フォト
2017年6月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  
無料ブログはココログ

« 吉田松陰の祖国愛(完 ) | トップページ | 「日本よ、核兵器を持つなかれ!」(2 ) »

2013年9月 7日 (土)

「日本よ、核兵器を持つなかれ!」(1)

   「日本よ、核兵器を持つなかれ!」

 

  核兵器の保持が当然視される今日、祖国日本が敢えてそれを持たない

ことが、わが国の最高の矜持、あるいは「存在意義」だと思う。 

  「何と戯けたことを!」と世人は言うかも知れない。「ジャングルのような

国際政治において、丸裸同然で生きていけるか!」と、難ずる人もあろう。

 

  あるいは、「将来、もしアメリカ軍がアジアから手を引いたら、中国や北

朝鮮による核の脅威に対して、どう対処するのだ?」と、問う人もあろう。 

  それなら、反問したい。「核兵器が無ければ守れない日本という国に、

いったいどれほどの価値があるというのか?」と。

 

  ガンディーは(*下の写真)、昭和20年8月6日、広島に原爆が投下され

た直後、次のように記した。 

  「非暴力は、原子爆弾をもってしても破壊することのできない唯一の存在

である。原子爆弾がヒロシマを破壊したことを耳にした時、私は自らに語っ

た。 

  『今こそ世界が非暴力の精神を持たなければ、人類を必ず自滅の道に

向かわしめるであろう』」と。

                    Photo_7


  事実、たとえ核戦争が起こっても、自分たちは生き延びられると盲信す

る人びとがいる。とくに、超大国アメリカほど、この考えを堅持している。

  だが彼らは、本質的に核の悪魔的な力を知らない。いや、核が「悪魔の

兵器」であること自体を認識していない。

 

  アメリカが広島と長崎に原爆を落とした時、彼らの深層心理に宿った

思いは、両市は、古代の悪徳の都「ソドムとゴモラ(*下の絵)という

ものだった。

           Photo_8


 

 だが、両市の無垢な市民の誰一人として、「悪徳」などとは無縁だった。 

  とりわけ、長崎市は、最初からの原爆投下予定の都市ではなかった。

最初は、小倉ではなかったか。―

 

  しかし、当日の小倉の上空は雲厚く、超高空から原爆を投下できなか

った。 

 ところが、第二の予定地と目された長崎市内が丸い雲間にポッカリと浮か

んで見えた。パイロットは、この時とばかり、原子爆弾「ファットマン」を投下

した(*下の写真は、「ファットマン」、並びに被曝したマリア像)

              Photo


          Photo_2

         Photo_3



  だが、アメリカの権力者諸君よ、長崎市民が信心深く、長崎市が聖母

マリアに守られた「聖母マリアの都」と信じられていることを知らないのか。

 君たちは、まさに聖母マリアの踵を噛んだ、あの蛇(=悪魔)だったのだ。

                       Photo_4

               Photo_5

                           Photo_6

 

 あの蛇は、聖母マリアに踏み潰されたではないか。つまり、イエス・キリスト

の出現によって。― 

  その君たちが、敬虔な「キリスト者」だと名乗ることほど、笑止千万なこと

はない。まさに、核兵器とは、悪魔の兵器なのだ。いや“悪魔そのもの”

のだ。 

  我々日本人は、そのような「悪魔の世界」に入ろうと望むのか?  それ

自体が、まさに”良心の死”を意味するものではないか。

 

  インドが、独立の父・ガンディーの意志に反して核大国の道を歩む今日、

真に「非暴力の精神」を世界に説ける国は、唯一の被爆国・日本において

他に無い。 

  物質文明の悪しき極限であり、悪魔の兵器とも言える「核兵器」を全面

否定する道は「非暴力の精神」しかない。 

  私たちは「核の不保持」をもって、わが国だけでなく、世界を守る使命を

持っていると思う。

 

  それゆえ、敢えて言いたい「日本よ、核兵器を持つなかれ!」

と。これが今、日本の軍備に関して、私が読者に最も訴えたいことである。

 【つづく】

 

 

 

 

 

« 吉田松陰の祖国愛(完 ) | トップページ | 「日本よ、核兵器を持つなかれ!」(2 ) »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

Links