フォト
2017年6月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  
無料ブログはココログ

« 見えざる「真理」を求めて(2) | トップページ

2017年6月16日 (金)

見えざる「真理」を求めて(3)

            Photo

       生死を超えるもの

 暗殺される直前まで、ガンディーは、決して死を怖れてはいなかった。 

彼にとって、すべては、神(ラーマ)の計らいによるものだった。 

 それゆえ、暗殺される10日前の1月20日、彼の暗殺を企てた爆破事件が 

起きた時にも、彼は、至極悠然としていた。

 

 事実、暗殺者ナトゥラーム・ゴードセー等は、拳銃による暗殺以前に、 

ガンディーの爆殺を計画し、決行した。 

 だが、それは失敗に終わり、仲間の一人マダンラル・パーワが捕らえら

れた。 

 それだけに、彼らの暗殺計画は、極めて切羽詰まったものだった。

 

 他方ガンディーは、集会に集まった人々や多くの信奉者を前に語りかけ

いる最中、かなり近くで爆発があった時も、まるで何事も無かったかの

ように話を続行した。 

 礼拝集会は、いつもの順番どおり、開会の合唱、ガンディーの言葉、

コーラン、聖書、ギーターの朗唱と続き、最後に「イシュワール(ヒンドゥー

の神々)」と「アッラー(イスラムの神)」の二つの宗教の神々に、「我ら

すべてに英知を与えたまえ」と祈り献じた。

 

 この爆破事件の実行犯、マダンラル・パーワに対しても、ガンディーは、 

何の憎しみも覚えず、むしろ彼の「勇気」を褒め称えた。彼は言う。 

 「その若者は、勇敢な戦士だ」と。そして、かつて爆弾事件を起こして、 

英国によって処刑され、民族的英雄になったバガッド・シンとマダンラルを 

同列に論じた。ガンディーは、語り続ける。 

 「彼らは、子供のようなものだ。理解力が無い。私がいなくなった後で、 

彼らは、この老人がいつも言っていた事は正しかったと悟るだろう」と。

 

 この爆破事件後、ニューデリーの警視総監がガンディーに、警備の強化

申請したが、彼は、それを固く拒否した。ガンディーは言う。 

 「私の生命は、神の御手にあるのですよ」と。そして彼は、「ラーマ(神)

だけが、私の護りです」とも述べた。 

 「たとえ、あなたが、100万人の警官で護って下さったとしても、ラーマが 

私の死を望まれるなら、誰も私を救うことはできないでしょう」というのが、 

彼の信念だった。

 

 ガンディーは、非暴力主義運動の担い手や参加者に求めたこと、つまり 

「死を怖れないこと」、あるいはそれ以上のことを、自分にも課した。 

 事実、暗殺の前日、彼は、「孫娘」のマヌに、次のように語っていた。 

「もしわたしが病気で死ぬようなことがあったら、ー  たとえそれが、小さな 

吹き出物であったとしても、おまえは屋根の上から世間に向かって、わたし

偽のマハートマーだったと叫ばなければなりません。 

 一方、もしだれかが、わたしに銃弾を発射したとき、わたしがうめき声

一つたてず、唇に『ラーマ』の御名を唱えながら、裸の胸に弾丸を受ける

ことができたなら、そのとき初めて、わたしが本物のマハートマーだったと、

言っておくれ。それは、インドの民衆にとって、よろこびをもたらすことに

なるでしょう」。 

 そして、この言葉は翌日、現実のものとなった。 

            (拙著『マハートマー・ガンディーの政治思想』より) 

 

 このエピソードの中に、ガンディーは、すでに”生死を超えていた”とは 

言えないだろうか。 

 では、「生死を超えるもの」とは、一体何だろうか?

 

 それは、一つには、「信仰」である。 

  如何なる宗教においても、それが真の信仰である限り、そこには、生死

超えて、”永遠”を感得する思いがある。 

  上記に見られるように、ガンディーには、「ラーマ神」に対する不屈の

信仰があった。これは、彼が、亡き母から受け継いだものだった。 

 ガンディーは、常に万物の中に”神”を見た。そして、神が臨在する

すべてのものを信じたとも言える。

 

 「生死を超える」二つ目は、「愛」である。 

ガンディーは、一切無辺のものを愛した。 

  上記のごとく、彼は、自分を殺そうとする者さえも許し、愛した。 

イエスの言葉の中に、「友のために死するほど、深き愛はない」というもの

がある。 

 自らの犠牲を顧慮しないところにこそ、真の愛が存在する。 

そして、まことの愛は、まさに次元を超えるのだ。

 

 そして、「生死を超える」三つ目は、「感謝」の思いではなかろうか。 

ガンディーには、この世に存在するすべてのものに対する、限りない 

「感謝」の思いがあったと思う。

 

  この「信仰」と「愛」と「感謝」の彼方にある思念こそは、”生死は一体で

ある”という思いなのではあるまいか。 

  この思いに立てば、人は、何も怖れるものは無くなる。 

事実、深く思念すれば、人は”生死が一体”であることを実感しよう。

 

 そこでは、死は、決して忌まわしいものではなく、むしろ、ごく当たり

前の、厳然たる事実として存在するものなのだ。 

 事実、死は、如何なる形であれ、実におごそかなものである。

 

 ガンディーの”生死を超える思い”の中には、そのような、死を少しも

怖れず、堂々とそれを甘受するだけの深い信仰と、限りない愛と感謝

の念があったと思う。 

  その生死を超えた彼方に、私たち(厳密には、私たちの魂)は、絶対的

愛を感じ、限りない”光”を見出すのではないだろうか。 

  つまり、そこで、私たちは、内的に愛を感じ、外的には、光を見ること

になる。

 

  いや、愛と光とは、むしろ、その本質上、全く同じものなのではあるま

いか。 

 その”真実”を実感した私たちの魂は、”感謝”の思いで一杯になると

思うのだ。

 

 有り体に言うならば、私たちの”魂”自体も、実は、その本質において、

この愛や光と同じものなのだと思う。 

  しかし、実に不幸なことに、私たちは、自らの心の目が閉ざされている

ために、その”真実”を知らないのだと思うのだ。

 

 だが、ガンディーは、その聖なる”本質”を、十全に理解していたと

感じる。 

 それゆえに、彼は、自らの肉体の死を、何一つ怖れることはなかった

のだ。                                 【了】

 

 

« 見えざる「真理」を求めて(2) | トップページ

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

Links