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2020年4月

2020年4月30日 (木)

私の平野貞夫論(17)

 

(17)日本一誤解された政治家とは?

 

 かつて、『J.F.K』という映画があった。

オリバーストーン監督(下の写真の上)の作品で、ジョン・

F・ケネディ大統領暗殺事件を取り扱ったものだ。

 ケビン・コスナー(下の写真の下)扮するジム・ギャリソン

検事の真相究明が、そのテーマだった。

 

    Photo_20200428130901  

 

              Jfk_20200430052301          

    

 この映画の中で、「この国(アメリカ)では、白が黒となり、

黒が白となる」という台詞があった。

 私は、この言葉が、とても印象に残っている。

 つまり、ウソが真実として語られ、真実が、闇夜に葬り去られる

ということである。

 あるいは、正しい人が悪人(あるいは、犯罪者)として裁かれ、

悪人(あるいは、犯罪者)が、無実として、罪を問われないという

ことでもあろう。

 

 だが、この現実は、今日のアメリカでも、何ら変わらない。

フェイク・ニュースが真実として報じられ、反対に、「真実」が、

全くのウソとして無視される。

 しかし、これは、今日の日本でも、全く同様だ。

 真実を語れば、その口を封じられ、反対に、全身、嘘の塊とでも

言えるような御仁が、未だ飽きもせず、総理の座を温めている。

心ある日本国民が、吐き気を催しているとも知らないで。・・・

 

 ところで、本日のブログのタイトル「日本一誤解された政治家とは」

誰?と問われれば、皆さんは、一体、誰だと答えられるだろうか?

 それは、誰が考えても、小沢一郎氏だろう。

 人々は思う、彼ほど、人を人とも思わない、傲慢な政治家はいない。

また、彼ほど、金に汚い政治家はいない。確かに、田中角栄の愛弟子

だけのことはある、と。

 

 だが、果たして、そうだろうか?

例えば、彼の傲慢さを示す言葉に、海部俊樹氏(下の写真の上)や

細川護熙氏(下の写真の下)に対して語ったと言われる、「総理は、

軽くてバカがいい」というものがある。

 当時の国民(私を含め)が思ったものだ、

”小沢とは、何と傲慢無礼なヤツか!”と。

 

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 しかし、事の真実は、決してそうではなかった。

平野が自ら、こう語っている。

「あの言葉、実は、私が言ったものなんです」と。

第一、小沢という人は、人のことを、あれこれ言う人では

ないのだ。

 言うなれば、あの言葉は、当時のマスメディアによって、

小沢氏の言葉として、体よく捏造されたものだったのである。

 

 これについて、もう少し詳しく述べれば、海部政権(小沢

幹事長)時代、平野は、有能ゆえに、同政権によって重用された。

 同氏の言によると、「たいへん、コキ使われた」とのこと。

 そんな中、或る日、平野は、毎日新聞の I 記者(同氏は、海部氏の

ブレーンだった)と呑む機会があった。

 多分、酒の勢いもあったのだろう。

平野は、I 氏に、「総理は軽くて、頭が悪い方が、担ぐのに楽なんだ」

と語った。

 

 すると、あろうことか、I 記者は、それを、小沢氏が”そう語った”と、

周囲に広めてしまったのだ。

 それを知った平野は、小沢氏に対して、「あれは、ワシの話だから、

訂正しなさい」と言った。

 だが、小沢氏は、一切、弁解しなかった。

そして、「自分が、(真実を)言えば、I 氏の迷惑になるし、

アンタの迷惑にもなる」と語ったのである。           【つづく】

   

 

  

 

 

 

 

2020年4月29日 (水)

私の平野貞夫論(16)

(16)修羅場の中で聞こえた「至言」

 

 人の人生には、必ず”修羅場”というものがある。

正直、見たくもないものを見せつけられることもあろう。

 とりわけ、政治の世界とは、様々な修羅場が連続する

舞台と言えるかもしれない。

 例えば、そこでは、非難、中傷、虚言、罠、告げ口、甘言、

裏切り、陰口、脅しなど、様々な悪徳が、飛び交うものだ。

 

 平野は、その立場上、誰よりも多くの修羅場をくぐり抜けて

きたことだろう。

 それゆえ、彼は、誰よりも鋭く、かつ深く、政治的人間の

持つ弱さ、醜さ、至らなさなどを、洞察しているように思う。

 だが、如何なる修羅場に遭遇しても、彼自身、決して逃げる

ことなく、様々な英知を結集して、真正面から取り組んだ。

 先述した、金丸信氏との「ベル」を巡る初めての出会いも、

そういった機知の産物と言えよう。

 つまり、平野自身、どんな立場に立たされても、終生変わらない、

人間的な強さと純粋さを保持していたように感じる。

 

 それゆえ、彼は、心ある政治家たちから信頼され、かつ

尊敬された。

 小沢一郎は、その筆頭だが、最終的には、彼の天敵とも言えた

竹下登(1924~2000:下の写真)や、既述した金丸信も、全く

同じだったと思う。

 因みに、苦境にあった竹下に、平野は、先述した「天命に遊ぶ」心

の必要性を説いたところ、竹下は、痛く感動したという。

 

 

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 また、晩年の金丸信は、まことに不遇だったが、そんな

厳しい状態の中でも、彼は、平野だけは、信頼し続けた。

 それに、人は、その強さゆえに、他者に尊敬され、

畏怖されもするが、同時に、その弱さゆえに、時には、

他者の共感や憐憫の対象ともなる。

 

 正直、唯、強いだけの人間は、それほど魅力は無い

ように感じる。

 むしろ、人は、強さの裏側に、相応の弱さを持つゆえに、

魅力的なのではなかろうか。

 私には、金丸信という政治家は、この強さと弱さが、

極めて正直な形で混在していたように思う。

 また、彼自身、それを周囲に隠さず表していたがゆえに、

一人の人間として、魅力的だったのではあるまいか。

 

 加えて、様々な修羅場の中で、政治家は、実に正直な

本音を吐露するものだ。

 例えば、竹下登は、かつて平野に、こう語ったという。

「自分と金丸は、綺麗ごとで済まないくらい汚れている」

と。

 そして、続けて、こうも語ったという。

「(だが)一郎(小沢)には、汚れた仕事をさせていない。

だから、政治改革を言えるんだ。平ちゃん、協力してやって

くれ」と。

 このような、値千金とも言える言葉や告白を、平野は、様々な

修羅場で耳にすることができた。

 

   Photo_20200427100701

                     (金丸の視線の先が、実に微妙だ。)

 

 尚、晩年の金丸は、重い糖尿病を患い、左目が失明状態だった。

とりわけ、平野によると、彼は、議員辞職後、人間不信から、

被害妄想狂に陥っていた。

 深刻な程の孤独感の中にいたと察せられる。

そのため、当時の金丸は、誰よりも強く、平野を頼った。

 

 小沢からの電話で、金丸邸に赴くと、彼は何と、平野に対して、

最敬礼して、土下座したのだ。

 そして、金丸は、平野に、こう語ったという。

「こんなみっともないザマで、すまない。

これから記者会見をする材料を言うから、整理してメモしてくれ」

と。

 

 平野は、かなり興奮気味だった金丸を、冷静に説得した。

すると、金丸は、(佐川急便からの)5億円授受の話を始めた。

 そこで、金丸が言ったのは、

「小沢は、金丸に同行しただけで、佐川元会長(渡辺広康氏)との

話の中には入っていない。竹下に問題があったのだ」という話に

なった。

 

 この後、平野が、竹下と会った際に、彼から出て来たのが、

前述の言葉だった。

 つまり、「自分と金丸は、綺麗ごとで済まないくらい、汚れて

いる」との至言である。

 そして、この言葉は、まさに、小沢氏の潔白さを、直接的に証明

したものだった。

 その後の、小沢氏たちによる政治改革は、この「政治とカネ」の

問題を解決しなければという、緊急性に根差したものだった。

 そして、小沢氏は、それを推進するに価するだけの「潔白さ」を

保持していたのである。                   【つづく】

 

 

 

2020年4月28日 (火)

私の平野貞夫論(15)

(15)「金丸逮捕」の衝撃

 

 政治家のみならず、あらゆる人間に、”光と影”があるような

気がする。無論、金丸信氏も、そういった政治家の一人だろう。

 だが、表面に目立つ豪腕な部分だけを捉えて、怖れ過ぎる

必要もないだろうし、人目につかない強欲な部分だけを捉えて、

徒に軽蔑し過ぎる必要もないのではなかろうか。

 つまり、できれば、功罪両面からの公平で、全体的な把握が

求められると思うのだ。

 

 ところで、金丸氏の人間性を語る上で、私は、何気ない、次の

言葉に注目したい。

 それは、「彼は、捕まった時に、秘書や側近に罪を着せようとは

しなかった」という、岡崎久彦氏(外交評論家・元註タイ大使:

下の写真)の言葉である。

 

     Photo_20200426135301

 

 無論、金丸氏が捕まったのは、晩年のことで、決して壮年期の事

ではない。

 しかし、彼の人となりを探究してみると、もし、彼が、壮年期に

捕まったとしても、彼は多分、他者に罪を負わせるようなことは

なかったと感じる。彼は、むしろ、潔い人物だったと思う。

 その点では、彼は、今どきの政治家とは全く違うと思うのだ。

 

 勿論、人間であるから、金丸氏にも、様々な錯誤や瑕疵はあった

だろう。

 だが、私には、彼は、一本筋が通った人間だったような気がする。

しかし、ごく有り体に言えば、最晩年の彼は、日本のマスメディアに

よって、徒に辱められたように思う。

 例えば、彼が亡くなる3~4年前、東京国税局は、金丸氏の妻が

死亡した際に受け取った遺産に着目し、日本債券信用銀行(現

あおぞら銀行)の割引金融債「ワリシン」の一部が、税務申告されて

いないという事実を突き止めた。

 

 それで、1993年3月6日、東京地検特捜部は、金丸氏と秘書を

任意に呼び出して聴取を行い、同日相続税の脱税容疑で逮捕した。

 その後、自宅へ家宅捜索に行ったところ、数十億円の不正蓄財が

発覚した。

 また、その捜索の中で、時価1000万円相当の金の地金が発見された。

                                      (Wikipedia参照)

 

   Photo_20200426135501

                    (東京検察庁に出頭中の金丸氏)

 

 この家宅捜索の場面は、それこそ、これ見よがしに、或いは、見せしめ

的に、テレビで報じられた。

 多くの視聴者(当時の私を含め)が、「金丸=強欲な金権主義者」の

イメージを植え付けられた。

 しかし、平野によれば、彼は、この「金丸逮捕」を予想していた。

というのは、実は、逮捕の前年、彼は、長年の古巣である衆議院事務局

を辞めて、参院選に立候補する予定だった。

 その彼の為に、法務省や検察の上層部の10名ほどの有志が、送別会を

開いてくれた。

 その時、「(当選後)経世会に直接所属することは止めた方がいい。

いずれ金丸さんは、問題となる」と言われたのである。

 「金丸逮捕」は、その一年半後のことだった。

 

 ところで、この逮捕の際に、最も慌てたのは、小沢一郎氏では

なかっただろうか。

 なぜなら、彼と金丸氏は、表裏一体、不即不離の関係だったからだ。

 事実、平野は、当時を振り返って、こう語る。

 

 早朝「金丸逮捕」が報道されると、小沢が、事務所に来てくれと

言う。何事かと思ったら、小沢は、彼にこう語った。

「僕は金丸さんから目をかけられ、幹事長も金丸がさせてくれた。

しかし、個人的な金銭関係はまったくない。

 平野さんは、私より古いつき合いで、金丸さんは世話になったようで

感謝していた。海外旅行にも一緒に行って喜んでいた。

 念のため確認しておきたいが、金丸さんからお金をもらったりした

ことがあるかどうか。金丸逮捕で何がでるかわからない。

 正直に話してくれ」と言う。

 

 これを聞いていた佐高氏が言う。

「小沢は心配したわけですね。平野さんの名前がでてくるかもしれない

から」と。

 これに対して、平野が正直に答える。

「金をもらうどころじゃない。『金丸さんほど自分の金を使わない

政治家をみたことがない』と、言ってやりましたよ」と。

 そこで、佐高氏が、平野に問う。

「金丸はケチなんですか?」と。

 これに対する平野の言葉がこうだ。

「ケチなんてもんじゃない。事務局から出る金はここまでと、

私もはっきりさせていました。

 パリのムーランルージュに行ったときも、金丸さんは、

小針暦二(戦後の名だたる政商)の会社に請求書を回して

いました。

 小針の会社の会計係の重役も、そっと一緒に同行していたん

です。」

 平野が、そう言うと、小沢は、「よし、いよいよ谷を渡り、

吊り橋を切り落としたと同じだ。後戻りはできない。

 政治改革を断行しよう」と断言した。

 そして、平野は、佐髙氏に、こう語った。「私は、小沢に

すっかり疑われていたんです」と。

 

 引用が長くて恐縮だが、平野の最後の言葉が重い。

小沢氏が、如何に偉大な人物でも、やはり、人の子。

 慎重を期す為かも知れないが、無二の心友に対してさえ、

敢えて、”念を押す”心が芽生えたのだろう。

 しかし、このやりとりを通して、平野自身が、

実に、「カネ」に対して清廉潔白な人物であることが

分かる。

 また、このエピソードの中に、小沢氏が、巷間言われたような、

強欲な「金権主義」の政治家ではないことが分かるのではある

まいか。                                            【つづく】

 

 

 

 

2020年4月27日 (月)

私の平野貞夫論(14)

(14)イノシシにだまされたタヌキの

    お話(金丸信氏との出会い)

 

 「山のように大きなイノシシは、出て来ない」という

言葉がある。

 人間の人生において、目を疑う程の異変などは起こらない。

それに、たとえ、 どんなに驚くほどの困難に遭遇しても、

人間に対応できないことはない、という程の意味だろうか。

 生前の母が、よく祖父の言葉として語ってくれた。

 

 だが、或る政治家が、全く同じ言葉を発していた。

それは、金丸信(かねまる しん:1914~96:下の写真)氏で

ある。

 同氏は、かつての自民党の重鎮で、最盛期には、「政界のドン」

と呼ばれて、政治家仲間から畏怖された。

 でも、重厚な中にも、どこか、ひょうきんな雰囲気を漂わせた

政治家だった。

 地元、山梨県の支持者たちからは、「かねまるの信ちゃん」と

して愛された。

 

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 身長、170cm、体重は、最盛期、90kgで、学生(東京

農業大学)時代には、柔道で、「東農大のかねまる」として、

勇名を馳せた(段位は、5段)。

 それゆえ、彼を動物に喩えるなら、やはり、精悍で太めの

タヌキとでも言ったところだろうか。

 彼は、誰よりも強く、小沢一郎氏を総理にしたがった政治家でも

ある。

 

 1960年(昭和35年)、「日米安保条約」は、実に暴力的な形で

強行可決されたが、その時の衆議院議長・清瀬一郎を、議長席まで担ぎ

上げ、終始、彼をガードしたのは、当時46歳だった自民党衆議院議員

金丸信だった(下の写真:清瀬議長の左後ろが金丸氏)。

 

    Photo_20200425200901

 

 ところで、その彼と平野との出会いが、たいへんユーモラスである。

時は、1965年、「日韓基本条約」締結の年だった。

 平野によると、当時の佐藤政権は、日韓特別委員会でも本会議でも、

「強行採決」を決断して、その準備に入っていた。

 金丸は当時、初当選(1958年:竹下登や安倍晋太郎と同期)後の

新参者で、議院運営委員会の末席の理事だった。

 対する平野は、29歳頃で、議運担当の係長だった。

 

 すると、ある時、金丸が平野を、議事堂の廊下の隅に呼んだ。

そして、彼に、こう語ったという。

「佐藤総理(下の写真)から密命を受けた」と。

 平野が、「それは、何ですか?」と聞くと、金丸は真顔で、

こう答えた。

「(総理が言うには)強行裁決時に、議長が、どうしても本会議

開会のベルを押さない時、君がベルを押す役だ。

 総理は、『日韓条約には、わしの政治生命が掛かっている』と

語っていた。

 ベルの場所を、君なら教えてくれると思っての相談だ」と、

実に真剣な顔をして話したのだ。

 

     Photo_20200425221601

 

 続く平野の言では、本会議開会のベルは、事務局の厳重な管理下

にあり、議長の指示がなければ、絶対に押せない。

 総理は、それが分かっていて、敢えて、その役を、金丸に振った

のである。

 いかにも、狡猾な「人事の佐藤」らしい。

しかし、平野も一瞬、どうしたものか?と思った。

 

 すると、幸いなことに、彼は、議長室の壁に、ヒーター用の

スイッチが外へ出ているのを知っていた。

 それで、それを指さして、「これが、ベルです」と教えた。

そして、「これを押したら、ベルが鳴るんです」と、念を押した。

 

 すると、金丸は、大真面目に、「ありがとう。これで、僕は、

総理の密命を果たせる」と喜んだ。

 これを聞いていた対談者の佐髙信(まこと)氏が、

「騙したんじゃない、それ?」と言う。

 これに対して、平野が、こう語った。

「だって、『できません』とも、『事務総長に相談する』とも

言えないでしょう。

 議会民主制を守るための知恵ですよ。

 それ以来、金丸さんは、私のことを、『学者』と呼んで、信用

しました。

 金丸さんとの交遊は、マンガの世界みたいでしたよ」と、

平野は、快活に笑った。

 だが、この時の平野の機転は、一流だと思う。

 

 そこで、佐高氏が、こう言った。

「タヌキを騙したタヌキ」と。

 しかし、平野は、タヌキではなく、むしろ、「イノシシ」だと

渾名されている。

 実は、彼は、「土佐のイノシシ」という渾名なのだ。

その名付け主は、後藤田正晴である。

 猪突猛進や直情径行が連想されるイノシシではあるが、

後藤田は、平野に内在する、”真っ直ぐな心性”を見抜いていたので

あるまいか。

 

 それに、平野を「学者」と呼んだ金丸は、決して間違っていなかった

と思う。

 毀誉褒貶の激しい金丸ではあるが、平野を見る目は確かだったように

思う。

 加えて、彼は、この世で、山のようなイノシシにこそ、出会わなか

ったけれど、実に頭脳明晰な「イノシシ」には出会ったのではある

まいか。                              【つづく】

 

 

 

 

2020年4月25日 (土)

私の平野貞夫論(13)

(13)現代日本政治、最高の”語り部”

 

 古来、『古事記』の「語り部」と言われた稗田阿礼以来、現代でも、

「広島・長崎原爆被害の語り部」とか、「沖縄戦・ひめゆり部隊の

語り部」や「3.11の語り部」など、歴史的な重大事の折々に、

貴重な「語り部」が存在する。

 

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 だが、現代日本政治の証人とも言うべき”語り部”を、

今日の国内に求めても、なかなか見出せない。

 しかし、そんな中、数少ない政治関係者の中で、最高の

”語り部”とも言うべき人物が存在する。

 それは、平野貞夫なのではあるまいか。

 彼は、ひじょうに几帳面な人で、その折々に体験した政治的

事象を、たいへん事細かに書き留めている。

 その緻密さや客観性は、当代一流だと言える。

 

 ところで、平野が政治の世界に足を踏み入れるキッカケと

なったのは、既述したように、大学院生時代の平野が共産党への

入党を切望していたので、その事に危機感を抱いた父親が、息子の

処遇を、親友の吉田茂と林譲治に託したことだった。

 

 吉田は、当時の日本共産党の本質を見抜いていた。

それゆえ、若き平野を、このまま、入党などさせず、むしろ現実の

政治を直に見せて、その体験から、政治を学ぶように導いた。

 この吉田・林両氏の計らいによって、彼は1960年(昭和35年)に、

臨時職員として、衆議院事務局に入った。

 当時、日当は、150円だった。

 

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 それで、この時、彼の”監視人”となったのが、小沢一郎の父、

佐重喜氏(下の写真)である。

 ここにも、平野と小沢一郎の縁が、決して浅からぬことが

窺える。

 因みに、現代日本政治で、日本国民に最も誤解を受けた政治

指導者で、小沢一郎の右に出る者はいないだろう。

 

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 心ある日本国民に、”是非とも、総理になって欲しい”と

強く望まれつつ、彼は常時、そのポストから離れた所にいた。

 だが、小沢の知られざる苦衷を、最もよく理解できる人、

小沢の長所も短所も、理路整然と解説できるのは、平野をおいて、

他にはいないと思う。

 

 この小沢について語ることは、現代日本政治の大半を語ること

になると思う。

 端から冷静に見れば、先述した如く、小沢は、岩手の偉大な先達・

原敬を、自らの理想と仰ぎつつ、終生、彼の「政治」を求め続けた

政治家だった。

 原敬の政治哲学、それは、小沢一郎の政治哲学でもあった。

 

 つまり、政党政治・議会政治の在るべき姿を真摯に求め続けた

原敬の姿は、そっくりそのまま小沢一郎の姿でもあった。

 その小沢の後ろ姿、あるいはその実像を、最も知悉しているのが、

平野である。

 自ら、本来在るべき「議会制民主主義の理想型」を、その心の中

抱きつつ、それが、今日の未熟で悪辣な利権政治屋たちによって

汚されている現状を、心底憂いているのも、平野である。

 

 この悲惨な日本の政治状況に警鐘を鳴らしつつ、それを、沈着

冷静に書き留めている平野を、現代日本政治、最高の”語り部”と

呼ぶのは、以上のような事実に基づいている。         【つづく】

 

 

 

 

2020年4月24日 (金)

私の平野貞夫論(12)

(12)「総理」の渾名付けの天才?

 

 かつて、森喜朗(もり・よしろう、別名「シンキロー」

:下の写真)という総理大臣がいた。

 いわゆる、「五人組」による談合クーデターで、総理に就いた

人物だ。

 一度だけ、彼を身近で見たことがある。

数人のSPを従え、まるで、肩で風切るような風情で歩いていた。

 ガタイの大きさだけが取り柄であるような雰囲気だった。

だが、人間的な”中身”や”深み”は、全く感じられなかった。

 

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 その彼が、「鮫の脳ミソ・蚤の心臓」と渾名されていた。

実に、言い得て妙である。

 私は長い間、誰が、この渾名を付けたのか知らなかった。

この名付け親が、実は、平野貞夫である。

 余程、森のことを知らなければ、付けられない渾名だ。

 

 「鮫の脳ミソ」などと言われれば、本人は、さぞかし腹立たしい

ことだろう。

 だが、実際のところ、鮫の方だって、一家言、あるかと思う。

 もしかして、鮫の方こそ、「名誉毀損だ!」と言って、怒るかも

しれない。

 だが、それにしても、傑作である。

その意味で、平野は、実に洒脱である。

あるいは、彼は、「総理」の渾名付けの天才?と、言えるかもしれない。

 

 その他、平野によれば、麻生太郎は、「尻尾を隠さず化けようとする

オタク狸」であり、小泉純一郎は、「国民を化かす天才でニヒルな狐」

ということになる。

 確かに、麻生も小泉も、狸や狐の類いである。

平成の30年間は、このような狸や狐によって、多くの日本国民が化かさ

れ、騙され続けた時代だった。

 

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 『東海道中膝栗毛』の弥次さん、喜多さんが、狐に化かされて、

風呂と思わされ、肥溜めに入っていた姿を、今日の日本国民は、

笑えないかもしれない。

 なぜなら、われわれは、弥次喜多よりも、もっと酷い目に遭って

いるからだ。

 

 そう言えば、森元総理も、最近でこそ、ずいぶんと枯れてしまった

けれど、全盛期は、それこそ、ポンポコ狸の風情だった。

 まさに、今日まで、彼は、「Mr.利権」とでも呼ぶべき、

清和会の重鎮である(下の写真:最近の森氏と、往年の同氏)。

 

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 因みに、彼は、1969年の第32回衆議院総選挙で、

全くの泡沫候補とみなされ、自民党の公認を得られなかった。

 それゆえ、落選間違いなし、と考えられていた。

(実は、この選挙で、小泉純一郎が落選した、因縁の選挙

だった。)

 

 この森が、当時の超大物政治家の応援演説を熱望した。

この人物こそ、岸信介だ(下の写真)。

 岸の応援演説が功を奏したのか、奇跡的に、森は当選した。

(実は、この森を、”泡沫”として、公認しなかったのが、

当時の自民党幹事長・田中角栄だった。)

 その後、森は、福田派(清和会の前身、紀尾井会)に属するが、

彼は終生、岸への恩義と田中への憎悪を忘れなかった。

 

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 この森から、安倍晋三にまで至る清和会の狸や

狐たち(無論、麻生は別口だが)が、日本の政治を、

「アメリカ様」の威を借りて、根底から覆したのである。

 そして、その原点であり、かつ総元締めだったのが、

岸信介だった。

 

 さて、もし付けるとするなら、平野は、岸に、どんな渾名を

付けただろうか?

 渾名付けの天才?ゆえに、きっと魅力的な渾名を付けたこと

だろう。                               【つづく】

 

 

 

 

 

 

 

 

2020年4月23日 (木)

私の平野貞夫論(11)

(11)土佐公家衆の末裔

 

 平野貞夫は、本物の土佐人だ。

だが、それは、「高知」と言うよりは、もう少し古い

イメージを持った「土佐」のような気がする。

 また、本年、85歳の平野に漂うものがあるとすれば、

それは、凜とした「気品」だと思う。

 彼には、俗世の汚辱に染まらぬ、内的な”潔癖さ”が

感じられる。

 加えて、彼の頭脳の明晰さや緻密さ、それに、交渉能力の

卓抜さで感じられるもの、それは、かつての”公家”の感性、

及び知性だ。

 

 土佐は古来、重要な流刑地の一つだった。

かつて、紀夏井、藤原師長、土御門天皇、尊良(たかよし)親王

などが流された。

 また、鎌倉時代には、摂関家の一条家が、直接、同地を支配した。

 それだけに、他国に比べて、貴族階級との関わりが深い土地柄

だった(下の写真は、貴族の生活の一風景)。

 

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 平野のご先祖も、そのような公家衆の一人だったと推測される。

 その点、江戸時代の山内家24万石の支配は、歴史的に新しい

方である。

 その点に関して、山内家の家老の子孫と自負する高慢なM氏と

平野との、或るやりとりが、実に興味深い。

 それは、小沢一郎氏に関する考えの相違に基づくものだった。

 正論を述べた平野に対して、Mが怒って、こう述べた。

 

 「わしの先祖は、土佐山内家の家老だった」と。

そして、平野に対して、「おまえらのような土着の下郎どもが関わる

問題ではない」と。

 それで、平野が、こう反論した。

「あんたたちのような掛川者(カケガワモン)は、土佐人とは言えん」と。

 平野によれば、「掛川者(カケガワモン)」とは、山内一豊(下の写真)

と一緒に来た『進駐軍』のことだ。

 

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 つまり、彼らは、土佐にとっては、全くのヨソ者だった。

この『進駐軍』という言葉の含意は、実に重い。

 この平野の、頂門の一針とも言うべき言葉は、傲慢なMの

急所を突いた。

 内心、Mは、怒り狂ったことであろう。

 

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                     (平野の言う、カケガワモンが、

                          土佐の民衆に作らせた高知城)

 

 今も、時々、自分の先祖のことを、針小棒大にひけらかす、

実に嫌らしい人種がいる。Mは、その典型だった。

 平野は、こういった、”謙遜”という、人間としての真の矜持も

知らず、闇雲に他者を見下し、侮蔑する、Mのような人間の驕慢さ、

狭隘さが心底、我慢ならなかったと思われる。

 

 私は、この平野の心理の背景に、「土佐公家衆の末裔」という

強い確信と誇りが働いていたように思う。

 また、彼の博識と、発想の柔軟さは、彼一代の後天的な産物とは、

正直、思えない。

 むしろ、かつての公家衆だったご先祖の感性と知性が、脈々と

受け継がれたものだと思うのだ。                【つづく】 

 

 

 

 

 

 

 

 

    

2020年4月22日 (水)

私の平野貞夫論(10)

(10)「正義」を求める心意気

 

 人間の生き方には、様々なものがある。

なかなか正直に生きられず、まるで借り物のような人生を送る

こともあろう。

 また、その前半生、様々な制約や規制の中で生き、後半期になって、

やっとハジケテ、自分らしい生き方ができるということもある。

 

 しかし、中には、その人生の節々で、思う存分、自己のエネルギー

を発散して、”わが人生に、悔いは無し”という生き方もあろう。

 

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 平野の今までの人生は、まさに、そのような生き方だったのでは

なかろうか。

 彼は、何より、正直な人間だ。

そのため、天(つまりは、自己の良心)に恥じることを、極力、

避けた。

 それゆえ、何よりも、彼は、他者に虚言を労せず、自らも欺かない、

ということを、肝に銘じていたように思う。

 つまり、その生涯を通して、常に、「正義」を求める心意気を

貫いたと感じる。

 

 最近、よく、「体幹がしっかりしている」(下の写真のように)と

いう運動用語がある。

 

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 だが、身体同様、心の中の”心幹”とでも言うべきものに、

全くブレがなく、誰に対しても、常に泰然として、対応できる人が

いるものだ。

 平野も、そのような、肝の据わった人物だと言えよう。

 

 かつての中学生時代の自分について、平野は、たいへん正直に、

次のように述懐している。

 「中学生時代から、多少の正義感も芽生えていたので、不良性と

正義感の両面を持った、教師にとっては手に負えない少年で、一つ

間違えると世間に迷惑を掛ける可能性を秘めていたと思う」と。

 

 しかし、敗戦の年に、10歳だった少年の”不良性”など、世間や

時代の激変に対する、ごく至当な免疫反応のようなもので、無い方が、

可笑しかったと思う。

 それに、青少年期の人間にとって最も大切なことは、良き師、

良き友との出会いではなかろうか。

 その点、高校時代の平野は、たいへん恵まれていた。

 美馬敏男という、生涯、私淑し、かつ尊敬した恩師に邂逅できた

からだ。

 因みに、平野の母校、高知県立清水高校の校是・校訓は、

「自由」・「平等」・「博愛」・「寛容」である。

 

 この両者の出会いは、私には、兆民と秋水との出会いにも似ていると

思える。

 平野によると、美馬先生は、次のような考えの持ち主だった。

つまり、「人間が幸せに生きるには、自主・自律に支えられた自由が

要る」というものだ。

 だが、高校時代の平野の態度は、メチャクチャだったと、平野自身、

独白している。

 しかし、特筆すべきは、それを見守った教師たちの指導理念と、

その態度だ。

 

 平野は言う。「生徒がどんな問題を起こしても、どんな生徒に対しても、

心をこめて、ていねいに、時間をかけて、生徒の魂を見守り、癒やして

いった」と。

  正直、「生徒の魂」というものに言及するところに、平野自身の心の

奥深さを感じる。

 また、この教育の在り方こそが、生涯を通して、平野が、「正義」を

求める心意気を失わなかった、豊かな”精神的土壌”となったと思うのだ。

                                                 【つづく】

 

 

 

 

 

2020年4月21日 (火)

私の平野貞夫論(9)

(9)「平民主義(=国民主権)」の系譜

 

 土佐には、時代を超えて、常に貧しい人々の立場に立ち、自らの

生涯を、彼らのために捧げた(あるいは、捧げつつある)四人の志士

がいる。

 それは、坂本龍馬(下の写真の上)、中江兆民(同、下)、幸德秋水、

そして平野貞夫である。

 それは、まさに、「平民主義(=国民主権)」の系譜とも呼ぶべき

ものである。

 

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 坂本龍馬は、長州の木戸孝允(下の写真の上)より、三歳

年下だったが、彼は同時に、高杉晋作(同、下)より、三歳

年長で、山縣有朋よりは、二歳年上だった。

 

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 しかし、坂本には、長州の志士たちに顕著だった権力欲、

とりわけ、晩節を汚したかに見える山縣のような、異常な権力欲や

名誉欲からは、全く無縁だった。

 当時、坂本の無私・無欲な人柄を最も熟知していたのは、

西郷南州だったのではなかろうか。

 

 両者には、自らを空しくして、他者のために、我が身を捧げると

いう、本来の武士道があった。

 両者は共に、物質には恬淡で、世俗の欲望とは、かなりかけ離れて

いたように思われる。

 つまり、この二人には、「人間、本来無一物」という透徹した考え

があったように感じる。

 

 とりわけ、坂本には、戦いよりも平和、官よりは民への敬愛が厳存

していたのではあるまいか。

 この、坂本の偉大さ、あるいは人間的魅力を、心から感得したのが、

青年期の中江兆民だ。

 

 事実、若き兆民は、坂本の中に、人間の、ある種の理想型を見たのだと

思う。

 彼は、”自分も、このような人になりたい”と、心から願ったことだろう。

 青年兆民が、喜んで、坂本の使い走りをしていたという姿は、実に

微笑ましい。

 その、甲斐甲斐しい姿を、豊かな情愛をもって、『兆民先生』という

書物に著わした秋水の、兆民への敬愛の念も、たいへん心惹かれるもの

ある。

 

 その意味で、兆民と秋水には、まさに、理想的な師弟関係があった。

両者は共に、その思想的な”波長”が同じだったのではあるまいか。

 それは、要約すれば、「平民主義」である。

だが、この「四民平等」の平民主義思想は、すでに、坂本龍馬の胸中に、

強く芽生えていたと思うのだ。

 

 それが、兆民に受け継がれ、秋水によって、より厳密に体系化された。

この平民主義、つまり国民主権の思想が、『日本国憲法』によって、

大きく花開いたのである。

 この「国民主権」の大切さを、誰よりも熟知し、今日の乱れた政治を

正そうとしているのが、平野貞夫である。

 

 私は、それを、土佐における、「平民主義(=国民主権)の系譜」と

呼びたいのである。                         【つづく】

 

 

 

2020年4月20日 (月)

私の平野貞夫論(8)

(8)「天命に遊ぶ」人

 

 「天命に遊ぶ」という言葉は、実に珍しい。

むしろ、「人事を尽くして、天命を待つ」という言葉の方が、

一般的だ。

 だが、平野は、この「天命に遊ぶ」という言葉を、殊の外、

愛しているように思われる。

 それは、彼が、”天の心”を持つ人だからではあるまいか。

 

 「天命に遊ぶ」とは、つまり、天と一体化する、あるいは、

天と同化するという心境を意味しているように感じられる。

 「人事を尽くして、天命を待つ」では、「天」と「人」が、

相対化(あるいは、客体化)されていて、一体化(あるいは、

同体化、ないしは同化)されることはない。

 

 これに対して、”天命に遊ぶ”ことで、人間の持つ小賢しい

「自我」や「自己」は、自ずと消える。

 それらが消えることで、自らを解放できる。

 平野によれば、この「天命に遊ぶ」という言葉の発案者は、

大本教の開祖出口王仁三郎(下の写真)とのことだ。

 

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 出口の言によれば、「《人事を尽くして、天命を待つ》と

いう心境では、悟りが足りない。

 《人事を尽くして、天命に遊ぶ》という心境になってこそ、

天は力を貸す」という。

 

 ところで、「天命」から、少し離れるが、人間の世界には、

「天の心」と「地の心」があるように思われる。

 とはいえ、これは、何も難しいことではない。

 何より、「天の心」とは、素直に、「有難う」と言える心だ。

 これに対して、「地の心」とは、何事も、「当たり前」と思う心だ。

そこには、驕りこそないが、”有難い”という思いは希薄だ。

 

 前者には、天地万物に対する”感謝の心”がある。

私には、平野には、この”天の心”、つまり、天地万物に対する

”感謝の心”が、横溢しているような気がする。

 平野は、実に広大、かつ緻密な頭脳の持ち主だが、彼の博識を

語る前に、その思想の根底に存するものが、一体、何なのかと

問えば、それは、私心のない、”天の心”なのではあるまいか。

 

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                        (写真は、イメージです。)

 

 つまり、人間の議論には、必ず、「正」と「反」、テーゼと

アンチテーゼが存在する。

 誰しもが、自論だけが正しく、相手のそれは、間違っていると

考えがちだ。

 しかし、平野の思考には、自らも、また相手の考えをも”空”として、

敢えて、天の観点から論ずるような視点が存在するのだと思う。

 

 それが、まさに、「合」、あるいはジンテーゼとして、問題解決の

方途となる。

 彼は今まで、様々な難問に遭遇した。

それらの一つひとつが、常人の想像を遙かに超える内容だった。

 だが彼は、それらの難問題を、見事に解決してきた。

 しかし、その解決の背景には、私心のない、”天の心”があったから

ではないだろうか。

  つまり、その”天の心”に対する、天からの導きがあったと思う。

 その意味で彼は、自ら、「天に遊ぶ」心を持っているように思うのだ。

                                                【つづく】

 

 

 

2020年4月18日 (土)

私の平野貞夫論(7)

(7)「自由民権」の申し子

 

 「摂理」とか、「天の配剤」という言葉がある。

人知を超えた、天の導きを表す言葉だ。

 平野の人生やその生き方、それに彼自身が持つ政治思想を

考察する時、そこには、左脳的な高度の分析能力と、まことに

右脳的な直感力が、ものの見事に調和している姿が、垣間

見られる。

  とりわけ、彼の持つ「直感力」に注目する時、私は、彼に

対する”天の導き”を感じずにはいられない。

 

 その意味で、彼は、まさに、天に愛された人なのでは

なかろうか。

 彼は、1935年(昭和10年)12月1日、土佐清水市に

生まれた(下の写真は、同市内に在る足摺岬)。

 平野が生まれた家は、謹厳実直な中に、実に精神的な

潤いに満ちた町医者の家庭だった。

 とりわけ、土佐清水市は、明治期の自由民権運動のメッカ

とも言える所だ。

 私には、この誕生は、決して偶然なものとは思えない。

 

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 正直、平野の誕生には、まさに、生涯、「自由と民権」の

ために生きる使命が与えられていたように思える。

 「申し子」とは、前述したように、「神仏に祈願することで

授かった子供」とか、「神仏など霊力を持つ者から生まれた子供」

などと言われる。

 

 事実、平野の父親は、単に医学だけでなく、宗教にも、深い

造詣があった。

 その理由の一つに、先述したように、当時、国民学校の5年生

だった貞夫に、出世のための勉強などは勧めず、『般若心経』の

読誦を求めた。因みに、同経には、こうある。

「観自在菩薩・行深般若波羅密多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。

舎利仏。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・

識・亦復如是。・・・」

 この中で、「色即是空、空即是色」が有名だが、ある解説によると、

同経のキモは、その前にある、「五蘊皆空」とのことである。

 「五蘊」とは、人間の心身のことで、これは、すべて、『因果』に

よって成り立ち、それ自体の”実体”は無いと言われる。

 

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 だが、『般若心経』の深い意味は、ともかくとして、彼が多感な

少年期に、このような精神的に豊かな環境で育ったことは、特筆に

価する。

 平野の「自由民権」思想の原点には、このような豊かな精神的土壌が

あった。

 

 今日の平野の政治思想の深遠さや、彼の心の寛大さは、まさに、

そのような、極めて精神を重んじる家庭によって育まれ、醸成されて

いたように思える。

 そして、その精神的なバックボーンになったのが、真の自由を愛し、

常に民(あるいは、国民)の立場に立って政治を希求する「自由民権」の

思想なのである。

 

 そのような土地柄で生まれ、育った平野が、精一杯、天の導きに従っ

て、「自由民権」のために生きたのは、至極、当然の成り行きだった。

 それは、まさに、平野自身が、「自由民権」の申し子だったからである。

                                     【つづく】

 

 

2020年4月17日 (金)

私の平野貞夫論(6)

(6)幸德秋水の”精神的後継者”

 

 幸德秋水(傳次郎:下の写真)は、レーニン(ウラジミール・イリーチ・

ウリヤーノフ:下の写真)より、一歳年下だ。

 彼はまた、内村鑑三より、十歳年少である。この三者は、ほぼ

同時代人だと言えよう。

 

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 内村鑑三は、偉大な宗教思想家だ。

だが、その全思想力において、私は、幸德秋水は、決して、

内村に引けを取らなかったと感じる。

 むしろ、国際政治や世界経済を観る目は、幸德の方が、

内村を上回っていたのではあるまいか。

 確かに、両者の思想の視座は、明らかに対照的だ。

内村は、とりわけ、その生涯の後半期は、宗教的考察(例えば、

パウロの「ローマ書」の研究)に力点を置き、どちらかと言えば、

内向的だった。

 

 これに対して、幸德は、名著『廿世紀の怪物帝国主義』や

『社会主義神髄』などを通して、実に明確に、当時の世界経済や

国際政治の実体について論じた。

 それは、内村に比べて、遙かに外向きの視座だった。

 この幸德の優れた分析力を、内村も、高く評価していた。

この両思想家が、もっと多く議論し合えば、どんなに素晴らしい

成果が生まれたことだろうか!

 

 しかし、不幸にも、1911年(明治44年)の「大逆事件」という

でっち上げで、幸德の命が絶たれた。

 その無念や、如何ばかりであろう!

 しかし、余りに突然の死に際しても、幸德は、少しもうろたえ

なかった。まさに、肝が据わっていた。

 

 彼は、一流の思想家だったというだけでなく、むしろ、それ以上に、

一人の覚醒した人格者だった。

 私は、彼の博識や優れた分析力よりも、むしろ、彼の人柄の善さ、

その人格の高さに、心打たれる。

 

 基本的に、人間を分けるもの、それは結局、「人柄」なのでは

あるまいか。

 つまり、知識の多少、地位の高低、名誉の有無などではなく、むしろ、

人柄の善さ、悪さなのだと思うのだ。

 その点、幸德は、実にいい人柄だったと思う。

 

 彼の死後、彼が心から希求した「自由平等」、それに、「民権」と

「非戦」の思想は、多くの心ある人々によって受け継がれた。

 平野貞夫も、その一人だと思う。

いや、実は、彼こそ、幸德秋水の「衣鉢を継いだ」のではあるまいか。

 

 素より、「衣鉢を継ぐ」とは、宗教的奥義の継承を指す言葉だ。

それゆえ、この言葉を、ここで持ち出すのは、少し場違いかもしれない。

 しかし、幸德と平野の間に流れる、思想の”地下水脈”は、時代を

超えて、脈々と繋がっているように感じる。

 その場合のキーワードは、何より、「自由民権」だ。

両者ほど、真の「自由」と「国民主権」を希求した思想家はいない。

 

 私は、平野貞夫こそ、幸德秋水の”精神的後継者”であると確信して

いる。

 より腹蔵なく言えば、彼は、幸德の無念を、少しでも晴らすべく、

今も、日本国と日本国民のために、果敢に活躍していると思うのだ。

                                     【つづく】

 

 

 

 

 

 

2020年4月16日 (木)

今日の特別篇(5)

         地獄への道

 

 最近、とても面白いと思った言葉があります。

それは、「地獄でもいい、安倍のいない国で暮らしたい」

というものです(ブログ「宇宙の真理を求めて」参照)。

 まことに、正直な思いだと感じます。まさに、言い得て妙です。

 この思いは、「たとえ地獄でもいい、そこに、安倍がいないなら」

といったところでしょうか。

 しかし、正直なところ、今日の国民の大半が、全く同じ思いなのでは

ないでしょうか。

 

 私は、先述した拙ブログの中で、アベ氏を、「長州政治の超お粗末な

始末人」と書きました。しかし、これは、案外、本音なのです。

 今日の日本は、頑迷なる「タテ社会」(日頃、加治将一〔マサカズ〕氏

が強調されています)と、ミエミエの”利権構造”で成り立っています。

 つまり、明治維新以来、この”利権”によって成り立つ「長州政治」が、

脈々と続いてきました。

 かつての岸政治などは、まさに、その典型でしょう。

彼の、すべての政治行動が、キックバックに始まり、キックバックに

終わっています。

 また、彼の邪悪な行為が、今日の日韓関係にまで、悪影響を及ぼして

います。

 しかし、それも、超劣悪なるアベ政治をもって、終わりにしたいものです。

 

 とはいえ、アベ氏は、案山子にも及ばない程の、単なる「お飾り」に

過ぎません。

 彼は、心底、日本を憎む者たちや、徒に中国嫌いで、戦争に走ろうと

する者たちによって、体よく担ぎ上げられただけの存在です。

 勿論、彼自身、「731部隊」好みの戦争好き、そして国民生活の確信犯的

破壊者です。

 

 そんな彼が信を置くのが、加藤勝信(写真・上)と萩生田光一(写真・

下)。前者が、厚労大臣、後者が、文科大臣です。

 でも、両者とも、全く、その地位に相応しくないのは、誰の目にも明らか

です。

 

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 前者は、アベ氏の母親の覚えが目出度いだけ。

因みに、彼は、安倍氏の指名後継者(?)とのこと。

ご冗談でしょう!

 後者は、高校(早稲田実業)時代からの無頼の徒(停学、2回)で、

その野卑さとガタイの大きさが、アベ氏の関心を買っただけ。

 両者とも、担当大臣としての見識も遂行能力も、全く無し。

すべては、カッコだけ!

 

 ところで、私は、次のような夢を持っています。

それは、今こそ、日本の厚労大臣に、児玉龍彦氏(下の写真)に、

なって欲しいというものです。

 今日の日本で、真に厚労大臣に相応しいのは、児玉龍彦氏を

おいて、他にいないのではないでしょうか!

 彼には、是非とも、「日本の鍾南山(ショウ ナンザン)」に

なって欲しいと思います。

何故なら、今日のコロナウィルス問題の、全面的解決に関して、

彼ほど、可能性を秘めた人物はいないからです。

 

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 これは、目下、You Tubeで、新井信介氏が、非常に強く

訴えておられます。

 確かに、新井氏の言にもありますように、より多くの日本人が、

児玉氏の卓越した知見に、もっと真摯に耳目を傾けるべきだと

思うのです。

 新井氏は、”「コロナ対策」に関する総指揮権を、出来るだけ早く、

児玉氏に与えよ!”と力説なさっています。

 

 また、私には、もう一つの夢があります。

それは、文科大臣に、是非とも、前川喜平氏(下の写真)になって

欲しいというものです。

 今日の文科行政の問題点について、前川氏ほど精通した人材はいない

のではないでしょうか。

 同氏ならば、大所高所から、公平・無私に対処できると思うのです。

 正直、私などは、彼は、日本の総理大臣にしたい程の大人物だと、

感じています。

 

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 前川氏が、以前、こう語ったことがあります。

「下村(博文)氏や萩生田(光一)氏が文科大臣になったら、

酷いことになると思います」と。

 事実、彼の予言は、的中しました。

 

 むしろ、それこそ、その元凶たるアベ氏が総理に返り咲いたこと

自体が、実に”酷いこと”だったのです。

 私たちは、今後益々、”地獄”を見ることになりましょう。

 実際、アベ氏を総理に選出して8年間、私たち日本国民は、

すべからく、「地獄への道」を歩み続けていると思うのです。 【了】

      

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

    

 

2020年4月15日 (水)

私の平野貞夫論(5)

5.「教育勅語は、親の仇でござる」

 

 福沢諭吉の言葉、「門閥政治は、親の仇でござる」を模した、

この言葉は無論、平野の実言ではない。

 だが、彼の小学生(当時は、国民学校)時代の体験談や、

その後の彼の政治活動を概観すると、案外、この言葉は、それ程、

的を外れていないように感じる。

 教育勅語(下の写真)は、「忠君愛国」主義と、「儒教的道徳」が

基調となり、60年近く、近代日本における天皇制の精神的・道徳的

支柱となった。

 

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              (「教育勅語」の作成者、井上毅〔こわし〕

                                                :1844~95 )

 

  しかし、貞夫少年にとって、教育勅語は、まさに、大きな精神的

軛(くびき)となった。

 平野は、当時を振り返って、次のように語る。

戦時中、彼が国民学校3年生の時のことである。

 修身の授業が始まった。

生徒全員が、教育勅語を暗誦し、教師が、「勉強は、誰のためにする

のですか?」と、クラス全員に問い掛けた。

 

 貞夫少年が最初に手を挙げて、「自分のためです」と、大声で答えた。

すると、教師は、「間違いです。教育勅語が分かっていません」と、

叱った。

 次に挙手をした生徒が、「天皇陛下のために勉強します」と答えると、

教師は、「その通りです。よく答えました」と褒め、「平野君、分かり

ましたか?」と言う。

 

 彼は内心、”教育勅語に、そんな意味はない”と思い、「分かりません」と

答えた。

 すると、教師は、カンカンになって怒った。

「校医のお父さんが、今日は種痘の接種で来校されているから、お父さん

教えてもらってきなさい」と言う。

 そこで、父親に聞いたが、笑うばかりで、教えてくれない。

 

 仕方なく教室に帰ると、教師が、「分かったでしょう?」と念を押すので、

それでも、「分かりません」と言うと、教師は激怒して、貞夫少年を廊下に

立たせたのである(佐髙信氏との共著『自民党の病』31頁より)。

 

 しかし、平野の慧眼通り、教育勅語は、仏教や儒教、それにキリスト教

徳目を引用して、人類普遍の道徳を装ってはいるが、その眼目

(あるいはキモ)は、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運

扶翼スヘシ」、つまり、「戦争など、いったん緩急ある場合は、個人の

思想自由、生命を犠牲にして、天皇のために尽くせ」ということである

                                                (同上)。

 

 要するに、教育勅語は、ごく有り体に言えば、「天皇」や「国家」の名

下に、人の生命(いのち)や人権を、ひどく粗末に扱う宣言文なのだ。

 早熟で、鋭い感性の持ち主だった貞夫少年には、この、形ばかりの大人

欺瞞が、どうしても納得ゆかなかったのではあるまいか。

 「教育勅語は、親の仇でござる」は、些か極端な文言だが、それでも、

少しは、当時の貞夫少年の心意気を代弁しているように思えるのだ。

                                                                                    【つづく】

 

 

 

  

2020年4月14日 (火)

私の平野貞夫論(4)

3.平野の「吉田松陰」観

 

 歴史上の人物評価は、至って難しい。

例えば、マハトマ・ガンディー(下の写真)でさえ、

”偉大なる魂”や聖者、それに、国父(インドの父)と

賞賛された反面、ペテン師、悪商人、半裸の気違い坊主

などと、激しく揶揄された。

 

  Photo_20200412130201

 

 日本の吉田松陰(下の写真)も、決して例外ではない。

 確かに、明治維新は、彼の思想と行動をもって始まったと

するのが定説だ。

 だが彼を、幕末期の、単なる「テロリスト」と酷評する人も、

決して少なくはない。

 その意味で、歴史上の人物を全体的に、しかも、公平・無私・

公正に把握することは、極めて難しいと言える。

 

     Photo_20200412130801

 

 その点、平野の「吉田松陰」観は、辛口の部類に属する。

彼にとって、松陰は、悪い右翼の”ルーツ”なのである。

 ここで言う悪い右翼とは、排外的、独善的、狂信的、かつ

暴力主義的な右翼のことを言うのではあるまいか。

 それに、平野によれば、松陰は、単なる「国家主義者」に

過ぎない。

 つまり、「民」の思想、ひいては、「自由民権」的なる

政治思想とは全く異なる、別次元の人物なのだ。

 

 確かに、人は、自ら生まれ育った環境や、その生きた時代の

影響を受ける。

 それゆえ、幕末期の、それも、兵学者の家庭で育った松陰に、

「民権思想」の有無を問うこと自体が、土台、無理なのかも

しれない。

 無論、平野自身、そんな無理なことを、松陰に求めているとは

思えない。

 

 だが、平野には、土佐人の一人として、かつての長州人に対する

批判精神もあろう。

 何故なら、共に江戸幕府から権力を奪った長州人の産物が結局、

唯我独尊的な「藩閥政治」だったからだ。

 まさに、土佐人にとって明治維新は、”裏切られた革命”だったと

思う。

 

 それゆえ、土佐人による自由民権運動は、その確たる批判の上に

成り立つ。

 この批判の対象となった藩閥政治は、原敬の「政党政治」の登場に

よって、根本的に否定された。

 平野は、この地平に立って、松陰を批判的に捉えているのかも

しれない。

 しかし、より深く考察すれば、平野には、吉田松陰を論ずる以前に、

「国家主義」そのものの持つ酷薄さ、残酷さ、非情さ、傲慢さが、

どうしても我慢ならないのではあるまいか。

 

 つまり、平野にとって松陰は、このようなマイナス面の大きな

「国家主義」の、悪しき種を蒔いた張本人なのである。

 それゆえ、平野の「吉田松陰」観、それは、国家(厳密には、

行政府)の強さや怖さを知る者の、至極当然なる批判精神に基づく

ものだと思える。

 そこには、物事を、あくまで、公平・公正に見て、冷静に判断

しようとする平野の真面目が、垣間見られるように思うのだ。 【つづく】

 

 

 

2020年4月13日 (月)

私の平野貞夫論(3)

2.四万十川のような人

 

 高知県の西部を流れる四万十川(下の写真)は、

「日本最後の清流」と言われる。

 また、柿田川や長良川と並ぶ、「日本三大清流」の一つ

でもある。

 全長196キロメートルと、かなり長い川だが、川下まで、

その清らかさを保ち続けるのは、決して容易なことではない。

 余程、流域住民の、四万十川への愛情や環境意識の高さが

しのばれる。

 

   Photo_20200412085901

 

 かつて、美しい川を身近に感じていた私たちも、産業、

とりわけ工業の発展と共に、いつの間にか、川が汚染され、

それが、死んでゆく姿を目にしている。

 それだけに、四万十川のような、数少ない清流の存在は、

極めて貴重だ。

 水源の近くや、森の中の渓流沿い、それに、このような稀少な

清流を見る度に、私たちの心は癒やされ、かつ慰められる。

 四万十川は、そのような慈愛を感じさせる川だ。

 

   Photo_20200412090901

 

 平野貞夫は、言うなれば、この、”四万十川のような人”

なのではなかろうか。

 彼が、1960年に、衆議院事務局に入った頃のことで、

非常に興味深い記述(厳密には、佐髙信氏との対談)がある。

 平野の言によると、林譲治や吉田茂は、彼を事務局に入れる

ことで、「政治の浄化を期待したのかもしれません」とのことだ。

 これは、確たる自信が無いと言えない言葉だ。

この言葉を、ハナから悪意に取ったり、聞き方を間違えると、

単なるホラ話にしか聞こえない。

 

 しかし、実際、当時の林譲治(下の写真)と吉田茂は、若き

平野の「純粋さ」、「正義感」、「真摯さ」、「公平さ」、「公正さ」、

それに、「誠実さ」など、その類い稀なる美質を見込んだのだ。

 ”コイツならば、たとえ汚い政治の世界に身を置いても、必ず

真実を貫き通し、決して汚れることはないだろう!”と、心底、

見込んだと思うのだ。

 

       Photo_20200412092501

 

 事実、平野は、どんなに汚い場面に身を置いても、

決して怯んだり、逃げたりせずに、果敢に自ら信じる

「正義」を貫いた。

 自分が正しく、理があると確信すると、たとえ、相手が

傲慢な政治家であれ、常に上から目線の検事であれ、怒鳴り

散らす程の、「胆力」の持ち主だった。

 彼は、常に喧嘩の仕方を知っていた剛毅な人物だ。

その男気の良さは、実に小気味よい。

「土佐のいごっそー」とは、まさに、彼のことを言うのだろう。

 

 それに、もし万が一、彼が政治の汚辱にまみれているとするなら、

彼は、すでに、「政治の世界」から身を引いていたことだろう。

 しかし、決して、そんなことはない。

むしろ、彼が、日本国や日本国民を、こよなく愛し、今日の政府の

暴政に、真剣に憤る姿こそ、彼が、決して政治に汚れていない証左

なのではあるまいか。

 

 それは、まさに、四万十川が、とうとうと流れていても、川下でさえ、

その清らかさを保っている姿に似ている。

 これが、彼のことを、”四万十川のような人”と呼ぶ所以である。

 

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                                 【つづく】

 

 

 

 

 

 

 

 

2020年4月11日 (土)

私の平野貞夫論(2)

        平野貞夫の人間像

        (全体像把握のための一試論)

 

1.「貞夫」という名前

2.四万十川のような人

3.平野の「吉田松陰」観

4.「教育勅語は、親の仇でござる」

5.幸德秋水の”精神的後継者”

6.「自由民権」の申し子

7.「天命に遊ぶ」人

8.「平民主義(=国民主権)」の系譜

9.「正義」を求める心意気

10. 土佐公家衆の末裔

11. 「総理」の渾名付けの天才?

12. 現代日本政治の最高の”語り部”

 

1.「貞夫」という名前

 

「名は、体を表す」というが、人の名前には、両親や家族、

および親族などの祈りや願いが籠っている。

 最近でこそ、「キラキラネーム」という名づけ方が流行りだが、

昔は、日本古来の漢字を重視して、それぞれに、納得のゆく名前を

付けた。

 

 さて、「貞夫」という名前だが、彼の両親は、1935年(昭和10年)

に生まれた彼らの四男に、一体、どのような思いで、この名前を

付けたのだろうか?

 名前に沿って、単純に解すれば、”貞潔なる夫”となる。

事実、そうだったかも知れない。

 本人は、きっと、「真実、その通りだ!」と、主張なさることだろう。

 だが、筆者は、神でもなければ、超能力者でもないので、その真実の

ほどは分からない。

 

 しかし、自らの第六感からすると、案外、それは真実のような

気がする。

 「案外」という一字が気に障るところだろうが、私の至って正直な

思いを述べれば、同氏に身近に接した者(とはいえ、私の場合、

今まで、たった二回だが)の一人としての印象では、これは、

まことに真実だと思う。

 

 というのも、同氏から発するオーラの第一印象は、何よりも、

”正直さ”だからだ。

 ごく単純に言えば、同氏は、まさに、”正義感の塊”のような人物

なのだ。

 これは、多分に、彼の父親譲りとも思える。まことに、先天的な

ものなのである。

 

 事実、たとえ、貧しくてもいい、何よりも、”正義を愛する、

高潔な人間であれ!”というのが、彼に対する、父親の願いでは

なかっただろうか。

「貞夫」という名前には、以上のような思いが込められているよう

感じる。

 

 それに、「夫」とは、夫というよりも男、男というよりも、

「士(もののふ)」の意味が強いのではあるまいか。

 つまり、そこには、”まことの士(もののふ)たれ!”という思いも

含まれているように感じるのだ。

 

 しかし、この生き方は同時に、彼の父親自身の生き方でもあった。

彼の父親は、常に貧しく弱い人々に、慈愛の心と眼差しを注いだ、

篤実・高潔な町医者だった。

 そこには、今日では、すでに化石化した言葉、「医は、仁術である」

が、脈々と息づいていた。

 

 彼の父親は貞夫少年に、「学校の成績を上げて、有名な大学に入って

出世しようと思うな!」と、口癖のように言い、愛息に、『般若心経』(下の

写真)を暗誦することを強要した。

 平野貞夫は、そのような父親の背中を見て育った。

そこには、「清く、貧しく、美しく」の、かつての日本の家族の美しい

原風景があった。 

 

    Photo_20200410212001  

 

    Photo_20200410212101

 

                                   【つづく】

 

 

 

 

2020年4月10日 (金)

私の平野貞夫論(1)

       まえがきにかえて

   (何故、「平野貞夫」なのか?) 

 

 もし、「愛国者の系譜」、「売国者の系譜」があるとします

なら、一体、どのような政治指導者が、それに該当する

でしょうか? 

 

 例えば、「売国者の系譜」としては、岸信介、中曽根康弘、

小泉純一郎、麻生太郎、それに安倍晋三などが考えられましょう。

 先述しました、『地獄をさ迷う亡者たち』です。

 対する、「愛国者の系譜」としては、石橋湛山、田中角栄、

小沢一郎、そして、山本太郎が考えられるのではないでしょうか?

 

 無論、田中角栄を愛国者と規定することに異論を唱える方がいる

かも知れません。

  「彼は、拝金主義の、単なる金権政治家ではないか。全くのカネの

亡者で、決して、愛国者などではない」という言葉が聞こえて

きそうです。

 

 しかし、果たして、そうでしょうか?

彼が、単に太平洋ベルト地帯だけでなく、当時、「裏日本」として

蔑まれた感のある日本海側にも、均等に発展の機会を与えようと考えた

ことは、決して間違ったものではありませんでした。

 

 無論、物質的な繁栄だけが、人間の幸せを導くものとは思えません。

でも、「地域間格差」の問題を、自分なりに解決してみたい、

という田中の願いを、一概に否定することはできません。

 

 唯、それを実現する手段には、それなりの問題や過ちがあった

かも知れません。

 とはいえ、彼が思い描いた「日本列島改造論」には、それなりの

気宇広大な夢があったと思います。

 そして、その底流には、田中の、同胞への愛があったと思うのです。

 

 この田中角栄の精神的後継者とも言えたのが、小沢一郎(下の写真)

ではないでしょうか。

 日本の現代政治について語る時、彼の存在を抜きにして考えることは

できません。

 

     Photo_20200409085401   

 

 いや、むしろ、彼を主体として、善きにつけ、悪しきにつけ、

様々な政治改革がなされました。

 彼自身、”現代の原敬(下の写真)ならん!”と、内心願ったことも

ありしょう。

 つまり、彼は、彼なりに、日本の議会政治、政党政治の

”あるべき姿”を、真摯に追い求めているのだと思います。

 

    Photo_20200409085201

 

 田中の最晩年まで、彼と関わり、並びに小沢に対して、多大なる

影響力を与え、実際に同行した人物は、まさに、平野貞夫をおいて、

他におりません。

 言うなれば、田中、並びに小沢のことを最も深く知悉しているのが、

平野貞夫なのです。

 

 しかし、平野は、この二人の政治指導者だけでなく、衆議院事務局に

奉職した1960年から、1992年まで、実際の表舞台で活躍し(時には、

その裏舞台で暗躍〔?〕し)、日本の現代政治に深く関与してきました。

  とはいえ、その間、平野が、常に忘れない信念がありました。

それは、天に恥じない、”正しさ”の追求です。彼は、相手が、如何なる

権力者であろうとも、常に、公平無私なる、「正論」を説く人でした。

 それが、本論で彼を、「現代日本政治の『良心』」と呼ぶ所以です。

 

 この平野にとって、今日に至るまでの「日本政治」が、一体、如何なる

ものであり、彼が、それに対して、どう関わったのかについて、私なりに

跡づけてみたいと思います。

 それでは、彼のアウトラインは、一体、如何なるものなのでしょうか?

                                             【つづく】

  

 

2020年4月 9日 (木)

【感謝】

         親愛なる皆さんへ

 

 拙稿『地獄をさ迷う亡者たち』を、熱心にご愛読

下さいまして、本当に有難うございました。

 無事に終了できましたのも、偏に、皆さんのご支援の

賜です。ここに、厚く、御礼を申し上げます。

 また、ココログ、並びにマイクロソフト社の関係者各位

のご尽力も、誠に有難く存じます。

 

 毎週日曜日、お休みを頂きました。

それでも、日曜日に本ブログを、いつもの7割の方々が、

訪れて下さいました。

 そのご厚情を、衷心より感謝申し上げます。

 

 半年余りの更新を振り返って、実は、私にとりまして、

たいへん嬉しい驚きがありました。

 と申しますのも、当初、本ブログを読んで下さるのは、

私と同年代以上の方々ではないか、という思いがありました。

 でも、読者層の解析の結果を見ますと、何と、30歳代の

方々が6割、20歳代と40歳代の方々が、それぞれ2割だった

のです。

 

 これに対して、50歳代以上の方々は、殆ど0%に近いと

いう結果でした。

 無論、実際は、全くの0%ではなく、中には、心ある

ご年配の方々が、熱心にお読み下さっておりました。

 しかし、正直申しまして、私のブログを、若い方々が

読んで下さっているとは、全く予想しておりませんでした。

 それだけに、私の思惑外れは、同時に、たいへん嬉しい

喜び”でした。

 

   Photo_20200407094201

                    (城ヶ崎駅前の桜です。)

 

 私が今、最も気になっておりますのは、主に30歳代の方々の

現在と将来についてです。

 多くの有為の人々が、かつての、『就職氷河期』という苛酷な

現実に引きずられて、今も、各所で、呻吟しています。

 「若い人々が不幸な国家は、早晩、滅びるだろう」というのが、

私の正直な思いです。

 超愚劣なアベ政権に翻弄される今日、日本も、決して例外で

ありません。

 

 今後、私は、若い方々への「応援歌」を書くつもりで、現代

日本政治の実相について、論じていきたいと思います。

 尚、次回作は、次のようなものです。

もし、ご興味のある方がお有りでしたら、どうか、ご高覧くだ

さい。

 

      現代日本政治の「良心」

      =私の「平野貞夫」論=

 

    Photo_20200407095501

                                【つづく】

 

 

 

 

2020年4月 8日 (水)

地獄をさ迷う亡者たち(158)

         むすびにかえて【5】

 

 また、たとえ人生が、どんなに短いものであっても、それは、

実に有難いものです。

 私は今まで、幼くして、あるいは若くして”旅立った”子供たちを、

何人か、見て来ました。

 その子たちは、障害の有る無しに拘わらず、瞑目する瞬間まで、

実に見事に輝いていました。

 たとえ、言葉ひとつ発することができなくても、その瞳は、

いつもと変わらず、キラキラしていました。

 その度に、ほぼ健康な私などが、むしろ、励まされるような思い

でした。

 その子供たちのことを、数十年経た今日でも、私は、決して

忘れることはありません。

 

        Photo_20200404191001

                         (写真は、イメージです。)

 

 私たちは、人それぞれに、異なる人生を歩みます。

それぞれの人生が、おのおの違った輝きを放ちます。

 人生が、たとえ如何なるものであれ、それを立派に生き抜いてこその

人生です。

 

 人生、それは、私たちの魂を磨く修道場。

人生、それは、心から愛したい魅惑的な異性。

人生、それは、色々な宝物を発見できる無限の宝庫。

人生、それは、私たちの霊魂を磨いてくれる、偉大な「教師」。

人生、それは、私たちが、心底感謝すべき恩人。

人生、それは、私たちが名演技すべき、天下の晴れ舞台。

 私たちは、人生の終幕の日に、堂々と叫ぼう、「人生、

ありがとう。君は、本当に美しい!」と。

 

     No4

 

 そのようなわけで、人生とは、どれだけ生きられたかが問題では

ありません。

 むしろ、それを、どう生きるかが問題です。

つまり、人生の「質」や「内容」が、重要だと思うのです。

 

 それに、「人生の佳境」という言葉があります。

でも、後半生の一時期だけが、「佳境」だとは思えません。

 むしろ、人生の、すべての時が、「佳境」なのだと思います。

 また、私たちは、人生を、よく、「勝ち」、「負け」で考え

たがります。

 例えば、「私は、人生の負け組。他方、彼は、人生の勝ち組」

といった具合に。

 でも、人生に、勝利も敗北も無いのではないでしょうか。

有るのは、自己の「良心」に、どれだけ正直に生きられたかどうか

なのだと思うのです。

 

 また人生とは、本質的に、”楽しい”ものだと思います。

決して、「苦」だとは思えません。

「人生は、楽しからずや、苦もまた喜びゆえに」というのが、私の

偽らざる考えです。

 それで、思います。「たった一度の人生ならば、悔いを残さず

生きてみたい」と。

 

 さらに、こうも考えます。

「たった一度の人生ならば、それが、たとえ見果てぬ夢であっても、

可能な限り挑戦しよう。

 たとえ、夢が叶わなくても、ダメで元々。

怖じけて挑戦しないよりは、遙かに、ましではないか」と。

 それゆえ、私は、思います。

「あくまで、生涯、『一挑戦者』になろう!」と。

 

 そして、「自分にしかできない生き方を、納得ゆくまで貫いて

みよう。

 それが、他者(ヒト)のために、少しでもお役に立てば、それで、

充分ではないか!」と。

 最近、私は心から、そう思うのです。

 

   Photo_20200404195101  

 

                                 【了】

 

 

 

 

 

2020年4月 7日 (火)

地獄をさ迷う亡者たち(157)

       むすびにかえて【4】

 

 それゆえ、われわれの人生は、それが、どんなに苦難に

満ちたものであっても、本当に素晴らしいものだと思います。

 例えば、「人生」に関して、次のような言葉があります。

それは、「涙とともにパンをかじった者でなければ、

人生の本当の味は分からない」という格言です。

 近代ドイツの文豪、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ

(1749~1832:下の写真)の言葉です。

 

    Photo_20200404142401

 

 経済的にも、社会的名声の面でも、非常に恵まれ、

些か貴族趣味的な人物(*実際、「フォン」と名乗る

ことからして、「貴族」の称号を得ていましたが)かと

思われた彼でさえ、人には言えない、様々な悲しみや苦労、

それに「犠牲」があったのかも知れません。

 確かに、何かを得ることで、何かを失うのは、世の常です。

ゲーテも、決して例外ではなかったでしょう。

 その意味で、彼自身が、まさに、「涙とともにパンを

かじった者」だったかと思います。

 

 でも、パンと米の違いこそあれ、このような思いは、多くの

日本人だって、じゅうぶん納得できることです。

 それほどに、この世の中には、心底、現実に苦しむ人々や

悲しむ人々、さらには、自らを、「不幸」に感じる人々であふれて

います。

 

 そこには、まるで、”人生に、生きる意味など無い”と感じて

しまう程の悲惨ささえ存在します。

 それこそ、”神も仏もあるものか!”と思う人々もいましょう。

私自身も、かつて、そう思ったことが、何度かありました。

 でも、正直申しまして、その度に、何か偉大なる存在の導きと

支援を感じました。

 それゆえ、人生には、すべての人々にとって、生きるだけの意味や

価値があると思うのです。

 

 例えば、チャールズ・チャップリン(1889~1977:下の写真)は、

人生について、こう語っています。

 「人生は、恐がりさえしなければ、素晴らしいものになる。

人に必要なものは、勇気と想像力。

 それと、ほんの少しのお金だ」と。

 確かに、私たちには、この、「勇気と想像力」が求められる

思うのです。

 

         Photo_20200404145401

 

    Photo_20200404145501

             (第一線を退いたチャップリン、

                   右は、マハトマ・ガンディー)

 

                                【つづく】

       

 

 

 

 

    

 

2020年4月 6日 (月)

地獄をさ迷う亡者たち(156)

        むすびにかえて【3】

 

 このような国民の窮状に対して、永田町の政治家の面々は、

全くの脳天気。

 彼らにとっては、すべての悲惨極まりない状況が、まるで

別世界、別次元の事柄のようです。

 しかし、このような不条理が許されるはずもありません。

今、国民生活は、まるで昭和初期を思わせるような不安や不満が

充満しています。

 

 昨年初め、札幌で、思いもよらないガス爆発事故がありました。

しかし、実は、日本社会全体に、全く想像を遙かに超えるような

突発的惨事が起こりかねない状況です。

 実際に、こう書いて、4ヶ月も経たないうちに、世界は、

「コロナウィルス騒動」へと、大変換しました。

 無論、決して、不幸な状況を望むものではありません。

しかし、正直なところ、山積する諸問題に対する、現政権の

余りのいい加減さが、国民を心底怒らせる日も、そう遠くないと

感じます。

 

 とりわけ、「今だけ、カネだけ、自分だけ」に加えて、

「この世だけ」と、多くの人々が考えるようになりますなら、

その社会こそ、まさに、真の”地獄”です。

 そこでの私たちは、『蜘蛛の糸』のカンダタが、自分だけ

極楽に昇ろうとして、後続者がすがりつく蜘蛛の糸を断ち切った

瞬間、地獄に、再度落ちた姿を、決して笑うことはできません。

 

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                                         (地獄図)

 

 他者への愛と信頼、深い反省と改心、それに感謝と報恩なしに、

私たちが、天国(あるいは、極楽)に昇ることができないのは、

まさに、普遍の真理だと思うのです。

 

 「天国」に関する寓話の一つに、次のようなものがあります。

天国での食事は、人々が、非常に大きな円卓で、とても長い箸を

使って行われるとのことです。

 箸が、余りにも長いものですから、それで食べ物をつまんでも、

自分の口にまで、持って行くことができません。

 むしろ、それを自分の向かい側に座った人の口にまで、運んで

上げなければなりません。

 その代わり、誰かが、自分の口に、食べ物を運んでくれるという

のです。つまり、そこは、決して独善的な、「個」の世界ではなく、

むしろ、協力・共助で成り立つ世界だと言うのです。

 まさに、天国とは、単に静寂の「無」の世界ではなく、むしろ、

人々が、生き生きとして、共に支え合い、助け合う世界なのだと

思うのです。

 

 とりわけ、われわれの人生において、愛、ありてこそ、人間の

すべての言葉が意味を持ちます。

 また、愛、ありてこそ、われわれ一人ひとりの行動が、温もり

を持ちます。

 愛は、時に光となって、人の心に温かく射し込み、豊かな温もり

となって、他者(ヒト)の心を優しく包み込みます。

 それは、虹色の光輪となって、多様な世界を一つにします。

 とりわけ、愛、ありてこそ、われわれの生きる意味があり、

また、愛、ありてこそ、あらゆる生き物が、自らの生を全うできる

と思うのです。

 

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 因みに、イエス・キリストは、当時の人々に、神の愛

(アガペー)と隣人愛を説きましたが、イエスご自身が、

”愛そのもの”だったのではないでしょうか。

 

  Photo_20200403151101

 

 仏陀は、他者(ヒト)への慈悲(慈しみとあわれみ)を説きましたが、

仏陀ご自身が、”慈悲そのもの”だったのではないでしょうか。

 若い頃読んだ書物に、仏陀が、病床の弟子を、自ら見舞い、心を

込めて看護したという、何気ないエピソードが書かれていました。

 私たちは、唯、ひたすら端座瞑想する仏陀像を想像しがちですが、

悟りを得た後の仏陀は、一人の人間として、自ら説かれた慈悲の実践に

生きられたと思います。

 でも、それらの生き方を、われわれも、じゅうぶんできることを、

両師は、教えて下さっています。

 

 また、近年、「癒やし」という言葉が、よく使われます。

しかし、人は、他者(ヒト)に愛されることによって癒やされるのでは

なく、むしろ、他者(ヒト)を、真心から愛することによって、

癒やされるのではないでしょうか。

  つまり、癒やしは、何かを与えられるこによって得られるものでは

ないと思います。

 むしろそれは、自ら、大切なものを、他者に惜しみなく与えること

によってのみ、実現されると思うのです。           【つづく】 

 

 

 

          

 

 

 

 

 

 

 

2020年4月 4日 (土)

地獄をさ迷う亡者たち(155)

        むすびにかえて【2】

 

 この病(やまい)は、われわれにとって、肉体的な疾病で

ある癌や心臓病、それに脳障害などよりも、遙かに根深く、

かつ重篤な『国民病』です。

 言うなれば、われわれ日本人は、未だ「GHQの亡霊」から、

自己を解放できない、”精神的な奴隷”の状態です。

 

 もし、自分を一人前の人間だと自負するのならば、自らの奴隷状態

に、もっと目を注ぐべきでしょう。

 そうすることによって初めて、私たちは、一人前の人間に脱皮できる

のだと思います。

 また、この脱皮こそが、後世の子孫たちに対して果たすべき喫緊の

課題だと思うのです。

 

 ところで、日本の戦後史において、「宗主国」アメリカに、堂々と

もの申した総理大臣がいるとすれば、それは、石橋湛山(1884~

1973:  下の写真)でしょう。

 総理在職期間は、67日間と、極めて短期間でしたが、決してアメリカ

を怖れなかった彼の思想と行動には、私たちが学ぶべき点が、多々

あります。

 本来、日蓮宗の僧籍を持つ彼が、特に晩年、キリスト教の『新約聖書』

の言葉を愛用しているのも、実に興味深いところです。

 

     Photo_20200402151401

 これには、彼が旧制甲府中学在学中に、同校の校長だった

大島正健(おおしま まさたけ : 札幌農学校で、クラーク

博士の薫陶を受けた一期生の一人:1859~1938:下の写真)

の影響を受けたことが考えられます。

 

     Photo_20200402151801

 

 石橋が、16年間の療養生活中、彼を見舞いに訪れた人々に、

その不自由な左手で、好んで書いた揮毫は、明日を思い

煩う勿れ !」(マタイ第6章)でした。

 そこには、すべてを天に委せようという、「無為自然」

境地が窺えます。

 

 また、この言葉の他に、彼が好んだ聖言があるとしますなら、

これは、あくまでも私の憶測ですが、それは、次のようなもの

だったのではないでしょうか。

 つまり、「体を殺しても、魂を殺せない人たちなどを怖れては

なりません。

 そんなものより、魂も体も、ともにゲヘナ(地獄)で滅ぼすこと

のできる方を怖れなさい」(マタイ第10章)というものです。

 

 まさに、今日の、稀代の悪政を批判し、それに対抗する怖れ無き心

(fearlessness)こそが、私たちに求められるのです。

 加えて、今日の「社会的格差の問題」は、それが、世界的なもので

あると同時に、非常に根の深い社会問題です。

 それゆえ、このまま放置しましたら、全く取り返しのつかない惨状

なると思います。

 

 かつて、日本は、「一億層中流社会だ」と自負した時代がありました。

でも、それは、もはや過去の話です。

 現在は、ごく一部の富裕層を除いて、まさに、”一億総下流社会”の

様相を呈しています。

 日々、満足な食事が得られず、常にお腹をすかせた子供たち、

「正社員」への道を固く閉ざされ、非正規社員という、極めて不安定な

立場にあえぐ若者たち、転職や再就職もままならず、将来や老後に

希望の持てない中年層、それに、年金の目減りに不安を感じ、今後の

生活など真っ暗だという高齢者たちなど、世代を問わず、国民の生活

は、日に日に厳しくなっています。

 

 この厳しい状況の中で、私たちは目下、コロナウィルスの問題に

直面しています。

 そして、その背後には、世界的な規模での”経済崩壊”が、頭を

もたげているのです。 

 

   Photo_20200403090101

               (ブログ「さいたま子供食堂」より、拝借)

                                    【つづく】             

 

 

 

 

 

2020年4月 3日 (金)

地獄をさ迷う亡者たち(154)

        むすびにかえて【1】

 

 このまま(あるいは、今のまま)では、日本が滅んでしまう、

という切迫した危機感が、本ブログ(=本著)を上梓した主たる

理由です。

 今日、アベ政権は、戦後日本の平和の礎(いしずえ)である

『日本国憲法』の精神を徒に踏みにじり、不当なる「閣議決定」

の名の下に、戦後、日本人が営々と築き上げてきた民主主義を、

傍若無人に破壊して来ました。

 

    Photo_20200401130701

 

 実際、アベ政権による政治の”私物化”は、今も、止まることを

知りません。

 公文書の改竄、隠蔽、捏造、それに官僚による忖度など、

現代政治の悪習は、益々露骨、かつ悪質なものになっています。

 極めて不幸なことに、今日の最低・最悪の政権に対して、

コロナウィルスの感染という、今世紀最大の難題が襲い

かかっています。

 

 しかし、アベ政権は、この難問を”悪用”して、自らの暴政・

悪政、さらには政治・経済政策の大失敗を、すべてチャラにし、

日本を、憲法改悪に至る”緊急事態(あるいは非常事態)国家”に

しようと画策しています。

 誰の目にも明らかなように、彼の発する「緊急事態宣言」は、

いつの日にか、「非常事態宣言」に変貌し、憲法改悪のための

好都合な'呼び水”となりましょう。

 しかし、このような狡猾な策謀を、決して許してはなりません。

 

   Photo_20200401132101

 

 この大問題を喚起しなければ、決して後世の人々のためにならない

という、強い確信が、この度の起筆の背景にありました。

  今日のアベ政権は、余りにも傲慢不遜、無知蒙昧、不正、不義、

不道徳の代物です。

 これほど悪辣で腐敗した政権は、日本の憲政史上、まさに

初めてです。

 

 しかし、彼らの背後には、ジェラルド・カーティス、ヨゼフ・

ナイ、リチャード・アーミテージ、カート・キャンベル、それに、

マイケル・グリーンといった「ジャパンハンドラーズ(日本を

裏で操る者たち)」がいることも、決して忘れてはなりません。

 

    Photo_20200401133901

 

       Photo_20200402221901

                                                                        (ネットより、拝借)

 

 因みに、「反吐が出る」という言葉があります。

でも、政権の在り方に関して、余りにも呆れた事が多すぎますと、

反吐も出尽くして、その反吐さえも出なくなる時があります。

 私にとりまして、今がまさに、その時 !です。

 私は、少年期には岸信介に、また、青年期には佐藤栄作に、

さらに老年期には、安倍晋三に、全く同様な反吐を感じました。

 まさに「反吐のホップ、ステップ、ジャンプ !」といった

ところです。

 

     Photo_20200401134801

        (「巣鴨」から出獄直後の岸信介と、

               彼の実弟・佐藤栄作)

 

 私は、決して人間嫌いではありません。

でも、どうしても、この御三方を好きになれません。

 私は、彼らに、全く同じ匂い、つまり同様の臭みや

嫌味を感じるのです。

 それは、理性や感情以前の生理的な嫌悪感を伴います。

 無論、政治、あるいは政治家について、単なる好き嫌いで

論じることは、決して褒めたことではありません。

 

 でも、この三者に、”売国の匂い”を感じるとしたら、話は

別です。その観点からの検証や思索は、大いにすべきでしょう。

 今回、佐藤栄作は、本ブログの対象にはなっておりません。

でも、彼もまた、”同様の人物”なのだと思います。

 戦前や戦中において、天皇陛下が、彼らの崇敬の対象であった

ように、戦後は、「アメリカ様」が、彼らの忠誠の対象となりました。

 しかし、日本国民も、今までの「アメリカ病」から、もうそろそろ

脱却してもいいのではないでしょうか。        【つづく】

 

 

              

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2020年4月 2日 (木)

地獄をさ迷う亡者たち(153)

終章)「津波から生還したドイツ人

     名もなき日本人善意のリレー」【6】

 

(ナレーション)「翌朝7時、東京のドイツ大使館と連絡

つき、パスポートの発行が認められる。

 一行は、無事にガソリンを入れ、長岡(下の写真)を

目指した。」

 ヨハンナの言葉です。

「これで、ドイツに帰れる。

 この時、車から見た景色は、一生、忘れられないでしょう。

 

   Photo_20200331133801

 

 そして、ドイツに帰国した私は、昨年7月、結婚式を挙げました。

 両親に、このウェディングドレス姿を見せられたのも、すべては、

あの日、私たち家族を助けてくれた日本人たちのお蔭です。」

 

     Photo_20200331134101

                (写真は、イメージです。)

 

(ナレーション)「去年の12月、ヨハンナさん一家は、ドイツ

のテレビ番組に出演した。

 あの日の記憶を、ドイツ中に伝え、震災復興への寄付を募る

ために。

 そして、司会者が、一家へのサプライズを告げる。

「あなたたちの命の恩人が来ています」と。

 

 割れんばかりの拍手で迎えられたのは、あの日、津波から

一家を救った庄司だった。

 あの日以来の再会、一家が出会った、名も無き日本人たち。

そこには、日本人が気づかない、日本人が秘めるチカラがあった。

 ユンゲル氏の言葉です。

「日本人は大人しいと言われますが、そんなことはないんです。

悲劇が起きた時、日本人は助け合い、行動的になる。

 

 ヨハンナの言葉です。

「”頑張って”という言葉は、日本人の祈るような思いだと知りました。

欧米のように、軽く肩を叩くのではなく、心の奥底から、『私たちは

できるんだ』という強い気持ちなんです。」

(ナレーション)「決して、自分の損得をかえりみることなく、

一人ひとりが強く、正しい行動ができる。

 私たちニッポン人には、まだまだ自分でも気づかない、大きな力が

あるのかもしれない。」                 【本番組終了】

 

    Photo_20200331140101

 

 「義を見てせざるは勇なきなり」という言葉があります。

「人として行うべき正義を知りながら、それをしないのは、

勇気のないことと同じことである」という意味です。

 ここに登場した名も無きニッポン人たちは、まさに、果敢に、

「善をなす勇気」を持った人々でした。

 でも、あらゆる理屈以前に、自ずと身体が動いたのだと思い

ます。

 それこそ、まさに、善意志の発現です。

わが国には、このような善意の人々が、数多くいます。

 「国富」とは無論、様々な経済指標で、その大小多少が論じ

られます。

 しかし、真の「国富」とは、単なる経済力だけでなく、国民

一人ひとりが本来的に持つ”徳の力”も、極めて大事だと

思うのです。                     【終章 了】

 

 

 

 

 

 

 

     

2020年4月 1日 (水)

地獄をさ迷う亡者たち(152)

終章)「津波から生還したドイツ人

     名もなき日本人善意のリレー」【5】

 

(ナレーション)「その様子を見ていたのが、外国人のサポート

をしていた羽賀友信さん(当時、61)。

 当時を振り返って、羽賀氏は言います。

「尋常じゃない雰囲気だったですね。

泣いてる。『もう、バスはないの?』って言っていたんですよ」と。

(ナレーション)「彼こそ、一家が出会った、信じ難いニッポン人

だった。」

 

 羽賀氏の言葉です。

「じゃ、いいよ。俺が責任を持って、(ドイツに)帰れるようにする

って。」

(ナレーション)「羽賀は先ず、パスポートの再発行に動いた。

けれど、ドイツ大使館(下の写真)に連絡を取るが、何度かけても

担当者がいない。

 原因は、原発事故だった。各国の大使館員は、本国や関西方面に

避難していたのだ。」

 

      Photo_20200329153201

               (駐日ドイツ連邦共和国大使館)

 

 ヨハンナは、言います。

「自分たちでは、何も出来ません。絶望でした。」

(ナレーション)「だが、そんな時!」

 羽賀氏が、言いました。「乗って」と。

 ヨハンナは、言います。

「俺の車に乗れ! 羽賀は、私たちに、そう言ったんです」と。

 ヨハンナの言葉は続きます。

「しかし、どこへ向かっているのか?

ひたすら続く時間は、不安でした」と。

 

(ナレーション)「東京へ向かう新幹線も高速道路もない。

そんな中、羽賀が向かったのは、新潟。ー

 上越新幹線(下の写真)を使えば、一家は、東京までいけると

考えたのだ。

 しかし、新潟方面へ行くのは、山形経由の峠道だけ。

その距離、200キロ。ガソリンが足りない。」

 

   Photo_20200329154201

 

 ヨハンナの言葉です。

「彼(羽賀)は、車内から、あちこちに電話し、ガソリンを

探しているようでした。

 でも、車が着いたのは、ガソリンスタンドでも駅でもない。

たどり着いた家(新潟県村山市の一軒家)が何なのか、私たち

には、全く分かりませんでした。

 嬉しい驚きは、到着するなり出て来た食事でした。

温かなトマト・スープに、炊きたてのご飯。

 もう5日間、まともに食事をしていなかった私たちにとって、

この食事は、最高のご馳走でした。」

 

(ナレーション)「一家が再び出会った4人目の信じ難いニッポン人。

羽賀の友人、松本興太さん(当時、29)と弥生さん(当時、32)

夫妻。

 事情を聞いた二人は、食事だけでなく、風呂や寝床まで準備し、

家族を待っていたのだ。」

 

 ヨハンナの言葉です。

「夫婦は、私たちのもとへ、ボトルを持って来ました。

日本の酒です。

(ナレーション)「この酒を、松本夫妻が出したのには、理由が

あった。」

 松本興太氏は、当時を振り返り、こう語ります。

「”ちょっと寄せてもらって、悪いな。・・・”というような

雰囲気を感じましたよね」と。

 奥さんも、こう語ります。

「すごく申し訳なさそうに。・・・遠慮気味でしたね」と。

 そこで、興太氏が、こう付言します。

「もう、酒を出すしかないだろうと思って。・・・

そしたら、いきなり、一気にどんどん呑んでいましたけどね」

と。

 

    Photo_20200329160001

 

 ヨハンナの言葉です。

「私は、地震に遭ってから初めて、あんなにリラックスした

父を見ました。とても嬉しかった。」

 ユンゲル氏が、その時のことを思い出して、語ります。

「とっても美味しいお酒でしたよ」と。

 そして、彼は、こう続けます。

「『また人間に戻れた』、そう感じました」と。        【つづく】

 

 

 

 

 

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