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2013年6月24日 (月)

内村鑑三(完)

  シュヴァイツァー



  その後、世界伝道協賛会の名ではないが、一九二六(大正一五)年には、

アフリカのランバレネで、やはり医療伝道に献身しているA・シュヴァイツ

ァーに宛てて、内村聖書研究会から献金が送られた(*下の地図中、

四角の赤枠が、ランバレネ・・・川を上った内陸部に位置することが分かる。)

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  鑑三が、シュヴァイツァーの事業を知ったのは、ドイツ留学中の長男祐之

(ゆうし)が、最初にシュヴァイツァーに献金したことによっている。 

  シュヴァイツァーは鑑三の『余は如何にして基督信徒となりし乎』などの

ドイツ語訳を読んでいて、父の鑑三には日ごろ尊敬の念を抱いていると

の返事をよこした。 

  この手紙が祐之から鑑三のもとに転送され、まもなく両者の前に手紙の

交換がおこなわれるようになる。

        Photo_3

                  
                              Photo_10

  翌一九二七(昭和二)年には、シュヴァィツァー後援会を設けて、その

事業を積極的に支援した。当時、聖書研究会会員の一人だった野村実

(*下の写真)は、医師となったのち、ランバレネの病院でシュヴァイツァ

ーを助けて働くことになる。

         
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  札幌伝道 

 

  聖書研究会の講義とは別に、晩年の鑑三がおこなった国内の伝道では、

一九二八(昭和三)年の七月から九月にかけておこなわれた札幌伝道が、

そのもっとも精力を傾倒したものだった。

 

  鑑三たちが青年時代に設立した札幌独立キリスト教会は、そのころ無牧

状態にあり、前年秋に訪れたばかりだったが、一九二八年の夏も長期の

伝道をおこなって助けた。 

  ちょうど札幌には、初孫の正子を連れて長男祐之の一家が、北海道帝

国大学に赴任し、住居をかまえていた。このことも、鑑三の足を札幌に向

かわせた大きな誘因だった。 (*下の写真の後方が、祐之、美代子夫妻)

          Photo_5

  札幌に滞在中は毎日曜日にわたり札幌独立キリスト教会の講壇にの

ぼった。 

 この夏、札幌は例年にない猛暑に襲われ、年老いた鑑三の身体にはか

なりこたえたようだ。

            Photo_6

  この伝道には、はじめ予定されていた門弟たちの応援もなく、鑑三は孤

軍奮闘することになる。鑑三は、「不敬事件」の直前にいったん同教会か

ら離籍したが、一九○○年にはふたたび入会、以来、名簿上は、無教会

主義の総帥でありながら同教会の会員でありつづけたのだった。



  度重なる札幌伝道も、同教会会員としての責任を感じた務めだったと

思われ、そのあげく、一九二八年の伝道を終わるにあたって、同教会の

教務顧問に就任している。 

  しかし、内村聖書研究会の会員たちに、これは容易には理解しがたい

ことだった。 

 そこに無教会主義を強く主張する塚本虎二たちとの意見の分かれがみ

られた。

 

  以前はともかく、このころの鑑三には、無教会主義そのものは、キリスト

教にとり最重要の問題ではなかった。遺稿で述べられているように「十

字架が第一主義であって、無教会主義は第二または第三主義」だった。 

  それとともに、年老いた鑑三の心を、しきりと札幌の地に向かわせたのは、

その地が、鑑三の若き胸に、大きな夢を育てた聖地であったことによって

いる。 

  鑑三が「札幌の任務」と題した講演で「私は札幌に来て常に私の信仰を

新たにせらるるのであります」と言ったのは、なにも札幌の人たちへの社

交辞令ではなく、鑑三自身の実感だった。

 

  若き日を過ごした札幌の聖地にあって、鑑三の魂は生気をとり戻し、

そこで生まれた二つのJの夢が、改めて新しく洗われるのを覚えた。

すなわち、札幌は、年老いた鑑三にとり、かけがえのない回春の地だっ

たのだ。

 

  一九二八年は、鑑三ら札幌農学校第二期生が創成川の畔(ほとり)で、

M・C・ハリスより受洗してから、五十年目を迎える年でもあった。 

  このことも、遠く過ぎ去った青春の日々を、なつかしく甦らせたにちが

いない。 

 受洗記念日の六月二日には、ともに受洗した新渡戸稲造、広井勇に、

第一期生の伊藤一隆、大島正健が加わり、五人で青山墓地にハリスの

墓参をしている(*下の写真は、その時のもの・・・内村の右側は、

広井勇と新渡戸稲造) 

 Photo_7

 

 

 

  宇宙の完成

 

  ところが、札幌から帰京してまもなく、つい半年前には、ともにハリスの

墓参をした親友、広井勇、伊藤一隆のあいつぐ死を迎えた。 

  鑑三自身も体調をくずし、やがて心臓の異常が発見されて病床に就く。 

一九二九(昭和四)年の暮れには、長年、聖書研究会の助手をつとめてき

た塚本虎二を分離独立させた。このころより病勢は一段と信仰した。

 

  一九三○年一月十二日の日曜日、柏木の聖書講堂の壇上にあらわれ

「パウロの武士道」につき一言述べたのが、講壇での最後の姿となる。 

  同年三月二六日、鑑三の古稀感謝祝賀会が催された。鑑三はもちろん

出席できなかったがこれを喜び、長男祐之に向かって、会合の参加者に

次の言葉を伝えるよう頼んだ。 

   「聖旨にかなわば生き延びて更に働く。然し如何なる

時にも悪き事は我々及び諸君の上に未来永久に決し 

て来ない。 

  宇宙万物人生悉く可なり。言わんと欲する事尽きず。

人類の幸福と日本国の隆盛と宇宙の完成を祈る」

 キリストのため、日本のために一生を捧げ通した人物らしく、人類と日本

の将来を思い、宇宙の完成を祈るという実に気宇広大な言葉である。

後世の人々に与えた鑑三の遺言とみてよい。 

  この二日後の三月二八日朝「非常に調和がとれて居るが、

これでよいのか」との言葉を最後に深い眠りに入り、午前八時五一分、

そのまま世を去った。 

  七十年にわたる地上のかぐわしい生涯を終えたのだった。 

 (*下の写真は、内村鑑三の墓です。)  【了】


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  (後記)  鈴木範久著『内村鑑三』〔岩波新書  287〕をご愛読いただき

     まして、まことにありがとうございました。 

      このような名著を世に出された鈴木先生に、心より感謝申し上

           げます。 

           次回も、もう少し、「内村鑑三」関係の著述について記したいと

     思います。

 

 

 



 

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