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2013年9月 3日 (火)

吉田松陰の「祖国愛」(2 )

  このように、松陰や赤穂義士の「公」に殉ずる思いは、「仁・義・礼・智・

信」といった道徳を重んじる心でもあった。 

  道徳心や道義心なしに「公」の精神は、成り立たない。しかし「公」とは、

何も幕府とか政府とか国家という意味だけではない。

  いや、むしろ、そうでない場合がある。

      Photo_9

  それは、何よりも、道徳や精神を重んじる人間の“集合体”のことである。

そのような「公」に、松陰も赤穂義士も殉じたのである。そこに、両者の

精神性の共通基盤があったと言えよう。 

  加えて、松陰の「已むに已まれぬ大和魂」は、世間の無知や無理解、

そればかりか死をも怖れない“勇気”そのものであった。蛮勇ではなく、

真の勇気なしに、自らの命を賭した行動はあり得ない。当時の果敢な

彼の行動が、まさにそれであった。



  松陰も、鎖国の禁を犯す際に、自分の士族の身分(とりわけ、長州藩

の兵学師範としての地位)だけでなく、その命さえも賭けた。

 つまり先述したごとく、彼は死を覚悟した。 

  それゆえ、彼の気迫は、ペリーや周囲の者たちをも圧倒した。松陰と

赤穂義士双方に、死をも恐れぬ「勇気」があったことも、容易に理解でき

よう。



  第二首は、松陰の辞世の歌である。この「留め置かまし大和魂」と詠ん

だ彼の心情には、大和魂の持つ“永遠性”が込められているように思う。 

  ある解説によれば、それは、「たとえ自分が死んでも、国を想う自らの

心は、永遠に生き続けることだろう」という意味である。

 

  実際、「留め置かまし」を、どう訳し理解するかが問題である。 

だが、思い切って意訳し、かつ換言すれば、「どうか忘れないで欲しい、

私の祖国・日本を愛する思いを」と、ひたすら同心の士に訴えているよう

に思われる。

 

  このように、松陰は死に至るまで、自らの「生死」のことよりも、むしろ

「日本国の将来」について案じ続けた。そこに、松陰の祖国に対する至誠

があった。 

  長門の国・萩に生まれた松陰にとって、「武蔵の野辺(「のべ・埋葬場の

意」:下の写真は、鈴ヶ森刑場跡)とは、遠く寂しき僻地の一隅であった。


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  だが、この言い知れぬ孤独感の中で、松陰は、自らの「不朽の思い

つまり“永遠性”を信じる心)」を込めて、この歌を詠んだと思う。

  この歌には、まさに有限な肉体に対する精神や魂の“永遠性”が説か

れている。 

 それは、山鹿素行の「日本」に対する愛や山中鹿之助の「七生報国」に

通じる思いでもある。つまり、それは“大和魂”の永遠性に対する讃歌

でもある。

 

  そこには、一人の人間の死が、単なる滅びを意味するものではなく、

“再生するもの”であることを意味している。 

  また、“永遠性”に結ばれた精神(あるいは、霊性)の高さと深さをも存在

する。 

 それは、イエス・キリストの言う「一粒の麦、もし死なば」と共通する

“復活”と永遠の精神でもある。

 

  松陰を介錯した山田浅衛門は、次のように述懐している。 

  「私は、多くの武士達を手にかけてきた。しかし、これほど最期に至って、

心静かで立派な人物を見たことはなかった」と。山田はそこに、松陰の放

“光”を垣間見たのである。

  そこには、松陰の士(もののふ)としての潔さと、彼が、永遠なる“何か”

を信じる「信の人」であったことをも窺える。

 

  まさに死に臨んだ松陰には、まるで十字架上のイエスや、従容と毒杯を

仰いで最期の時を迎えたソクラテス(*下の絵)をも彷彿とさせるような、

”心の安らぎ”が感じられる。大和魂が“永遠性”につながるという所以で

ある。 

          Photo


  その意味で私は、「大和魂」というものは、決して地理的「日本国」のみ

に限定されるものではないと思う。 

  むしろ、それは世界に通じる普遍的な”心性”なのである。この“普遍性”

を真に理解することこそ、「日本文明」を認識する要諦だと言えよう。

 

 

  松陰の「死生観」

 

 

  死の直前、松陰は次のような言葉を残した。「吾今国の為に死す、死し

て君親に負(そむ)かず、悠々たり天地の事、鑑照、明神にあり」と。 

  ある解説によれば、「私はいま国の為に死ぬ。死んでも君や親に逆らっ

たとは思っていない。天地は永遠である。私のまごころも、この永遠の神

が知っておられる。少しも恥じることはない」という意味である。



  この“永遠性”を信じる思いに、松陰は、「四時の循環(四季の循環)」を

充てた。彼は、『留魂録(*下の写真)の中で、次のように記した。

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  「一、今日死を決するの安心は四時の循環に於いて得る所あり。 

蓋(けだ)し彼の禾稼(かか:「禾」はイネ科の植物の穂、「稼」は、みのり、

穀物、穀類の意)を見るに、春種し、夏苗し、秋苅り、冬蔵す(*下の

写真は、イネの姿 )

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  秋冬に至れば人皆其の歳功の成るを悦び、酒を造り醴を為(つく)り、

村野歓声あり、未だ嘗(かつ)て西成(「秋に植物が成熟する」の意)に

臨んで歳功の終るを哀しむものを聞かず。

 

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  吾れ行年三十、一事成ることなくして死して禾稼の未だ秀でず実らざる

に似たれば惜しむべきに似たり。

  然れども義卿(松陰のあざな)の身を以て云へば、是れ亦秀実の時なり。

何ぞ必ずしも哀しまん。

 

  何となれば人寿は定りなし、禾稼の必ず四時を経る如きに非ず十歳にし

て死する者は十歳中自ら四時あり。二十は自ら二十の四時あり。三十は

自ら三十の四時あり。五十、百は自ら五十、百の四時あり。 

  十歳を以て短しとするは蟪蛄(けいこ:夏蝉のこと:下の写真)をして霊椿

(れいちん:「長生する霊木」の意)たらしめんと欲するなり。

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  百歳を以て長しとするは霊椿をして蟪蛄たらしめんと欲するなり。

斉(ひと)しく命に達せずとす。 

  義卿三十、四時己に備はる、亦秀で亦実る。其の秕(しいな:「殻ばかり

で実のない籾」の意)たると其の粟たると吾が知る所に非ず。

 

  若し同志の士其の微衷(びちゅう:「自分の真心」の謙譲語、微意)を

憐み継紹の人あらば、乃ち種子未だ絶えず、自ら禾稼の有年に恥ざる

なり。同志其れ是れを考慮せよ」と。

 

  これを平易に訳すれば、次のようになろう。古川薫氏の訳によれば、 

  「一、今日、私が死を目前にして、平安な心境でいるのは春夏秋冬の

四季の循環という事を考えたからである。

 

  つまり農事を見ると、春に種をまき、夏に苗を植え、秋に刈りとり、冬に

それを貯蔵する。秋・冬になると農民たちはその年の労働による収穫を

喜び、酒をつくり、甘酒をつくって、村々に歓声が満ちあふれるのだ。 

  この収穫期を迎えて、その年の労働が終わったのを悲しむ者がいると

いうことを聞いたことがない。

 

  私は三十歳で生を終わろうとしている。いまだ一つも成しとげたことが

なく、このまま死ぬのは、これまでの働きによって育てた穀物が花を咲か

せず、実をつけなかったことに似ているから惜しむべきかも知れない。 

  だが私自身について考えれば、やはり花咲き実りを迎えた時なので

ある。



  なぜなら、人の寿命には定まりがない。農事が必ず四季をめぐって営ま

れるようなものではないのだ。 

  しかしながら人間にもそれにふさわしい春夏秋冬があると言えるだろう。

十歳にして死ぬ者には、その十歳の中におのずから四季がある。二十歳

にはおのずから二十歳の四季が、三十歳にはおのずから三十歳の四季

が、五十、百歳にもおのずからの四季がある。 

  十歳をもって短いというのは、夏蝉を長生の霊木にしようと願うことだ。

百歳をもって長いというのは、霊椿(れいちん)を蝉にしようとするような

ことで、いずれも天寿に達することにはならない。

 

  私は三十歳、四季はすでに備わっており、花を咲かせ、実をつけている

はずである。 

 それが単なるモミガラなのか、成熟した粟の実であるのか、私の知るとこ

ろではない。

 

  もし同志諸君の中に、私のささやかな真心を憐み、それを受け継いで

やろうという人がいるなら、それはまかれた種子が絶えずに、穀物が

年々実っていくのと同じで、収穫のあった年に恥じないことになろう。

同志よ、このことをよく考えてほしい」と。



  この遺書を、高杉晋作(*下の写真)を始めとする松下村塾の門下生

たちは、涙なしには読めなかったであろう。 

  また、死の直前の松陰も、これを読んだ門下生たちの「決起」を、心底

信じたことであろう。

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  さらに、この『留魂録』を書く前に、死を覚悟した松陰は、彼の「死生観」

について、高杉に次のような便りを物している。

 

  「君は問う、男子の死ぬべきところはどこかと。私も昨年の冬投獄され

て以来、このことを考え続けてきたが、死についてついに発見した。 

  死は好むものではなく、また憎むべきでもない。世の中には生きながら

心の死んでいる者がいるかと思えば、その身は滅んでも魂の存する者

もいる。

 

  死して不朽の見込みあらば、いつ死んでもよいし、生きて大業をなしと

げる見込みあらば、いつまでも生きたらよいのである。 

  つまり私の見るところでは、人間というものは『生死』を度外視して生

きるべきなのだ。要するに、“成すべき事を成す心構え”こそが大切なの

だ」(古川訳)と。



  まさに松陰こそは、文中の“魂の存する者”であり、真に“不朽の見込み”

を持った思想家だった。それゆえに彼は、心静かに刑場に赴いたので

ある。

 

  彼こそは、真の士(もののふ)であり、全き愛国者であった。そして、

“死んで、生きる人”であり、単なる肉体としてではなく、一個の“魂”

て、生涯を生き抜いた人でもあった。 

  換言すれば、彼は“生死を超えた世界”を知っていた人だったとも言

えよう。

 

  事実、松陰は、30年の生涯を通して「なすべきことを成した」のだと

思う。それは、傍目には「刑死」という、極めて無残な最期ではあったけ

れども、彼が雄々しく死ぬことによって、彼を信奉し、かつ敬愛する若者

たちが奮い立ったのも事実である。

 

  彼の場合ほど、「一人の人間の死」が歴史を動かした事例は、日本史

上、極めて稀である。

  松陰の生涯を思う時、人間は、どれほど生きれるかが問題なのではな

く、むしろどう生き抜くかが重要なのだと感じる。  

  そこで大切なのが「成すべきことを成そうとする心構え」であり、それに

基づく行動力なのだ。

 

  戦時中の若者同様、幕末の志士たちも、極めて短命だったけれども、

彼らは決して自らの命を粗末にしたわけではなかった。 

  むしろ、肉体的な命以上の“理想”を信じ、そのために生き、さまざま

な形で祖国「日本」に殉じたのである。  【つづく】
 

 

 

 

 



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