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2013年6月11日 (火)

内村鑑三(26 )

  五   木々を育てて



   教友会

  骨肉の争い

  角筈聖書研究会は、一九○一(明治三四)年夏に発足以来、会員を

約二五人に限り、毎日曜日ごとに角筈の鑑三の自宅で集会がおこなわ

れてきた。ところが、二年後の九月、鑑三は、突然その研究会を解散し

てしまった。 

  それは、「弟子を作り、教会を作るとの疑察」を受けるのを嫌ったため

と言っている(一九○三年九月十六日付斉藤宗次郎宛書簡)。

 

  教会のない者の教会の意味で無教会主義を唱える鑑三が、一個の教会

とまぎらわしいものを作っているとみられるのが、気になったらしい。

  角筈聖書研究会の解散にひきつづき、その翌月には、非戦論で朝報社

を退社した。そうなると『聖書之研究』の刊行のほかは、とくに仕事がなく

なったことになる。 

  一九○四年の年が開けると早々に、一度は閉じた角筈聖書研究会を再

開させたのも、そんな事情によるだろう(*下の写真・・・1909年、柏木

の書斎にて)

Photo_4

  角筈聖書研究会の再開には、もう一つ別の深刻な原因を求めることが

できる。それは、一九○二(明治三五)年の夏ごろから始まった、実弟

達三郎たちの長兄鑑三に対する反抗である。 

  鑑三によると、実弟たちの反抗の理由は、鑑三が、自分の家で扶養して

いる両親に対し、キリスト教の教師のくせに不親切であるということにもと

づく。

  実弟たちの側には、鑑三の母までが加担しているという(同年八月二十

日付宮部金吾宛書簡)。



  朝報社を辞したあとの鑑三の収入は『聖書之研究』によるしかなかった。

それも発行部数は下降して、一家の生活を支えるのは苦しかった。 

  家庭の経済的な窮状が、いっそう、母や弟たちの燃え始めた反逆の火

に油を注ぐことになる。



  前述した小山内薫の短編「沈黙」には、戦時中の「先生」が、「決闘」や

「暗殺」の脅迫を受けたり、「売国奴」「敵国の探偵」などと罵られたことが

記されている。 

  これらは、小山内が当時、鑑三の助手役を勤めていたことからみて、いず

れも、鑑三の身辺をじっさいにおびやかした事実であったと思われる。

  それは、とりもなおさず、鑑三の家庭や家族にも不安と苦悩とを与えたこ

とになる。

 

 母や弟たちにとっては、「不敬事件」以後、「またか」の思いがしたにちが

いない。そんな不満が反抗を助長した。 

  日露戦争の戦われている最中の一九○四年十一月十一日、精神障害

にもおちいっていた母が死去、弟の達三郎は、母を死に至らしめたのは

鑑三であると責め、葬儀の場でも兄に妨害と侮辱を加えた。

 

  鑑三と弟たちとの間の「骨肉」の争いは、とうとう、風刺画でしられた北沢

楽天の『東京パック』*下の写真は、本人と、その雑誌『東京パック』)

まで登場、鑑三が両親を踏みつけた銅像の漫画が描かれ、それに

『耶蘇教信者の裏と表』との題名がつけられている(*尚、下に掲載した

『東京パック』は、この時の記事とは別のもの)。

                       Photo

            Photo_2

 
   教友会

 

  鑑三が、しきりに「骨肉」の兄弟に対し「霊」の兄弟のことを口にしだす

のは、このころのことだ。「骨肉」の兄弟の頼りなさに反して「霊」の兄弟

の厚い交わりに傾斜していったのは自然である。

 

 これが角筈聖書研究会の再開につらなり、やがて『聖書之研究』の読者

組織である教友会結成の呼びかけを生んだとみることができる。

  一九○五(明治三八)年の秋を迎えるにあたり、鑑三は当面、実行したい

「三大事業」として、次のことをあげている。 

  第一、聖書の新研究 

  第二、平和主義の唱道 

  第三、友人の団合

 

 これらの事業のうち、はじめの二つは、これまでの仕事の継続といえる。

目新しいのは、最後の「友人の団合」である。まもなく、その具体化したも

のとして教友会設立の計画が発表された。 

  教友会は、『聖書之研究』読者を対象とした「信仰的並に友誼的団合」と

定められ、「主旨」では、こううたわれている。

  「我等、神とその遣わし給える独子イエスキリストを信ずる者、ここに相 

結んで教友会を組織す。父なる神の援助を得て同志相扶け神の聖旨に 

合える生涯を送らんことを期す」

 

  この「主旨」に共鳴する者が二人以上あれば教友会を組織することが

でき、東京の教友会を中心に全国の教友会は連合一致をはかるものと

された。 

  この結果、東京では、角筈に教友会が設立され、地方では、新潟県の

柏崎、大鹿、三条、長野県では上田、小諸、東穂高、千葉県では鳴浜

(なるはま)、栃木県では下野(宇都宮)、岩手県では花巻などに続々と

結成をみた。

 

 これらの教友会の結成された地方をみると、その多くは農村部にあって、

『万朝報』時代の理想団支部の置かれたところであり、その地方には古く

からの有力な読者のいることだ。 

  そういう有力者には、鑑三自身も書簡などを通じて、かなり積極的に

友会設立をうながし、彼らが中心となって教友会が結成されている。



  一九○六(明治三九)年の夏には新潟県柏崎で夏期懇話会を開き、翌年

夏には千葉県鳴浜でも同じ懇話会を開催しているが、それぞれ、柏崎教友

会、鳴浜教友会のある地である。 

  夏期懇話会には全国から教友たちが参集した。一九○○年から三年間

続いて角筈で開かれた夏期懇話会の復活とみることができる。



  教友会の性格につき、鑑三は「信仰的並に友誼的団合」にとどまるものと

ことわっているが、『聖書之研究』によって結ばれる全国的な宗教組織の

結成になったことは否めない。 

  鑑三にこの教友会結成におもむかせた動因については、先に述べたとお

りであるが、教友会を結成することで、鑑三が目指したものも何かあったの

ではないだろうか。

 

 

  平和協会




  日露開戦に先だち、鑑三は、どの文明国にもあるが、日本にはないもの

として平和教会の設立を『万朝報』を通じて訴えている(「平和協会の設立

を望む」)。 

  それは、単に平和を主張するための協会でなく、「軍備全廃、戦争絶対

的廃止を目的とする志士仁人の会合」である。

 

  鑑三には、もし、そういう団体が日本にできていて、その戦争廃止論が、

本人の間に少しでも広まっていたならば、あるいは日露の開戦を抑え

る声になったと考えたのかもしれない。 

  あとで大隈重信(*下の写真)を会長とした大日本平和協会には反対

するが、そのころは、少なくとも、平和協会なるものにいくらか期待をもっ

ていた。

            Photo_3

  もちろん教友会は、直接、平和をうったえる団体ではなかったが、『聖書

之研究』の読者のなかに少なからず鑑三の非戦論と平和主義に共鳴する

人々がいた。 

  そのような熱心な読者を対象に、まずお膝もとから地固めをはかろうとし

たのではないか。

 

  日露戦争では、非戦論は小さな声にすぎなかったため開戦を迎えてしま

った。 

 教友会は、この反省に立って、平和を作り出す人々の団体を目ざしたも

のということができる。 

  それが、かつての理想団の支部と地盤を共通にしている意味では、鑑三

を盟主とする理想団の再編成的な性格もつものといってもよい。

  往時の理想団には、社会主義者も含まれていたが、それをふるい落とし

た団体である。

 

  非戦論者や平和論者が、その意見を主張したり世界に平和をもたらす

方法は、とうぜん平和的な方法でなくてはならない。 

  このように考えていた鑑三は、社会主義者との間の一線を、より鮮明に

するため、一九○七年二月には、『基督教と社会主義』を小型の「角筈パ

ムフレット」として刊行した。収めた文は前に『聖書之研究』に発表したもの

である。 【つづく】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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