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2013年7月 5日 (金)

海老名弾正の「内村鑑三」論(中)

  土堤の崖の上での語らい


  併しまた或る処がある、非常に一つ合つた処がある。それは神学思想

や何かではない。我々はどつちも愛国者であつた。考の形式は違つて

ゐても、愛国の精神余程よく通うてゐた。

 

  もう一つはどつちも宗教家、どつちも神を敬ひ神を慕ふ者である。此の

ハートになつて来ると同じやう。同じ型から打ち出されたやうになつて来る。 

  心情の同じ泉から湧いて来た様に、同情同感になつたものである。そこ

に非常に同情相憐み同気相牽くといふ処があつた。



  私が始めて内村君と出会うたといふことは、明治十六年東京に全国基

督信徒大親睦会が開かれた時であつた。 

  その時私も演説をしたが内村君の演説は非常に興味を惹いた。

その題は「空の鳥と野の百合」といふのであつた。

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  さすが科学者の声、未だ爾(さ)ういふ題を掲げて演説をしたものはなか

つた。

 

  題そのものがアトラクチーブ(=魅力的)である、そして話に一種ファス

シネーチングの(=魅惑的で、うっとりさせるような)ところがあつた。 

  その演説をきいて私は親しく思ひ、これは友として親しむ可き人であると

いふ感想が覚えず湧いて来た。

 

  其の日か其の翌日か覚えてゐないが、或は上野の奥の方で親睦会が

あつたので、又其処に集(よ)つたであろうと思ふ。 

  我々はそれより更に奥に行つて今の日暮里ステーション(*下の写真は、

今日の日暮里駅)の上に狭い経(みち)を避けて、武蔵野原(*その下の

写真)の一部を眺めつゝ、暫く休んで草の上に足を投げ出して話をした。

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  其の時はよく覚えてゐないが、結局、信仰をもつて日本の社会を教化し

て行くと云ふ話であつただけは確かである。私は其の時以来、内村君を

決して忘れたことはない

           

  其の後、其の年の秋であつたらと思ふが、私は上州安中の教会(*下の

写真は、今日の安中教会)の牧師をしてをつたが、内村君が安中に来た

ことがある。

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  安中に来たとき内村君は面白い話をした。それは雑誌か新聞にあつた

話であつたかも知らないが、それは斯ういふ筋の話であつた、「二人の

友達がをつた、何でも火事か何か起つて大騒ぎが起つて来た、二人は

びつくりした、どうかして此処を飛び出さなければならない、一人のものは

遁げ穴を探してあつちにぶつかりこつちにぶつかり頭を打つたり手に怪我

をしたりして大騒ぎをしてをつた、一人はじつと坐つて遁げ穴を考へてゐた、

さうして兎に角しまひに二人とも外に出た」と。

 

  其の時に何だか内村君の心もちが読めた心地がした。 

俺はぶつかつて出て行く、お前はぶつからないで出て行く、どつちがよい

か判らないが兎に角さうである。内村君は爾(さ)う思つてをるなと私は思

つた。

 

  あれから内村君は伊香保の方に行つたと私は思ふ。内村君は幾多の

家庭悲劇を持ってをつた人である。丁度やつと遁げ穴が見つかつて出た

人の様な生活をされた。 

  それに比べると私の如きは一度婚姻して別れることもなく五十年の金婚

式を挙げるといふ様な訳である。

 

 悲劇の中の宗教的経験 

 

  また札幌時代のことを言つたのであつたと思ふが、内村君は私に

「海老名君、思つて呉れ給へ、同じ処に下宿してゐる者が夜になると

皆女を連れて来る、その中で自分は一人で勉強してゐるのだ、察して

呉れ」と言つたことがある。

 

  さういふ処を離れて身を潔くすることはやさしい、併し其の中にゐて

一人勉強してゐたといふのは偉い。私などは然(そ)ういふ経験はない。

内村君はさういふ処を通つてゐる。これは余り人の知らない事であろう

と思ふ。



  爾(さ)ういふ様な違つた処があつた。内村君はその悲劇の中に言ふ

可からざる宗教的経験を持つてをられたと思ふ。 

  十字架がキリストのハートでありブラッドである。たゞ其処に、あすこに、

寄り縋(すが)つて行くといふ、それが内村君の心髄であつたらうと思ふ。

 

  私から見るとさうは行かぬ、同情はするが、ハートを重んずるが、それ

が身代わりとは取れない。倫理的、哲学的、歴史的に考へる。 

  内村君は単純にハートで考へる。その辺のところが違つてゐた。然し

我々が如何にハートの処に於いてトッチする(*いわゆる「タッチ」のこと。

互いに“触れ合う”、あるいは“気心が知れ合う”という意味か。)処があつ

たかといふと、斯ういふ事があつた。

 

  内村君から見ると私は異端者、正反対の者。然るに其の当時、福音同

盟会といふのがあつて、それから私を除名し破門するといふ。 

  其の時内村君は非常に私に同情し、「私はお前に同情する、議論では

ない、ハートである」と言うて私に同情して呉れたことがある。

  いろいろ面白いことがある。嘗て留岡幸助君の家庭学校に集つて皆

胸襟を開いて語り合つたことがある。

  植村君は其の時ゐなかつた。内村君が私の方に向つて「お前ら

(熊本の連中を意味する)の基督教はナショナリズム(国家主義)だ。

植村(横浜の連中をいふ)のはエクレシアスチシズム(教会主義)だ。

俺(札幌を意味する)などはスプリチュアリズム(精神主義若しくは信仰

主義)だ」と斯う言うた。

 

  そこで私が「君、そんな事を言つちやいかんよ、それは自惚だ。植村

も精神主義さ、我々も精神主義さ、精神主義を君一人モノポライズ(独占)

するのは怪しからん。 

 精神主義は皆コモン(共通)である、君のはインディヴィヂュアリズム

(個人主義)といふのだ」と言つたら、廻りのものはどつと笑って「さうだ」と

肯定した(*下の写真は、壮年期の海老名弾正)

              Photo_9

   内村君もこれには閉口したらしい。内村君は考が簡単である。内村君

は多少自惚れてをつたのであろう。

  内村君とは考へ方が一様になつたり変つたりして来てゐる。併し私と

は直接に喧嘩をしたことはない。私は内村君と喧嘩する気になれない。

内村君から見れば、海老名は喧嘩をしないだろう、腹を立てまいと考へ

たのであろう。しさうになるが喧嘩をしない。 

  私の方からは喧嘩をしようとした事はない、内村君は非常に腹を立て

るが、腹の中で泣いてゐた様な人である。



  内村君は基督の再来を主唱した。これは哲学者、神学者、歴史家の声

でない、サイエンチスト(科学者)の声である。 

  サイエンチストの頭脳(あたま)は単純である。聖書の中にあるものより

貴いものはないと考へる。さう考へれば内村君の言ふ通りで内村君は

正しい。

 

  聖書には沢山さう書いてある。併しもう少し方面を広くして考へる者には

それは受け取れない、それは時代思想であつて永久的のものではないと

いふのが私の立場である。 

  他の人であつたならば私を悪魔の様に思うたであろう。私の方からは

幼稚に見える。

 

 併し内村君は私から見れば諒とする処がある。内村君も私に喰つて

掛からなかつた。 

 私の心事を汲み取つて呉れた。私は感情を悪くして喧嘩腰になれんのだ。

内村君の方も然うであろう。

  それに就いて思ひ出すのは、明治二十四年の秋、私は「キリスト崇拝」

という論文を『六号雑誌(*下の写真)に出した。大分長いものであつた。

           Photo_10

  私は書き方が下手糞であつたが、一大論文と見られ、評判があつた。

好い評判があつた。 

  その時分内村君と会うた時に内村君が、「俺が書けばあれは半分で

あれだけの事は書ける」と言つた。

  私は「ウン、さうか」と言つて聞いてゐただけであつたが、内村君の

頭脳(あたま)は科学者の頭脳で簡単で、哲学者や神学者とは違つて

ゐた、その事があとでよく考へて見るとよく判つた。あとからそれを解した

のであつた。  【つづく】



 

 

 

 

 

 

 

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