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2013年7月 2日 (火)

長與善郎の「内村鑑三」観(後)

  「さういふ君と僕とのこの間に神がある」

  しかし神を信ずることが出来ず、神を信ぜずにクリスチャン面をして先生

を瞞ましてゐるわけには行かず、そのことを打ちあけに或る日一人で先生

を訪ねた。

 

  先生と話を交はしたのは後にも先きにもそれ一度だけであるが、「君は

さういふが、さういふ君と僕とのこの間に神があるぢやないか」といふ返事

に又当惑した。さうかも知れないが、その「在る」ことがどうして判るか。

 

  それが判らないから訊きに来たのだと云ひたくて、云ひ得ず、話はそれ

から当時の学習院々長乃木大将(*下の写真)のことに及び、僕がその

軍国主義教育を非難し、人間としてはいゝ所があるかも知れないが、と

いふと「いゝ所あるんですとも!」と強く答へられたのにも一寸驚いたこと。

          Photo_8

  おそらく僕程不純な弟子はなかろうとはよく思つたことだつたが、そんな

風にして柏木へは約一年余りも矛盾を感じつゝ通つた。            

  しかし竟(つい)に自分ばかりか先生をも瞞ましてゐることに忍びず、

はつきり手紙に書いて、それまでの礼を述べるとゝもに脱退を声明し、

先生からも存外穏やかな返事を頂いて、それきり絶縁となつたこと。

 

  先生はよく愛弟子に裏切られて去られて、哀しまれることを聞いてゐた

ので、そのことはお気の毒と感じたこともそれまでぐづぐづしてゐた一つ

の理由だつた。

 

  又後年あの「神」の存在についての先生の答へを思ひ出して、結局

「あれは正しい答だつた。さういふ信仰上の体験は要するに冷暖自知より

ないのだから」とも書いた。

 

懐疑的理屈の嫌悪 

 

  しかし僕自身のことについてはこれ以上語るに足らないが、先生もあの

頃はもう余りにも大家となつて弟子が多くなりすぎ、高い所から説教を押し

つけられるだけで、個人的に近づき難くなつてゐたこと。

 

  又先生は多くの信仰者と同じく、懐疑的な理屈ぽい者を嫌はれたので、

文科系の者は好かれず、それは何故かなどゝ訊く「傲慢さ」をもたない工科

とか理科とか、軍人とかの単純素朴で、所謂ハムブルな(=謙遜な)者を

愛されたゝめ、さういふ羊の皮を被つたやうな無邪気で「可愛気のある」

やうに見えるコケットがその周囲に集まつてゐる空気も、僕には叶わな

かつた。甘えるやうなおべつかつかひを鋭くない先生は割に愛されたやう

に思ふ。

 

  藤井武氏(*下の写真:1888~1930)は一人ちがつてゐたが、何分いつ

も五十人位の多勢で僕はだれともつき合はなかつた。

            Photo_11
              Photo_12

  しかしさういふ中に立派な本物もゐたことーその多くは先生から別れた。

―を後になつて知つた次第だつた。



  一九一○年トルストイが死んだ時、先生はそのことを説教中に言及し、

「何といつても・・・・」相当な人だつたといふ風に語られ、リンカーン(*下

の肖像画:1809~1865 )については「どこまで偉いか判らない程」と讃美

された。これも僕には不服だつた。

                                Photo_13

  リンカーンは西郷南洲(*下の肖像画:1828~1877 )よりはえらいかも

知れないが、それこそ「何といつても」政治家ではないかといふ気持だつた。

                           Photo_14

  リンカーンはもともと政治家志願の有りふれた政治家とは経歴からいつ

ても類を異にする立派な人だと今では尊敬してはゐるが、トルストイのや

うな複雑な人間性の矛盾に深刻に悩んだ人の方が(その思想には異議

はあつても)ぼくらにはもつとぴつたりくることは如何ともし難い。 

  馬鹿な者が崇拝するので毛嫌ひしてゐた南洲も僕の思つてゐたやうな

人ではなかつたことを、これも後に知つた。 

 

  つまり、乃木大将の人となりを好まれたらしい先生自身、乃木大将型の

性格があり、一面学者―殊に史学者としても一家を成せる秀才だつたと

思はれるが、その胸奥には十九世紀ロマンチック的な詩魂があり、筆の

立つたことが、その人気―といふと語弊があるがーの一因をなしてゐた

ともいへさうな気がする。

 

  勿論信仰の情熱が根本ではあつても、乃木大将が天皇をカミとして

忠誠の情を詩に託したのと一脈通ずる所のあることが当時の青年をひき

つけたやうに思へる。 

  しかし僕の行つた頃の先生はもう神田青年会館などで、世界の文学

に触れつゝ、それに絡ませて伝道された魅力は示されなかつた。

 

  神の存在を信じられず、それについて問ひにくる者は、その青年の立場

になつて、その暗中模索の気持を察しつゝ、弁証的に説いて納得の行くや

うに導くといふやうな思想は先生にはなかつた。

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  思想家型といふよりは詩人型に近く、従つて文章も巧く、詩を作られた

かどうかは知らないが、「余は日本に属し、日本は世界に属し、世界は

基督に属し、而してすべては神に」といふ英文(*上の写真)の文句を

モットーとされ、墓碑にも記されてゐることも、その文才を示してゐる。 

  しかし、「何といつても」尊敬すべき人にちがひない。  【了】

  (原題「貧しい追憶」『回想の内村鑑三』)より

 

 

 

 

 

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