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2014年11月10日 (月)

『命こそ宝』(3 )

 

「経験、この人間的なるもの」という言葉があります。

我が若き日の師・清水幾太郎が、こよなく愛した言葉です。

  清水先生は、何よりも、人の持つ”経験”を重視しました。

そして、単なる観念や、その遊戯を嫌いました。



  阿波根氏の言葉を跡づける時、私は“経験の重み”を感じずにはいら

れません。

 そこには、真に戦争を知る者、とりわけ戦争の残虐さと悲惨さを知る人

の尊さがあります。

  今日は、戦争を全く知らない、無論、経験したこともない者たちが、余り

にも安直に「集団的自衛権」などという戦争に直結する大事を云々して

るのではないでしょうか。

  私には、語る資格無き者が、余りにも軽々に戦争を論じている気がして

なりません。



  われわれは今、改めて、戦争の惨(むご)さを知る阿波根氏の言葉に耳

を傾ける必要があるのではないでしょうか。

  同氏は、次のように語り続けます。そこには、愛息を亡くし、多くの同胞

を失った人の悲しみや無念さが溢れています。



  命を粗末にする

  戦争中、わしらはあまりにも命を粗末に考えておった。二度と戦争を

おこさないためには、何よりも命を大事にすることである。

戦後になって、非常に反省しました。 

  戦前は「命は鴻毛(こうもう)より軽し」とかいって、死ぬのが国のため、

命を惜しむものは国賊だと信じさせられていた。 

  敵に生け捕りされるのは不名誉、だから集団自決といって、自分たちで

殺し合う。そしてそうすれば靖国神社に祀(まつ)られて神になる。


            Photo



  こんなことを教えられて、愚かにも信じていたのです。それにもし、生き

残りたいと思っていることが軍にわかったりしたらすぐ殺されると思って

おりました。 

  その頃はもう、死ぬ死ぬばっかりですよ。死ぬ死ぬと言うのが習慣に

なっていた。



  「鬼畜米英」といわれましたからね、わしらは本当にそう思っていた。

米軍に生け捕りにされたら、耳を切られたり鼻を削(そ)がれたり、ひどい

目にあわされて最後は殺される、そういう話でしたから、誰でも自分の

可愛い息子や娘がそんな目にあったら大変だと思う。

 

  だから親が子どもを殺す。子どもは死にたくないから逃げる、それを

父親が追いかけていって首を絞めて殺す。鎌で切り殺す。こんな悲惨な

ことがあちこちでおこった。

  伊江島にはアハシャガマ(*下の写真)という大きな洞窟があります。

ここでは、一五○人の島民が集団自決をした。 

  『伊江村史』には四月二二日頃のことと書いてありますから、戦闘が

終わった翌日でありました。
 

 

           Photo_4



  また島でただ一か所真水がでる、湧出(わじー)という、いまでは景色

のいい観光地になっているところがありますが、その断崖からたくさんの

人たちが身を投げた。

 

  日本軍守備隊は玉砕を命じて降伏を許さなかったから、日本軍に殺さ

れた人たちもおりますが、これだけの人たちが死んだのは、わしら自身が

命を粗末にする考えからぬけだせなかったからである。

 

  一人息子を死なせてしまう




  わしのたった一人の息子も、わしが殺したようなものです。
 

沖縄戦がはじまろうというとき息子は東京にいて、わしの弟が沖縄は危険

だから東京においた方がいいというのに、もう今度は死ぬんだから、

一度顔を見て、一回だけでも御馳走を一緒に食べて、それから死んだ方

がいいといって、伊江島まで呼び寄せた。 

  息子はわしに会ったあと、まだ兵役年齢にもならないのに現地召集で

兵隊にとられ、沖縄本島で戦死しました。 

  那覇の北、浦添(うらぞえ)のあたりだというのですが、はっきりしたこと

はわかりません。遺骨もありません。



  沖縄戦で二○万の人が死んだということは、つらい思いをかかえた人

たちがそれほどにもいるということである。つい昨年にも、沖縄ではこんな

ことがありましたよ。

  自分の夫と息子が殺された八○歳になるおばあさんが本土から来て、

息子が死んだという場所で、誰もそこに来てはいけないと人を遠ざけて

一時間もそこで泣いておった。こういうことが二度とあってはいか(け)

ない。





  「島ぐるみ闘争」の中で考えたこと

 

  わしらは、世界中は「鬼畜米英」、「日本は神の国」と教えられて、こんど

の戦争は聖戦である、世界平和のためである、日本が世界を支配しない

とほんとうの平和はこない、そう信じさせられ、服従するだけだったのです

が、戦争が終わってからはじめて考える人間になったわけですね。

  最初はアメリカとはすばらしい国だと思った。死んだ母親のそばに

赤ちゃんがいると、これを助けてミルクを飲ませる。一人も虐殺しない。

 

  米軍に占領されたあと、捕虜となったわしら島民は、まず慶良間島に

移され、それから転々とさせられて、ようやく一九四七年三月に故郷に

帰りついたのでありましたが、当時は米軍の善意を疑うことはなかった。

もう戦争は忘れよう、平和に生活を営もうと農業に精をだしていました。




            Photo_2



  ところが、米軍はひそかに基地をつくる準備をしていた。準備をして

おいて、朝鮮戦争が終わった直後の一九五五年、米軍は完全武装して

きて土地をとり上げた。 

  この土地がなくなると生活できないと、手を合わせてお願いする農民を

縛り上げて半殺しにする。 

  ガイディアという米軍の隊長は、わしらにこういいましたよ。「この島は

アメリカ軍が血を流して日本軍からぶんどったものである。きみたちには

何の権利もない、イエスもノーもない」。そういって、家を焼き払って

飛行場・演習場にしてしまった。

          Photo_3

  わしらは驚き、怒り、途方にくれた。どうしたらいいのか、米軍に陳情する

とともに、琉球の立法院や政治家、教会やお寺、大学の先生などに助け

を求めました。 

  だが、らちがあかない。最初、わしらの基地反対の島ぐるみ闘争は

てさぐりではじめるしかなかったのであります。 

  この闘いのことは、岩波新書『米軍と農民』(一九七三年刊)に詳しく

書きました。                             【つづく】 

 

 

 

 

 

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