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2014年9月 8日 (月)

『内気な天使たち』(3)

  エヴリワン・イズ・スペシャル(「みんなが、かけがえ

のない存在」)


  私事だが(また、すでに述べたことだが)、1993年8月から2年間、家内と

私は、ハワイ(ホノルル)に滞在した。 

  私は、ハワイ大学のマツナガ平和研究所の客員研究員として、「マハト

マ・ガンディー」の研究に専念した。 

  当地での2年間は、われわれにとって、まさに”黄金の時”だった。 

われわれは、様々な行事や催し物を見聞した。そして、いろいろな会合に

も出席した。来布後初めて見たアロハ・フェスティバルも、その一つである。

 

  私たちは、同フェスティバル最大のイベント、花のパレードを見た。 

午前9時半、アラモアナ公園をスタート。カラカウア大通り(ワイキキのメイ

ンストリート)をカピオラニ公園(ダイアモンドヘッドの近く)までパレードする。 

  そこでは、老若男女、人種、民族を問わず、各自が各々の持場で、思い思

いに自己を表現しながら行進する。全員参加のパレードだ。

 

  それに、マウイ島を始め、ハワイ島、カウアイ島など、オアフ島以外の

島々からも参加者があり、各島のクイーンやプリンセスと呼ばれる女性

たちが、レイを首に掛けた名馬に跨って前進する。 

  巨大なフロート(日本で言う山車)の上では、ポリネシアの若い女性たち

が愛嬌を振りまく。口々に「アロハ(こんにちは)」の挨拶を交わしながら。

          Photo


              Photo_2


              Photo_3


   ハワイでは、小学校の頃から、”エヴリワン・イズ・スペシャル(「みんな

が、かけがえのない存在」)として教育される。小さい頃から、色々な子供

と分け隔てなく触れ合う。 

  まさにハワイは「人種のるつぼ」、最近では「サラダ・ボウル」、そして

東西文化融合の地といった感がある。

 

  それに当地では、老若男女、貧富、健常者、障害者、人種、民族、宗教、

髪の毛や肌の色を問わず、みんなが平等に扱われる。そんな感じが、

パレードのあちこちに漲っている。 

  それぞれが、自らの民族、文化、そして生き方に誇りを抱いているという

感じだ。 

 花のパレードは、どのような状況にあれ、自分や自己の文化に誇りを持

つことが、如何に大事かということを看取できる、堂々としたパレードだ。



  ホノルルは、「レインボーの街」と呼ばれる。七色の虹は、それぞれに

平等に自らの色を競い合い、各々が互いになくてはならぬ存在だ。 

  教育も、このような平等観に裏打ちされたものであるべきではなかろ

うか。 

 また教育の原点は、このような平等な個々人の「誇り」を育むことなので

はないだろうか。

 

  しかし、今の日本の教育では、そういった平等観も「誇り」も生み出さない。 

むしろ差別や選別、それに人間としての「誇り」さえ奪いかねない現状だ。 

  改めて、「エヴリワン・イズ・スペシャル」の意義を強く感じてしまう。

 

   だが、ここT養護では、この「みんなが、かけがえのない存在」という意識

が、教職員一人ひとりの心の中に存在しているような気がする。 

  小一から中三まで、それこそ色んな「個性」を持った子供たちがいる。 

脳性マヒや癲癇質の子、身体的な障害を背負った子や言語障害の子、

自閉症並びにダウン症の子など、実に様々である。

 

  世に言う健常者や自ら「健康」だと自負するわれわれは、言葉を発したり、 

歩いたり走ったり、用便したり、考えたり、時には怒ったりすることなど、

当たり前のことだと思っている。 

  だが、そのような事が当たり前ではない生徒もいるのだ。一人でトイレに

行くことはおろか、自分一人で用が足せない子や、階段を昇ることやミキ

サーのスイッチを押すことさえできない生徒がいるのである。

 

  人間にとって基本的な「行住坐臥」という行為がままならない子供たちが

いるという事実は、私の教育観や人間観を根底から覆すのに十分だった。 

  この子供たちを前にして、私は、何も出来ない“無力な自分”を強く感じ

ないわけにはいかなかった。私には唯、彼らの側にいて、彼らの手を握っ

て上げることしかできなかった。

 

  「教育」とは、単に「教える」ことではなく、彼らを「育てる」ことでなければ

ばらない。実は、そうすることで、先生自ら人間的に「育つ」ことにも繋がる。 

  教育とは、キャッチボールであり、コミュニケーションでもある。単なる

一方的な情報の「伝達」は、決して教育とは言えないのではあるまいか。

 

  私は長い間、学校教育に関して、一つの変わらない”信念”があった。 

それは、「教育の主人公は、生徒や学生一人ひとりである」という思いだ。 

  だが、この言葉は、生徒や学生を甘やかしたり、彼らに迎合する気持ち

から言うのではない。 

  先生は、彼らの成長・発展を促す肥料のような存在だ。育つべき花や

樹々は、生徒や学生なのだ。先生は、肥料だから、時には「クサイコト」

も言う。そして、彼らの成長と共に、いつかは忘れられる。 

  この教育の「主人公」という思いこそ、「エヴリワン・イズ・スペシャル」で

言う“かけがえのない存在”ということではなかろうか。

          Photo_4

  T養護の先生方に感じる明るさと忍耐強さは、そういった子供たちへの

愛情なしには考えられない。教育は、まさに「愛と忍耐」によって成り立つ。

私は、本校の先生方ほど明るく忍耐強い先生方を知らない。

 

  普段、障害児教育は、普通教育よりも下に見られる。だが、そもそも

教育に「上下」は無い。むしろ障害児教育ほど難しく奥の深い教育は無い

のではなかろうか。 

  でも、或る言葉を心から理解すれば、その困難さは半減する。つまり、

その言葉こそ、「エヴリワン・イズ・スペシャル(みんなが、かけがえのな

い存在)」という言葉である。                    【つづく】                                 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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