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2014年9月16日 (火)

『内気な天使たち』(8)

    木製の時計

 

  T養護の生徒には、「時間の観念」はないように思える。「時間」だけで

なく、「空間」の観念さえないのではなかろうか。大袈裟に言えば、むしろ

彼らは、時空を超越している。

 

  例えば、今、何時とか、何時から何々をするとかいう思いはないようだ。 

A組の教卓に、木製の時計が置いてある。だが、時計といっても、実際に

時を告げる時計ではない。あくまでも教材で、「時刻の読み方」を教えるも

のだ。

 

  小山先生の言では、「一時半を指してごらん」と指示しても、彼らは、

一時十五分を指したりするとのこと。 

  確かに、或る日も、小山先生が富田君(仮名)に「一時半(=下校時刻)

を指してごらん」と言われた。だが、彼は、何と十時半を指したのだ。 

 

  われわれも、小学二年生の頃だったか、大きな時計の模型を使って、

「時刻」の読み方を教わった記憶がある。 

  初めは結構難しいと思ったが、どうにかこうにか「時刻」を読めるように

なったことを思い出す。

 

  だが、本校の生徒たちは、時間など、どうでもいいのかも知れない。

私たちこそ、余りにも「時間」に囚われ過ぎているのではないだろうか。

まさに、時間の奴隷である。 

  森での生活を愛したJ・J・ルソーは、敢えて時計を使わなかったという

けれど、彼らは、「ルソー」そのものなのだ。 

  あるいは、その「自然性」と〝雑念の無さ”において、ルソーをはるかに

超えているのかも知れない。

 

  ルソーと言えば、彼の名著『エミール』を思い出す。若い頃、感動しつつ

読んだ記憶がある。だが、カントの人間観に多大な影響を与えたルソー

でさえ、「教育」の対象に知的障害児を考えることはできなかった。 

  彼の教育の対象は、あくまで或る程度の知的水準や生活レベルを合わ

せ持つ若者たちに限られていた。

 

  多分、ルソーには、障害児教育は無理だっただろう。彼の代表的な革命

理論は、ある種のエリート理論でもあるからだ。 

  ルソーよりも、マリア・モンテッソーリ(*下の写真)やルドルフ・シュタ

ナー(*下の写真)の方が、はるかに障害児教育に理解を示すのでは

なかろうか。

 彼らの方が、ルソーより遥かに幼児に親しみ、時空を超えた自由な発想

ができたからだ。       

 

Photo

 

 Photo_4
 

 障害児教育には、何より自由な発想が必要だと思う。杓子定規にことを

運ぼうと しても、そこには自ずと限界があるのではなかろうか。

 つまり、障害児自身が「時空」を超えた自由な自然児であるからだ。

そこは、思わぬハプニングの連続なのである。

 

  だが、これは、日本の教育全般に言えることではないだろうか。われわれ

は、余りにも伝統や規則といったものに拘束され、「時間」に囚われ、真の

「自由」を見失っているように思える。 

  A組の木製の時計を見やりながら、私は、ついそのようなことを考えて

いた。

 

 

   給食

 

 

  A組では、明(あきら・仮名)が、黒板に給食のメニューを、絵に描くのが

日課だ。

 小山先生が、「はい、今日は、サンドイッチにポテトのシチュー、それに

牛乳」と指示を与えられると、明は、それらしい絵を黒板に描く。彼は、

なかなかの画家ぶりだ。

 箸やスプーンを描くのも忘れない。 ナポリタンなどの絵は、唯、ぐるぐる

円を描く感じだが、いつの間にかそれに似た形になる。

 給食は、みんなの楽しみだ。定刻には、小六の生徒と中学のみんなが

食堂に集う。他の学年は、教室で食べる。



  午前中の授業が終わった頃、給食室の方から、お昼のおかずの匂いが

漂ってくる。今日は、カレーうどんだ。

  生徒が一人ひとり、牛乳や小皿に盛られた大学芋、それに漬物やカレー

うどんをトレーに載せてテーブルへと運ぶ。

  中には、エプロンを掛けている生徒もいる。両手を使って食べられない

生徒もいる。

 女の子でも、口の周りををくわんくわんにしている子も多い。まるで

赤ちゃんの様な感じだ。

             

Photo_3

  先生が、調理用のハサミで、うどんや漬物を、生徒が食べいいように

切って下さる。最初、それを見た時、何事か!と思った。

  ひと並びのテーブルに一人、「イタダキマス」と号令をかける生徒がいて、

それと同時に食べ始める。

  安達君が同じ物だけを無心に食べている。すると「他の物も一緒に食べ

ないと駄目じゃないか!」と、加藤先生の叱責が飛ぶ。言葉はきついが、

どこか愛情を感じる。



  他の生徒の中にも、老人のように歯の噛み合わせが悪く、殆ど飲み込む

感じの子がいたり、両手を使わず、片手だけで食べようとする子がいたりと、

実に様々だ。

 晴男なども、唯、うどんをズルズルと飲み込むような感じで、殆ど噛んで

いないようだった。

  ゆりとすみこも、なかなか食が進まない。中村先生が、小さく刻んで彼女

たちの口に運ばれる。ゆりは、水さえ一気に飲むことができない。

  牛乳も消化できないので、殆ど手つかずの状態だ。彼女たちは、栄養分

をどうやって確保しているのだろう?  と些か心配になる。

  人間にとって、「食べる」ということは、本当に大切なことだ。彼らを見て

いると、それをつくづく感じてしまう。



  エプロンをつけている陽介君(仮名)には、土屋先生が付きっきりで食べ

させておられた。私はかつて、死の床に伏していた祖父や義母、それに

入院中の妻の口許に食べ物を持っていったことはあるが、中三の生徒が

エプロンをしている口許に、先生が食物を運ばれる姿を見たのは、今回が

初めてだった。

  それは、明らかにショックだった。だが、こういった子たちが、実際いるの

だということを深く認識できて、本当によかったと思う。     【つづく】                    

                    (*明日・水曜日は、お休みします。)

 

 

 

 

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