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2013年11月 9日 (土)

インドの思想と日本の文化(完)

  ヒンズー教との共通点―仏教以前の日本の宗教

                          (つづき)

 

  このような生まれ変わりは人間だけではなく、熊(*下の写真)も狐も

樹木もあるいは道具すらも、それぞれをもつものであり、死ねばあの

へいき、またこの世に生まれ変わってくると日本の神道では考えられてい

ます。

           Photo_2


  しかし、日本の霊の循環の考え方には、因果応報の考えはありません。

人間は人間に、熊は熊に、樹は樹に生まれ変わってくるのです。 

  ただ、この世で善をしたか悪をしたかは、生まれ変わりの早さに影響

するだけです。 

 善人は早く生まれ変わるが、悪人はあの世にながく留めおかれるという

わけです。 

  このような思想は、世界の宗教のなかで、とりわけヒンズー教と日本の

神道に著しいようです。



  このような思想はいかなる意味をもつのでしょうか。現在の宗教学の

常識によれば、このような思想はまったく宗教の原始的発展段階に属

するものであり、世界宗教の実現とともに、とっくの昔に清算されたもの

と考えられています。 

  つまり、宗教の最高の発展段階は超越神、人格神の一神教であり、

自然神、動物神、植物神崇拝などは、まったく野蛮な迷信的な宗教であ

るということになります。


 
  しかしこれに関して私は異議があります。この見解は、やはりキリスト教

を最も発展した文明的な宗教であり、他の宗教はまだそこにいたらず、

未発達なものであるという考え方によります。

                         Photo


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  ちょうどヘーゲル(*下の肖像画:1770~1831)が、いかなる社会も発展

すればヨーロッパの市民社会のようになると考えたように、十九世紀の宗

教学者は、どのような宗教も発展すればキリスト教のようなものになると

考えたわけであります。この十九世紀の宗教学者の考えは、まだ残って

いるのです。

            Photo_4
 

  一神教が多神教より価値が上であり、超越神や人格神は、自然神や

動物神や植物神より、より聖なるものであるというのは、まだ強く残って

いるヨーロッパの学問の偏見であると、私は思います。



  私は、多くの自然現象を崇拝した多神論こそ、旧石器時代、ながい

狩猟採集時代の共通の人類の思想であったと思います。約一万年前

まで、人類はそういう思想のもとで生きていたわけです。 

  自然のなかに霊的な力を認め、それを神として崇拝し、この世とあの

世との間の絶えざる霊の循環を考える。それがながい間、人類の共通

の思想でありました。

 

  ところが人類は、約一万年前に農耕牧畜文化を発明しました。農耕

牧畜が新しい人類文化になるときに、山や川や森などにいる自然の

神々がじゃまになるのです。 

 それらの神々は、農耕牧畜が唯一の価値とする自然の開発をじゃま

する神になるからです。



  最初に都市文明をつくったのはシュメール人です。このシュメール人は

『ギルガメシュ』という叙事詩をもっています。 

  私は最近、この『ギルガメシュ』叙事詩をもとにして一つの劇をつくりま

した。 

 『ギルガメシュ』叙事詩は、シュメールの王、ギルガメシュが森の神フン

ババを殺す話です。 

  これは都市文明の建設ということが、森の神の殺害の歴史の上に築か

れているということを物語っています。 

  自然神、動物神、植物神などは、そういう人間の開発を妨げるものとし

て殺されていくのです。

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  そしてそのかわりに、すべての自然現象を越えた超越神と、そして人間

の神格化である人格神が登場するのです。超越神とか人格神というもの

は、人間の自然征服を容易にするためにできた神といえなくはありません。

 

  このように、超越神や人格神の力をかりて、今日、自然は完全に人間

に征服されました。この人間の自然征服をいっそう助けたのは近代ヨー

ロッパ哲学であり、科学技術でありました。 

  近代ヨーロッパ哲学の開祖、デカルト(*下の肖像画:1595~1650)は、

人間を思惟する自我として、自然をその思惟する自我に対立する物質

してとらえました。



          
          Photo_6


 

  そして、この思惟する自我である人間は、対立する物質である自然の

法則を知ることによって、自然を征服することができるというのです。 

  そこでは、自然はもはや生きているものではなく、死せる物質であり、

自然を死せる物質に解体することによって、人間は自然支配を貫徹する

ことができたわけです。

 

  今日、この人間による自然支配の結果がどうなったか。人間の将来に

多少でも関心をもつ人は深い憂いを覚えざるをえません。 

  人間の飽くことない自然征服の意志は、自然の死を招き、人間そのも

のを危険にさらすのではないかという不安は、現代では文明社会に住

む、ごくふつうの人の不安となりました。

  そのような状況のなかで、思想はいったいどうなるのでしょうか。ある

時代において、人間の文明の発達に有益であった思想が、時代が変わ

ると、かえって人間の文明の発展を阻害し、はては人間そのものを危険

におとしいれることがあります。



  自然征服という理想は、かつての人間にとって輝かしい理想でありま

した。人間はながい間、自然の奴隷であったからです。

  しかし、自然が人間に征服された現在、この理想にはブレーキがかか

らなければなりません。

  自然征服という理想にたいして、自然との融和(*下の写真)というのが

新しい人類文明の理想にならなければなりません。

  科学はやはり最近まで自然征服のための科学という性格をもちづづけ

ていました。しかし、今や科学のあり方が変わらなければなりません。

  自然征服ではなく、自然との融和あるいは自然への畏敬の念を科学

もたねばならないのです。


            Photo_8


 
  科学そのものがそういう性格をもたざるをえないとしたならば、もう一度、

思想とか宗教とか根本的に考え直さねばならないのです。

  こういう状況のなかで、自然神や多神論の意味が再考されなければ

ならないように思います。   【了】

  (*後記:  いつもご愛読いただきまして、本当に有難うございます。

 
尚、私事ですが、目下、健康上、解決すべき一つの課題に直面しています。

  そのため、勝手ながら、年内、拙ブログを閉じなければなりません。

来年、また再開できれば、幸いです。 それでは皆様、どうか、お元気で!

                               渡邉良明 拝    )



 

 

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