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2013年9月 5日 (木)

吉田松陰の「祖国愛」(3 )

    彼の、深い“家族愛”に基づく「祖国愛」


  その意味で、彼の「死生観」とは、死や生に徒に囚われることではなく、

むしろ人を愛し、他者を信じ、自ら成すべきだと確信したこと(無論、

それは「善」なることであるが)を、果断に実行することだったのではなか

ろうか。そして、松陰自身が、それを実行して見せた。

 

  しかし、彼の短い生涯の生き様は、一人の愛国者の域を超えていたよう

に思う。 

 彼が訴えた「大和魂」も「死生観」も、極めて”日本的なるもの”である。

だが実は、それは、日本一国に留まるものではないと思う。もっと広く、

かつ普遍的なものだと思うのだ。

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  事実、真の愛国とは、自国のみを愛することではないと思う。むしろ他国

をも信じ、人間そのものを愛することに基づくものではないだろうか。 

  松陰の「愛国」には、そういった“人間愛”があったと思う。それゆえに、

彼は“普遍性”を持っていたと思える。



  周知のように、松陰は、孟子(*下の肖像画)の思想をこよなく愛した。

孟子の言葉、「至誠にして動かざる者は、未だこれ有らざるなり(誠を尽く

しても感動しない者は、まだ一人もいない)」というのが、彼の終生変わら

ぬ信念であった。彼は、人間性の“善なること”を信じていた。

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  彼は、この信念を基に、死の直前まで幕閣(具体的には、江戸伝馬町の

牢内にあった評定所で彼の取調べにあたった三人の奉行、つまり寺社

奉行松平伯耆守、町奉行石谷因幡守、勘定奉行池田播磨守)たちを説得

しようと試みた。

 

  だが結局、それが果たせなかった。その原因を、「自らの不徳」と言うほ

どに、松陰は真に謙遜な人であった。

  同時に彼は、真に親、兄弟・姉妹を愛した人だった。次のような和歌が

ある。 

 
  帰らじと   思い定めし   旅なれば  ひとしほぬるる 

涙松かな 

 

  親を思う  心にまさる   親心  きょうの音ずれ  

何と聞くらん



  一首目は、1859(安政6)年、江戸幕府から嫌疑をかけられた松陰が、

駕籠に網をかけた「網駕籠」に入れられて江戸へ行く際に、萩を出立する

時に詠んだ歌である。この嫌疑とは、伏見要駕策と老中間部詮勝(あき

かつ)襲撃計画に関するものである。

 

  高橋文博氏によれば、松陰の幕府への提言の要点は、現時点での

開国はアメリカなどの強制による“受動的”なものであり、国家の独立性

と尊厳を否定するものであるから承認できない。

 

  しかし、鎖国は日本古来の国法ではなく、海外の状況をよく調査し、国力

を整えた上で交易を積極的に行なうべきである、というのが彼の持論であ

った。 

 今日考えても、極めて合理的なものだったと言えよう。松陰は、決して

単純な「攘夷論者」ではなかった。 

  だが松陰は、三奉行の説得に失敗し、かえって間部襲撃に関する言質

をとられて、「死罪」を宣告された。

 

  二首目は、この報せを聞くことになる両親の胸中を想って、彼が詠んだ

歌である。 

 彼は、無類の「親思い」であった。また同時に、貧しく弱い者への同情者

でもあった。 

 彼の祖国愛は、この「親への敬愛」と人間愛に基礎を置くものだったと

言えよう。





「人間愛」こそ、祖国愛の原点





  吉田松陰は、真の“仁者”であった。彼には、杉敏三郎(*下の肖像画)

という弟がいた。 

 敏三郎は生来、耳が聞こえず、口も利けなかった。松陰は、この弟のこと

を、たいへん心に懸けていた。

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  松陰が肥後(熊本)に横井小楠(*下の写真)を訪ねた時も、彼は帰路、

本妙寺(*下の写真)に参詣している。

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 敏三郎の全面的な回復は無理としても、清正(せいしょう)公の御廟に、

彼の加護を祈念したことだろう。

  本妙寺は日蓮宗の名刹で、当時、ライ病(ハンセン病)の患者が多く参道

に集まっていた。松陰は、そのような人びとが座す中を参拝したのである。

 

  私事だが、小学校三年生の頃、学校から本妙寺へ遠足に出かけた。

昭和30年代前半でさえ、いわゆる乞食のような人びとが、参道で物乞いを

していた。

  中には、みすぼらしい幼児を伴った者もいた。私は子ども心に、そのよう

な親子を見て心が痛んだ。

  思わず、持っていたキャラメル(カバヤ製だったか)を箱ごと、その子ども

に上げてしまった。人に褒められたい、などと思ったわけではなかった。

だが、なぜか、そうせずにはいられなかった。



  ところで、健康な人には、どうしても病者の気持ちは理解できない。
 

だが、世の中には、さまざまな障害を背負った人びとがいる。 

  例えば、15歳になっても、今まで一度も起き上がったことがなく、ただひ

たすら寝たままの子どもたちがいる。

 

  彼らは、自ら意味のある言葉を発することが出来ないばかりか、自力で

飲食することも、歩くことも、本を読むことも、何一つ出来ないのだ。 

  自ら言葉を発することが出来ず、その目配せや目の輝きが“言葉”となり、

笑顔といった表情だけが唯一の“自己表現”となるような重度の障害者の

存在を、我々は、決して看過してはならないと思う。 

 しかし吉田松陰は、弟敏三郎を通して、そのような人々の存在を熟知し

ていた。彼は、稀代の才能豊かな天才である前に、徳高き仁者であった

と思う。

 

  野山獄(*下の写真は、野山獄跡)でも、松陰は、多くの囚人たちと

出会った。だが彼は、決して人を差別せず、彼らと対等に関わった。

彼は、書道や俳句を得意とする囚人たちの「教え子」となり、快く彼ら

から学んだ。 

  松陰と接した多くの囚人たちが、彼を通して”新しい世界”を発見し、自ら

の人間性と、人としての自信を回復していった。


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  その囚人仲間に、松陰の人柄に心魅かれた一人の女囚がいた。

彼女の名は、高須久子という。松陰より12歳年長の武士階級の寡婦で、

被差別部落民たちとの交流の咎(とが)で入獄していた。

 

  彼女自身、決して淫らなことをしたわけではなかった。だが、識者の言に

よれば、当時の常識を超えた博愛的な行為ゆえに、密通の疑いをかけら

れての入獄だった。

 

  木村幸比古氏によれば、松陰は、久子の処分を気の毒に思ったと見ら

れる。松陰は、久子の博愛を理解し、彼女の人間愛に共感した。二人は

俳句や和歌を通して交流した。

 

  両者は男女の性愛を通してではなく、遥かに高い人間愛を通して、お互

いの心を高めあった。 

  久子との交流は、松陰の生涯に、一つの華を添えていると思う。このよう

な弱者や被差別民への「人間愛」こそ、松陰の祖国愛の原点だと思うのだ。

  最後に、この祖国愛を醸成する、松陰の「教育観」について論じたい。

【つづく】

 

 

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