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2013年10月 1日 (火)

「日本よ、核兵器を持つなかれ!」(7 )

    西郷ドンは、半分、肥後・熊本人

  「地方の時代」と言われて久しい。だが今日、同じ九州でも、福岡や

鹿児島に比べ、熊本の停滞が叫ばれている。福岡や鹿児島が元気なの

に比べて、熊本には、なぜ元気が感じられないのだろうか?  

  まさに、福岡や鹿児島という、二つの「山」に挟まれた谷間(あい)の印象

である。 (*この頃は、まだ「クマモン」は登場していない。)

 だが「わが熊本よ、がんばろう!」われわれには、偉大な先達がいる

のだ。 (*下の写真は、熊本城 )

              Photo_6


  私は、横井小楠(*下の写真)という先達を得て思う。“本当に、熊本に生

まれてよかった”と。― 

  かつて肥後藩は、幕末期に、薩・長・土・肥(肥前・佐賀県)と行動を共に

することはできなかった。だが、肥後藩には、彼らにも決して引けを取らな

い人物群像があった。


            Photo_7


  例えば、吉田松陰が私淑・敬愛した横井小楠、明治天皇の侍講をし、

教育勅語を草案した元田永孚(ながさね)、伊藤博文のブレーンとして

明治憲法の立案に貢献した井上毅(こわし:*下の写真)内村鑑三を

世に送り出し、近代日本の言論界に多大な影響を与えた徳冨蘇峰、

『不如帰』や『自然と人生』等の名作で一世を風靡した徳富蘆花、孫文

を支援し中国の独立に貢献した宮崎滔天(とうてん)、近代医学の発展

に寄与した北里柴三郎(*その下の写真)それに女子教育の発展に

尽力た竹崎順子、矢島楫(かじ)子、横井玉子、嘉悦孝(たか)など、

錚々たる人びとがいる。

           Photo_8

            Photo_9



  加えて、西郷隆盛(*下の肖像画)も、半分は肥後(熊本)人である。

南日本新聞社編『西郷隆盛伝』によると、西郷隆盛は、川口雪蓬との

よもやま話の中で、「当家は、(肥後)菊池の子孫」と語り、朝廷からは、

先祖菊池氏の勤皇事績によって十六菊の紋章を下賜されている。 

  西郷自筆の系図は、元禄年間に肥後から下ったという6代前の「九兵衛」

から記されている。

                                 Photo_10

  しかし、その後、西郷従徳(西郷従道の嗣子)が、大正14年に沢田延音

という人に依頼した調査では、「肥後国菊池郡深川村に居住した藤原鎌足

の曾孫、菊池氏の初代則隆の長庶子、西郷太郎政隆の系統を帯びたも

の」と推察している。

 

  武光・武時は直系だから筋違いということになる。この調査は全国的に

実証したもので、信頼性は高いと見られる。

  太郎政隆の直系は肥後にあり、その嫡子は肥前国に居住して西郷純隆

と称し、諫早城主となっている。 政隆自身は肥前西郷村に転居した。

 

  実は、「隆盛」(西郷隆盛の先祖)の名前が出てくるのは二代目。その子

・隆定は加藤清正に従って朝鮮に渡り戦功を挙げている。 

  先の「九兵衛」は、政隆から数えて26代目。「仔細アッテ東肥西江ヲ去リ

テ薩州麑(けい)府ニ赴キ島津公ノ麾下(きか)ト成ル」とある。

 

  特に興味深いのは隆定の事績。「君(加藤清正)ノ他界ニ遭ッテ悲嘆限リ

ナシ。君侯ノ御墓二百日間参籠シ奉レリ」という。 

  後年、斉彬の死に殉じようとした西郷の心情と通じるものがあるように思

える(前掲『西郷隆盛伝』、参照)。

 

   だが、西郷は、あまり肥後人が好きではなかった。例えば海舟(*下

写真)によれば、「西郷は、肥後人が大嫌いでネ。肥後人は、利巧で、

八釜しく言うが、間ぎわにゆくと、フイとぬけてしまう」(『海舟座談』、

*下線、筆者)。 

  しかし、大久保利通に言わせると、当の西郷こそが、「大事な時にいなく

る(まるで、肥後人のごとき)奴」だった。

                  Photo_11


  西郷の庶子、奄美大島生まれの「菊次郎」「菊草(=菊子)」は、彼の

先祖「菊池家」から取ったと思われる。

  たとえ半分でも、西郷ドンを「肥後人」と思えることは、たいへん嬉しく、

かつ誇りに思えることである。 
 

 

  『大義を四海に布(し)かんのみ』




  これは、横井小楠の言葉である。この言葉こそ、現在でも、また将来に

おいても世界に訴えるべき、日本の採るべき「精神」(=政治理念)では

ないだろうか。 

  この言葉は、横井小楠が二人の甥、左平太と大平がアメリカへ密航する

際に書いた送別の辞の一部である。

 

  もともとは、「堯舜孔子の道を明らかにし  西洋機械の術を尽くさば   

なんぞ富国に止まらん   なんぞ強兵に止まらん   大義を四海に布かん

のみ」の最後の一節である。 

  横井小楠を真摯に研究する徳永洋(ひろし)氏によれば、この語には、

小楠の世界における日本のビジョンが述べられている。

 

  つまり、東洋の精神文明をもとに西洋の科学文明を取り入れて、富国

強兵に努め、民主的・平和的な道義国家となって、これを世界に広めよう

と言っている、と徳永氏は説く。

 常に地道な実証研究を心がける同氏の洞察は、まことに鋭い。



  徳永氏は、その著『横井小楠―維新の青写真を描いた男―』(新潮

新書:下の写真)の中で、横井の『遺表』(明治天皇への遺言)について

言及している。 

  これは、小楠が明治維新政府の参与を拝命した際、自分の肉体的限界

や”まさかの時(暗殺)”を予感していたのか、天皇への「遺言」を、はじめ

病床で弟子に口授したものだ。それが、後に文書の形で残ったものである。

              Photo_12


  徳永氏は、この『遺表』を直に分析しつつ、ひじょうに重要な指摘をして

いる。彼は言う。 

  「以上の四か条の『遺表』により、小楠は明治天皇(*下の肖像画)

西洋各国のように利害追求に走り、ただ富国強兵を目的とする覇道政治

でなく、人の良心に基づく王道政治を行ない、外交も利害に左右されない

自然の条理で対処するように要望している」と(同書、157頁)。

             Photo_13

  この精神が、まさに「大義を四海に布かんのみという言葉に収斂する

のである。

 明治時代は、よく「富国強兵」が国家目標であったと理解されている。 

  だが、この語句の生みの親でもある横井小楠の本意は、むしろ「富民

有徳」ではなかったかと思う。 

  彼の実学とは、まさに道徳と経済の融合、国民生活の質的向上にあった

と感じる。 

 その意味では、彼は上杉鷹山に共通する政治・経済思想を持っていたと

思うのだ。 

  その点で、小楠はまた、西郷隆盛の「道徳観」とも通底する理念を持って

いたと思える。

 

  勝海舟は、生涯で二人だけ、つまり小楠と西郷隆盛を、心底畏れたと

公言している。 

 だがそれは、第一に両者の持つ時代を超克した“革命性”だったと思うが、

それ以上に、大義や道理・道徳を重んじる二人の人間的“偉大さ”に敬服

していたからだとも思える。 

  その点では、海舟自身、小楠と西郷隆盛に心の深い所で共感できてい

たのではなかろうか。海舟は心から共感できたがゆえに、小楠と西郷隆

盛を心底から畏敬できたと思うのだ。

 

 「大義を四海に布かんのみ」これは単に小楠だけでなく、勝海舟や

西郷隆盛も、まったく同じ思いだったと思う。同時にそれは、明治天皇が、

終生求められた政治理想であったし、彼を生涯の手本と考えられた昭和

天皇が、生涯希求なさった政治理念だったと思える。

  私たちは、今一度、この政治理念に戻るべきではないだろうか。アメリカ

も中国も、さらにはロシアやヨーロッパ諸国が覇道政治を求める今日、

日本は、心を新たにして王道政治を求めるべきだと思うのだ。 

  そこにこそ、私は「日本国の真骨頂」があると確信する。  【つづく】

 

 

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