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2013年9月

2013年9月30日 (月)

「日本よ、核兵器を持つなかれ!」(6 )

   日本人に求められる「羅漢の和」の精神

  プラザ合意が取り決められた1985年は、日本にとって“運命の年”

だったような気がする。アメリカ再生のための、一方的な「取り決め」を

きっかけとして、日本では、バブル景気が起こった。 

  だが6年後には、そのバブルが崩壊し、多額の不良債権に苦しむ金融

機関の倒産が相次いだ。いわゆる「失われた10年」となった。 

  そして“日本漂流”の歳月が続き、小泉改革の5年間を迎えた。それも

9月で終了するが、未だ〝閉塞した“状態だ。 

 

  ところで、あの1985年の8月12日、御巣鷹山中腹への日航機墜落事故

起こっている。それは、世界航空史上2蕃目の大惨事だった。 

  昨年、NHKのドキュメンタリーで、ボイスレコーダーが解析され、乗組員

たちのベストを尽くした必死の対応が報じられた。 

  そこでは、実際に操縦桿を握っていた佐々木裕(ゆたか)副操縦士と彼

に指示を与えていた高濱機長との真剣、かつ切迫したやりとりが、克明に

記録されていた。 

  実は同日のフライトは、佐々木操縦士の機長昇格試験を伴ったものだ

った。 

 だが同機は、尾翼が吹き飛び、ミサイルのような形態になっていた。

いかに熟達したパイロットでも、操縦は実質上不可能だった。

  ( *下の写真は、事故機のJA8119と「昇魂の碑」)

         Photo_4


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  実は、佐々木裕氏は、私より3歳年長で、彼は、私の小学校の先輩で

ある。家も100メートルと離れておらず、彼はとても温和、かつ眉目秀麗な

方で、私の憧れの先輩だった。佐々木家と我が家との縁も深かった。 

  それだけに、あの大事故は、決してひとごとではなかった。




  ところで、機上から日本の陸地を見下ろすと、わが国は「山国」である

と感じる。確かに、陸地の4分の3は、山である。この山には、広大な森が

広がっている。 

  梅原猛氏(*下の写真:1925~)は、「日本において最も誇るべきもの

は何か?」と自問しつつ、「私は、日本の森であると答えたい」と語る。 

いわゆる、先述した「森の文明」である。

                  Photo_9


  梅原氏の言にもあるように、日本の全国土の67%が森林であり、その

うち54%が天然林である。この森の一番巨大なものが富士山麓である。

  その意味でも、富士山は日本の誇りであるといえる。そして、「森の文明」

ともいえる縄文文化が日本文化の基層を形成している(梅原著『森の思想

が人類を救う』より)。

                          Photo_11

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  梅原氏によれば、その文化の精神的特徴は、なにより「平等志向」である。

この平等は、人間の間のみならず、人間と動物や植物の間にも存在して

いる。 

  そして、この平等化の根底にあるのが「和」の原理である(同前)。 




  確かに、縄文と弥生の両文化は、互いに争い合った時期があった。

だが終局的には、相互交流し、和合しあっている。 

  これが、略奪・破壊の欧米文明や中国文明とは、本質的に異なる点だ。

無論、和合するには時間もかかろうが、これは決して不可能なことでは

ない。

 

  本来「和」の精神を重んじる日本人にとって、大事な点が三つある。 

これを梅原氏は、①孤独に耐え、②自分で決断することができ、③最後

に自分で責任を取ることだ、と説く。 

  実はこれこそ、「独立不羈の指導者」だったケネディやガンディー、それ

に吉田松陰や石橋湛山にあったものである。

 

  梅原氏は、この三点を有することを「羅漢の和」と表現する。私は、

この“自主・独立性”こそ、日本の指導者や国民に求められるものだと

思う。

 

    再認識すべき「孝」の精神

 

  私は孝」の精神こそ、人倫(=人の道・道徳)の基本であると思う。 

現代の日本に最も欠けているのは、この「孝」の精神ではないだろうか。 

  先述した「姥捨山」物語の主題も、明らかに「孝」の精神である。 

私は、この“精神”を、真心文明の中心に据えたい。

 

  「孝」の精神を強調する日本の代表的思想家は、周知のごとく、中江藤樹 

(1608~48)である。彼は、私の敬愛する日本の思想家であり、私の理想と

する日本人でもある。 

  私事だが、彼のことを、すでに中学校一年生の頃から知っていた。無論、 

詳しく知っていたわけではない。 

  だが、とにかく”エライ人”だという感じはあった。実は、中学校に入学した 

記念に父が、私に浩瀚な百科事典を買ってくれた。 

  その裏表紙に、聖徳太子や源頼朝と共に、中江藤樹の肖像画が載って

いた。それが、とても印象深かった。

                             Photo_14


  解説によると、藤樹は最初、朱子学を学んだ。だが、それが武士中心で

あり、身分秩序を重んずる形式主義に陥っていると考え、彼は、『孝経』

(孔子が、門弟の會子に「孝」を説いたとされる書)に基づき「孝」を道徳

の根源とする考えを展開した。 

  つまり彼は、朱子学があまりにも外面的な形式(礼儀)を重んじ過ぎてい

るのに不満を感じ、「身を離れて孝なく、孝を離れて身なし」と述べ、内面

的な「孝」を、すべての道徳の根本であるとした。

 

  しかし、藤樹の「孝」は、単に父母に対する孝養を意味するだけではない。 

それは、君臣・夫婦・兄弟・友人など、すべての人間関係において「愛敬

(あいけい:愛し敬うこと)」の実践を意味した。 

                    Photo_17


  また藤樹は晩年、その「孝」の奥に、人が生まれながらに持つ、”生き生き

とした知の働き”としての「良知」の存在を認めた。 

  それゆえ彼は、人が自らの心を正して、この生得的な“善なるもの”を、

実践によって発揮しなければならないとした。

                      


  内村鑑三は中江藤樹、とりわけ彼の「儒者」観に関して、次のように書い

ている。 

  「彼の教へに非常に特異なる一事があつた。彼は、弟子に於て、徳と人格

極めて尊重し、學問と学識を甚だ軽視した。 

  左に掲ぐるは、彼が眞の學者を如何なるものと考へてゐるかを示すもの

である、―『儒者の名は、徳にあつて藝にあらず、文學は藝なれば、もの

覺えよく生れ付きたる人は、誰もなりがたき事にあらず。 

  たとへ文學に長じたる人にても、仁義の德なきは儒者にあらず、たゞ文學

長じたる凡夫なり。一文(いちもん)不通の人なりとも、仁義の徳明らか

なる人は、凡夫にあらず、文學なき儒者なり』」(『代表的日本人』)

 

  この「儒者」とは、現代における「学者」である。だが、広い意味でこれは、 

藤樹の「人間論」でもある。この藤樹が、地元の近江で多くの子どもや貧し

百姓たちに伝えたのが、「人生の目的は利得ではない。正直である、

正義である、人の道である」という理念であった。

 

  我々日本人は今、この「正直さ」「人の道」を、ひどく軽んじてはいない

だろうか。親子間の「孝」だけでなく、あらゆる人間間での「愛敬(あいけい)

の精神」が希薄になっているように思う。 

  それだけに、単に金目当てで人を騙したり、安直に人を殺したりするよう

残酷な事件が多発している。 

  それゆえ私は、藤樹の「孝」の精神こそ、今に生きる我々が、最も再認識

すべき精神だと思うのである。  【つづく】

 

 

 

 

 

2013年9月21日 (土)

学ぶべき吉沢正巳氏の生き様と行動

  ”希望の牧場”に生きる、抵抗の酪農家



  
東日本大震災や福島原発事故を機に、自らの運命が暗転した
 

方々は多い。 

 無論、2万名近い死者(行方不明者を含めて)のことも、決して

忘れてはなるまい。  

  本日、ここに取り上げる吉沢正巳氏(*下の写真)も、原発事故の  

せいで、その運命が激変した方である。 


                          Photo 
            

 

   だが、吉沢氏の人間的素晴らしさは、その余りにも過酷な現実にも   

負けず、自らの信念に対して忠実に生き、かつ雄々しく行動している  

ことだ。  

  同氏は、今まで飼っていた、被曝した多数の牛たちを、餓死させたり

殺処分したりするに忍びず、今も”希望の牧場”で、彼らを飼育して

おられる。
                         
           Photo_4



 実は、私は、吉沢氏のことを、テレビ朝日系の番組『抵抗の  

酪農家』というドキュメンタリーで、 初めて知った。番組を観て、

同氏の 生き方に、私は心から感動した。  

  そして、より多くの方々に、同氏のことを、是非知ってほしいと感じた。  

   先述したように、いかに、被曝し、かつ売り物にならなくなったとは

いえ、吉沢氏は、今まで飼育していた牛たち を餓死させたり、あるい

は、政府の命令に従って殺処分することを、その牛飼いとしての誇り

自らの勇気で、決して許さなかった。 

   そして、自ら被曝の深刻化さえ顧みず(まさに、「決死の覚悟」で)、

彼らの面倒を見ておられる。その生き様に、私は、まさに”真の人間”

見る 思いだった。 

 

  原発事故当時、吉沢氏は、福島原発から14キロ(つまり、20キロの警戒 

区域内)に位置する浪江町で、330頭の黒毛和牛を飼っていた。 

  同氏は、福島原発の爆発後の煙を直に見、かつその爆発音を聞いた。 

  爆発後、一週間、彼は、多くの逃げ惑う人々を見た。当事者の「東電」さえ、 

現地から逃げようとした。

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  しかし、そんな地獄絵図の中、彼は、自衛隊員が、まるで特攻隊か 

決死隊のように、わが身も顧みず献身的に働いている姿を、その目に 

焼き付けた。そこで思った言葉が「決死、救命!団結!」である。

              

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  爆発一週間後、吉沢氏は単身、軽トラックで上京した。そして

東電の本社に乗り込み、応対した総務部長に対して、”牧場の被災に

対する弁償”を要求した。 

  そこで、彼は、「(東電)逃げるな!  俺だったら、ホースを持って、 

(爆発した)建屋に飛び込んで行くぞ!」と言い放った。 

  その後、彼は、農水省、経産省、原子力安全保安院にも駆け込んだ。 

そして、保安院では、「今まで、“安全・安全”と言っていたが、何が安全だ。 

おまえらは、原子力安全不安院だろ!」と言った。 

  それから、吉沢氏は、政府にも掛け合い、枝野内閣官房長官が、

「原発爆発事故」ではなく「原発爆発事象」と誤魔化した欺瞞を糾弾した。 

  吉沢氏の行動力は、まさに電光石火の如くである。


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現在、吉沢氏は、330頭(今日では、少し増えて360頭)の牛たちに

飼料や水を与え、彼らを守り抜いている。 

  それに至るまで、同氏は、当時の民主党政府や福島県警本部、さら

には南相馬警察署などから、様々な迫害や妨害を受けた。それでも、

彼は、めげなかった。

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  今では、10軒の、志を同じくする酪農家仲間と、牛たちを飼育している。 

その行為は、まさに「原発再稼働」に対する抗議の

シンボルである、と 吉沢氏は、語る。彼は言う。 

「『被曝牛を殺せ!』という政府の命令は、まさに『棄畜政策』、これは、

『棄民政策』につながって行くだろうと思います」と。

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  吉沢氏は訴える。
 

「(自分の)残った人生を、牛にエサをやりながら、考えます。 

  『(この行為は)何のために?』   

 『何でやっている?』『意味あるか?』 

  『エサ、無いじゃん』・・・・ 

  でも、精一杯頑張って、ベコヤ(牛飼い)として、”この原発の時代を乗り

越える!”  絶対、“乗り越える!”と覚悟を決めました。

 

  これ(=被曝牛の飼育)を、”人生のテーマ”として、私は、多くの方々に 

語りかけます。 

  (でも、これから) 誰かがじゃなく、あなた自身がやるんですよ。 

そうしなければ、ドイツのようにはなれません。 

  ドイツが、あれだけになっているのは、それだけ、国民の議論が、国民の 

行動が、国民の実力が、日本よりも、数倍も勝っているから、あのように 

なるのです。 

  でも、頑張れば、(私たちも)あのようになれると思い

ます」と。

 

  吉沢氏が、今年の8月6日、広島で行なった講演を、下に貼り付けます。  

どうか、是非、ご高覧ください。  【了】  

  http://youtu.be/kPjdiwg9E70

        (後記: いつも、ご愛読いただきまして、誠に有難うございます。  

   率爾ですが、私用にて、来週一週間、休筆させていただきます。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2013年9月20日 (金)

“真理”は、人を自由にする!

    今こそ求められる“真実の覚醒”

 

 “真実の覚醒”こそ、今、われわれに、強く求められ

いる。虚偽や虚報を、たとえ山ほど積み上げたとこ

ろで、それが、一体、何になろうか!

 

  真実を知って初めて、人間は、真に“生きている”

さえ言えよう。 

 だが、われわれが真理や真実を知るためには、それ

を見出し、かつ伝えてくれる人がいなければならない。

 

  その意味で、本日は、二人の英傑を、ご紹介したい。 

一人目は、リチャード・コシミズ氏(独立党主宰)、

二人目は、ジム・ストーン氏(元アメリカ国家安全保障

局〔NSA〕内部告発者)である。

 

                   Photo

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   ジム・ストーン氏の「You  Tube(*下の写真) は、

すでに拙ブログで取り上げたことがある。だが、その

重要性に鑑み、ここに、再度、貼り付けたい。

       Photo_3



   これらの、たいへん意義深い「You  Tube 」を、どう

か、虚心坦懐に御覧いただきたい。 

  まず第一に、リチャード・コシミズ氏の講演、『311

大震災の真相』である。

        http://youtu.be/kG6Qsd6tObk   
 

    Photo_4


    

   次にご紹介したいのは、上記の講演で、コシミズ氏

が採り上げていた気象庁の記者会見の様子である。 

  そのタイトルは、「311人工地震、東北関東大震災

(*当時は、まだ「東日本大震災」という名称に定まっ

ていなかった『3回の大きな地震が起きた』」であ

る。 

     http://youtu.be/r8j1QGs_2X0

 

 或る心ある識者の言では、これこそ、「気象庁が血眼

になって消しまくっていた動画」だと言われるものだ。  

  5分38秒間の記者会見中、4分21秒あたりから、

「通常、こういうものが無いものですから・・・」という、

まことに良心的、かつ客観・科学的なプロの言葉が

聞こえる。 

  何気ない言葉かも知れないが、子々孫々、忘れて

はならない貴重な”言葉”なのではあるまいか。

 

  三番目が、ジム・ストーン氏による内部告発「311

大震災は、核兵器を使った、新しい形の『テロ』だった」

というものだ。 

        http://youtu.be/tLV2YAsFn9U

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  リチャード氏の言にもあるように、アメリカ軍は、

すでに1944年末の時点で、同様の核兵器を、日本の

愛知県沖で使用しているので、決して“新しい形の

「テロ」” とは言えないだろう。

 

  だが、ストーン氏が命を賭けて内部告発した事実は、

われわれ日本人にとって、限りなく貴重なものである。 

  ラジオによる「インタビュー」であるが、是非、ご視聴

いただきたい。

 

 様々な“真実の覚醒”を通して、アメリカ(無論、イスラ

エルも含めて)に対して、「倍返し」ならぬ、一世一代の

”チャブ台返し”をしたいものである。  【つづく】

 

 

 

 

 

2013年9月19日 (木)

今日のアメリカへの、正直なる提言!

   「アメリカ合衆国(USA)、改名のススメ 」



  上のタイトルを読まれた皆さんは、”一体、何だろう?”と思われたことだ

ろう。 

 セルバンテスのドンキホーテよろしく、巨大な敵(実際は、風車)に向か

って、“アメリカは、その国名(USA ) を変えた方がいいんじゃないか!”

と訴えているのである。

 
それでは、一体、どう変えたらいいのか? 

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 ずばり、「USO(=United  States  of  Omens)」である。つまり、”The 

Omen  のような悪魔たちによって支配されている国(=合衆国)”という

国名に変えたらいいと思う。

  この国の名前は、それこそ、私にとって、「USO(うそ!)」なのである。 

正直、私は今、心の中で、アメリカのことを、「USA 」とは呼んでいない。 

むしろ「USO(うそ!)」と呼んでいる。 

 私は、この国名の方が、余程、今日のアメリカに似合っていると思うのだ。

アメリカ、特にアメリカ政府は、何から何まで”うそ”で固められている。

ブッシュ・ジュニアとオバマの間には、何ら本質的な差異は無い。

  両政権とも、紳士ヅラした犯罪者たちの集団である。

 

  ところで、「omen」とは本来、「前兆」とか「予兆」とか「兆し」という意味に

過ぎない。 

 だが、1976年に映画『オーメン(Omen)』が封切られて以来、Omen と

いう言葉は、ダミアンという名の“悪魔の子”を意味するようになった。 

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  連作の最後の段階で、”イエス・キリスト”まで登場するこの映画は、私に

とって、妙に含蓄のある、意味の深い映画に思えた。

 

  そして、様々な書物や資料を渉猟し、2年間のハワイ大学留学後に感じ

たものは、今日のアメリカは“悪魔(Omen) のような人々によって支配

されている国”というものであった。

  日本国内の心ある方々同様、「9.11」も「3.11」も、まさに、このような

者たちによって実行されたと、私は確信する。 

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  事実、今日の日本は、”このような邪悪な人々”によって包囲されている

のである。 

 勿論、「TPP」も、まさにこの悪魔たちの企ての範疇内である。それにノコ

ノコと積極的参加を表明する「自民党」も関係官僚も、この種の者たちの

”一味”さえ言えよう。

 

  この真実を、下の「9.11」の真相究明(特に、三つのビルの倒壊〔実は、

制御解体〕)に関するレポートを、皆さんに、是非観て頂きたい。 

  一時間に及ぶ長編だが、実に質の高い報道内容だ。すでにご存知の

方も多いと思うが、ご高覧いただければ、幸いである。

 *当初、「無音状態」だが、その内、音声が入る。)

 

  このドキュメンタリーをご覧になれば、アメリカが、もはやUSAではなく、

それこそ「USO(うそ!)だ」という私の真意が、充分、ご理解いただける

思う。つまり、私の提言が、決して素っ頓狂な代物ではないことを、

きっとご了解いただけると感じる。

  このYou  Tube の最後の部分に、次のような言葉がある。

 ” I  am  a  firm  believer  in  the  people. 

  If  given  the  truth ,  they  can  be  depended  upon

to  meet  any  national crisis. 

  The greate  point  is  to  bring  them  the  real

facts.  ”

  (  私は、国民を固く信じている。

       真実が伝えられたならば、国民は、あらゆる国家的な危機に対応

 するに違いない。

       重大な点は、国民に、あるがままの事実を告げることだ。)

  これは、アメリカのリンカーン大統領の言葉である。

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アメリカ北部と同南部を統合・再建したリンカーンは、アメリカ合衆国

”中興の祖”でもあった。そこには、新しいUSAがあった。

  彼の再来とも言われたJ・F・ケネディの時代にも、雄々しいUSAがあった。

だが、今のアメリカは、もはや、かつてのUSAではない。むしろ、USOである。

  そして、このリンカーンの言葉は、今日の日本人についても言えるのでは

あるまいか。

  私は、「B層」と侮蔑される国民の中にも、きっと覚醒する人々が、今後、

必ず出現すると確信している。

 

  加えて、このドキュメンタリーを観て、ブッシュ・ジュニアもチェイニーも、

ライスやラムズフェルドも、「国家反逆罪」で捕らえられ、裁判にかけられ

るべきだと考えるのは、決して、私だけではないと思うのだ。  【つづく】  

  http://youtu.be/0d5L8gzIsT8

 

 

 

 

 

 

 

2013年9月17日 (火)

「日本よ、核兵器を持つなかれ!」(5 )

 忘れてはならない「真心の文明」

 

  今後、日本国内がますます暗く、かつ厳しくなることが予想される。老人

や子ども、それに貧しい人びとが虐げられ、“豊かな者がより豊かに、貧し

い者がより貧しくなる”と聖書に表現されたような悲劇的状況が身近なもの

となる。そんな中で、我々が決して忘れてならないのは「日本文明の本質」

ではないだろうか。

 

  それでは、日本文明の本質とは、いったい何だろう?  結論から言えば、

それは「真心」の文明だということである。それは、かつて「清明心」「誠」

「赤心」などと呼ばれたものである。

 

  清水馨(けい)八郎氏によれば、白人社会は、常に金・物の経済を唯一

の核に置いている。彼らの対人関係は利害だけで動くので、日本人のよう

な義理人情は生まれない。 

  これに対して、日本の「真心の文明」は、拝金、物質一辺倒の白人文明

の対極にある文明である。

 

 清水氏の言にもあるように、金や物で動く文明は、常に競争と恐怖に

怯えなければならない。この傾向は、最近の日本でも顕著になった。

 これに対して、真心の文明は、安らぎと平和の世界を生む。



  1922(大正11)年、アルベルト・アインシュタイン(*下の写真)が来日した。

滞在した43日間、彼が東京帝大や慶応義塾大学で説いた相対性理論は、

当時の日本人に多大な刺激を与えた。

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  同時に彼は、日本の寺院や文物を見聞し、日本の「真心の文明」に触れた。 

清水氏によれば、彼が最も感動したのが「姥捨山」の話である。それは、

次のようなものである。

 

  信濃の国の姥捨山の麓に住んでいた若い農夫が、その老いた母親を

山奥へ送ろうとした。母親は自分が口減らしになって、将来ある孫たちを

何とかして生かそうとしたのである。

 

  山道を奥深く辿りゆくにつれて、若者の背に乗せられた老いた母は、

しきりに樹々の小枝を折っては山道に捨てている。 

  若い息子は密かに思った。これは、母が山に残されるのを恐れて、また

村に帰るための道標にしようとでも考えているのだろうか、と。

 (*下の写真は、映画「楢山節考」より) 

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  ついに道のない山奥に着いたので、息子は母親を背から降ろして、涙

ながらに別れを告げた。その時、母親は息子に言った。 

  「こんな奥に入ってしまったのだから、お前が家へ帰るのに、きっと道に

迷って困るだろう。けれども、今来た道には、私が小枝を折って捨ててお

いたから、その小枝を頼りに行けば、迷うことなく家に帰れる。気をつけ

て安全に帰りなさい。さようなら。」



  この言葉を聞いて、息子はびっくりした。こちらは心ならずも、母を捨てて

いるのに、捨てられた母親の方が、息子のことをこんなにも心配している。

こんな母親を、どうして見捨てて帰れるだろうか。 

  息子は、よし、二倍働けばと決意して、再び母親を背負って、山道を降り

た。 

  「奥山に  枝折(しお)りしおるは   誰(た)がためぞ   親の身捨てて 

帰る子のため」
 

 
  清水氏は、アインシュタインが、この物語の中に日本人の本質とその

「心の文化」見た、と述べている。 

  確かに、この親子の〝情愛”こそ、今の日本で失われつつある美しき

心情ではないだろうか。 

  でも、我々日本人は、この心情を、「真心の文明」として潜在的に保持し

ているのである。そのことを、決して忘れることなく、大切にすることこそ

肝要である。

 

   一つのモデルとしての「日本文明」

 

  日本は、一国で一つの「文明」を形成する世界でも珍しい国家である。

たとえ、第二次世界大戦における敗戦国とはいえ、それはアメリカに敗北

したというより、アメリカの「影の政府」とも言うべき国際金融資本に敗北し

たのである。 

  この「寡頭勢力」は、すでに大英帝国を骨抜きにし、ロシア帝国を滅ぼし、

アメリカの実権を奪った大勢力だった。

 

  実は歴史上、次のようなことがあった。大英帝国の海外発展にとって

決定的な要因となったのは、スエズ運河の株取得である。 

  この運河は、フランス人のフェルディナン・ド・レセップス(1805~94:

下の写真)努力で建設された。最初、彼の呼びかけを問題にしなかっ

たイギリスは、運河が完成し、それがフランスの所有になる可能性が高ま

ると態度を豹変させた。

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  イギリスの首相ディズレリー(*下の写真)は、ロスチャイルドのロンドン

家当主ライオネル男爵に運河の株取得のために多額の借金を乞うた。

男爵は訊ねた。 

  「ところで、借金の担保は?」と。ディズレリーは、即座に答えた。

「イングランド(大英帝国)です」と。 

  これほどに、大英帝国自体が、イングランド銀行の大株主ロスチャイルド

の息のかかった存在になっていた。

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  ところで「日本文明」は、言うまでもなく、中国文明の一支流ではない。

清水馨八郎氏は、大陸文明に対する日本文明の特殊性を、五つに要約し、

それぞれの“世界化”提言する。 

  第一に「大陸文明から海洋文明」への移行である。彼によれば、大陸

文明は必然的に対立抗争・憎悪・嫉妬・復讐・戦闘・殺戮によって成り立ち、

それは、「力と恐怖」の文明を生む。これに対して日本は本来、平和性・

寛容性・温順性・調和性の文明を生んできた。

  第二は「物質文明から心の文明」への移行である。白人社会は、

先述したごとく、常に金・物の経済を唯一の文明の核に据え、対人関係は

利害だけで動くので、日本人のように義理人情は生まれない。 

  これに対して、日本人は常に他者への思い遣りや気遣い、寛容や謙譲

の心、それに真心をもって相手に接する察しの文化である。つまり「和の

文化」の中で暮らしている。

 

  第三は「砂漠の文明から森の文明」への移行である。地中海周辺や

中近東の過去の文明は、森を見つけ、利用し尽くして栄え、やがてその

森が使い果たされた時に、国は滅亡し、砂漠だけが残った。

  だが日本は、太古から森を育ててきた。まさに森の文明国日本といえる。

日本人は、世界の砂漠化をくい止めるため、砂漠の緑化・森林の復元に

協力すべきである。日本の青年に、世界の枯木に花を咲かせる「花咲爺

さん」になることが期待される。

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  第四は「星の文明から太陽の文明」への移行である。今、世界は西洋

文明の終末を迎え、地球環境破壊、砂漠化、民族・宗教紛争などで、

混沌としている。

  21世紀は、夜の星の冷たい文明から、太陽の昼の温かい文明を目指

すべきである。

  第五は「力の文明から美の文明」への移行である。20世紀までは、

軍事力という力による帝国主義的支配が地球を覆っていたが、21世紀は

力に代わって、美の文明が地球を支配する力にならなければならない。

  人類が求める究極の価値は、あくまでである。その理想の国に一番

近いのが、日本国ではなかろうか(『裏切りの世界史』より)。

  事実、これらの新文明への移行こそ、日本文明の担い手である我々の

今後の課題である。   【つづく】

 

 

 

 

 

 

2013年9月14日 (土)

「日本よ、核兵器を持つなかれ!」(4 )

  西郷隆盛の「文明」観

 

  西郷南洲(隆盛)(*下の肖像画:平野五岳の作で、実際の西郷に最も

近いと言われる)を愛する日本人は多い。それは、彼が明治維新最大

の功労者であったという以上に、悲劇的な最期を遂げた悲運の政治指

導者であったということへの判官びいき的な要素も強く影響していよう。 

  日本近代史の中で、敢えて吉田松陰や横井小楠を除けば、西郷ほど

「道義」重んじた政治指導者も稀である。

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  とりわけ彼は、「文明」の基礎に「道義」を据えた。彼は、文明について、

次のように語る。 

  「文明とは、道の普(あまね)く行はるゝを賛称せる言にて、宮室の荘厳、

衣服の美麗、外観の浮華を言ふには非ず」と(『南洲遺訓』:下の写真)。


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  西郷は、外見的な美や豊かさの中に「文明」があるのではなく、むしろ

道義や礼節を重んじる人びとの生き方の中にこそ存すると説いた。 

  そして、圧倒的な軍事力を背景に弱小国を侵略する欧米人を、彼は、

「野蛮人」言って憚らなかった。

 

  事実、彼は同著の中で、次のように言う。 

  「予は嘗(かつ)てある人と議論せし折、西洋は野蛮ぢゃと云ひしに、

否、文明ぞと争う。否、野蛮ぢゃと畳かけしに、何と、それ程申すにやと、

そこで文明ならば未開の国に対して慈愛を本とし、懇々説諭して開明に

導くべきに、左(さ)に非ず、未開蒙昧の国に対する程、むごく残忍なこと

を致し、己れを利するは野蛮ぢゃと申せば、相手はやっと納得せしなり」

(*下は、アヘン戦争の絵)


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  この西郷の考えは、生涯一貫していた。この彼の信念や価値観こそが、

大久保利通との確執の底流にあった。 

  それは、単なる「征韓論」か否か、の問題ではなかった。板垣退助は

心底「征韓」の考えを持っていたが、西郷の考えは、板垣とは明らかに

違っていた。



  西郷はむしろ、当時の朝鮮を「東洋の対等な隣国」と考え、彼らに

“相互理解”求めようとしたと思う。

  彼の胸底に、勝海舟の「日本・中国・朝鮮」による東アジア連合構想

共通した考えがあったかも知れない。 

  つまり三国を、西洋とは異なる「仁・義・礼・智・信」の儒教道徳による

紐帯によって同盟化しようという発想である。

 

  そのために、まず彼は朝鮮に赴きたかった。そして、それがどんなに

困難なことであっても、ペリーのような恫喝による開国ではなく、衷心か

らの説得によって、朝鮮を開国させたかったのだと思う。 

  それゆえ彼は、朝鮮国への「遣韓使節」の代表になることを、心底切望

した。

 

 そして、その彼の願いが「留守政府」の閣議で了承された時、西郷は、

まるで“子どものよう”に喜んだ。 

  だが、大久保利通や岩倉具視らの帰国後、事情は一変する。大久保

の職を賭けての抵抗で、征韓論がというより、「西郷・遣韓の儀」自体が

葬られる。

 

  西郷の一途さからして、彼は明治政府そのものから身を引きたいと考え、

鹿児島へと去った。 

  以上の経緯を跡づけると、上記の西郷の言葉が生きてくる。 

 つまり、もし彼がペリー同様に、武力によって朝鮮国を開国させた結果、

征服しようと考えたのであれば、彼の「文明」観は、まったくの虚言となる。

あくまで「道義」重んじた彼が、そのような虚言を弄するとは考えられ

ない。

 

  ならば、彼を「征韓論」の筆頭として、まるで軍国主義の頭目のように

取り扱う日本近代史のあり方は、根本的に問い直され、是々非々によって

書き改める必要があると思うのだ。

 

  真の「文明」とは?

 

  歴史に「もしも・・・」というのは禁句かも知れない。だが敢えて、この

禁句を使えば、「もし、西郷が遣韓使節の代表として朝鮮国に赴いて

いれば・・・・」、その後の日韓関係は、今日のものと、ずいぶん違って

いたと思う。

 

  無論、さまざまな可能性が考えられる。例えば、西郷は、鎖国下の

朝鮮国の侵入者として捕らえられ、あるいは、殺されたかも知れない。 

  これは当然、西郷も覚悟していたことである。もし、そんな事態になれ

ば、日本は、軍を動かさざるを得なくなる。 

  だがこれは、大久保が最も怖れたことだった。無論、西郷も、そのよう

な事態を望んだとは思えない。

 

  しかし、いかに鎖国下とはいえ、当時の朝鮮国政府や民衆が、西郷を

殺すようなことをしただろうか?  正直、私には、その可否は判らない。

  だが、もし万が一、彼が無事に遣韓し、政府要人と会見できたならば、

私は、彼が朝鮮国の人びとや朝鮮国政府の”あり方”に少なからぬ影響

を与えたと思う。

 

  それだけの、民族を超えた“感化力”を、彼は持っていたと思うのだ。

この力は、彼以外の明治の元勲たちには無いか、または希薄であった。 

  木戸孝允は言うに及ばず、大久保にも、西郷ほどのカリスマ性は無

かった。 

 

  例えば、『西郷南洲遺訓』は、薩摩隼人が西郷を慕って編んだものだと

考えられがちだ。だが、決してそうではない。同著の編者は、かつて西郷

の官軍に敵した庄内藩士である。

 

  川勝平太氏によれば、庄内藩との戦争に入る前、すでに長岡藩との戦

いで西郷隆盛の愛弟は戦死している。 

  東北戦争は激戦であった。庄内藩主の酒井忠篤(*下の写真は、

断髪後の酒井忠篤:ただずみ:1853~1915*のち、彼は、軍制研究の

ため、ドイツに留学)は降伏した。降伏の式が終わると、彼は手厚くもて

され、辱められなかった。庄内藩士は、それに痛く感激した。 

  (*実は、庄内藩は、会津藩ともども、薩長政権に敵視されていた。

だが、西郷の、彼らに対する処遇は、違っていた。)

  明治3年、酒井公はじめ旧庄内藩士70余人が、鹿児島にいた西郷を

訪れ、教えを乞うた。


           
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  その時の記録が『西郷南洲遺訓』である。同著が最初に出版されたの

は明治23年、庄内においてだった。薩摩人が身びいきで書いたものでは

ない。かつての敵側の人士によって編まれたのである。西郷は、庄内藩

士を、その徳によって感化したのである。(*同著の発行責任者が、上の

酒井忠篤自身である。)



  まさに川勝氏の述べる通りである「徳」こそ、人を感化する力である。

私は、その力は民族さえ超えると思う。西郷隆盛には、それだけの「人徳」

があったと思うのだ。

 

  実は、マハトマ・ガンディー(*下の写真)も、西郷と酷似した「文明観」を

持っていた。彼は言う。 

  「真の意味での文明は、欲求の増加にではなく、それを減少させること

の中にある。これのみが、真の幸福と満足を与え、他者に奉仕する能力

を増加させる」と。

 

  まさに「知足少欲」と自己抑制の中に、真の「文明」が存在するのである。 

また、ガンディーにとって「善き行為」こそ、真の文明に不可欠なものだ

った。彼は、我々に強く訴える。 

 「まず、他者(ヒト)に対して、善を施せ!」と。 

何より、人の益・幸せに繋がる行為をすることこそ、我々に求められるもの

であり、それこそが「真の文明」と呼ばれるに価するものなのだ。

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  あらゆる欲求や欲望が際限なく肥大化し、それが文明の証(あかし)で

あると錯覚している我々現代人にとって、両者の「文明観」は、極めて傾聴

に価する。 

  西郷とガンディーの言葉に耳を傾けることこそ、今我々に最も求められる

ことではないだろうか。    【つづく】

 

 

 

2013年9月13日 (金)

「日本よ、核兵器を持つなかれ」(3 )

   沖縄の実態こそ、日本の“現実”

  沖縄の海は美しい。ハワイの海より綺麗だ。無論ハワイも、マウイ島や

ハワイ島まで足を伸ばせば、美しい海辺を目にできるが、それでも、沖縄

のエメラルド・グリーンの海には敵わないだろう。

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  私は今まで、5回ほど沖縄を訪れたが、行くたびに、海の色の美しさに

圧倒された。だが同時に、私は、島内の米軍基地の広さに胸が締め付け

られた。 

  日本国土の1%にも満たない沖縄県が、在日アメリカ軍の全基地の75%

以上を占めるという過酷な現実に、沖縄の人々は、いつまで耐えなければ

ならないのか(*下の写真は、普天間基地とオスプレイ)


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  戦時中、50万の沖縄県民のうち、20万以上の人々が死んでいったという

史実は、いかに戦争のためとはいえ、余りにも重たい現実である。 

  それも、”生きて、虜囚の辱めを受けず”とばかり、多くの子どもたちが、

自分の親によって殺されるという地獄絵図が展開した。

 

  まさに広島や長崎などの諸都市の戦死者と同様、沖縄の人々の犠牲の

上に、日本の戦後がある。

  だが我々、沖縄以外に住む日本国民は、沖縄県民を我らの同胞として

ではなく、どちらかと言うと“異国の人たち”として遇してはこなかっただろう

か? 

  事実、彼らの苦しみに、、目をつむってはこなかっただろうか? 

私は時々、自分の良心の叫び声が聞こえる。つまりそれは、“沖縄よ許せ、

我らが仕打ちを!”といった内なる声である。

 

  どんなに初対面であっても、必ず「お兄(にい)さん」と呼びかけるウチナ

ンチュー(沖縄人)ほど善良な人々は、世界でも数少ないと思う。 

  彼らには、ネイティブ・ハワイアンとどこか通じる心性が在る。それは、

“縄文的心性”とでも言えるかも知れない。

 

  私事だが、ハワイで生活した二年間、私たち夫婦に最も親密に関わって

下さったのは、親戚や、大学でお世話になった先生方を除けば、主にオキ

ナワン(沖縄出身者)の方たちだった。

 

  内地出身の一世も、勿論たいへんな苦労をされたけれども、沖縄出身者

は、彼らよりも遥かに苦労を重ねて今日を築いた。 

  それだけに、オキナワンは、ひじょうに連帯心が強く、結束が固い。彼ら

を含めた二世の方々に対して強く感じたことだが、かれらは誠意・努力

・連帯心・献身といった日本人の美徳を、ひじょうに純粋な形で継承して

いる。 

  そのような方々の故郷・沖縄に対して、我々は、もっと関心を持つべき

ではなかろうか。


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  日高義樹氏によれば、アメリカの世界戦略の内容が変わり、その本来

の機能が移転することはあっても、在日アメリカ軍基地は恒久的に維持

される。

 

  彼によれば、その理由は、至って簡単である。在日アメリカ軍基地が、

日本占領の「別の形態」であるからだ。 

  従ってアメリカは、どんなに政権が変わろうとも、またアメリカ軍が日本

からいなくなっても、基地を返すつもりはない、と考えるべきだ。何と言う

ことだろう!

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  それでは、日本は、まさにアメリカの植民地ではないか。この現実は、

決して沖縄だけの問題ではない。横田・厚木・岩国・小松・三沢など、

その機能こそ違え、本質的に沖縄と同じなのである。

 

  その意味で、今、沖縄の置かれた現状は、決して「ヨソごと」ではない。

むしろ、沖縄の実態こそ、日本の“現実”なのである。 

  沖縄に課せられた不当な重圧は、日本全国民が負っている重圧なの

である。この現実から、我々は、決して眼を逸らすべきではないと思う。 

 

 

   日米、未だ“戦争中”? 

 

  至って正直な思いを述べれば、私は、こうも考える。つまり、「日米は、

未だ“戦争中”なのではないか」と。 

  この言葉に対して、人々は言おう。「何をバカなことを言うか!  61年前

(*2006年当時)に、日本はアメリカに負けたではないか。 

  両国は今、世界に冠たる同盟国ではないか。台湾や朝鮮半島で有事の

場合、共に中国や北朝鮮に対して戦う友邦ではないか。 

  ソ連崩壊後の今日、日米が協力して、あの中国や北朝鮮の憎むべき

共産主義や全体主義を粉砕することこそ、日米両国の共通目標だ」と。

 

  そして、次のように付言する人もあろう。つまり、「むしろ、君のような

間違った反米主義は、今まで日米両国積み重ねてきた友好関係にケチ

をつけ、両国関係の分断を画するものだ。 

  それは、中国や北朝鮮、それにロシアの利益にこそなれ、わが国の

利益にはならない。その意味で、君は売国奴だ!」と。

 確かに、このような意見の方もいよう。

 

  それでも敢えて、私は、疑問に思う。”アメリカは、本当に日本の同盟国

だろうか”と。 

 ”むしろアメリカは、単に自国のためだけに日本を属国化し、わが国を 

利用しているだけに過ぎないのではないか”と。


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  ”なぜなら、日本人の中の心ある人びとが、日米軍事同盟が不当なもの

で、世に言われるほど対等な二国間関係でないことは、百も承知なのだか

ら”。 

  また、“将来の米中衝突・米中戦争ではなく、むしろ米中(ロシアも含めて)

一体となって、日本の主権や独立性を剥奪することこそ、我々が最も危惧

すべきことではないか”と。

  言うまでもなく、民族・国家間の“戦争”とは、単に軍事力による熱戦だけ

ではない。 

 当然”経済戦争”もある。むしろ、戦争自体、国家間の〝自尊・自立を

賭けた、広い意味での経済戦争”である。 

  かつての「大東亜戦争」も、まさにそうではなかったか。



  また、現代日本が概して、日・米・韓が一体となって、中・ロ・北朝鮮と

対峙する構図のように思われている。 

  だが、私はむしろ、かつて米・中・ソが連携して「日本」を封じ込め、つる

んでわが国に戦いを挑んできた、あの1930年代(昭和初期)当時の日本

こそ、現代日本の“真実の姿”ではないか、と考える。

  無論、”だから、日本ももっと軍備を強化しろ!”などと言うつもりはない。

むしろ、”アメリカの実体”について、読者諸氏に、もっと知ってほしいと思う。
 

その後の行動は、それを充分理解した上でとればよいと思うのだ。

 

  もっと言わせてもらえば、現代日本は、あの幕末期の日本(=261の藩)

が直面していた困難と同程度か、あるいはそれ以上の危機的状況の中に

あると思える。 

  その意味で、「幕末」とは、単なる「過去の歴史」とは思えない。むしろ、

国家存亡の危機は、当時も今もなったく変わらないのだ。

 

  いや、あの頃以上の苦難が、今後の日本を見舞うことになろう。それゆえ、

その「危機的状況」が、国民のために明らかにされなければならない。 

  我々現代日本人が「知るべきこと」とは、まさに“アメリカの実体”と、

それと表裏一体をなす、今後日本に押し寄せてくる未曾有の〝国難”

ついてである。  【つづく】

 

  (後記) 日頃のご愛読、まことに有難うございます。

      尚、昨日のブログ中の文章「“国家総動員”の指示」は、正しくは

国家総動員”支持」でした。謹んで訂正いたします。

2013年9月12日 (木)

あの「9・11」から、12年。―

     「9・11」の真実

    昨日(9月11日)は、アメリカでの同時多発テロから12年目だった。 

あの事件(*下の写真)は、ビン・ラディンの呼び掛けに呼応した19名の

アルカイダによる犯行だと、アメリカ政府の公式見解では、そう報じられて

いる。 実際、米国民は、そう信じ込まされている。

 だが、果たして、そうだろうか?

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  人に理性や良識があるとするなら、あれを、イスラム過激派の犯行と

するには、様々な疑問が生じる。 

  むしろ、アメリカ政府による「自作自演」と考える方が、はるかに自然だ。 

それこそ、それが“常識”とさえ言える。 

  つまり、あの出来事は、アメリカ政府とイスラエルのモサドによって仕組

まれ、かつ実行された、いわゆる”偽旗作戦”だったというのが、真実

であろう。 

  アメリカの歴史は、まさに、その”偽旗作戦”の歴史でもある。この事実は、

心ある人々が、深く認識していることでもある。



  言うなれば、アメリカ国内の、理性的な言論人や建築家、あるいは科学

者たちの間で力説されている事は、同事件が、決してイスラム過激派に

よるものではなく、あくまで戦争(具体的には、アフガニスタンやイラクに

対する戦争)を正当化するために計画・実行された国家的規模の”大いな

る陰謀”だったというものである。

 

  そこで重要な役割を果たしたのが、ディック・チェイニー副大統領(*下の

写真)である。

 当日、誰もが不思議に思ったことは、ハイジャックされた航空機が2機も

易々、ニューヨークの国際貿易センタービルにまで到達できたことだ。

完璧な航空防衛システムを有する戦争大国アメリカでは、まったく考えら

れないことである。

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  9月11日当日、米政府は、事実上の「警戒解除」とか「意図的な麻痺」と

でも言えるような発令をしていた。つまり、当日、二つの相異なる指令

・管理が同時に行われていて、軍の現場では、麻痺状態にならざるを得

ないような状況が周到に仕込まれていたのである。

  これを発令したのが、チェイニー副大統領だ。無論、そのことは、ブッシュ

大統領もライス国務長官も知っていた。つまり、当時のブッシュ政権総出

の、まさに”大いなる陰謀”った。

  事件直後、米大統領やマスメディアは、「これ(同事件)は、新しい

パールハーバー(真珠湾攻撃)だ」と強調した。 

  だが、米国内の理性的な人々は、「もし、(戦争を起こすために)外から

何らかの脅威を得ようとするなら、真珠湾攻撃のような襲撃が、詰まるとこ

ろ必要だ。そうすれば、アメリカ国民を死ぬほど震え上がらせて“国家総動

員”の指示に回らせることができる」という言葉を知っている。

 

  これは、同事件の4年前に出版された著書『偉大なるチェス盤』で語られ

た言葉である。 

 この言葉が、同事件の前年、アメリカ新世紀プロジェクト(PNAC)の中の

「われわれは、新たなる真珠湾攻撃を要する」というアジェンダ(予定表)と

なった。

 

  この言葉の発言者(=発信者)が、ズビグニュー・ブレジンスキー(*下の

写真)ある。 

  彼のかつての忠実な教え子が、オバマ大統領であり、かつオサマ・ビン

・ラディンである。 

 また、オバマを世に送り出した人物こそ、ヘンリー・キッシンジャーである。

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  オバマは、どう足掻いても、第二のケネディ大統領にはなれない。この

オバマが、今後シリアに対して、どう対応するか、それは、「9・11」に見ら

れる”偽旗作戦”から脈々と繋がっている超権力者たちの思惑にかかって

いる。 

  それこそ、オバマは米大統領とはいえ、ブレジンスキーの言う「チェス盤」

の上の、単なる「駒」に過ぎないのである。



  ところで、すでに6年前のものだが、長崎県のテレビ局(NBC放送)が、

この「9・11」を鋭く追及した番組を放映していた。

(*NBC長崎放送・報道センター「論争続く米同時多発テロ」2007/9/14) 

  この事実を、私は、リチャード・コシミズ氏のブログ内にある、同志の

コメントから知った。これを、下に、貼り付けたい。 

  皆さんも、是非、ご高覧いただければ幸いである。  【了】

               http://youtu.be/MbzFVX-3u3A

 

2013年9月10日 (火)

「本当の敵は、アメリカ国内にいた!」

 

   【皆さんへ】


  皆さん、お早うございます。

お元気でしょうか?

    シリアの情勢が、日増しに緊迫化しています。

そんな中、一人の「イラク帰還兵士」が、たいへん素晴らしいスピーチを

しました。

  すでにご視聴された方も多いかと思いますが、そのYou  Tube を、謹ん

で、下に貼り付けます。

   また、その時のスピーチ内容を、下に記しました。

ご高覧いただけますならば、幸いです。 

        http://youtu.be/cR5zoW1W4ac

 

   戦争に行ったアメリカ兵の告発!
 

   「本当の敵は、アメリカ国内にいた!」

  「これは、御国(おくに)の為なんだ!」と言い聞かせて、辛くても胸を

張ってやってきた。だけど、後悔の念だけが残りました。

  この占領の実態を目の前にすれば、人種差別なんて言葉じゃ、もう騙せ

はしない。彼らは獣じゃなかった。同じ人間なんです! 

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  その時から、年寄りを見ると、いつも心が痛むようになった。

歩けない年寄りを担架にゴロンと寝かせ、「イラク警察に連れて行け!」と

命令する度に。・・・

  子を連れた母親を見る度に胸が痛む。

嫌がる母親を外に連れ出す我々に、「何すんの一体!  あんたら、サダム

・フセイン以下じゃない!」と喚(わめ)き散らしたのを思い出してしまう。

  若い娘を見ると胸が痛む。俺が腕を鷲掴みにして、車道へと引きずり

込んだんだ、と。・・・

  テロリスト達が相手だ、と聞かされていた。

しかし、実際のテロリストは自分たちであって、この占領自体がテロリスト

そのものだ、と悟りました。
               
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  軍隊の中にあって、人種差別を悪とする思想は、他国に対する破壊や

占領の口実にできる、今尚使える重要手段の一つです。

  その思想を利用して、他国の民を殺害、隷属、拷問してもよい口実にし

てきたのです。 人種差別という思想は、この政府が重宝する手段の一つ

なのです。

 この思想は、ライフル銃や戦車や爆撃機や戦艦を使うよりも、もっと重要

な手段だ。砲弾、バンカーバスター・トマホーク巡航ミサイルよりも破壊力

がある。

  このような兵器を今、この政府(=米政府)が製造、保持してはいるが、

使おうとする人々がいなければ害はない。

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  我々を戦場に送っている連中は、銃で撃ったり迫撃砲を放つなんてこと

はしない。連中は、命がけで戦う、なんて頭にはない。連中にとって戦争

は、商売でしかない!

  連中が必要としているのは、兵士達を危険な戦場に「はい、どうぞ」と

送り出す(B層な)大衆なのです!

  連中に必要なのは、殺すも殺されることも「はい、どうぞ」とオカシイと思

わない兵士達なのです!

  何百万ドルという金を爆弾一発につぎ込む。その爆弾は、上から使えと

の命令に「はい、わかりました!」と従う軍高官たちの気持ちがあってはじ

めて武器に変わる。

  連中は生き残った兵士達を、この地球上ならどこにでも送ることができ

る。しかし、兵士達が「はい、わかりました!」と言って初めて戦争になる。



  支配層にいる、人の不幸につけ込んで儲ける大金持ち連中は、世界

経済を操って私腹を肥やすことしか頭に無い。

  「戦争中、抑圧、搾取が私たちの関心事であり、そう我々に信じ込ませ

る」という能力の中にこそ、連中の力が隠されている、ということを理解し

てほしい。

  我々が人殺しや死ぬことを覚悟させる決め手は、「ヤッパ俺達は優秀

なんだぜ」と、我々に思い込ませる能力が、連中にあるかないかだ。

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  陸海空の兵士達が、この占領で得るものなど何もない!

米国で暮らしている大部分の人々が、この占領で得るものなど何もない!

  得るものが無いなんてもんじゃない。それが原因でもっと苦しんでいる!

というのが事実だ。

  我々は、手足を失い、後遺症に悩み、そして命を断つ。家族の者たちは、

国旗を掛けた棺が地中に下ろされるのを、じっと見ることになる。

  健康保険も無く、就職先も無く、教育も受けられない、この国の何百万

という人々は、この占領で政府が4億5千万ドル以上の金を、たった一日

で浪費しているのを、指を咥(くわ)えて見てることしかできていない。

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  この国の貧しい生活をしている人々は、よその国の同じように貧しい

生活をしている人々を殺すために送られ、金持ち達を、さらに金持ちに

していく。

  差別思想が無ければ、兵士達は、自分たちを戦争に送った大金持ち

たちよりも、イラクの人々に多くの共通点があることに気づいたでしょう。

  イラクでは、多くの家族の住み家を奪ってきた。帰還して目にしたもの

は、惨めで意味のない差し押さえの仕打ちを受け、住む家を奪われた

多くの家族の姿です。悲しい・・・・。



 
目を覚まそう!!  我々の本当の敵は、遠いところに 

いるんじゃない!

  名前だって文化だって聞いたこと見たことが無いっていう連中じゃない!

  どんな敵なのか皆んなよく知っている、ハッキリしている!

その敵とは、カネになるから戦争をやらかす、という組織。

  その敵とは、儲かるとなれば、スペっと首切りする企業経営者達。

儲かるとなれば、健康保険をガンとして受付けない保険会社。

  儲かるとなれば、住んでいる家をサッと取上げる銀行。

敵は、五千マイルも離れたところにいるわけじゃない! 

  目と鼻の先にいる!

皆で賢く手を組み戦えば、こんな戦争は阻止できる!

  この政府は、阻止できる。

そして、もっと良い世界を作ることは可能です。    【完】



  (*次の文章は、翻訳者による「後記」かと思われます。)

  今のシリアもエジプトも同じです。もっと多くの人が目覚めなければ、

繰り返される!

  戦争が好きなアメリカやイスラエルを支配しているユダヤ系の犯罪組織。

支配とは、大手マスコミ(テレビや新聞)と政治をコントロールできるという

こと。

  アメリカの属国の日本も、かなり危機的な状況です。

まだまだ多数のテレビや新聞を鵜呑みにする国民(B層)によって、どん

どん酷くなっています。

  選挙で不正がされていることにも気付かないボケぶりです。

インターネットには、たくさんの真実があるのに無関心・・・。

  真実の情報発信は続けますが、あとは、B層次第です。・・・  【了】

 


 

 

2013年9月 9日 (月)

「日本よ、核兵器を持つなかれ!」(2 )

  私流の「日米軍事同盟」観



  この節のタイトルを「私の日米軍事同盟観」とはせずに、敢えて「私流の」

としたことに、御留意願いたい。いささか戯画化した文章内容ゆえに、この

ようにした次第である。

 

  私見だが、アメリカという国は、他国に侵略されて、止むに止まれず戦争

をするような国家ではない。むしろ、他国に戦争を仕掛けずにはやってい

けないような国家なのである。

 つまり、端的に言えば、戦争を生業(なりわい)として存続する国家だと

言える。

  換言すれば戦争」という名の麻薬の中毒患者とも言える国家だ。

“中毒患者”なので「戦争」が無いと禁断症状を引き起こしてしまう。かつ

て、「アメリカは、15年に一度は戦争をしないではいられない国家だ」と言

われる。最近は、その期間が、だいぶ短くなったようだ(*下の写真は、

アメリカの無人殺人兵器と空母ロナルド・レーガン)

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  私たちは、麻薬や覚醒剤といった麻薬中毒患者を見ると、つい身構え

てしまう。ほとんど、冷やかな目で見る。だが、アメリカという「戦争」中毒

国家を、そのような冷たい目で見ることは少ない。 

  しかし、アメリカが、単なる軍事超大国というに止まらず、むしろ本質的

“戦争国家”であるということは、深く認識されなければならない。

 

  ハワイで2年間を過ごした際も、私は、あの一見平和でのどかなハワイ

でさえ、「軍隊」が、生活の基盤になっていることを実感した。 

  アリゾナ記念館(*下の写真)では、日本軍による真珠湾攻撃が昨日の

ことのように語られ、公的な場所とも言えるパンチボウル(火口跡)の底に

は、核戦争に備えて、核シェルターが埋設されている。

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  だが、戦争には、実際の戦争と同時に、もう一つ「経済戦争」とでも言う

べきものがある。
 
  アメリカでは、第40代大統領ロナルド・レーガン(*下の写真)に対する

評価が高い。 

 それは第一に、ソ連を崩壊に導いたという政治的・軍事的勝利の側面

がある。

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  だが同時に、当時の経済大国日本の「財力」を吸い上げ、窮地に陥って

いたアメリカを救い、日本との「経済戦争」に勝利したという業績が認めら

れたからである。むしろ、その意義の方が大きい。

 

  レーガンの勝利に大いに貢献したのが、時の総理大臣中曽根康弘

(*下の写真)である。彼らの「ロン・ヤス関係」は、見かけ上は和やかな

ものだった。

 だが、本質的には、アメリカによる一方的なゴリ押しと恫喝に対して、

日本が全面的に屈服、かつ随従するという形のものだった。

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  つまり、レーガンの時代、アメリカは債権国から世界最大の債務国にな

った。当時のアメリカの資金不足を補ったのが、日本による多額のアメリ

カ国債の購入である。 

  しかしこれは、実質的にドルとの交換不能な、国家規模での“上納金”

なのである。より平たく言えば、単なる”カツアゲ”である。 

  その額、数千億ドル以上と言われる。日本円に直すと、少なくとも、日本

の一年分以上の国家予算に匹敵する。 

  アメリカのブッシュJr.大統領(*下の写真)は、北朝鮮を「ゴロツキ国家」

と呼んだ。だが自国も、正真正銘の「ヤクザ(=ゴロツキ)」国家なのである。 

  私には、「日米軍事同盟」とは”ヤクザとカタギ”の連帯のような気がする。 

日本人は生来”カタギ”なのである。決して、ヤクザにはなれない。

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  「日米軍事同盟」とは、下世話に言えば、ヤクザと契りを結ぶような、腹を

くくった覚悟がないとできない。 

  カタギの国民が”ヤクザとは契約などできない”と怒って反対したのが、

1960年の反安保闘争だったと思う。以上が、筆者流の「日米軍事同盟」観

である。 【つづく】

2013年9月 7日 (土)

「日本よ、核兵器を持つなかれ!」(1)

   「日本よ、核兵器を持つなかれ!」

 

  核兵器の保持が当然視される今日、祖国日本が敢えてそれを持たない

ことが、わが国の最高の矜持、あるいは「存在意義」だと思う。 

  「何と戯けたことを!」と世人は言うかも知れない。「ジャングルのような

国際政治において、丸裸同然で生きていけるか!」と、難ずる人もあろう。

 

  あるいは、「将来、もしアメリカ軍がアジアから手を引いたら、中国や北

朝鮮による核の脅威に対して、どう対処するのだ?」と、問う人もあろう。 

  それなら、反問したい。「核兵器が無ければ守れない日本という国に、

いったいどれほどの価値があるというのか?」と。

 

  ガンディーは(*下の写真)、昭和20年8月6日、広島に原爆が投下され

た直後、次のように記した。 

  「非暴力は、原子爆弾をもってしても破壊することのできない唯一の存在

である。原子爆弾がヒロシマを破壊したことを耳にした時、私は自らに語っ

た。 

  『今こそ世界が非暴力の精神を持たなければ、人類を必ず自滅の道に

向かわしめるであろう』」と。

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  事実、たとえ核戦争が起こっても、自分たちは生き延びられると盲信す

る人びとがいる。とくに、超大国アメリカほど、この考えを堅持している。

  だが彼らは、本質的に核の悪魔的な力を知らない。いや、核が「悪魔の

兵器」であること自体を認識していない。

 

  アメリカが広島と長崎に原爆を落とした時、彼らの深層心理に宿った

思いは、両市は、古代の悪徳の都「ソドムとゴモラ(*下の絵)という

ものだった。

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 だが、両市の無垢な市民の誰一人として、「悪徳」などとは無縁だった。 

  とりわけ、長崎市は、最初からの原爆投下予定の都市ではなかった。

最初は、小倉ではなかったか。―

 

  しかし、当日の小倉の上空は雲厚く、超高空から原爆を投下できなか

った。 

 ところが、第二の予定地と目された長崎市内が丸い雲間にポッカリと浮か

んで見えた。パイロットは、この時とばかり、原子爆弾「ファットマン」を投下

した(*下の写真は、「ファットマン」、並びに被曝したマリア像)

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  だが、アメリカの権力者諸君よ、長崎市民が信心深く、長崎市が聖母

マリアに守られた「聖母マリアの都」と信じられていることを知らないのか。

 君たちは、まさに聖母マリアの踵を噛んだ、あの蛇(=悪魔)だったのだ。

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 あの蛇は、聖母マリアに踏み潰されたではないか。つまり、イエス・キリスト

の出現によって。― 

  その君たちが、敬虔な「キリスト者」だと名乗ることほど、笑止千万なこと

はない。まさに、核兵器とは、悪魔の兵器なのだ。いや“悪魔そのもの”

のだ。 

  我々日本人は、そのような「悪魔の世界」に入ろうと望むのか?  それ

自体が、まさに”良心の死”を意味するものではないか。

 

  インドが、独立の父・ガンディーの意志に反して核大国の道を歩む今日、

真に「非暴力の精神」を世界に説ける国は、唯一の被爆国・日本において

他に無い。 

  物質文明の悪しき極限であり、悪魔の兵器とも言える「核兵器」を全面

否定する道は「非暴力の精神」しかない。 

  私たちは「核の不保持」をもって、わが国だけでなく、世界を守る使命を

持っていると思う。

 

  それゆえ、敢えて言いたい「日本よ、核兵器を持つなかれ!」

と。これが今、日本の軍備に関して、私が読者に最も訴えたいことである。

 【つづく】

 

 

 

 

 

2013年9月 6日 (金)

吉田松陰の祖国愛(完 )

  松陰の「教育観」


  国民国家形成の根幹は、「教育のあり方」にある。

学校教育、家庭教育、社会教育などさまざまであるが、国家(あるいは、

政府)や国民が、いったいどのような教育観を持っているかが、その国

の現在と将来の枢要な部分を決定する。つまり、教育」こそ、国政の要

である。



  それでは、松陰の「教育」とは、いったい、いかなるものだったのだろうか?

それは、端的に言えば、聞く人の“魂”に訴えかける教育だったと言える。

彼の教育は、年齢を超越(あるいは、度外視)したものであった。

  つまり、松陰は、相手を大人とみなして教育した。小室直樹氏によれば、

松陰の『幽室文稿』の巻頭に「岡田耕作に示す」という一文がある。



  正月二日に、岡田耕作が松下村塾(*下の写真)にやってきた。

松陰は、即座に孟子の講義をして、一篇を読み終った。そして、村塾の

高い理想を説き、現在わが国の危機に及ぶ。

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  アメリカの使節は江戸城(*下の写真)に入り、他方、義士は獄に下っ

ている。このように天下の危機は迫っている。それなのに新対策はある

のか。

  この時の岡田は、わずか10歳であった。松陰は、10歳の児童に向かっ

て、天下の危機に対する管理がなされていないことを悲憤慷慨したので

ある。

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  さらに蘇峰をして「彼の眼中には、幾(ほと)んど童子なし、彼は10歳の

少年をも、殆ど己と同地位に取扱えり」となる。求道者は、その本質にお

いて平等な友人なのである。



  この一例からも分かるように、松陰は、彼の言を聞く人の耳にではなく

心に、さらに、単なる心ではなく、その深奥に存する“魂”に訴えたのだと

思う。

  そこでは、身分や年齢といった社会的な属性は、まったく意味をなくして

しまう。

 事実、松下村塾には、身分を超えて若者が集い、すべての門下生が

平等、かつ活発に議論し合った。実際、松陰は、自ら先生であるとか師

であるとかいった態度を、一切とらなかった。

  しかし、これは、松陰に教育者としての権威がまったく無かったというこ

とではない。むしろ、絶対的と言えるほどの〝権威”があった。

  だがそれは、決して形式的な産物としてではなく、むしろ門下生たちと

“魂の触れ合い”から生じる、極めて精神的な敬慕・信頼関係によっ

て成り立っていた。


  古川薫氏によれば、松陰の人柄を偲ばせる次のような一文があるという。

  松陰の性格について、天野清三郎(渡辺蒿三・・・・・松陰門下生中もっ

とも長寿だった人物で、昭和14年に97歳で没した)は、「怒ったことは知ら

ない。人に親切で、誰にでもあっさりとして、丁寧な言葉使いの人であっ

た」と証言している。

  「諸友に告ぐ」をはじめ、松陰が門下生に与えた文章を読むと、教えると

いうより諄々と説き、訴える調子が目立つ。古川氏は言う。


  「内面に激しく情熱を燃やしながら、人間に対しては限りなくやさしく、

そのモットーとする『至誠(*下の写真)をかかげて接近して行く。

松陰の感化力の秘密は、その様なところにあったのかも知れない。

  『講義は上手であった』と天野は言う。この様にして、優れた教師として

の松陰の像が浮かんでくるのである」と。

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  このように、松陰の教育(乃至、「教育観」)は、人びとの平等な信頼

関係に基づく、極めて自由な“人づくり”を目ざしたもので、今日の教育

には見られない「人格教育」だった。

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  次に、今日(*厳密には、7年前)の日本について、自分の思うところ

を述べてみたい。   【了】

2013年9月 5日 (木)

吉田松陰の「祖国愛」(3 )

    彼の、深い“家族愛”に基づく「祖国愛」


  その意味で、彼の「死生観」とは、死や生に徒に囚われることではなく、

むしろ人を愛し、他者を信じ、自ら成すべきだと確信したこと(無論、

それは「善」なることであるが)を、果断に実行することだったのではなか

ろうか。そして、松陰自身が、それを実行して見せた。

 

  しかし、彼の短い生涯の生き様は、一人の愛国者の域を超えていたよう

に思う。 

 彼が訴えた「大和魂」も「死生観」も、極めて”日本的なるもの”である。

だが実は、それは、日本一国に留まるものではないと思う。もっと広く、

かつ普遍的なものだと思うのだ。

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  事実、真の愛国とは、自国のみを愛することではないと思う。むしろ他国

をも信じ、人間そのものを愛することに基づくものではないだろうか。 

  松陰の「愛国」には、そういった“人間愛”があったと思う。それゆえに、

彼は“普遍性”を持っていたと思える。



  周知のように、松陰は、孟子(*下の肖像画)の思想をこよなく愛した。

孟子の言葉、「至誠にして動かざる者は、未だこれ有らざるなり(誠を尽く

しても感動しない者は、まだ一人もいない)」というのが、彼の終生変わら

ぬ信念であった。彼は、人間性の“善なること”を信じていた。

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  彼は、この信念を基に、死の直前まで幕閣(具体的には、江戸伝馬町の

牢内にあった評定所で彼の取調べにあたった三人の奉行、つまり寺社

奉行松平伯耆守、町奉行石谷因幡守、勘定奉行池田播磨守)たちを説得

しようと試みた。

 

  だが結局、それが果たせなかった。その原因を、「自らの不徳」と言うほ

どに、松陰は真に謙遜な人であった。

  同時に彼は、真に親、兄弟・姉妹を愛した人だった。次のような和歌が

ある。 

 
  帰らじと   思い定めし   旅なれば  ひとしほぬるる 

涙松かな 

 

  親を思う  心にまさる   親心  きょうの音ずれ  

何と聞くらん



  一首目は、1859(安政6)年、江戸幕府から嫌疑をかけられた松陰が、

駕籠に網をかけた「網駕籠」に入れられて江戸へ行く際に、萩を出立する

時に詠んだ歌である。この嫌疑とは、伏見要駕策と老中間部詮勝(あき

かつ)襲撃計画に関するものである。

 

  高橋文博氏によれば、松陰の幕府への提言の要点は、現時点での

開国はアメリカなどの強制による“受動的”なものであり、国家の独立性

と尊厳を否定するものであるから承認できない。

 

  しかし、鎖国は日本古来の国法ではなく、海外の状況をよく調査し、国力

を整えた上で交易を積極的に行なうべきである、というのが彼の持論であ

った。 

 今日考えても、極めて合理的なものだったと言えよう。松陰は、決して

単純な「攘夷論者」ではなかった。 

  だが松陰は、三奉行の説得に失敗し、かえって間部襲撃に関する言質

をとられて、「死罪」を宣告された。

 

  二首目は、この報せを聞くことになる両親の胸中を想って、彼が詠んだ

歌である。 

 彼は、無類の「親思い」であった。また同時に、貧しく弱い者への同情者

でもあった。 

 彼の祖国愛は、この「親への敬愛」と人間愛に基礎を置くものだったと

言えよう。





「人間愛」こそ、祖国愛の原点





  吉田松陰は、真の“仁者”であった。彼には、杉敏三郎(*下の肖像画)

という弟がいた。 

 敏三郎は生来、耳が聞こえず、口も利けなかった。松陰は、この弟のこと

を、たいへん心に懸けていた。

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  松陰が肥後(熊本)に横井小楠(*下の写真)を訪ねた時も、彼は帰路、

本妙寺(*下の写真)に参詣している。

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 敏三郎の全面的な回復は無理としても、清正(せいしょう)公の御廟に、

彼の加護を祈念したことだろう。

  本妙寺は日蓮宗の名刹で、当時、ライ病(ハンセン病)の患者が多く参道

に集まっていた。松陰は、そのような人びとが座す中を参拝したのである。

 

  私事だが、小学校三年生の頃、学校から本妙寺へ遠足に出かけた。

昭和30年代前半でさえ、いわゆる乞食のような人びとが、参道で物乞いを

していた。

  中には、みすぼらしい幼児を伴った者もいた。私は子ども心に、そのよう

な親子を見て心が痛んだ。

  思わず、持っていたキャラメル(カバヤ製だったか)を箱ごと、その子ども

に上げてしまった。人に褒められたい、などと思ったわけではなかった。

だが、なぜか、そうせずにはいられなかった。



  ところで、健康な人には、どうしても病者の気持ちは理解できない。
 

だが、世の中には、さまざまな障害を背負った人びとがいる。 

  例えば、15歳になっても、今まで一度も起き上がったことがなく、ただひ

たすら寝たままの子どもたちがいる。

 

  彼らは、自ら意味のある言葉を発することが出来ないばかりか、自力で

飲食することも、歩くことも、本を読むことも、何一つ出来ないのだ。 

  自ら言葉を発することが出来ず、その目配せや目の輝きが“言葉”となり、

笑顔といった表情だけが唯一の“自己表現”となるような重度の障害者の

存在を、我々は、決して看過してはならないと思う。 

 しかし吉田松陰は、弟敏三郎を通して、そのような人々の存在を熟知し

ていた。彼は、稀代の才能豊かな天才である前に、徳高き仁者であった

と思う。

 

  野山獄(*下の写真は、野山獄跡)でも、松陰は、多くの囚人たちと

出会った。だが彼は、決して人を差別せず、彼らと対等に関わった。

彼は、書道や俳句を得意とする囚人たちの「教え子」となり、快く彼ら

から学んだ。 

  松陰と接した多くの囚人たちが、彼を通して”新しい世界”を発見し、自ら

の人間性と、人としての自信を回復していった。


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  その囚人仲間に、松陰の人柄に心魅かれた一人の女囚がいた。

彼女の名は、高須久子という。松陰より12歳年長の武士階級の寡婦で、

被差別部落民たちとの交流の咎(とが)で入獄していた。

 

  彼女自身、決して淫らなことをしたわけではなかった。だが、識者の言に

よれば、当時の常識を超えた博愛的な行為ゆえに、密通の疑いをかけら

れての入獄だった。

 

  木村幸比古氏によれば、松陰は、久子の処分を気の毒に思ったと見ら

れる。松陰は、久子の博愛を理解し、彼女の人間愛に共感した。二人は

俳句や和歌を通して交流した。

 

  両者は男女の性愛を通してではなく、遥かに高い人間愛を通して、お互

いの心を高めあった。 

  久子との交流は、松陰の生涯に、一つの華を添えていると思う。このよう

な弱者や被差別民への「人間愛」こそ、松陰の祖国愛の原点だと思うのだ。

  最後に、この祖国愛を醸成する、松陰の「教育観」について論じたい。

【つづく】

 

 

2013年9月 3日 (火)

吉田松陰の「祖国愛」(2 )

  このように、松陰や赤穂義士の「公」に殉ずる思いは、「仁・義・礼・智・

信」といった道徳を重んじる心でもあった。 

  道徳心や道義心なしに「公」の精神は、成り立たない。しかし「公」とは、

何も幕府とか政府とか国家という意味だけではない。

  いや、むしろ、そうでない場合がある。

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  それは、何よりも、道徳や精神を重んじる人間の“集合体”のことである。

そのような「公」に、松陰も赤穂義士も殉じたのである。そこに、両者の

精神性の共通基盤があったと言えよう。 

  加えて、松陰の「已むに已まれぬ大和魂」は、世間の無知や無理解、

そればかりか死をも怖れない“勇気”そのものであった。蛮勇ではなく、

真の勇気なしに、自らの命を賭した行動はあり得ない。当時の果敢な

彼の行動が、まさにそれであった。



  松陰も、鎖国の禁を犯す際に、自分の士族の身分(とりわけ、長州藩

の兵学師範としての地位)だけでなく、その命さえも賭けた。

 つまり先述したごとく、彼は死を覚悟した。 

  それゆえ、彼の気迫は、ペリーや周囲の者たちをも圧倒した。松陰と

赤穂義士双方に、死をも恐れぬ「勇気」があったことも、容易に理解でき

よう。



  第二首は、松陰の辞世の歌である。この「留め置かまし大和魂」と詠ん

だ彼の心情には、大和魂の持つ“永遠性”が込められているように思う。 

  ある解説によれば、それは、「たとえ自分が死んでも、国を想う自らの

心は、永遠に生き続けることだろう」という意味である。

 

  実際、「留め置かまし」を、どう訳し理解するかが問題である。 

だが、思い切って意訳し、かつ換言すれば、「どうか忘れないで欲しい、

私の祖国・日本を愛する思いを」と、ひたすら同心の士に訴えているよう

に思われる。

 

  このように、松陰は死に至るまで、自らの「生死」のことよりも、むしろ

「日本国の将来」について案じ続けた。そこに、松陰の祖国に対する至誠

があった。 

  長門の国・萩に生まれた松陰にとって、「武蔵の野辺(「のべ・埋葬場の

意」:下の写真は、鈴ヶ森刑場跡)とは、遠く寂しき僻地の一隅であった。


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  だが、この言い知れぬ孤独感の中で、松陰は、自らの「不朽の思い

つまり“永遠性”を信じる心)」を込めて、この歌を詠んだと思う。

  この歌には、まさに有限な肉体に対する精神や魂の“永遠性”が説か

れている。 

 それは、山鹿素行の「日本」に対する愛や山中鹿之助の「七生報国」に

通じる思いでもある。つまり、それは“大和魂”の永遠性に対する讃歌

でもある。

 

  そこには、一人の人間の死が、単なる滅びを意味するものではなく、

“再生するもの”であることを意味している。 

  また、“永遠性”に結ばれた精神(あるいは、霊性)の高さと深さをも存在

する。 

 それは、イエス・キリストの言う「一粒の麦、もし死なば」と共通する

“復活”と永遠の精神でもある。

 

  松陰を介錯した山田浅衛門は、次のように述懐している。 

  「私は、多くの武士達を手にかけてきた。しかし、これほど最期に至って、

心静かで立派な人物を見たことはなかった」と。山田はそこに、松陰の放

“光”を垣間見たのである。

  そこには、松陰の士(もののふ)としての潔さと、彼が、永遠なる“何か”

を信じる「信の人」であったことをも窺える。

 

  まさに死に臨んだ松陰には、まるで十字架上のイエスや、従容と毒杯を

仰いで最期の時を迎えたソクラテス(*下の絵)をも彷彿とさせるような、

”心の安らぎ”が感じられる。大和魂が“永遠性”につながるという所以で

ある。 

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  その意味で私は、「大和魂」というものは、決して地理的「日本国」のみ

に限定されるものではないと思う。 

  むしろ、それは世界に通じる普遍的な”心性”なのである。この“普遍性”

を真に理解することこそ、「日本文明」を認識する要諦だと言えよう。

 

 

  松陰の「死生観」

 

 

  死の直前、松陰は次のような言葉を残した。「吾今国の為に死す、死し

て君親に負(そむ)かず、悠々たり天地の事、鑑照、明神にあり」と。 

  ある解説によれば、「私はいま国の為に死ぬ。死んでも君や親に逆らっ

たとは思っていない。天地は永遠である。私のまごころも、この永遠の神

が知っておられる。少しも恥じることはない」という意味である。



  この“永遠性”を信じる思いに、松陰は、「四時の循環(四季の循環)」を

充てた。彼は、『留魂録(*下の写真)の中で、次のように記した。

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  「一、今日死を決するの安心は四時の循環に於いて得る所あり。 

蓋(けだ)し彼の禾稼(かか:「禾」はイネ科の植物の穂、「稼」は、みのり、

穀物、穀類の意)を見るに、春種し、夏苗し、秋苅り、冬蔵す(*下の

写真は、イネの姿 )

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  秋冬に至れば人皆其の歳功の成るを悦び、酒を造り醴を為(つく)り、

村野歓声あり、未だ嘗(かつ)て西成(「秋に植物が成熟する」の意)に

臨んで歳功の終るを哀しむものを聞かず。

 

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  吾れ行年三十、一事成ることなくして死して禾稼の未だ秀でず実らざる

に似たれば惜しむべきに似たり。

  然れども義卿(松陰のあざな)の身を以て云へば、是れ亦秀実の時なり。

何ぞ必ずしも哀しまん。

 

  何となれば人寿は定りなし、禾稼の必ず四時を経る如きに非ず十歳にし

て死する者は十歳中自ら四時あり。二十は自ら二十の四時あり。三十は

自ら三十の四時あり。五十、百は自ら五十、百の四時あり。 

  十歳を以て短しとするは蟪蛄(けいこ:夏蝉のこと:下の写真)をして霊椿

(れいちん:「長生する霊木」の意)たらしめんと欲するなり。

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  百歳を以て長しとするは霊椿をして蟪蛄たらしめんと欲するなり。

斉(ひと)しく命に達せずとす。 

  義卿三十、四時己に備はる、亦秀で亦実る。其の秕(しいな:「殻ばかり

で実のない籾」の意)たると其の粟たると吾が知る所に非ず。

 

  若し同志の士其の微衷(びちゅう:「自分の真心」の謙譲語、微意)を

憐み継紹の人あらば、乃ち種子未だ絶えず、自ら禾稼の有年に恥ざる

なり。同志其れ是れを考慮せよ」と。

 

  これを平易に訳すれば、次のようになろう。古川薫氏の訳によれば、 

  「一、今日、私が死を目前にして、平安な心境でいるのは春夏秋冬の

四季の循環という事を考えたからである。

 

  つまり農事を見ると、春に種をまき、夏に苗を植え、秋に刈りとり、冬に

それを貯蔵する。秋・冬になると農民たちはその年の労働による収穫を

喜び、酒をつくり、甘酒をつくって、村々に歓声が満ちあふれるのだ。 

  この収穫期を迎えて、その年の労働が終わったのを悲しむ者がいると

いうことを聞いたことがない。

 

  私は三十歳で生を終わろうとしている。いまだ一つも成しとげたことが

なく、このまま死ぬのは、これまでの働きによって育てた穀物が花を咲か

せず、実をつけなかったことに似ているから惜しむべきかも知れない。 

  だが私自身について考えれば、やはり花咲き実りを迎えた時なので

ある。



  なぜなら、人の寿命には定まりがない。農事が必ず四季をめぐって営ま

れるようなものではないのだ。 

  しかしながら人間にもそれにふさわしい春夏秋冬があると言えるだろう。

十歳にして死ぬ者には、その十歳の中におのずから四季がある。二十歳

にはおのずから二十歳の四季が、三十歳にはおのずから三十歳の四季

が、五十、百歳にもおのずからの四季がある。 

  十歳をもって短いというのは、夏蝉を長生の霊木にしようと願うことだ。

百歳をもって長いというのは、霊椿(れいちん)を蝉にしようとするような

ことで、いずれも天寿に達することにはならない。

 

  私は三十歳、四季はすでに備わっており、花を咲かせ、実をつけている

はずである。 

 それが単なるモミガラなのか、成熟した粟の実であるのか、私の知るとこ

ろではない。

 

  もし同志諸君の中に、私のささやかな真心を憐み、それを受け継いで

やろうという人がいるなら、それはまかれた種子が絶えずに、穀物が

年々実っていくのと同じで、収穫のあった年に恥じないことになろう。

同志よ、このことをよく考えてほしい」と。



  この遺書を、高杉晋作(*下の写真)を始めとする松下村塾の門下生

たちは、涙なしには読めなかったであろう。 

  また、死の直前の松陰も、これを読んだ門下生たちの「決起」を、心底

信じたことであろう。

          Photo_8

  さらに、この『留魂録』を書く前に、死を覚悟した松陰は、彼の「死生観」

について、高杉に次のような便りを物している。

 

  「君は問う、男子の死ぬべきところはどこかと。私も昨年の冬投獄され

て以来、このことを考え続けてきたが、死についてついに発見した。 

  死は好むものではなく、また憎むべきでもない。世の中には生きながら

心の死んでいる者がいるかと思えば、その身は滅んでも魂の存する者

もいる。

 

  死して不朽の見込みあらば、いつ死んでもよいし、生きて大業をなしと

げる見込みあらば、いつまでも生きたらよいのである。 

  つまり私の見るところでは、人間というものは『生死』を度外視して生

きるべきなのだ。要するに、“成すべき事を成す心構え”こそが大切なの

だ」(古川訳)と。



  まさに松陰こそは、文中の“魂の存する者”であり、真に“不朽の見込み”

を持った思想家だった。それゆえに彼は、心静かに刑場に赴いたので

ある。

 

  彼こそは、真の士(もののふ)であり、全き愛国者であった。そして、

“死んで、生きる人”であり、単なる肉体としてではなく、一個の“魂”

て、生涯を生き抜いた人でもあった。 

  換言すれば、彼は“生死を超えた世界”を知っていた人だったとも言

えよう。

 

  事実、松陰は、30年の生涯を通して「なすべきことを成した」のだと

思う。それは、傍目には「刑死」という、極めて無残な最期ではあったけ

れども、彼が雄々しく死ぬことによって、彼を信奉し、かつ敬愛する若者

たちが奮い立ったのも事実である。

 

  彼の場合ほど、「一人の人間の死」が歴史を動かした事例は、日本史

上、極めて稀である。

  松陰の生涯を思う時、人間は、どれほど生きれるかが問題なのではな

く、むしろどう生き抜くかが重要なのだと感じる。  

  そこで大切なのが「成すべきことを成そうとする心構え」であり、それに

基づく行動力なのだ。

 

  戦時中の若者同様、幕末の志士たちも、極めて短命だったけれども、

彼らは決して自らの命を粗末にしたわけではなかった。 

  むしろ、肉体的な命以上の“理想”を信じ、そのために生き、さまざま

な形で祖国「日本」に殉じたのである。  【つづく】
 

 

 

 

 



2013年9月 2日 (月)

吉田松陰の「祖国愛」(1 )

  〔皆さんへ〕

 皆さん、お早うございます。 

お元気でしょうか? 

 たいへんご無沙汰いたしました。 

ひと月近いご無沙汰を、どうか、平にご海容くださいませ。

  この間、親しき友人たちから、心遣いのメールが届きました。

その方々のご厚情を、心より感謝申し上げます。



   また、拙ブログを、謹んで再開させて頂きます。
 

私事ですが、今から7年前、下の書を上梓いたしました。


         Photo_2



   その中の第9章で、吉田松陰の「祖国愛」について記しました。
 

今、改めて、その文章を読み返しながら、出版当時の自分の思いを新たに 

しています。

 

   すでに、ご購読いただきました方もいらっしゃるかと思いますが、そうで

ない方々のために、また自分自身、愛国者・吉田松陰に対する思いを、

ここで、もう一度、振り返ってみたいと考えまして、本ブログに連載させて

頂きたいと存じます。 

   どうか、皆さまにも、ご高覧いただけますならば、幸いです。



    吉田松陰における「大和魂」


  我々日本人の原点に宿るもの、それが「大和魂」である。これを、最も

端的に表現した近代の思想家が、吉田松陰ではあるまいか。 

  彼の説く「大和魂」は、本居宣長の「大和ごころ」をより政治化し、かつ

普遍化したものとも言える。

 

  では、吉田松陰における「大和魂」とは、いったいどのようなものだったの

だろうか。次のような和歌が在る。

 

  かくすればかくなるものと知りながら 

         已むに已まれぬ大和魂



  身はたとえ武蔵の野辺に朽ちぬとも
 

        留め置かまし大和魂

 

  周知のように、二つの和歌とも、松陰の作である。 第一首は、1854

(嘉永7)年、彼がアメリカ渡航に失敗後、下田の獄から江戸に移される

途中に詠じたものである。

 

  彼は、高輪の泉岳寺(*下の写真は、同境内の赤穂義士墓所)の前を

通る時、この和歌を赤穂義士に捧げた。赤穂義士たちの「誠」に対する

松陰の共感、敬意の念が偲ばれる。

               Photo_4

  松陰には、鎖国下で国禁を犯すことの結果が、目に見えていた。事実、

彼は失敗後「死罪」を覚悟していた。 

  しかし、それでも彼は、出国の禁に挑戦した。それほどに、彼は異国に

出て、その国の国情・国勢を知り、祖国防衛のための情報を得たかった

のだ



  彼は、単にアメリカに渡航したかったのではない。ロシアでもイギリスでも、

その国は問題ではなかった。 

  事実、松陰は前年(嘉永6年=1853年)10月、プチャーチン(*下の

肖像画)率いるロシア軍艦に搭乗したく長崎を訪ねている。

           Photo_2

 

  だが、あいにく、彼が到着する前に、ロシアの軍艦は、すでに長崎港を

離れていた。その挫折後の、下田沖でのアメリカ渡航の企てだった。 

  しかし、当の交渉相手ペリー(*下の肖像画)は、当時24歳だった松陰

の切なる希望を叶えてやることはできなかった。

            Photo_3
  とはいえ、マシュー・キャルブレイス・ペリー提督は、決して冷酷無比な

男だったわけではない。むしろ、極東の小国の若者のチャレンジ精神と

その心意気に興味を覚え、敬意さえ抱いた。

 

  だが、幕府との条約締結に際して、その汚点となるような事態は、極力

避けたかった。 

 それゆえ彼は、「幕府からの許可が出るまでは、残念ながら、あなたの

意に沿えない」と、松陰の申し出を丁重に斥けた。 

  他方、松陰も、決してペリーを恨まなかった。渡航失敗後、彼は潔く自首

し、その身を幕府の獄吏に預けたのである。



  赤穂義士の墓前で、松陰が詠んだ「已むに已まれぬ大和魂」とは、何より

”国を愛する思い”だった。 

  その国とは、長門の国(長州藩)といった意味での、当時の「クニ」のこと

ではない。 

 むしろ、261に及ぶ藩の統合体とも言うべき「日本国」であった。松陰の

思いは、すでに長州藩という一藩の域を超えて、日本全土に及んでいた。

  それゆえ彼は、脱藩してまで東北地方を旅したのである。無論これは、

彼が肥後藩士の宮部鼎蔵との約束を果たすという友情に基づいていた。

 

  また、脱藩してまで約束を守り抜くという行為を通して、長州人が「信義」

尊ぶ者であるということを、彼は他藩の者に知ってほしいという思いもあった

であろう。 

  だが何より、「東北旅行」という行為は、広く、かつ深く“日本国を愛する

思い“なしに出来ることではなかった。その意味で、彼の「大和魂」とは、

まさに至純なる祖国愛った。

  また、この「已むに已まれぬ大和魂」とは、「私心(乃至は、私情)」を滅

して(あるいは、超えて)、「公」に殉ずる思いでもある。


  確かに、「公」が、常に善とは限らない。また常に正しいとも言えない。

しかし、「私心」が自由気ままな反面、独善、かつ利己主義に堕するのに

対して、「公」を重んじる精神は、それに一定の規律を与え、「仁・義・礼・

智・信」といった道義に導くことができる。少なくとも、それを保持する可能

性が、「公」には存在する。

  それも、決して圧政(乃至は、圧制)の道具としてではなく、むしろ個々人

(あるいは、国民)統合の要として「道徳」を説く責任と力とが、「公」には存

するのである。

  その意味では、当時の政治情況から言えば、最終的に倒幕に意を決し

た松陰にとって、もはや、幕府は「公」に値するものではなく、ましろ天皇

の下に創造される「新生日本」こそが「公」と言えるものであった。



  松陰は、何より「情報」を重視した戦略家であった。だが同時に、彼は、

「私」をまとめ、かつそれらを導く「公」の必要性を強く感じていた。

  彼の説く「一君万民論」には、そのような民を統合する「公」の存在があ

った。彼は、その「公」の精神の確立に、自ら邁進し、かつ殉じたのである。

  規模こそ違え、赤穂義士には、主君浅野内匠頭長矩(ながのり)の無念

を晴らそうという思いと同時に、幕府の処置が「喧嘩両成敗」に反する

不公平なものだったとする「意義申し立て」があった。

  つまり、彼らにとっては、幕府の裁断に対して、これは「義」に反すると

いう批判の思いがあったのである。この「義」を重んじる赤穂義士に対

する共感と敬慕の念が、松陰に、「已むに已まれぬ大和魂」を詠じさせた

のではないだろうか。

                        Photo


  ところで当時、異国船襲来で日本周辺が急を告げる最中、相応の対処

も出来ずに、ただ既存の鎖国令を墨守するだけの幕府に対して「義」

(あるいは、正義)を実感していただろうか?

  むしろ、幕府の「義」に対して、心からの疑念を抱いていただけに、敢えて

「国外逃亡の禁」をおかしたのではあるまいか。

  その意味で、松陰の下田踏海の行為(いわゆる「下田密航事件」)は、

当時の時の流れにほとんど対応できない幕府の硬直性と、その「不義」に

対する、命を賭けた挑戦だったと言えよう。

  この命を賭した行為に至る心情こそが、まさに「已むに已まれぬ大和魂」

だったのである。  【つづく】

 

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