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2013年7月 6日 (土)

海老名弾正の「内村鑑三」観(後 )

  宣教師と日本基督教の独立



  内村君が悲境にあつた頃、熊本の英学校でひそかに教鞭を取ツテ

(ママ)呉れた事がある(明治二十六年のことである―本書の編者註)。 

  その学校は私が建てた学校である。併し私に相談した訳ではない。

その帰りに須磨に夏期学校があつた時である。

 

  熊本の英学校といふのは当時蔵原惟廓君がやつてをつたが、学校に

問題があつた。それは宣教師と蔵原君との衝突であつた。 

  私は宣教師を迎へた方で、宣教師に半分、蔵原君に半分の態度を取つ

てゐた。

 内村君が言ふのに、「海老名君、学校は蔵原君に一任だよ、あれは一所

懸命やつてゐるから、あれにやらせるより外ないよ」と。斯くして私が内村

君の勧告を採用した―兎に角私を決心せしめたといふことがある。

    (*下の写真中、中列・中央部に坐っているのが、当時の内村鑑三と

    蔵原惟郭・・・「内村鑑三記念文庫デジタルアーカイブ」より拝借)

         Photo_6


  また内村君が新潟の北越学館に館長になる意味で行つたことがある

(明治二十一年のことである―本書の編者註)。 

  それはスカッドルといふ宣教師が(これは私に縁もある人であるが)私に

来て呉れと言つた。 

  私は其の時既に熊本に行く決心をしてゐた。新潟に行けば待遇も好し、

併し熊本に行くことは逆境に行くのであることを承知していてゐたが私は

断つた。 

  「それなら誰がいゝだろう」と言ふので、「内村君をお頼みなさい」と勧

た。 

 そして内村君が行つて呉れたのである。併し一年かそこいらで衝突を

した。



  内村君は早くから宣教師と衝突を始めてゐた。併し私はしなかつた。

併しどつちも遂に衝突をしてしまつた。 

  内村君のは独立主義であつて、日本主義が入つてゐる、多く入つている。

札幌独立教会(*下の絵。写真は今日の同教会)を立てたのは其れである。

其のために非常な犠牲を払つた。 

              Photo

        Photo_2

  書物などを売り払つて財政を助けた。あの当時の決心は偉いもの、実に

大きなものである。内村君がした様にすれば、何処の教会も既に自給に

なつてゐた筈である。

 

  私も宣教師と衝突した。内村君のは独立問題、私のは少し違ふ。それは

神学問題。 

 宣教師は思想上に於て日本人を征服した、日本人の自由の思想を拒ん

だ。 

  そこで日本人の思想の自由を解放し、思想の独立を得るために経済的

独立を企てたのである。私は寧ろ宣教師と協力を主張する者である、其の

点では本多庸一君とウマを合はせることが出来る。

 

  併し乍ら内村君とは独立の点では一緒になつた。ナショナリズム(国家

主義)は内村君にもあつたのである。 

  たゞ内村君は先年(明治二十四年のことである―本書の編者註)第一高

等学校で不敬事件を惹き起した意味で忠君愛国の人でないやうに見られ

たのは不幸であつた。 

  内村君は好い加減の事は出来ない人であつた。それを見ないで形式的

の(ママ)の見方で人を定めるのは非常な間違ひである。併しそんな人達

が帝大にゐた。内村君の如き人を黜(しりぞ)けたのは非常な間違ひであ

つた。

           Photo_3


   一言弁解して置き度い。内村君は所謂何も忘れる人であつたろうが、此

の事だけは終りまで忘れず、骨身に沁みて腹を立て、立腹が癒えなかつた。

  我々に非常に強い、深い大なるナショナリスチックの一面があつた。内村

君は教会主義に公に反対した。併しナショナリズムには反対出来ない。

非常なる気分(ママ)を持つてをつた方である。其の辺が共鳴する処であつ

た。内村君は私の大切なところは取つておいたと見える。

 

  大正十五年六月、内村君は京都同志社に態々(わざわざ)私に会ひに

来て呉れた。 

 会うて直ぐ何と言ふかといふと、 

  「海老名君、君と俺が死んでしまつたら武士的基督教は無くなるよ」 

  其の言葉は私は其の時初めてきいた様な訳である。私の基督教の中に

如何に武士的精神が生かされてゐるか、内村君はよくそれを知つてゐて

呉れた。

  其の時、私は、
 

「然(そ)ういふ処もあるが、特別に悲観する程でもなかろうテ」 

といふ話をしたと思ふ。また内村君が、 

「外国宣教師をたゝかないではならない」 

と言うたので、 

  「それはいかんテ、今日では同情してやらんといかんよ、宣教師はもう死

んでをる、死者に鞭(むちう)つ様な事はしてはいけない、我々は彼等をオ

ナラブル(=公平、かつ丁重)に葬式をしてやらなくてはならないよ」と私は

言うた。 

  「ウンさうなつたか」 

 
  「さうだ、これは叩いてはいかんよ、お互に骨折れたが、一面の目的は達

した様だ」 

  「ウンさうなつたか、それでは叩けない」 

  「同情して往かうよ」

   と言うたことであつた(*下の写真は、後年の海老名弾正)

 

            Photo_4


 

 
  国を思う精神




  内村君は随分誤解された。一番大切なものに誤解された。兄弟達に

誤解された、非常に誤解された。これはまことに気の毒にたへない。 

  随分後年(のち)まで持つてゐた悲劇である。帝大の学者に誤解され、

所謂忠君愛国の旗を挙げてゐる人々に誤解され、其の上兄弟にまで誤解

されたのである。

 

  これはまことに気の毒なことである。これは内村君の如き人は謂はば

直情径行の処がある、非常に利口な人であるけれども好い加減にして置

けないからであると思ふ。私も違つた方面で誤解されたところが尠(すくな)

くなかつた。

 

  以上の如く内村君と私とは大分離れた処もあり違つた処もあるが、要す

るに国を思ふの精神が衷心から一つであつた。神を慕うて行く精神が一つ

泉から湧いてゐる。内村君と私は同根でありました。 

  明治十六年に上野の奥の崖の上で親しく話した時の精神が断ゆることな

く続いてゐました。これは最後に完うせられた処のことと見てをります。

【了】 

   (原題「内村君と私との精神的関係」『追想集 内村鑑三先生』)より

 

 

 

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