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2013年10月18日 (金)

二十一世紀の世界と仏教の役割(1)

    【皆さんへ】

 

  皆さん、お早うございます。

お元気でしょうか? 

    このところ、梅原猛先生のご講演を掲載させて頂い

ております。 

  実は、これからも、全く同様です。

 

    次の内容は、1990年4月、韓国のソウルで開催され

た、韓国仏教放送局開局記念講演の記録をもとに、

作成されたものです。 

  それは、次の通りです。


   三つの危機をむかえて― 二十一世紀の世界と

仏教の役割




    マルクス哲学の限界


  二十一世紀には人類はどうなるのかということは、たいへんむずかしい

問題です。 

 現在、人類は二十世紀の最後の十年間に入ろうとしていますが、二十一

世紀までにはまだ十年近くあります。 

  その二十一世紀の人類の社会を考えることはとてもむずかしいことで

ある。

 

 しかも、私は本来哲学者であって、政治や経済の動向に疎いのです。

そういう政治や経済の動向に疎い私が、二十一世紀の人類の社会につい

て正しい予測をすることは、とても不可能であると考えられます。

 

  しかし、現実の政治や経済の動向に詳しい社会科学者より哲学者のほう

が、的確に未来を予言することもしばしばあるのです。なぜなら、哲学者は

思想そのものを問題にします。 

  間違った人間理解をもとにした思想に基づいてつくられた社会が、そう

ながい間つづくはずはない、と哲学者は考えます。

 

  社会科学者たちは、少なくとも当分は、うまくいっているこのような社会を

見て、その社会は正しい社会であり、はなはだ豊かな未来をもつ社会だと

考えるかもしれませんが、哲学者は、そのような社会を構成している原理

が間違っているからには、そのような社会は誤りで、やがて未来のいつか

―それは十年後なのか百年後なのかはわかりませんが―崩壊をむかえる

にちがいないと考えるのです。

 

  昨年、東欧で起こった社会主義社会の崩壊(*下の写真は、東欧革命)

ということにたいして、多くの社会科学者、とくにマルクス主義の影響の強

い日本の社会科学者たちは大いに驚いたものです。 

                 Photo


  現在、そういう日本の社会科学者は途方にくれている状態で、良心的な

学者は自己の思想を再検討しているのですが、そうでない学者は、古い

マルクス主義のイデオロギーを隠しつつ、人を批判するときはマルクス

主義の視点を捨て切れないという、隠れマルキストの形をとっています。

 

  しかし昨年、東欧で起こった政治的変動について、私は何の驚きも感じ

ませんでした。 

 なぜなら、私はほぼ三十年前から今回のことを予言し、多くの著作で語

ってきたからです。

 

  ただし少し意外だったのは、社会主義社会の崩壊が意外に早くやってき

たことであります。私は、その崩壊は二十一世紀のはじめに起こるのでは

ないかと思っていましたが、それはまさに二十世紀の終わりに起こりました。

歴史の速度は意外に速いのです。 

  (*下の写真は、「ベルリンの壁の崩壊」〔ブログ「ザ!世界仰天・最新情

報SP!」より拝借〕

          Photo_2

  私がなぜ社会主義社会の崩壊を予測できたかというと、社会主義社会

つくりだしたカール・マルクス(*下の写真)哲学の、人間に対する理解

あまりにも歪んでいて、それはながい期間、人類の社会を構成する原理

して不十分であると思ったからです。

            Photo_3


  マルクス哲学の根底には、深い人間に対する憎悪があります。この人間

にたいする憎悪は、自己にたいする憎悪の変形かもしれません。その憎悪

が、唯物弁証法というマルクスのつくった哲学の根底に厳然として存在し

ているのです。 

  私の知り合いの作家にもそのような人がいて、彼は高名な小説家です

が、悪の感情を捨て切れず、たえずだれかを仮想敵としなければ仕事

情熱が燃えあがらないのです。

                    Photo_4


  もし彼が自己の憎悪を克服することができたなら、彼はすばらしい作家

になると思うのですが、それは終生、彼にとって不可能なことであると思

われます。マルクスについてもそれと同じことがいえます。

 

  人類社会をながい間支配した思想、仏教でも、キリスト教でも、儒教でも、

ギリシア哲学でも、やはり教祖にあたる人は自己のなかにある憎悪を克服

した人(*下の写真は、そのイメージの一つ)です。

          Photo_7


  マルクスは、そのような自己のなかにある憎悪を十分克服していないの

です。それで彼の人間観が歪められるのです。彼は、ある人間をあまりに

道徳的な考え、ある人間をあまりに不道徳的に考えました。

 

  つまり、彼はプロレタリアート、とくにマルクス主義を信ずるプロレタリア

ートを、神のように無私な人間と考え、そして逆に、ブルジョアジーを極悪

非道な人間と考えました。しかし、それはまったく無理な人間解釈です。

 

  人間の世界にはマルクスが考えたように、純粋に無私な人間も少ないし、

純粋に極悪非道な人間も少ないのです。 

  多くの人間は善と悪の中間にあり、状況次第で善にも悪にもなるのです。

 

  マルクスのように、人間を両極端に二つのタイプに分けるのは間違いで

るといわざるをえませんが、こういった間違った人間観をもとにした哲学

つくりださねばならなかったのは、やはり彼が終生捨てることのできなか

た人間にたいする憎悪の感情のためではないかと私は思うのです。

 

  私も、マルクス主義を唯一の良心的な思想と考えていた、戦後の日本の

思想界の潮流に育ったわけですから、マルクス主義にたいする関心という

より傾倒がなかったわけではありません。

               Photo_5


  しかし、何年かのマルクス主義の研究の末に、私はマルクス主義の人間

観はまったく間違っていると考えざるをえなくなりました。 

  そして、そういうことをいろいろ書いたために、私は、マルクス主義の影

響の強い日本の論壇から、保守反動の人間のようにいわれました。

 

  私は戦前の日本の国家主義思想に、はなはだ批判的なのですが、マル

クス主義の陣営からみれば、マルクス主義を批判するかぎり必然的に保守

反動であり、国家主義者であるということになるのです。 

  ながい間私はその批判に耐えてきましたが、昨年末の世界で起こったこ

とを見ると、私の批判が正しかったと思わざるをえないのです。

 

  それゆえ、現実の政治や経済の状況に疎い私が、そういう政治や経済

に疎くないはずの社会科学者より、とくにマルクス主義を金科玉条とする

社会科学者より、はるかに的確に未来の社会を予言し、歴史の将来を見

ていたことになります。
 

  こういうことを私は自慢をするためにいっているのではありません。ただ

純粋に思想というものを考察する哲学者は、かえって社会科学者より的

確に未来を予測することもありうるということをいったまでです。 【つづく】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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