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2013年10月28日 (月)

二十一世紀の世界と仏教の役割(7)

  多神教の可能性―核戦争について

 

  以上のように、核戦争の危機、環境破壊の危機、精神破壊の危機が、

二十一世紀の人類社会の最も大きな危機であるとすれば、この危機に

仏教、とくに東アジアに定着した大乗仏教がどのような予防薬、あるいは

治療薬を提供することができるかどうかが問われねばなりません。

 

  まず第一の危機、核戦争の危機について大乗仏教はどう対応するのか。

これはたいへんむずかしい問題です。大乗仏教は、この核戦争の危機に

何ら積極的な対応策をもっていないようにみえます。

 

  日本は世界で唯一の原爆の被害を受けた国です。したがって、平和問

題について、日本は積極的に発言する権利をもっているはずです。 

  しかし、日本の仏教徒が平和問題に積極的な発言をした例ははなはだ

少ないのです。

                     Photo_4
 

 これは、日本において平和の問題は、政治権力に利用され、核戦争を

醸成している一方の政治権力の代弁者として平和が唱えられたからです。 

  戦後の日本の平和運動はイデオロギーの運動であり、社会主義の運動

でありました。こういう状況のなかで日本の仏教徒が、平和問題について

ほとんど発言しなかったのは賢明なことであるともいえます。

                  
                    Photo_5



  たしかに大乗仏教は、この核戦争の脅威に対抗する何らの積極的な

活動もしていませんが、消極的にはそれは核戦争の脅威を和らげる意味

をもっているのです。

 

  なぜなら、現在の核戦争の危機の状況をつくっているのは一神論的世

界観の対立だからです。 

  イギリスの歴史家アーノルド・トインビー(*下の写真:1889~1975)は、

マルクス主義はユダヤ教的な一神論を俗世に移したものであるといいま

す。ユダヤ教的一神論は、キリスト教の一神論よりはるかに戦闘的です。

 

          Photo_6


  唯一絶対のエホバの神を信じ、その神を信じない異教徒はすべて悪魔

であり、その神を信じるユダヤ教徒は神の徒である。 

  こういうユダヤ教的一神論の性格は、キリスト教においては、愛とか

寛容が強調されることによって弱められますが、マルクス主義において

は、そのユダヤ教的一神論の性格が、過酷なまでに徹底されるのです。

 

  そこには信仰を共有する者への同志愛はありますが、信仰の異なる者、

マルクス主義に反対する者にたいしては愛も寛容もなく、ただ憎悪のみが

あるだけです。 (*下の絵は、旧ソ連の指導者、レーニン)

                      Photo_10


  このような一神論が戦後世界の対立を高め、核戦争の脅威を助長して

きたのです。 

  そして、このようなユダヤ教的一神論に対立するものがキリスト教的

一神論であったとすれば、まさに一神論が世界の対立を醸成し、核戦争

の危機をつくっていたといわねばなりません。 

  一神論は多神論よりはるかに戦闘的です。一つの神の絶対的正義を

信じ、その神の正義を妨げるものをすべて悪魔と考えることによって、

人間は強い戦闘力をもつのです。

 

  一神論が発生したのは銅の時代が鉄の時代に移るころ、約三千年前

であると思われますが、その後一神論が優勢になったのは、その戦闘的

精神によるところが大きいと私は考えます。 

  今日、インドを訪れる人は、そこに驚くほど無残な一神論の破壊のあとを

見るでありましょう。 

  さきにインドへ入ってきた一神論、回教(=イスラム教)は、仏教やヒンズ

ー教の多神論ががまんできないかのように、仏教やヒンズー教の遺跡を

破壊しつくしました。

 

  首が斬られたり、鼻がもがれたり、手足が取られたりしている仏教やヒン

ズー教の神像を見ることは、真に痛々しいのです。 

  おそらく、このような仏像や神像にたいする残酷な行為は生きた人間の

上にも加えられ、多数の人間が首を斬られたり、鼻をもがれたり、手足を

取られたのでしょう。 

  さすがにもう一つの一神教、キリスト教のほうは、回教徒のような残虐な

行為を仏像や神殿にたいして加えようとはしませんでした。

 

  しかし彼らは、考えようによっては回教徒よりもっと残虐なことをしたの

です。それは、信仰の対象として存在していた仏像や神像を一つの文化財

として、ごっそりそのまま母国の博物館に運んだのです。(*下の写真は、

大英博物館内の展示物)

            Photo_7

  多神教は一神教よりはるかに戦闘的精神において劣ります。自分が

信じている神以外にも多くの神があり、その神はそれぞれ存在の意味を

もっているとしたら、何を好んで他の神を否定する必要がありましょうか。

 

  多神教は一神教より戦闘的精神においてはるかに劣りますが、平和愛

好の精神においてはるかに勝っているように思われます。 

  一神教が他の宗教にたいしてはっきりと否といい、それに対立し、それ

を絶滅させようとするのにたいし、多神教は他の宗教と対立するときに、

それらを自己のなかにとり入れようとします。

 

  このようにして、仏教は多くのヒンズー教の神を自己のなかにとり入れ

たし、またそれが東アジアに定着するときに、東アジア世界にすでに存在

した多くの神々を、それ自身のなかにとり入れ、古い神々の宗教行事を

仏教行事のなかにとり入れたのです。



  今や、交通網、情報網の発展によって世界はあまりにも狭くなりました。

地球はあまりにも小さくなり、そこに住む人々はもちろん利害の対立はあ

るものの、共通の人間としての連帯感がますます必要になってきた。

 

  このような情勢のなかで、一神教も変化を被らざるをえません。ローマ

カトリックは、従来のようなキリスト教絶対主義を捨てて他の宗教にたいし

て理解を深め、異教との共存をはかろうとしているように見えます。

 

  十五世紀、カトリック教会において、矛盾の一致を説いたドイツの哲学者、

ニコラウス・クザーヌス(*下の肖像画:1401~1464 )が、あらためて評価

されようとしているのも、そういう動きと関係があるのでしょう。

             Photo_8


  もしも西欧世界が、従来のように西欧世界の非西欧世界への支配という

形で世界の平和を考えるのではなく、西欧世界と多くの他の世界との共存

という形で世界の平和を考えるとしたならば、キリスト教とならんで回教や

仏教やヒンズー教や原始宗教といわれる宗教にも、平等にその価値を認

めねばならないということになりますが、こういう平等の価値を認めるとき、

一神教は多神教的にならざるをえないのです。

 

  私は、かつての文明の方向が多神教から一神教への方向であったよう

に、今後の文明の方向は、一神教から多神教への方向であるべきだと思 

います。 

  狭い地球のなかで諸民族が共存していくには、一神教より多神教のほ

うがはるかによいのです。

 

  その点において、私は、仏教は、ヒンズー教やアニミズムなどどともに

人類の究極的な平和に貢献し、間接的に核戦争の危機を和らげることに

貢献すると思います。

 

  おそらく今後、仏教はもっと行動力を高め、間接的に核戦争の危機を

和らげるという役割から、多くの宗教との共存を図り、核兵器を全廃し、

核戦争の不安を人類からなくそうという積極的な役割に変えるという自己

変革をしなければならないでしょう。  【つづく】

 

 

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