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2013年7月23日 (火)

志賀直哉の「内村鑑三」観

  私が影響を受けた人々を数えるとすれば師としては内村鑑三先生、

友としては武者小路実篤、身内では私が二十四歳の時、八十歳で

亡くなった祖父志賀直道(*下の写真)挙げるのが一番気持ちに

ぴったりする。 

  その他にも私はよき友、よき身内に恵まれていて、それを独り想い、

今でも非常に幸福を感ずる。

          Photo

  影響の意味が私の仕事の上にその人の仕事が影響したという事に

なると他にも色々な人が考えられるが、此処ではその人の人間が私の

人間に影響したという意味で、もしその人との接触がなかったら、自分

はもっと生涯で無駄な廻り道をしていたかも知れないという事が考えら

れる、そういう人たちのことである。

 

  内村先生がある時、教育という言葉は英語でエデュース(educe)、これ

はその人にあるものを「ひき出す」という意味だといわれた事がある。 

  内村先生でも、祖父でも、武者小路(*下の写真は、後年の直哉と

武者小路実篤)でも私とはかなり皆、別な人々である。

 これらの人々に私が影響を受けたといっても私にないものをこれ

らの人々から与えられたというのではなく、あるものが共鳴によって、

はっきり自分のものになったという意味だと思う。

                   Photo_2

  私はここでは内村先生だけについて書こうと思う。祖父の事、武者小路

の事を一緒に書くと長くなり、書きつくせないので、内村先生の事だけを

憶い出すままに書いて見ようと思う。

 

  私が祖父にとってよき孫であり、武者小路にとってよき友であるように、

私は内村先生にとってよき弟子であったわけではない。 

  内村先生からいえばむしろよからぬ弟子の一人に過ぎなかった。

 (*若き日の志賀直哉)

     Photo_3


 生来の怠けもので、如何なる先生にもよき弟子になる資格のなかった

私は、聖書の研究でもさっぱり勉強しなかったから、その当時でも先生

のよき弟子だと自ら思った事はなかった。

 

  もともと私が内村先生の所へ行くようになった初めはそれ以前から

内村先生の書かれた物を読み、尊敬して行ったというのではなく、実は

内村先生の名さえ知らず、そのころ自家にいた末永馨という書生に勧

められ、漫然(ママ)出かけて行ったので、そんな弟子は内村先生にし

ては恐らく私一人であったろう。

 

  角筈の内村先生の家は何とかいう小さい女学校の中にあって、講習

会は休暇中のその校舎で開かれていた。 

  広い部屋に四、五十人が円く坐っている。内村先生は単衣(ひとえ)の

着流しでその円の一人として坐っていられたが、その鋭い感じの顔は

おくれて後から入って行った私にも直ぐそれと分った。腕組をして、黙っ

ていられる。晩のその会は感話の会で、交る交る(かわるがわる)聴講

生が自分の感じた事を発表するのである。




  この日から私は末永君に連れられ弁当持ちで毎日麻布の家(*下の

写真、麻布三河台の志賀邸:松岡正剛氏の『千夜千冊』より拝借)から

歩いて通った。東京に電車などのない頃だった。 

                  Photo_4


  先生の話でも祈(り)でも私が今まで教会で聴いたものとは全然別の

ものだった。 

  祈(り)などは思わせぶりな抑揚などの少しもない早い調子で力と

不思議な真実さのこもったものであった。

 

  また聖書について話される事でも品の悪いセンチメンタルな調子が

なく、胸のすく想いがした。

  私は先生からどういう話を聴いたか覚えていないが、初めて自分は

本統(ママ)の教えをきいたという感銘を受けた。 

  教会で聴く話には、煽動的な、信者を一人でも多く作ろうという意識

が見えすいた。




  私は此夏の講習会から七年余り先生に接して来た。不肖の弟子で、

先生にとって最大事である教(え)の事は余り身につけず、自分は

自分なりに小説作家の道へ進んで来たが、正しきものを憧れ、不正

虚偽を憎む気持を先生によってひき出された事は実にありがたい事に

感じている(*下の写真は、当時の講習会での集合写真:

志賀直哉は、最後列右端の背の高い若者)

        Photo_5

  又、二十前後の最も誘惑の多い時代を鵜呑みにしろ、教(え)によっ

て大過なかった事はキリスト教のお蔭といっても差支えないだろう。 

  精(くわ)しい事は知らないが、カーライルでは「仏蘭西革命」とか「クロン

ウェル伝」などを特に愛読されたのではないかと思う。クロンウェルの

名は先生の話によく出て来た。

 

  ところが日露戦争が始まってからは急にそれが出なくなった。そうい

う事は非常に潔癖でいられた。

  又こんな事も憶い出す。鉱毒事件の頃、古河市兵衛は先生の槍玉

にあがっていたが、そのうち古河市兵衛が亡くなった。と、同時に先生

はもう決して古河市兵衛の名を口にされなかった。私には先生のこう

いう何でもないような事が頭に残っている。 

                       (「内村先生の憶い出」より)

 

 

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