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2013年7月29日 (月)

徳冨蘆花の『謀反論』(2 )

  僕は世田ヶ谷を通る度に然(そう)思う。吉田も井伊も白骨になって

もはや五十年、彼ら及び無数の犠牲によって与えられた動力は、日本を

今日の位置に達せしめた。 

 

  日本もはや明治となって四十何年、維新の立者(たてもの)多くは墓に

なり、当年の書生青二才も、福々しい元老もしくは分別臭い中老になっ

た。彼らは老いた。日本も成長した。子供でない、大分大人になった。

 

  明治の初年に狂気のごとく駆足(かけあし)で来た日本も、いつの間に

か足もとを見て歩くようになり、内観するようになり、回顧もするようになり、

内治のきまりも一先(ひとま)ずついて、二度の戦争に領土は広がる。

新日本の統一ここに一段落を劃した観がある。 

  維新前後志士の苦心もいささか報いられたといわなければならぬ。

これから守成の歴史に移るのか。局面回復の要はないか。最早志士の

必要はないか。



  飛んでもないことである。五十歳前、徳川三百年の封建社会をただ

一煽(あお)りに推流(おしなが)して日本を打って一丸とした世界の

大潮流は、倦まず息(やす)まず澎湃(ほうはい)として流れている。 

  それは人類が一にならんとする傾向である。四海同胞の理想を実現

せんとする人類の心である。

 

  今日の世界はある意味において五六十年前の徳川の日本である。

どの国も陸海軍を拡げ、税関の隔であり、兄弟どころか敵味方、右で

握手して左でポケットの短銃(ピストル)を握る時代である。窮屈と思い

馬鹿らしいと思ったら実に片時もたまらぬ時代ではないか。 

 しかしながら人類の大理想は一切の障壁を推倒(おしたお)して一に

ならなければ止まぬ。一にせん、一にならんともがく。国と国との間も

それである。

 

  人種と人種の間もその通りである。階級と階級の間もそれである。

性と性の間もそれである。宗教と宗教―数え立つれば際限がない。 

  部分は部分において一になり、全体は全体において一とならんとする

大渦小渦鳴門のそれも啻(ただ)ならぬ波瀾の最中(さなか)に我らは

立っているのである(*下の写真は、鳴門の渦潮)

        Photo_13

  この大回転大軋轢は無際限であろうか。あたかも明治の初年の日本

の人々が皆感激の高調に上って、解脱又解脱、狂気のごとく自己を

擲(なげう)ったごとく、我々の世界もいつか王者その冠を投出し、富豪

その金庫を投出し、戦士その剣を投出し、智愚強弱一切の差別を忘れて、

青天白日の下に抱擁握手抃舞(べんぶ)する刹那は来ぬのであろうか。 

 

 あるいは夢であろう。夢でも宜(よ)い。人間夢を見ずに生きていられる

ものではない。―その時節は必ず来る。無論それが終局ではない、

人類のあらん限り新局面は開けてやまぬものである。

  しかしながら一刹那でも人類の歴史がこの詩的高調、このエクスタシー

の刹那に達するを得ば、長い長い旅の辛苦も償われて余(あまり)ある

ではないか。その時節は必ず来る、着々として来つつある。我らの衷心

が然(そう)囁くのだ。 

  しかしながら、その愉快は必ずや我らが汗もて血もて涙をもて贖(あがな)

わねばならぬ。収穫は短く、準備は長い。



  ゾラ(*下の写真と肖像画)の小説にある、無政府主義者が鉱山の

シャフトの排水樋(ひ)を夜窃(ひそか)に鋸でゴシゴシ切っておく。 

  水がドンドン坑内に溢れ入って、立坑といわず横坑といわず廃坑とい

わず知らぬ間に水が廻って、廻り切ったと思うと、俄然鉱山の敷地が

陥落をはじめて、建物も人も勢(いきおい)を以て瞬(またた)く間に総崩

れに陥(お)ち込んでしまった、ということが書いてある。

            Photo_11

            Photo_12


  旧組織が崩れ出したら案外速(すみやか)にばたばたいってしまうも

のだ。地下に水が廻る時日が長い。人知れず働く犠牲の数が入る。

犠牲、実に多くの犠牲を要する。

 

 日露の握手を来(きた)すために幾万の血が流れたか。彼らは犠牲

である(*下の写真は、水師営の会見:下の写真中央の乃木大将の

向かって右側が、ロシアのステッセル中将)

         Photo_9



         Photo_10



  しかしながら犠牲の種類も一ではない。自ら進んで自己を進歩の祭壇

に提供する犠牲もある。―新式の吉田松陰らは出て来るに違いない。 

  僕はかく思いつつ常に世田ヶ谷を過ぎていた。思っていたが、実に

思いがけなく今明治四十四年の劈頭(へきとう)において、我々は早くも

ここに十二名の謀反人を殺すこととなった。ただ一週間前の事である。

  【つづく】

 

 

 

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