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2013年9月14日 (土)

「日本よ、核兵器を持つなかれ!」(4 )

  西郷隆盛の「文明」観

 

  西郷南洲(隆盛)(*下の肖像画:平野五岳の作で、実際の西郷に最も

近いと言われる)を愛する日本人は多い。それは、彼が明治維新最大

の功労者であったという以上に、悲劇的な最期を遂げた悲運の政治指

導者であったということへの判官びいき的な要素も強く影響していよう。 

  日本近代史の中で、敢えて吉田松陰や横井小楠を除けば、西郷ほど

「道義」重んじた政治指導者も稀である。

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  とりわけ彼は、「文明」の基礎に「道義」を据えた。彼は、文明について、

次のように語る。 

  「文明とは、道の普(あまね)く行はるゝを賛称せる言にて、宮室の荘厳、

衣服の美麗、外観の浮華を言ふには非ず」と(『南洲遺訓』:下の写真)。


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  西郷は、外見的な美や豊かさの中に「文明」があるのではなく、むしろ

道義や礼節を重んじる人びとの生き方の中にこそ存すると説いた。 

  そして、圧倒的な軍事力を背景に弱小国を侵略する欧米人を、彼は、

「野蛮人」言って憚らなかった。

 

  事実、彼は同著の中で、次のように言う。 

  「予は嘗(かつ)てある人と議論せし折、西洋は野蛮ぢゃと云ひしに、

否、文明ぞと争う。否、野蛮ぢゃと畳かけしに、何と、それ程申すにやと、

そこで文明ならば未開の国に対して慈愛を本とし、懇々説諭して開明に

導くべきに、左(さ)に非ず、未開蒙昧の国に対する程、むごく残忍なこと

を致し、己れを利するは野蛮ぢゃと申せば、相手はやっと納得せしなり」

(*下は、アヘン戦争の絵)


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  この西郷の考えは、生涯一貫していた。この彼の信念や価値観こそが、

大久保利通との確執の底流にあった。 

  それは、単なる「征韓論」か否か、の問題ではなかった。板垣退助は

心底「征韓」の考えを持っていたが、西郷の考えは、板垣とは明らかに

違っていた。



  西郷はむしろ、当時の朝鮮を「東洋の対等な隣国」と考え、彼らに

“相互理解”求めようとしたと思う。

  彼の胸底に、勝海舟の「日本・中国・朝鮮」による東アジア連合構想

共通した考えがあったかも知れない。 

  つまり三国を、西洋とは異なる「仁・義・礼・智・信」の儒教道徳による

紐帯によって同盟化しようという発想である。

 

  そのために、まず彼は朝鮮に赴きたかった。そして、それがどんなに

困難なことであっても、ペリーのような恫喝による開国ではなく、衷心か

らの説得によって、朝鮮を開国させたかったのだと思う。 

  それゆえ彼は、朝鮮国への「遣韓使節」の代表になることを、心底切望

した。

 

 そして、その彼の願いが「留守政府」の閣議で了承された時、西郷は、

まるで“子どものよう”に喜んだ。 

  だが、大久保利通や岩倉具視らの帰国後、事情は一変する。大久保

の職を賭けての抵抗で、征韓論がというより、「西郷・遣韓の儀」自体が

葬られる。

 

  西郷の一途さからして、彼は明治政府そのものから身を引きたいと考え、

鹿児島へと去った。 

  以上の経緯を跡づけると、上記の西郷の言葉が生きてくる。 

 つまり、もし彼がペリー同様に、武力によって朝鮮国を開国させた結果、

征服しようと考えたのであれば、彼の「文明」観は、まったくの虚言となる。

あくまで「道義」重んじた彼が、そのような虚言を弄するとは考えられ

ない。

 

  ならば、彼を「征韓論」の筆頭として、まるで軍国主義の頭目のように

取り扱う日本近代史のあり方は、根本的に問い直され、是々非々によって

書き改める必要があると思うのだ。

 

  真の「文明」とは?

 

  歴史に「もしも・・・」というのは禁句かも知れない。だが敢えて、この

禁句を使えば、「もし、西郷が遣韓使節の代表として朝鮮国に赴いて

いれば・・・・」、その後の日韓関係は、今日のものと、ずいぶん違って

いたと思う。

 

  無論、さまざまな可能性が考えられる。例えば、西郷は、鎖国下の

朝鮮国の侵入者として捕らえられ、あるいは、殺されたかも知れない。 

  これは当然、西郷も覚悟していたことである。もし、そんな事態になれ

ば、日本は、軍を動かさざるを得なくなる。 

  だがこれは、大久保が最も怖れたことだった。無論、西郷も、そのよう

な事態を望んだとは思えない。

 

  しかし、いかに鎖国下とはいえ、当時の朝鮮国政府や民衆が、西郷を

殺すようなことをしただろうか?  正直、私には、その可否は判らない。

  だが、もし万が一、彼が無事に遣韓し、政府要人と会見できたならば、

私は、彼が朝鮮国の人びとや朝鮮国政府の”あり方”に少なからぬ影響

を与えたと思う。

 

  それだけの、民族を超えた“感化力”を、彼は持っていたと思うのだ。

この力は、彼以外の明治の元勲たちには無いか、または希薄であった。 

  木戸孝允は言うに及ばず、大久保にも、西郷ほどのカリスマ性は無

かった。 

 

  例えば、『西郷南洲遺訓』は、薩摩隼人が西郷を慕って編んだものだと

考えられがちだ。だが、決してそうではない。同著の編者は、かつて西郷

の官軍に敵した庄内藩士である。

 

  川勝平太氏によれば、庄内藩との戦争に入る前、すでに長岡藩との戦

いで西郷隆盛の愛弟は戦死している。 

  東北戦争は激戦であった。庄内藩主の酒井忠篤(*下の写真は、

断髪後の酒井忠篤:ただずみ:1853~1915*のち、彼は、軍制研究の

ため、ドイツに留学)は降伏した。降伏の式が終わると、彼は手厚くもて

され、辱められなかった。庄内藩士は、それに痛く感激した。 

  (*実は、庄内藩は、会津藩ともども、薩長政権に敵視されていた。

だが、西郷の、彼らに対する処遇は、違っていた。)

  明治3年、酒井公はじめ旧庄内藩士70余人が、鹿児島にいた西郷を

訪れ、教えを乞うた。


           
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  その時の記録が『西郷南洲遺訓』である。同著が最初に出版されたの

は明治23年、庄内においてだった。薩摩人が身びいきで書いたものでは

ない。かつての敵側の人士によって編まれたのである。西郷は、庄内藩

士を、その徳によって感化したのである。(*同著の発行責任者が、上の

酒井忠篤自身である。)



  まさに川勝氏の述べる通りである「徳」こそ、人を感化する力である。

私は、その力は民族さえ超えると思う。西郷隆盛には、それだけの「人徳」

があったと思うのだ。

 

  実は、マハトマ・ガンディー(*下の写真)も、西郷と酷似した「文明観」を

持っていた。彼は言う。 

  「真の意味での文明は、欲求の増加にではなく、それを減少させること

の中にある。これのみが、真の幸福と満足を与え、他者に奉仕する能力

を増加させる」と。

 

  まさに「知足少欲」と自己抑制の中に、真の「文明」が存在するのである。 

また、ガンディーにとって「善き行為」こそ、真の文明に不可欠なものだ

った。彼は、我々に強く訴える。 

 「まず、他者(ヒト)に対して、善を施せ!」と。 

何より、人の益・幸せに繋がる行為をすることこそ、我々に求められるもの

であり、それこそが「真の文明」と呼ばれるに価するものなのだ。

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  あらゆる欲求や欲望が際限なく肥大化し、それが文明の証(あかし)で

あると錯覚している我々現代人にとって、両者の「文明観」は、極めて傾聴

に価する。 

  西郷とガンディーの言葉に耳を傾けることこそ、今我々に最も求められる

ことではないだろうか。    【つづく】

 

 

 

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