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2014年9月 5日 (金)

『内気な天使たち』(1 )

  沖縄在住の慈愛深い教育者

  K先生に捧ぐ

  今から17年前、私は、東京都内の養護学校(最近の

言葉では、「特別支援学校」)の中学部で1年間、現場の

先生方のお手伝いをさせて戴きました。

  この度の拙稿『内気な天使たち』(*原稿の内容は、

ほぼ当時のまま)は、その時感じた思いを記したもの

です。どうか、よろしくご高覧ください。


 はじめに


 すでに半世紀ほど前のことになるが、明日から中学3年生になるという

夜、私は、なかなか寝付けなかった。「受験生」という言葉の重みに、

過度に興奮し、かつ緊張していたせいである。私は、まさに生徒数が極端

に多い「団塊の世代」の一人だった。

 

  私には、中学3年生になる甥がいる。彼は、バスケットをこよなく愛する

スポーツ少年(最早、青年かな?)だ。身長は、1メートル80ほどだ。 

  学業成績も程々で、級友たち(特に、女生徒たち)に、かなり人気がある。

とはいえ、彼は、どちらかと言えば寡黙な方で、彼女たちの思慕や情熱に、

余り関心を持とうとはしない。それがまた、彼のいい所なのかも知れない。



  「十五の春」という言葉が言われて、すでに久しい。中3で卒業するまでの

熾烈な受験戦争の激化を表現した言葉だ。そこでの人間性の喪失や希薄

化を象徴した表現でもある。偏差値教育や内申書による受験競争の歪みで、

いじめや校内暴力などの問題が極めて深刻化している。同時に家庭教育、

特に「父親」による教育不在も問題視されている。 

  神戸での陰惨な小六殺害事件(*世に言う「酒鬼薔薇聖斗事件」)の犯人

も、中学3年生だった。何が彼をそうさせたのか?  識者の見解もまちまち

で、未だ納得のゆく見解は無い状態だ。

 

  その他、集団で一人の社会人を殺害した中3や、ニュースになるだろうと、

グループで学校の兎たちを殺した中3、一人暮らしの老人を殺害した中3の

女生徒たち、さらには、自分の父親を、友達と共謀して殺した中3など、何か

が狂っているとしか思えない事件が続出している。

 

  無論、中3だけが問題なのではない。それは、もはや学年を問わない。

中1生の、ナイフによる女教諭殺傷事件、中2生による同級生殺害事件な

どもあった。少年犯罪は、益々低年齢化し、かつ凶悪化している。 

 

   江戸時代の「十五」といえば元服で、一人前の大人として扱われた。

だが、今の15歳は、身体は大人でも、精神的に未熟なイメージがつきまとう。 

  勿論、様々な15歳の青春があり、十把一からげにはできない。中には

精神的に成熟した中3もいるだろうし、純粋さを保持した15歳もいよう。

 

  ここに、同じ「中学3年生」がいる。東京都内にあるT養護学校の生徒たち

だ。彼らは、様々な知的障害児たちである。 例えば、脳性マヒ、自閉症、

癲癇症、ダウン症など、色々な生徒たちがいる。

 

  本稿は、彼らと身近に接してまとめたエッセイである。これを、彼らと

彼らの御父兄、それに彼らを指導された先生方御一人御一人に献呈し

たい。 

  とりわけ、沖縄在住の慈愛深い教育者K先生に、心からの尊敬と感謝を

込めて、本稿を捧げたい。

 

 

   第一章  エヴリワン・イズ・スペシャル 

        (「みんなが、かけがえのない存在」) 

     初めての体験ー希望と驚きー(一学期)

 

 

   幼い手のぬくもり 

 

  朝8時45分、生徒たちが、学校から手配されたスクールバスで登校する。 

手足の不自由な子、頭にプロテクターを付けている子、一人でバスに乗っ

たり降りたいできない子など、様々な生徒が集う。

 

  初めてのことでびっくりしていると、誰かが、そっと私の手を握ってくれた。

そこには、柔らかい幼児の手があった。 

  余りの人混みなので、男の子なのか女の子なのか、それさえ判らなかっ

た。子供のいない私には、殆ど初めてのことで、思わずハッとした。慌ただ

しい雑踏の中で、私の手をそっと握ってくれた幼い手が、何かしら、これか

らの学園での、温かく血の通った経験を予感させてくれた。

    Photo


  初日の驚きや感動以来、私も先生方に交じって生徒達を出迎えた。

生徒達は、各々四つのコースから登校する。生徒は、小学1年生から

中学3年生までの生徒たちである。大体リュック姿の子が多い。

 

  バスが到着して、一人ひとり降りてくるが、素早く動く子や緩慢な動きの

子など、様々である。 

  こちらから、「お早うございます」と挨拶するが、半分以上は無視される。

無視というより、挨拶として認識していない感じだ。 

  中には、「キー!」と、まるでお猿のような声(というより音)を出す子も

いる。他には、入口で横になって、むずがっている子もいる。まるで

”「高崎山」ではないか!”、と思うことさえある。だが、挨拶を無視されるこ

など、気に懸けてはいられない。 

 

  今日(4月18日)は、ダウン症の軽部次夫君(2年生・仮名)に、「お早う

ございます」と言うと、彼は、何と貴族の令嬢が、舞踏会に出席した時の

ようなポーズをとった。 

”ひじょうに不思議な世界だな”と思った。彼らには、われわれが、一体

どのように映っているのだろうか?「学校」という意識はあるのだろうか?

 

  私には時々、生徒の一人ひとりが、何か途方もない役者のように思える

時がある。 

 そのような場合、われわれは、単なる観客や傍観者でいいのだろうか。

それとも、彼らと共演する、もう一人の役者になるべきなのだろうか。



  だが実際は、彼らは、何も演じてはいない。あくまで、自然に、自分の欲

するままに振舞っているのだ。その意味では、彼らは「自然児」だ。その彼

らの心を少しでも理解するために、われわれは、偏見や固定観念を捨て

なければならない。そして、出来る限り「子供の心」にならなければならな

いと思う。 

  初日に、私の手をそっと握りしめてくれた幼い手のぬくもりは、その「初心」

忘れてはいけないことを、私にそっと教えてくれたような気がする。

                                         【つづく】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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