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2020年8月 8日 (土)

私の平野貞夫論(76)

 『わが輩は保守本流である』を

             読んで〔9〕

 

 真の「自由」と「平等」を求めて

 

 本書の「帯」に、こうある。

「戦争をなくし、暮らしを護る」と。

 そして、「これこそが、政治の果たすべき役割である」と。

そのために、「保守したければ、改革せよ!」と。

 これらの言葉こそ、平野氏が、われわれに伝えたい、政治の要諦

だと思う。

 

 この「非戦・平和」、それに人々の「生活の安寧と幸福」こそが、

政治を志し、かつそれに関わる人々の求めるべきものではなかろうか。

 実は、幕末期、坂本龍馬が求めたものも、これであったし、平野氏が

今日、希求し続けているものも、これと、ほぼ同じものだと思う。

 この思いこそが、政治の基本であり、かつ政治のあるべき姿でさえ

あると思うのだ。

 

 平野氏は、かつて前尾繁三郎氏から学んだ言葉として、次の言葉を、

終生、大事にしている。

 それは、「政治はあくまでも現実と権力の上に立たなければならない。

しかし、理想と正義を忘れた政治は、もはや政治とはいえない」という

ものである。

 

 果たして、今日の日本の政治家の中で、この至言を、自らのものとして

理解し、かつ咀嚼できる人が、一体、何人いるであろうか?

 皆無ではないとしても、極めて少数のような気がする。

なぜなら、今日、彼らの行っていることは、もはや「政治」ではなく、

単なる自己本位な”演技”、言うなれば”政治ゴッコ”に過ぎないからだ。

 

 本書の中で、平野氏は、政治の問題がクローズアップされた「近代」

について、次のように語る。

「近代になって、『社会構成員の自由と平等・法の下の平等』を実現

することが政治における正義だ、という啓蒙思想が出現します。

 近代国家の政治が目指す『正義』をまとめていえば、『人間の平等

が、正義の究極』となります。

 

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         Photo_20200806205101

 

 では、何故、人間の平等が究極の正義となるのか、これも大事な

問題ですが、それは、人間の自由を促進させるからである、という

仮説が出来上がったからです。

 そして、『真の自由に基づく機会の平等、能力に応じた平等を、

人間社会の原理とすべき』という近代政治理念が成立していきます。

 これが21世紀に至る近代国家の政治原理で、大事な考え方です」

と。

 

 しかし、21世紀の魔物化した資本主義を、龍馬の「四観三元論」で

観察すると、自由と平等が、人類の普遍的現実になっているかどうか、

疑問である。

 

 というのも、「自由」や「平等」を謳歌しているのは、特定の富裕者や

権力者に限られているのが現実だ。 

 これでは、古代ギリシャの民主政治の現実(つまり、一部の自由人と、

圧倒的多数の奴隷たちの存在)と、何ら差はない。

 この状況では、自由を放任すれば、平等は実現できない。

両概念は、まさに、二律背反的で、実質的に両立できないのだ。

 

           Photo_20200806205501

 

           Photo_20200806205601

 

 つまり、平等であれば、自由は得られず、反対に、闇雲に自由で

あれば、平等は達成できない、という思いになる。

 しかし、むしろ、「四観三元論」的に考えて、「真に自由であるから、

平等である」という視点もあり得る。

 

 平野氏によれば、一万年に及ぶ縄文時代が、まさにその”両立”を

実践していた。

 そこにこそ、今後の「自由」と「平等」を考えるヒントがあるよう

思う。

 そして、そこには、金銭や物質だけに囚われない、真の精神的

「自由」観や、「自・他の差別観」を超越した、真の平等意識が

あるように思える。

 しかし、そうなるためには、人々の意識革命(あるいは、変革)

が、是非とも必要だと思うのだ。               【つづく】

 

 

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