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2013年9月 2日 (月)

吉田松陰の「祖国愛」(1 )

  〔皆さんへ〕

 皆さん、お早うございます。 

お元気でしょうか? 

 たいへんご無沙汰いたしました。 

ひと月近いご無沙汰を、どうか、平にご海容くださいませ。

  この間、親しき友人たちから、心遣いのメールが届きました。

その方々のご厚情を、心より感謝申し上げます。



   また、拙ブログを、謹んで再開させて頂きます。
 

私事ですが、今から7年前、下の書を上梓いたしました。


         Photo_2



   その中の第9章で、吉田松陰の「祖国愛」について記しました。
 

今、改めて、その文章を読み返しながら、出版当時の自分の思いを新たに 

しています。

 

   すでに、ご購読いただきました方もいらっしゃるかと思いますが、そうで

ない方々のために、また自分自身、愛国者・吉田松陰に対する思いを、

ここで、もう一度、振り返ってみたいと考えまして、本ブログに連載させて

頂きたいと存じます。 

   どうか、皆さまにも、ご高覧いただけますならば、幸いです。



    吉田松陰における「大和魂」


  我々日本人の原点に宿るもの、それが「大和魂」である。これを、最も

端的に表現した近代の思想家が、吉田松陰ではあるまいか。 

  彼の説く「大和魂」は、本居宣長の「大和ごころ」をより政治化し、かつ

普遍化したものとも言える。

 

  では、吉田松陰における「大和魂」とは、いったいどのようなものだったの

だろうか。次のような和歌が在る。

 

  かくすればかくなるものと知りながら 

         已むに已まれぬ大和魂



  身はたとえ武蔵の野辺に朽ちぬとも
 

        留め置かまし大和魂

 

  周知のように、二つの和歌とも、松陰の作である。 第一首は、1854

(嘉永7)年、彼がアメリカ渡航に失敗後、下田の獄から江戸に移される

途中に詠じたものである。

 

  彼は、高輪の泉岳寺(*下の写真は、同境内の赤穂義士墓所)の前を

通る時、この和歌を赤穂義士に捧げた。赤穂義士たちの「誠」に対する

松陰の共感、敬意の念が偲ばれる。

               Photo_4

  松陰には、鎖国下で国禁を犯すことの結果が、目に見えていた。事実、

彼は失敗後「死罪」を覚悟していた。 

  しかし、それでも彼は、出国の禁に挑戦した。それほどに、彼は異国に

出て、その国の国情・国勢を知り、祖国防衛のための情報を得たかった

のだ



  彼は、単にアメリカに渡航したかったのではない。ロシアでもイギリスでも、

その国は問題ではなかった。 

  事実、松陰は前年(嘉永6年=1853年)10月、プチャーチン(*下の

肖像画)率いるロシア軍艦に搭乗したく長崎を訪ねている。

           Photo_2

 

  だが、あいにく、彼が到着する前に、ロシアの軍艦は、すでに長崎港を

離れていた。その挫折後の、下田沖でのアメリカ渡航の企てだった。 

  しかし、当の交渉相手ペリー(*下の肖像画)は、当時24歳だった松陰

の切なる希望を叶えてやることはできなかった。

            Photo_3
  とはいえ、マシュー・キャルブレイス・ペリー提督は、決して冷酷無比な

男だったわけではない。むしろ、極東の小国の若者のチャレンジ精神と

その心意気に興味を覚え、敬意さえ抱いた。

 

  だが、幕府との条約締結に際して、その汚点となるような事態は、極力

避けたかった。 

 それゆえ彼は、「幕府からの許可が出るまでは、残念ながら、あなたの

意に沿えない」と、松陰の申し出を丁重に斥けた。 

  他方、松陰も、決してペリーを恨まなかった。渡航失敗後、彼は潔く自首

し、その身を幕府の獄吏に預けたのである。



  赤穂義士の墓前で、松陰が詠んだ「已むに已まれぬ大和魂」とは、何より

”国を愛する思い”だった。 

  その国とは、長門の国(長州藩)といった意味での、当時の「クニ」のこと

ではない。 

 むしろ、261に及ぶ藩の統合体とも言うべき「日本国」であった。松陰の

思いは、すでに長州藩という一藩の域を超えて、日本全土に及んでいた。

  それゆえ彼は、脱藩してまで東北地方を旅したのである。無論これは、

彼が肥後藩士の宮部鼎蔵との約束を果たすという友情に基づいていた。

 

  また、脱藩してまで約束を守り抜くという行為を通して、長州人が「信義」

尊ぶ者であるということを、彼は他藩の者に知ってほしいという思いもあった

であろう。 

  だが何より、「東北旅行」という行為は、広く、かつ深く“日本国を愛する

思い“なしに出来ることではなかった。その意味で、彼の「大和魂」とは、

まさに至純なる祖国愛った。

  また、この「已むに已まれぬ大和魂」とは、「私心(乃至は、私情)」を滅

して(あるいは、超えて)、「公」に殉ずる思いでもある。


  確かに、「公」が、常に善とは限らない。また常に正しいとも言えない。

しかし、「私心」が自由気ままな反面、独善、かつ利己主義に堕するのに

対して、「公」を重んじる精神は、それに一定の規律を与え、「仁・義・礼・

智・信」といった道義に導くことができる。少なくとも、それを保持する可能

性が、「公」には存在する。

  それも、決して圧政(乃至は、圧制)の道具としてではなく、むしろ個々人

(あるいは、国民)統合の要として「道徳」を説く責任と力とが、「公」には存

するのである。

  その意味では、当時の政治情況から言えば、最終的に倒幕に意を決し

た松陰にとって、もはや、幕府は「公」に値するものではなく、ましろ天皇

の下に創造される「新生日本」こそが「公」と言えるものであった。



  松陰は、何より「情報」を重視した戦略家であった。だが同時に、彼は、

「私」をまとめ、かつそれらを導く「公」の必要性を強く感じていた。

  彼の説く「一君万民論」には、そのような民を統合する「公」の存在があ

った。彼は、その「公」の精神の確立に、自ら邁進し、かつ殉じたのである。

  規模こそ違え、赤穂義士には、主君浅野内匠頭長矩(ながのり)の無念

を晴らそうという思いと同時に、幕府の処置が「喧嘩両成敗」に反する

不公平なものだったとする「意義申し立て」があった。

  つまり、彼らにとっては、幕府の裁断に対して、これは「義」に反すると

いう批判の思いがあったのである。この「義」を重んじる赤穂義士に対

する共感と敬慕の念が、松陰に、「已むに已まれぬ大和魂」を詠じさせた

のではないだろうか。

                        Photo


  ところで当時、異国船襲来で日本周辺が急を告げる最中、相応の対処

も出来ずに、ただ既存の鎖国令を墨守するだけの幕府に対して「義」

(あるいは、正義)を実感していただろうか?

  むしろ、幕府の「義」に対して、心からの疑念を抱いていただけに、敢えて

「国外逃亡の禁」をおかしたのではあるまいか。

  その意味で、松陰の下田踏海の行為(いわゆる「下田密航事件」)は、

当時の時の流れにほとんど対応できない幕府の硬直性と、その「不義」に

対する、命を賭けた挑戦だったと言えよう。

  この命を賭した行為に至る心情こそが、まさに「已むに已まれぬ大和魂」

だったのである。  【つづく】

 

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