牲を顧慮しないところにこそ、真の愛が存在する。 

そして、まことの愛は、まさに次元を超えるのだ。

 

 そして、「生死を超える」三つ目は、「感謝」の思いではなかろうか。 

ガンディーには、この世に存在するすべてのものに対する、限りない 

「感謝」の思いがあったと思う。

 

  この「信仰」と「愛」と「感謝」の彼方にある思念こそは、”生死は一体で

ある”という思いなのではあるまいか。 

  この思いに立てば、人は、何も怖れるものは無くなる。 

事実、深く思念すれば、人は”生死が一体”であることを実感しよう。

 

 そこでは、死は、決して忌まわしいものではなく、むしろ、ごく当たり

前の、厳然たる事実として存在するものなのだ。 

 事実、死は、如何なる形であれ、実におごそかなものである。

 

 ガンディーの”生死を超える思い”の中には、そのような、死を少しも

怖れず、堂々とそれを甘受するだけの深い信仰と、限りない愛と感謝

の念があったと思う。 

  その生死を超えた彼方に、私たち(厳密には、私たちの魂)は、絶対的

愛を感じ、限りない”光”を見出すのではないだろうか。 

  つまり、そこで、私たちは、内的に愛を感じ、外的には、光を見ること

になる。

 

  いや、愛と光とは、むしろ、その本質上、全く同じものなのではあるま

いか。 

 その”真実”を実感した私たちの魂は、”感謝”の思いで一杯になると

思うのだ。

 

 有り体に言うならば、私たちの”魂”自体も、実は、その本質において、

この愛や光と同じものなのだと思う。 

  しかし、実に不幸なことに、私たちは、自らの心の目が閉ざされている

ために、その”真実”を知らないのだと思うのだ。

 

 だが、ガンディーは、その聖なる”本質”を、十全に理解していたと

感じる。 

 それゆえに、彼は、自らの肉体の死を、何一つ怖れることはなかった

のだ。                                 【了】

 

 

2017年1月30日 (月)

見えざる「真理」を求めて(2)

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   もし、ガンディーが生きていれば、・・・・・

 

 今日(1月30日)は、マハートマー・ガンディーが暗殺された日である。 

そのことを知る日本人は、そう多くないかも知れない。 

  69年前の今日、午後5時17分、ガンディーは、ニューデリーのビルラ邸

裏庭での祈りに向かう途中、ナトゥラーム・ゴードセー(1910~1949)に

よって、至近距離から撃たれた。彼が放った3発の銃弾が、ガンディー

心臓を撃ち抜いた。

 

  その時、ガンディーが合掌しつつ発した言葉が、「ヘー・ラーム(おお、

神よ)」である。 

  インド学者の中村平治氏は、この言葉に、「神よ、この者を救い給え」と

いう意味づけをしておられる。

 

  ガンディーの遺品として残ったもの、それらは、愛用の眼鏡、おわん、 

手作りのサンダル、時価1ドルの懐中時計、それに「見ザル、聞かザル、

言わザル」の小さな置物だけだった。 

  つまり、悪いものは「見ない、聞かない、言わない」が、ガンディー

終生のモットーだった。

 

  インド独立後、国会議員に初当選した新米議員たちが、ガンディーの

祝福を受けるためにやって来た。その時、彼が彼らに語った言葉は、

次の通りだ。 

  「今日から、あなた方は、茨の冠を被るのです。権力に気をつけなさい。 

権力は、必ず腐敗します。その虚飾と見かけ倒しの罠に陥らないように 

しなさい」と。

 

  今日、インドや日本の政治家で、心の中に“茨の冠”を被っている政治家

が、果たして何人いるだろうか? 

  むしろ、ガンディーの意に反して、議員に当選することを、単に名誉や

名声を得る手段と考え、私腹を肥やす手立てと看做している人々が、

殆どなのではあるまいか。 

  今日、「政治家」業が代々、親から受け継ぐ家業となり、際限なく富を 

生む手段に過ぎないものとなっている。

 

  ところで、もし、ガンディーが生きていれば、彼は、私たち日本人に、

一体、何と言うだろうか? 

 彼は、私たちに対して、こう語るのではないだろうか。 

  ≪親愛なる、日本の皆さん。―    今、日本は、重大な岐路に立たされて

います。 

 一つは、今まで通り、アメリカへの隷属の道です。

しかし、もう一つの道あります。 

  それは、アメリカから一定の距離を置き、「自主・独立の道」を真剣に

模索する生き方です。

 

  かつて、インドも、大英帝国の植民地でした。しかし、私たちは、長い

苦難の末に、自主・独立を勝ち取りました。無論、多くの犠牲も有りました。 

  しかし、彼らは、祖国の独立のために、我が身を、母国と同胞に捧げて

くれたのです。

 

  今日のアメリカは、かつての大英帝国に劣らず、極めて邪悪です。

両国の不正義や邪悪さは、深い所で、繋がっています。それらが、

New  World  Order (新世界秩序)にさえつながっているのです。 

  しかし、かつてインド人にできたことが、日本人にできないことはあり

ません。

 


  そのためには、何事も怖れないことです。イエス・キリストが述べられた

ように、 

「われらの命しか奪えない者たちを、決して怖れる必要などありません。 

むしろ、われらの魂を、永遠に地獄に落とすことのできる神のみを怖れる

べきです。」

 

  本来、あなた方、日本人は、勇気ある民族です。アジア、いえ世界の

模範にさえなれる優秀な民族です。 

  しかし、たとえ、あなた方が、豊かな才能と英知に恵まれているとして

も、決して傲慢にならず、むしろ謙遜かつ無欲で行動して下さい。

 そうすれば、必ず、道は拓けます。

 

  それに何よりも、宗主国であるアメリカを、永遠の敵として憎み続け

いけません。なぜならば、憎悪からは、何も良いものは生まれない

からです。 

  むしろ、アメリカ国民は、皆さん同様、1%の権力者たちに搾取され虐げ

られている、「99%」の同志なのです。 

  どうか、常に、”人間を超えるもの(Something Great )”を信じ、敵さえ

も信頼し、そして何物も怖れない心を持って突き進んで行って下さい。 

  そうすれば、豊かな未来は、勇気あるあなた方のものです。 

  皆さんのお一人おひとりが“光”そのものなのです。どうか、そのこと

を、決して忘れないで下さい。≫・・・・

 

  多分、以上のようなことを、ガンディーは語ってくれたのではないだろ

うか。

  ところで、この”ガンディーの精神”は、今日の日本とは、全く無縁なの

だろうか? 皆さんは、その点について、どう思われるだろうか?

 私は、決して、そうは思わない。

 

  たとえ、時代や社会環境、それに国家や民族が変わろうと、常に正義と

公正を愛し、心から自国や自国民を愛する人は、決して少なくないと思う。 

  有体に言えば、”ガンディーの精神”は、たとえ少ないとはいえ、今日の

日本にも、脈々と生きていると思うのだ。

 

  実は、卓越した理論物理学者・井口和基(かずもと)博士が昨年、

東京都知事選挙に立候補した桜井誠氏を、「日本のガンジー」として

絶賛しておられる。 だが私は、桜井氏のことを、殆ど知らない。

 それゆえ、井口氏個人の「思想・信条の自由」として、”ああ、そうです

か”と思うだけだ。

 

  むしろ、私なら、植草一秀氏こそ、今日における”日本のガンディーだ”

と推薦したい。 

  つまり、ガンディーの言う、何事も怖れぬ“勇気”を、遺憾なく発揮して

いる代表的な人物として、私は、現代日本に、植草一秀氏がおられるのだ

と思う。

 

  植草氏も、かつて、ガンディーが大英帝国の人々から受けた差別や

迫害に通じる、不当、不義なる冤罪の仕打ちを受けられた。

 しかし、ガンディー同様、植草氏は、その耐えがたい苦難と絶望

の中から、まるでフェニックスのように復活なさった。

 

  同氏の、ガンディーを思わせる明晰な分析力、深い洞察力、未来への

予見能力、公正・無私なるバランス感覚、全き良心、心から他者を敬愛

する真の優しさ、それに何事も怖れぬ勇気の持主として、私は、植草氏

以上の人物を、今日の日本に見出すことはできない。

 

  植草氏は、決して政治家ではない。いや、むしろ、政治家以上の方だ。 

  とりわけ、彼は今、日本で、インドにおける”ガンディーのような役割”を 

果たしておられると思うのだ。   【了】

 

 

 

 

2016年12月28日 (水)

見えざる「真理」を求めて(1)

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                  (ブログ「まとめアトウィキ」より借用)

 

 

        安倍晋三、後は、坂道ころがる 雪ダルマ

 

 美しい満月も、いつかは欠ける。欠けるゆえに、満月は美しいのだろう。

しかし、月の美しさに比べて、人間の傲慢心は、限りなく醜い。

 現代日本で、最高に傲慢な男が、安倍晋三だろう。

再起後の自民党総裁選に再挑戦した頃の彼は、まるで借りて来た猫

ようだった。

  だが、最近では、まるで後ろにひっくり返るのではないかと心配になる

くらい、ふんぞり返っている。




 あんな、馬の糞ほどの値打ちも無い男が、よくぞ「日本の総理だ」などと

威張っていられるものだ。

  彼が総理だという事実は、心ある日本国民にとっては、まさに、ギャグか

ブラック・ユーモア以外の何物でもない。真実、そのことに、私は、虫唾

走るのだ。


  日本の歴代総理の中で、私が決して「総理」と呼ばなかった人物が、

三人いる。それは、菅直人と野田佳彦、それに、安倍晋三である。

  正直、この三人を観ると、私は、腸(はらわた)が煮えくり返る。

それで、テレビでも、彼らを、あえて観ないことにしている。

  これが、本日、67歳の誕生日を迎えたばかりの私の、最低限の健康法

である。

まさに、イヤなものは「見ない、聞かない、言わない」方が、遥かに健康

に良い。

 しかし、今日ばかりは、そのイヤなものについて、少しばかり語りたい。




  事実、安倍晋三の場合、心の中に真の自信も無く、微塵の精神性も

無い、恐ろしく軽薄な人間が、地球ほどに重たい「権力」を与えられて、

めったやたらに、それを振り回している。

  そのサマは、まるで狂人が、飛行機をハイジャックして、目前の操縦

機器を、ワケも分からず、手当たり次第いじくり回している風情だ。

  乗り合わせた、心ある乗客は、いつ、この飛行機が墜落するか、気が

気ではない。

実際、このまま行けば、「日本」という名の旅客機は早晩、墜落間違い

なしである。


  だが、このところ、民進党の体たらくで、国内に敵無しと思えた安倍

自民党も、次第に、そのメッキが剥げてきた。

  安倍政権は元々、邪悪な国際金融資本と戦争遂行勢力、それに、

日本国内の、時代錯誤とも言える日本会議や、戦争を欲する軍需産業

界が、統一教会や創価学会とつるんで、無理矢理作り上げた「不良作品」

なのである。

  不良品である以上、早晩、壊れるのは、目に見えている。


  この不良品の製作で、何より国民を裏切る行為を、遺憾なく発揮した

のが、不正選挙の最大武器「ムサシ」(*安倍家は、その大株主)と、

その片棒を担いだマスゴミ、それに、直接、不正な投票用紙の捏造に

参加した一部の創価学会員たちである。


  しかし、不正は、いつかは暴かれる。隠し事も、いつかは、白日の下に

晒される。お天道様は、何事もお見通しなのだ。まさに、天網恢恢、疎に

して漏らさずである。

それを忘れた邪悪な輩は、必ず痛い思いをするだろう。

  今後、安倍政権が国民に与えた悪政が、様々な形で、白日のものと

なろう。

 その時、真に怒ることこそ、現代に生きる生活弱者や将来の日本国民

に対する、われわれの責務である。

 いや、むしろ、われわれ一人ひとりが、心ある生活弱者なのだ。




  安倍晋三の政治というものがあるとするなら、それは、明らかに国民の

ためのものではない。むしろ、その飽くなき権力欲の完遂を通して、

かつて祖父の岸信介が果たし得なかった「憲法改正」という党是を、

是が非でも果たそうという個人的野望である。

  そして、そのことを通じて、将来、名を残したいという、個人的思惑のみ

である。

 つまり、政治という公のことを、彼は、自らの私利私欲のために詐取し、

それを私的に流用しているに過ぎない。




   こんな、現代日本史上、稀に見る暴政・悪政が許されるのなら、日本は、

もはや“神の国”などではない。

  むしろ、そのような誇りと自負心は、すべからく、天に返上すべきで

あろう。

  だが、今後、安倍の思惑に対して、すべての物事は、ことごとく反転

しよう。

 なぜなら、真の日本と日本国民は、本質的に不正や不義を認めない

からだ。

  実際、今の安倍政権は、不正・不義・不忠以外の何物でもないでは

ないか。




  こんな安倍政権の今後を、端的に占うなら、それは「安倍晋三、後は、

坂道ころがる  雪ダルマ」といったところである。

  あのスーパームーンも、いつの間にか消えてしまった。満月も、

いつかは欠けてしまうのが、自然の定めなのだ。  【了】


 

 

2015年2月24日 (火)

【或る日本人の、心の叫び!】

  【日本人よ、どこまで堕ちれば、

              気が済むんだい?!】


  品の無い、無恥・無能なヤクザが、NHK会長?

こんなトップで、NHKは、いつまでやって行くんかい?

  トチ狂った“経済知らず”が、日銀総裁?

アンタ、日本人を、マジで地獄へ落とす気かい?!

  日本人よ、どこまで堕ちれば、気が済むんだい?!



  低能の大ウソつきが、日本国の総理大臣? 

それも、他党の議員に、不当なヤジを飛ばす!

アンタ、それでも総理かい?

どこまで、幼稚になれるんかい?

  加えて、漢字も読めない強欲経営者上がりが、

財務大臣?

  自民党の支持者よ、アンタら、気が狂ってるのかい?

こんな”うすらトンカチたち”を珍重して、日本国を、

破壊する気かい?

  日本人よ、どこまで堕ちれば、気が済むんだい?!



  モノ書く価値なき文人が、上から目線の差別主義!

日本人は、いつから、こんなに傲慢になったのかい?

  自ら“相対化”も“客観視”もできない、狭隘な差別

主義者に、「正義」や「愛」を語る資格なし!

  日本人よ、どこまで堕ちれば、気が済むんだい?! 

  【了】 (*下の写真は、大宰府天満宮)


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2014年11月15日 (土)

【お詫び】

  【皆さまへ】

     皆さん、お早うございます。
 
   お元気ですか?

     昨日の文章中” 「土地強奪法」でしめつける”の冒頭、「日本

政府は一方で、経済的混乱をもたらした上で、金の力で軍用地契約を」

「すすめようとしました。」の一文が、欠落していました。

  ここに、謹んで、補筆訂正いたします。                渡邉 拝

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