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2013年6月29日 (土)

徳富蘇峰の「内村鑑三」観(後)

  「私を文壇に紹介した徳富君」

 私は未だかつて自分と意見が違うために、その人を嫌ったり、不利益を

来たすことをしたようなことはないつもりでいる。 

  それとは反対に、日本の為になると思ったら、人それぞれいろいろの立

場で国につくすべきだと思っていたから、大いに応援したよ。 

  志賀重昂、陸羯南(*1857~1907:下の写真)、山路愛山に対する私の

態度をみてくれればわかる思う。

                            Photo_8
 

  本気に云ったり真剣に考える人を助けて来た。又、喧嘩をするなら相手

にとって不足のない、喧嘩の仕甲斐のある自分より上の人と戦ったものだ。 

  学者としては功利論の福沢諭吉、政治家としては大隈、伊藤、山県

(*1838~1922:下の写真)と争った。その他の連中は小さいからね。

                        Photo_6

  私はよく弟(*蘆花のこと:1868~1927:下の写真)とのことをとやかく云

われるけれど、私は今まで一度だって彼の悪口を云ったこともなければ、

一行だってこれに弁明したことはない、そうだろう?

                                Photo_7



  内村さんから肥後人、肥後イズムといってひどくにくまれたが、肥後イズ

ムというのは徳富一人ではなく、横井時雄、金森通倫、蔵原惟郭、市原宏

盛などを一まとめにして指したものであったろう。 

 まあ私が松方内閣に入って役人になったりしたことが気に入らなかった

のだろう。

 

  いろいろ意見も対立したが、会って話せば確かに内村も私の気持はわか

ってくれたのだろうと思う。その後、丸善(*下の写真は、今日の丸善の丸

の内本店)の二階で偶然二人が出会った時に、内村君は「めずらしいね、

徳富君もこういう所にくるのかね」と声をかけた。             

Photo_3

 
  内村君は私を丸善なんかに縁のない世俗の人間だと思っていたらしい

ね。「私だって来ますよ」と云ってその場は別れてしまった。



  晩年、霊南坂の教会(*下の写真は、今日の霊南坂教会)で小崎弘道君

の按手礼五十年の祝会があって私も内村君も一番前の列にならんでいた。

             Photo_4

  その時私も祝辞を述べたかどうかははっきりおぼえていないが、内村君

は壇上に立って祝賀の言葉を述べ、最後に「私を天下の文壇に紹介した

のはここに腰掛けていられる徳富君である。私もずいぶんと悪口を云った

が、今から考えると感謝の情に堪えぬ」といった。

 

  私は壇から下りる内村君を迎えて手をしっかりと握りあった。私は愉快に

思うたね。 

 この事は内村も年をとって訳がわかったという言葉でも説明出来ようし、

私の生涯を長くみてくれればこの男も一種の眼をもっているということが

わかってくれたのだろうと思う。これが内村君との最後の別れとなった。

 (*下の写真は、後年の内村鑑三と徳富蘇峰)

              Photo

             Photo_2

  明治の光




  私はつねに、キリスト教の中には、内村、植村、松村(*松村介石〔すけ

いし〕のこと:1859~1939)の三人を考えていた。

  その中で、内村は天才だし、植村はある部分天才だし、松村は普通われ

われと同じ仲間だろうね。松村とは死ぬまで小さな会をやっていた。

 

  植村との関係は、私が同志社を卒業する時、新島先生が私に「教会に

だけは行くだろうな」と云われたのさ。 

  その時「行きます」と答えたが、植村の教会へ行って、これが牧師かと

がっかりした。それ以後、行かなかったが、それからしばらくして色々会っ

て話をした。 

  キリスト教での友達といえば石井十次、山室軍平、留岡幸助たちだった。

 

  内村君はクリスチャンとして確かに特色のあった人だ。よく人は内村が

言行不一致だといってとがめるけれども、ああいう天才だから、言と行とが

一致するとは思わない。 

  言は理想であり、行は実行を意味するが、理想が常に先へ先へと走って

行ったので、ああいうことになったのだろうと思う。 

  だから内村君の言行不一致とは、内村君の理想の高さを現わすもので

はないだろうか。


  一番はじめに内村君とあったことなどはおぼえていない。
 

まあ順調に行ってそのまま大学を卒業すれば、内村さんは銀時計で、

私はビリで法学士くらいにはなっていたろうね。 

  内村君は水晶のようにどこからみても透明な頭をもっていた。だから

哲学でも、宗教でも、科学でも何でも行けたわけだ。 

  天は内村に十を与えたが、私たちには四か五しかくれなかった。 

内村さんのような人が明治に産出したことは明治の光だと思う。 

あの人は必ず後に伝わる人だと思う。  【了】

        Photo_5

  (原題「思い出」『回想の内村鑑三』)より 

  * この文章の末尾に、「昭和二十八年六月八日伊豆山徳富邸に於て

      編者との対談をノートしたものである」との但し書き有り。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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