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2013年6月

2013年6月29日 (土)

徳富蘇峰の「内村鑑三」観(後)

  「私を文壇に紹介した徳富君」

 私は未だかつて自分と意見が違うために、その人を嫌ったり、不利益を

来たすことをしたようなことはないつもりでいる。 

  それとは反対に、日本の為になると思ったら、人それぞれいろいろの立

場で国につくすべきだと思っていたから、大いに応援したよ。 

  志賀重昂、陸羯南(*1857~1907:下の写真)、山路愛山に対する私の

態度をみてくれればわかる思う。

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  本気に云ったり真剣に考える人を助けて来た。又、喧嘩をするなら相手

にとって不足のない、喧嘩の仕甲斐のある自分より上の人と戦ったものだ。 

  学者としては功利論の福沢諭吉、政治家としては大隈、伊藤、山県

(*1838~1922:下の写真)と争った。その他の連中は小さいからね。

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  私はよく弟(*蘆花のこと:1868~1927:下の写真)とのことをとやかく云

われるけれど、私は今まで一度だって彼の悪口を云ったこともなければ、

一行だってこれに弁明したことはない、そうだろう?

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  内村さんから肥後人、肥後イズムといってひどくにくまれたが、肥後イズ

ムというのは徳富一人ではなく、横井時雄、金森通倫、蔵原惟郭、市原宏

盛などを一まとめにして指したものであったろう。 

 まあ私が松方内閣に入って役人になったりしたことが気に入らなかった

のだろう。

 

  いろいろ意見も対立したが、会って話せば確かに内村も私の気持はわか

ってくれたのだろうと思う。その後、丸善(*下の写真は、今日の丸善の丸

の内本店)の二階で偶然二人が出会った時に、内村君は「めずらしいね、

徳富君もこういう所にくるのかね」と声をかけた。             

Photo_3

 
  内村君は私を丸善なんかに縁のない世俗の人間だと思っていたらしい

ね。「私だって来ますよ」と云ってその場は別れてしまった。



  晩年、霊南坂の教会(*下の写真は、今日の霊南坂教会)で小崎弘道君

の按手礼五十年の祝会があって私も内村君も一番前の列にならんでいた。

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  その時私も祝辞を述べたかどうかははっきりおぼえていないが、内村君

は壇上に立って祝賀の言葉を述べ、最後に「私を天下の文壇に紹介した

のはここに腰掛けていられる徳富君である。私もずいぶんと悪口を云った

が、今から考えると感謝の情に堪えぬ」といった。

 

  私は壇から下りる内村君を迎えて手をしっかりと握りあった。私は愉快に

思うたね。 

 この事は内村も年をとって訳がわかったという言葉でも説明出来ようし、

私の生涯を長くみてくれればこの男も一種の眼をもっているということが

わかってくれたのだろうと思う。これが内村君との最後の別れとなった。

 (*下の写真は、後年の内村鑑三と徳富蘇峰)

              Photo

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  明治の光




  私はつねに、キリスト教の中には、内村、植村、松村(*松村介石〔すけ

いし〕のこと:1859~1939)の三人を考えていた。

  その中で、内村は天才だし、植村はある部分天才だし、松村は普通われ

われと同じ仲間だろうね。松村とは死ぬまで小さな会をやっていた。

 

  植村との関係は、私が同志社を卒業する時、新島先生が私に「教会に

だけは行くだろうな」と云われたのさ。 

  その時「行きます」と答えたが、植村の教会へ行って、これが牧師かと

がっかりした。それ以後、行かなかったが、それからしばらくして色々会っ

て話をした。 

  キリスト教での友達といえば石井十次、山室軍平、留岡幸助たちだった。

 

  内村君はクリスチャンとして確かに特色のあった人だ。よく人は内村が

言行不一致だといってとがめるけれども、ああいう天才だから、言と行とが

一致するとは思わない。 

  言は理想であり、行は実行を意味するが、理想が常に先へ先へと走って

行ったので、ああいうことになったのだろうと思う。 

  だから内村君の言行不一致とは、内村君の理想の高さを現わすもので

はないだろうか。


  一番はじめに内村君とあったことなどはおぼえていない。
 

まあ順調に行ってそのまま大学を卒業すれば、内村さんは銀時計で、

私はビリで法学士くらいにはなっていたろうね。 

  内村君は水晶のようにどこからみても透明な頭をもっていた。だから

哲学でも、宗教でも、科学でも何でも行けたわけだ。 

  天は内村に十を与えたが、私たちには四か五しかくれなかった。 

内村さんのような人が明治に産出したことは明治の光だと思う。 

あの人は必ず後に伝わる人だと思う。  【了】

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  (原題「思い出」『回想の内村鑑三』)より 

  * この文章の末尾に、「昭和二十八年六月八日伊豆山徳富邸に於て

      編者との対談をノートしたものである」との但し書き有り。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2013年6月28日 (金)

徳富蘇峰の「内村鑑三」観(前 )

  必ず後に伝わる人

  不思議な縁

 私は内村先生とは、不思議な縁があってね。同じ学校にいたのだ。 

これは先生の晩年、先生にいわれてはじめてわかった。 

  何でも「私の所に君がクラスのビリだった書きつけがある」という話だった。 

「それでは今度見せてください」といったままで、とうとう見ずしまいに終わっ

てしまった。私がその東京英語学校にいたのは、明治九年の秋だ。



  私と内村さんとの関係はいろいろといわれるけれど、内村さんの私に対

する考え方が変ったので(=のに対して)、私の内村さんに対する考え方

は終始一貫して来たつもりだ。

 

  内村さんを始めて知ったのは新島先生(*下の写真)を通じてであり、

新島さんは内村の学識、人物、気骨に惚れこんで、何とか同志社に呼び

たかったらしい。

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  だが内村さんはガンとして応じなかった。その頃から内村さんという人を

私は記憶していた(*下の写真は、若き日と後年の徳富蘇峰)。

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  私は文久三年生れ。内村さんは五つくらい上だと思っていたよ、そうか

ね一つ上かね。すこぶる俊才だったわけだね。 

  内村さんは吾々の歩まない世界をあるいて来た人だ。動物とか植物と

の専門で、それをやり通せば世界に名をあげるだろうという話を聞いていた。 

  それに強烈なクリスチャンで己の主張を徹底して、一歩も譲らない人だと

いうことも聞いていた。その頃、内村さんと膝を交えて話したことはない。



  内村さんは天才だと思った。大したものだと思った。心ひそかに尊敬して

いた。ただ私どもから見れば自分が世界を一人でこしらえて、その中で物を

云っている男で、一口に云えばカーライル(*下の肖像画)のような男だと思

った。 

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  私は内村さんと立場も違ったが、云い方は悪いが、内村さんを一生保護

したといおうかね。いや保護したものだよ。

 

  だから私の書いたもので内村さんの悪口を云ったものは一つもないつも

りだ。そうだろう。私は心で本当に尊敬していた。 

  私は天才でなくて天才の風をしたり、国を愛する心がなくて愛国者のよう

な顔をしたり、そういう「偽」というものが嫌いだった。

 

  内村さんにはそういう「偽」という所は少しもなかったね。そりゃ内村さん

はしたい放題のことをしたり、いいたい放題のことを云ったりしていた。 

  それで友人、親戚にずいぶん迷惑をかけたらしいが、私のみたところに

よると、最も多く自分自身に迷惑をかけたんじゃないかな。

  私は自分では天才だと思っていないが、内村さんはたしかに天才だった

と思う。



   一番私と内村さんと心があったのは明治二十七、八年の日清戦争の頃

だった。 

  日清戦争を内村さんがギリシャとペルシャの戦争にたとえた文章を書か

れたが、これは内村の一世一代の風雲を動かしたものだ。 

  何といっても内村さんは非常な天才だね。クリスチャンであってニーチェ

(*下の写真)のような所があった。


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  お子さんは精神病のお医者さんだそうだが、内村さんにはまあ、息子さん

病院に入れなければならないようなところがあったね。 

  内村という人は、クリスチャンを以ってはじまり、クリスチャンをもって終っ

た人で、クリスチャンとして一貫した脊椎骨をもっていた人だ。

 

  私などと内村さんとのちがいは、まあクリストに対する態度がちがうわけ

で、内村さんのクリストに対する態度は高山彦九郎(*下の写真:1747~

1793:江戸後期の勤皇思想家、吉田松陰をはじめ幕末の志士と呼ばれる

人々に多くの影響を与えた。二宮尊徳や楠木正成と並んで、戦前の修身

教育で取り上げられた人物)の天皇さんに対するようなものじゃないかな。

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 クリストを本当に見たものは内村一人といっても差支えないのじゃないか。
 

新渡戸稲造(*下の写真)という男があるが、これも内村さんに比べればあ

る程度、いい意味の俗物だといっても差支えない、これも一種優れたものを

もっていたにはいたね。 【つづく】

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2013年6月27日 (木)

岩波茂雄の「内村鑑三」論(後)

   信仰なき私が受けた人間的感化



  私は先生の力瘤を入れられた基督の再臨を始めとして純福音なるもの

を遂に体得する事が出来ず、トルストイ(*下の写真)の所謂「信仰なき

処人生なし」境地は僅に想像するに止まり、遂に信仰生活には入るこ

とが出来なかつた。

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  先生にとつて私は救はれざる徒輩である。先生を悲しましめし者の一人

であつたであろう。信仰なき私に先生の偉大性が分る筈がない。 

  だが私は先生の常に忌嫌つてやまなかつた先生の人間的感化を受け

たことは事実である。

  神の国の福(さいわ)ひは遂に分からなかつたとしても此の世の栄の詰

らない事はしみじみ教えられた。永遠なるものと泡沫の如く消え行くものと

の区別も教へられた。

 

  真理や正義や真実は何物にもまして尊重すべきものたる事を教へ

られた。 

  民衆を眩惑する外面的の事柄よりも密室に於ける一人の祈りが遥かに

事業である事を力強く教へられた。 

  社交のつまらなくて自然を友とする事と典籍に親しむ事の楽しさを教へ

られた。 

 今日私が宴会などに余り出席せず交際を極度に縮小しようと心掛けて

ゐるのも先生の影響であろう。

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  先生にとつて私は憐れむべき迷児に過ぎなかつたであろうが、私にとつ

て先生は非常なる感化を及ぼして下さつた恩師であつた。 

  今の仕事も自分は其の成立を予期しなかつたが、老後の思ひ出にもと

仮初(かりそめ)に始めたのである。
 

  世は我れを容れず、我れは世に従はず、結局その仕事は破綻に終るだ

ろうときめこんでゐた。 

  それで東海の辺りに地を卜(ぼく)し(・・・居所を決めて)、朝夕絶愛する

不二を友とする晴耕雨読の生活に、安住の境地を想定し、自分の最も

尊重する独立、自由、誠実を守ることが出来なかつたら何時でもこの境涯

を放擲して憧憬の生活に入る考であつた。

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  然るにこの田園生活はその儘となつて荀且(じゅんかつ)に始めし一市民

としての商売生活が継続されて、今日に至つては此の生活に多少とも

社会的意義を感ずる様になつた(*下の写真は、第二次世界大戦後の

岩波書店)
 
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  複雑な社会に於て商売を営むに頑鈍愚直で押通し、懸引(かけひき)を

商売の生命とする時代に於て断然これを排撃し、古本の正札販売を敢行

したり、出版をするやうになつてからは出来る限り低廉の定価を付し組合

の実行に先立ち定価販売を断行し、習俗に媚びず世間に阿(おもね)らず

主義を頑張り所信に生きて来た事は、先生の感化、特にその独立の精神

に負ふ所少くないであろうと考へられる。(*下の写真は、「岩波文庫)

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 滅びざる或るものの厳存




  国歩艱難の現時に於て私は、国賊と言はれ、非国民と罵られ、偽善者

と侮られた先生を想ふの情特に切なるものがある。 

  先生に人間的弱点がなかつたとは思はない。誤解される素質を多分に

有つて居られたかのやうにも思はれる。されど鹿の渓水を慕ふ如く真理

を愛慕すること先生の如き人が何処にかある。 

  正義を尊重し家国日本を熱愛し真実に生きたる先生の如き人が何処に

かある。


 あの恐ろしい鋭い風貌の中に先生は極めて正直な心と限りなき情愛と

包蔵せられた。信仰人としての先生は暴風怒涛の如く強烈無比の戦士

であると共に、日常人としての先生は臆病と思はれるほど弱く、一片の

花片を手にしても涙ぐむほど優しい人であつた。 

  先生は衆と共に平和協調の世界に安住するを楽しむといふより、迫害

の裡に孤高の戦を続けて益々その本質を発揮する闘士であつた。

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  敬虔なるもの、荘厳なるもの、高貴なるもの、謙虚なるもの、熱切なる

ものとして、先生の祈りの如きを私は外に知らない。 

  砕けたる魂、悔いたる心を以て、跪いて神の前に先生が祈られる時、

懐疑不信の私の如き者にすら、宇宙には万古に亙りて滅びざる或

もの厳存を感得せしむるものがあつた。

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  思ふに今日の日本程正義や真実から懸け離れて居る社会はまたと

あるまい。 

 忠君愛国を唱ふる者はざらにある。思想善導の学者も何処にも転が

って居る。 

  だが、先憂後楽、真に国を憂ひ義を慕ふ者はない。これが現代日本の

憂患である。
 

 私は先生の如き種類の国賊、非国民、偽善者が出て、価値の転倒を

なし、真理の何者たるかを示して一世を指導し、日本の現状を救つて呉

れることを祈つて止まない。  【了】

 (原題「内村先生」『追想集  内村鑑三先生』)より

 

2013年6月25日 (火)

岩波茂雄の「内村鑑三」観(前)

  内村鑑三は、1861年(万延2年)の生まれです。それで、一昨年(2011年)、

彼の生誕150周年を記念して、優れた研究書『内村鑑三』(藤原書店:下の

写真)が出版されました。

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 その内容は、ひじょうに示唆と含蓄に富んでいます。本日は、その中か

ら、岩波茂雄氏(岩波書店の創立者:下の写真:1881~1946)の「内村鑑

三」論について掲載させて頂きたいと存じます。

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  岩波茂雄氏の他、様々な人々の回顧の中に、きっと内村鑑三の人柄が

偲ばれると思うのです。(*今回は、旧字体のまま、転載いたします。)




    真に国を憂う「非国民」




  伊東から熱海までの随行



 私は中学を終つた明治三十三年の夏を郷国信州の小諸(*下の写真は、

今日の小諸)の伊藤長七氏の寓居で過した事があったが、内村先生の講

演があるといふので小諸から上田まで出かけて行つて聴衆の一人となった。

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  何の話をされたか覚えてゐないが、先生の謦咳に接したのはこの時が

始めてであつたと思ふ。

  それからその年の暮伊豆の伊東(*下の写真は、今日の伊東市と温泉

旅館やまだや)に静養して居つた時に先生が来られ、温泉旅館山田屋で

講演されたのを聴きに行つた事がある。

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  その時は深い感動を受けたとみえ、教育上に関する事柄で今なほ記憶

に残つてゐるものがある。 

  翌朝先生は徒歩で熱海に行かれるといふので私は熱海まで荷物を持つ

てお送りした。其の時佐藤武雄氏も随行者として一緒であつた。 

  天気のよい日で途中峠の茶屋で休んだ時茶代に銅銭を出して老婆に

やつた事や、北海道の自然は大陸的であるといふようなお話の出た事を

忘れない。
 

  丁度熱海に着いたのが昼頃でその辺の宿屋の二階で牛肉をいたゞいた。

私が非常に恐縮し御馳走を遠慮したのに対し先生は人足を頼んで来たと

すれば云々と言はれた。 

  先生が私を気の毒がらせまいとして言はれたに相違ない此の言葉に、

驕慢なる青年であつた当時の私は虫がをさまらなかつた。
 

  自分が先生に随つてきたのは先生を敬慕する余りの純情そのものであ

つて、伊東より熱海までの間先生に親炙(しんしゃ)して来たといふその事

に絶大の光栄と喜びを感じてゐたから、御馳走になるその事は勿体ない

やうな気がして遠慮してゐたのに、先生の御言葉は当方の心持を一向汲

まず人足扱ひされたと誤解したのである。 

  それで後から先生に手紙を差上げ憤慨の心持を率直に訴へ、今後先生

に師事しないと言つてやつた。


  ところが先生から懇切なる手紙が来て更に先生とお会ひする事となり、

感情問題はこゝに解消して私はそこで先生の日曜講演に出席する特権を

与へられたのである。 

  これを機会として毎日曜先生の所へ通ふやうになつた。 

その頃集つた人々の中で記憶に残つてゐる者は、小山内、倉橋、中村、

畔上、若林、田中、志賀、黒木等の諸氏である。

  当時のお宅は角筈の今の浄水場の側の櫟(くぬぎ)林の中にあつた。

今の内村博士(*下の写真)祐さんと言うてほんの子供であつた。


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  集つた者にそれぞれ先生は聖書の中の愛誦の句を言はせたこともある。

自分は旧約にある「義しき者になやみなし」などと言つた覚えがある。

 この頃の志賀直哉氏などの流暢でない祈りも思ひ出される。

  どの位の期間行つたかは覚えてゐないが、行かなくなつた後も『聖書之

研究』だけは毎月読むことを楽しみとし最後の巻まで怠らなかつた。

  研究誌は三十一号から購読し始めたことを覚えてゐるが一号より三十

号迄は先輩の木山熊次郎氏のものを借りて通読し、又先生の著書も一通

りは読んだ。

  此の木山氏は先生の尊敬者で私に先生の偉いことを説き、其の著書を

読むことをすすめた人である。

  今生きて居るとすれば相当社会になくてはならぬ人となつたと思はれる

人で早くなくなられたのは惜しい事をした。木山氏の如く個人的に先生に

会はない方で先生の理解者である人は限りなくあると信ずる。

  私は定つた聖書の講義などよりも先生の感想などに興味を持ちその中

には暗記したものも多くあつた。

  自分が本屋をやるようになつてからも卑俗なる雑誌などは売れるといつ

ても店に陳列することをさけ、『聖書之研究』は毎月出来毎にその看板を

立てる事にして居つた。又先生の著書は纏めて陳列した事もあつた。

先生も稀に店に見えられた(*下の写真は、創業時の岩波書店

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 或時一時先生を柏木にお訪ねしたが、先生は神田の基督青年会にて

講演を承諾しないのに自分が講演をする如く宣伝され迷惑せられる事を

訴へられたので、私がこれを御引受けして当事者に談判し、即時に講演

の立札にある先生の名をぬりつぶさせ、なほ「小生今夕青年会館に於て

演説すべしとの約束を為さず    内村鑑三」と書いて店の前に立看板を出

した事もあつた。

  その先生自筆の下書は今なほ手許に保存して居る。先生は藤井武君に

この事について、岩波は勇敢な男であると云はれた、と同君が笑つて語

られたことがある。 【つづく】

 

 




 

 

 

 

2013年6月24日 (月)

内村鑑三(完)

  シュヴァイツァー



  その後、世界伝道協賛会の名ではないが、一九二六(大正一五)年には、

アフリカのランバレネで、やはり医療伝道に献身しているA・シュヴァイツ

ァーに宛てて、内村聖書研究会から献金が送られた(*下の地図中、

四角の赤枠が、ランバレネ・・・川を上った内陸部に位置することが分かる。)

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  鑑三が、シュヴァイツァーの事業を知ったのは、ドイツ留学中の長男祐之

(ゆうし)が、最初にシュヴァイツァーに献金したことによっている。 

  シュヴァイツァーは鑑三の『余は如何にして基督信徒となりし乎』などの

ドイツ語訳を読んでいて、父の鑑三には日ごろ尊敬の念を抱いていると

の返事をよこした。 

  この手紙が祐之から鑑三のもとに転送され、まもなく両者の前に手紙の

交換がおこなわれるようになる。

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  翌一九二七(昭和二)年には、シュヴァィツァー後援会を設けて、その

事業を積極的に支援した。当時、聖書研究会会員の一人だった野村実

(*下の写真)は、医師となったのち、ランバレネの病院でシュヴァイツァ

ーを助けて働くことになる。

         
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  札幌伝道 

 

  聖書研究会の講義とは別に、晩年の鑑三がおこなった国内の伝道では、

一九二八(昭和三)年の七月から九月にかけておこなわれた札幌伝道が、

そのもっとも精力を傾倒したものだった。

 

  鑑三たちが青年時代に設立した札幌独立キリスト教会は、そのころ無牧

状態にあり、前年秋に訪れたばかりだったが、一九二八年の夏も長期の

伝道をおこなって助けた。 

  ちょうど札幌には、初孫の正子を連れて長男祐之の一家が、北海道帝

国大学に赴任し、住居をかまえていた。このことも、鑑三の足を札幌に向

かわせた大きな誘因だった。 (*下の写真の後方が、祐之、美代子夫妻)

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  札幌に滞在中は毎日曜日にわたり札幌独立キリスト教会の講壇にの

ぼった。 

 この夏、札幌は例年にない猛暑に襲われ、年老いた鑑三の身体にはか

なりこたえたようだ。

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  この伝道には、はじめ予定されていた門弟たちの応援もなく、鑑三は孤

軍奮闘することになる。鑑三は、「不敬事件」の直前にいったん同教会か

ら離籍したが、一九○○年にはふたたび入会、以来、名簿上は、無教会

主義の総帥でありながら同教会の会員でありつづけたのだった。



  度重なる札幌伝道も、同教会会員としての責任を感じた務めだったと

思われ、そのあげく、一九二八年の伝道を終わるにあたって、同教会の

教務顧問に就任している。 

  しかし、内村聖書研究会の会員たちに、これは容易には理解しがたい

ことだった。 

 そこに無教会主義を強く主張する塚本虎二たちとの意見の分かれがみ

られた。

 

  以前はともかく、このころの鑑三には、無教会主義そのものは、キリスト

教にとり最重要の問題ではなかった。遺稿で述べられているように「十

字架が第一主義であって、無教会主義は第二または第三主義」だった。 

  それとともに、年老いた鑑三の心を、しきりと札幌の地に向かわせたのは、

その地が、鑑三の若き胸に、大きな夢を育てた聖地であったことによって

いる。 

  鑑三が「札幌の任務」と題した講演で「私は札幌に来て常に私の信仰を

新たにせらるるのであります」と言ったのは、なにも札幌の人たちへの社

交辞令ではなく、鑑三自身の実感だった。

 

  若き日を過ごした札幌の聖地にあって、鑑三の魂は生気をとり戻し、

そこで生まれた二つのJの夢が、改めて新しく洗われるのを覚えた。

すなわち、札幌は、年老いた鑑三にとり、かけがえのない回春の地だっ

たのだ。

 

  一九二八年は、鑑三ら札幌農学校第二期生が創成川の畔(ほとり)で、

M・C・ハリスより受洗してから、五十年目を迎える年でもあった。 

  このことも、遠く過ぎ去った青春の日々を、なつかしく甦らせたにちが

いない。 

 受洗記念日の六月二日には、ともに受洗した新渡戸稲造、広井勇に、

第一期生の伊藤一隆、大島正健が加わり、五人で青山墓地にハリスの

墓参をしている(*下の写真は、その時のもの・・・内村の右側は、

広井勇と新渡戸稲造) 

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  宇宙の完成

 

  ところが、札幌から帰京してまもなく、つい半年前には、ともにハリスの

墓参をした親友、広井勇、伊藤一隆のあいつぐ死を迎えた。 

  鑑三自身も体調をくずし、やがて心臓の異常が発見されて病床に就く。 

一九二九(昭和四)年の暮れには、長年、聖書研究会の助手をつとめてき

た塚本虎二を分離独立させた。このころより病勢は一段と信仰した。

 

  一九三○年一月十二日の日曜日、柏木の聖書講堂の壇上にあらわれ

「パウロの武士道」につき一言述べたのが、講壇での最後の姿となる。 

  同年三月二六日、鑑三の古稀感謝祝賀会が催された。鑑三はもちろん

出席できなかったがこれを喜び、長男祐之に向かって、会合の参加者に

次の言葉を伝えるよう頼んだ。 

   「聖旨にかなわば生き延びて更に働く。然し如何なる

時にも悪き事は我々及び諸君の上に未来永久に決し 

て来ない。 

  宇宙万物人生悉く可なり。言わんと欲する事尽きず。

人類の幸福と日本国の隆盛と宇宙の完成を祈る」

 キリストのため、日本のために一生を捧げ通した人物らしく、人類と日本

の将来を思い、宇宙の完成を祈るという実に気宇広大な言葉である。

後世の人々に与えた鑑三の遺言とみてよい。 

  この二日後の三月二八日朝「非常に調和がとれて居るが、

これでよいのか」との言葉を最後に深い眠りに入り、午前八時五一分、

そのまま世を去った。 

  七十年にわたる地上のかぐわしい生涯を終えたのだった。 

 (*下の写真は、内村鑑三の墓です。)  【了】


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  (後記)  鈴木範久著『内村鑑三』〔岩波新書  287〕をご愛読いただき

     まして、まことにありがとうございました。 

      このような名著を世に出された鈴木先生に、心より感謝申し上

           げます。 

           次回も、もう少し、「内村鑑三」関係の著述について記したいと

     思います。

 

 

 



 

2013年6月22日 (土)

内村鑑三(34)

   排日法案


  このように関東大震災の対応では、案外冷静だった鑑三であるが、こと

がナショナリズムという情念をゆさぶる問題となるとそうはゆかなかった。

晩年の鑑三の血を異常にさわがせた排日法案反対運動が、その見本で

ある。

 

  米国の排日法案反対の声は、一九一三(大正二)年に一度あげたことが

あったが、一九二四(大正一三)年、米国大統領クーリッジ(*下の写真)

の排日法案署名は、それをなおいっそう高くあげさせることになる。

            Photo

  反対のためには、三十数年前から絶交状態にあった徳富蘇峰(*下の

写真)とも旧交を回復して『国民新聞』に何度も排日反対の文を寄せた。

              Photo_2

  『東京日日新聞』や『万朝報』にも積極的に反対意見を書き送っている。 

松沢弘陽氏が指摘したように、珍しいことには政治家たちとも会談している。



  排日法案反対の気勢は、徳富蘇峰との旧交を回復させたり、政治家と

会見させたばかりでない。日本のキリスト教会とも共同歩調をとらせ、

植村正久(*下の写真)小崎弘道などという教会側の指導者と「対米

問題」に関してしばしば協議を重ねている。

              Photo_3

  キリスト教徒による対米問題協議会では、この問題につき宣言書を発表

することになり、鑑三は起草委員の一人になった。 

  鑑三の作成した「宣言」案は、日本国民に対する「大侮辱」に対して毅然

とした態度でのぞむべきことを主張し、この際米国をはじめとするキリスト

教諸国との断絶を盛り込んだ過激なものだった。

 

  さすがにこれは採用されず、じっさいに発表された「宣言」では、米国民

に反省をうながすとともに日本のキリスト教徒は、その自治独立の促進に

努力を表明するにとどまった。



 日本社会一般の世論も、米国の排日法案に反対意見が沸騰した。早く

も対米開戦まで叫ぶ者がでたほどである。日本の世論の動きとは、常に

逆をたどってきたのが、これまでの鑑三の歩みであったのに、この時ば

かりは、珍しく世の大勢と足並みをそろえた。

 

  鑑三の排日法案反対論は、米国の拝金主義(*下は、そのイメージ)

物質主義、非キリスト教精神、排他性、利己心を口をきわめて攻撃したも

ので「アメリカ嫌いの急先鋒」(「対米所感」)とも受けとられた。

 その激越な論難を異常とみるキリスト信徒も少なくなかった。

          Photo_4

  ところが、日本社会一般の反対感情と歩調を同じくしながら、鑑三が 

わずかに相違をみせたのは、米国の「無礼」に対しては憤激はしても、 

平和協調による関係の修復は閉ざしていなかったことである。

  一九二六(大正一五)年三月から、鑑三は朝報社時代の同僚山県

五十雄と英文雑誌『ジャパン・クリスチャン・インテリジェンサー(The

Japan  Christian  Intelligencer』を発行した(一九二八年二月廃刊)。

 

  これも、キリスト教は、なにも欧米から教えられるものばかりでなく、

日本にも、日本のものとなった仏教があるのと同じく、一個の独立した

キリスト教のあることを、世界に訴えようとしたものである。

 

  この雑誌創刊の考えが、排日法案反対運動のころより生じているこ

とからもわかるように、ひとしく根強いナショナリズムの基盤から出た

ものだった。





 
宇宙完成の祈り



 世界伝道協賛会

 

 

  関東大震災で聖書講演会場だった大日本私立衛生会館を失ったあと、

聖書研究会は、古巣の柏木の今井館付属聖書講堂(*下の写真)に戻

っておこなわれた。

                         Photo_5



           Photo_6


   一時、女子学院や日本青年館で開かれたこともあったが、手狭な聖書

講堂を改築したり、講演を午前と午後の二部に分けたりして、数百人の

聴衆の要望に応じた。

 

  鑑三は、一九二二(大正一一)年十月には世界伝道協賛会を創設して、

世界の伝道事業に貢献する組織を作っていた。 

  日本のキリスト者が、世界伝道に協賛しようとする試みの最初であると、

みずから語っている。 

 

  キリスト者になったということは世界の市民になったのであり、世界のた

めに尽くすことが自国のためにも尽くすことになるとみたためだった。 

  まず自分が完成してから、そのあとで世界のために尽くすという当時

流行の「修養」に似た考え方はとられなかった。

 

  ここにも、救済が自分のりっぱさとか善行のかたちでただちに現われ

るとの思想は見出されない。 

  世界伝道協賛会は毎月一回開かれ、世界の伝道のために祈り、献金

が捧げられた。

 

 世界の人のために何ひとつできないと思う者には、世界の人のために

祈ることが勧められている。 

  世界伝道協賛会に集められた献金は、一九二二年の暮に、まず、中国、

台湾、南洋諸島の伝道を援助する目的で送られた。



  台湾では、この年からふたたび山地住民に伝道を開始していた井上伊

之助(*下の写真:写真は、後年の井上)のもとに届けられた。 

             Photo_7
 

   井上は一九○四(明治三七)年ごろ、鑑三の講演を聞いたことから『聖

書之研究』の熱心な読者になっていた。

  一九○六年、台湾で仕事に従っていた父が、山地住民に襲われ殺害

された。

 

 しかし、井上は、この事件を機会に山地住民への伝道を決意、一九一

一年から一九一七年まで、幾多の困難をおかして医療伝道にあたってい

たのだった。

  中国では、イギリス人宣教師ハドソン・テイラー
(*下の写真)によって

設けられた伝道会社があり、そこへ送られた。 

                        Photo_8

  同伝道会社では、そのもとで働く中国人医師の給料として用いることを

決定、のちにさらにもう一人の中国人医師の給料に役立てられた。

 【つづく】

 

 

 

 

 

 

2013年6月21日 (金)

内村鑑三(33 )

  信仰義認


 ロマ書第一講で鑑三は述べている。 

「十字架のキリストを仰ぎ瞻(み)る事に由て義とせられ、復活せるキリスト 

を仰ぎ瞻る事に由て聖(きよ)められ、再臨すべき彼を仰ぎ瞻る事に由て 

栄化せられる。

                           Photo_3
            
            Photo_4


一として自己の功、行、積善、努力に由て達成せらるるものはない。 

  凡(すべ)て凡て彼を信ずる信仰に由り、彼の遂げ給いし功に由り、ただ  

偏(ひと)えに彼を信受し、彼に信頼し、彼を仰ぎ瞻る事に由りて我等は義 

とせられ、また聖められ、又栄化せしめらる」

 

  このことを伝えるのがロマ書の目的であると言っている。前に述べたよ

うに、鑑三が再臨信仰を唱えたのは、人間の行為主義を徹底的に否定す

ることでもあった。 

  それには、当然、自己の功や、行や、積善や、努力によって義人と認めら

れるのではなく、信仰によってそれの認められる思想が前提となる。

  この前提となる信仰義認の思想を学ぶため、最適の書簡が、ロマ書

あったのだ。



  信仰義認という思想が、人類の思想史に与えた大きな福音の一つは、

差別観の打破であった。 

  鑑三は、ロマ書三章二二節に関して述べる。 

  「国籍の区別なくして人は信仰だけを以て―如何なる良き民族の人にて

も悪き民族の人にても―義とせらると主張するのである。 

  そして国籍の区別に止まらない。老若男女の区別もなく、学者無学者の

区別もなく、智者愚者の区別もなく、富者貧者の区別もない。更に進んで 

義人と罪人の区別もなく、善人と悪人の区別もないのである」

 

  こういう見方が、律法主義、行為主義に対し福音主義、信仰主義と呼ば

れるものである。 

  壮大な建築物にたとえたロマ書の、鑑三による連続講演が、ひとつの

クライマックスに達するのは、八章二二節にある「万の受造物(よろずの

つくられしもの)は今に至るまで共に歎(なげ)き共に労苦(くるし)むこと

あるを我等は知る」のところである。



  鑑三は、神を知る手がかりとして、若いときから聖書と歴史と天然の

三者を数えていた。 

  その天然は、北海道の大自然(*下の写真)のように、腐敗した人間

世界とは対照的に、美しく讃えられる存在として想われてきた。ところが、

しだいに、天然もまた人間と同じく腐敗した存在とみなされる。

                                Photo_7


  「実に人類の堕落は地の堕落を惹き起こした」と言うように、人間の好戦

心、利慾心、企業心が、石炭や石油などの地下資源の濫用となり、地の

堕落をさそったのは明瞭だとみる。

 

  救済を求めているのは人類だけでなく天然も同じであり、宇宙にある万

物がこぞって、苦悶のうめき声を発しているのだ。しかし、それは、産みの

苦のうめき声であり、新しい宇宙の完成を迎えようとする希望の苦である

ともいう。




 有島武郎



  一九二三年に入ると、鑑三の終末的世界観をかきたてるような事件が 

二つ起こった。

 一つはかつての愛弟子有島武郎の心中自殺であり、もう一つは関東大

震災である。

 

  有島武郎(*下の写真)は、この年六月九日、人妻の波多野秋子と軽

井沢で心中をとげ、その遺体は七月七日に発見された。 

  これを聞いた鑑三は、さっそく『万朝報』に「背教者としての有島武郎氏」

を掲げた。

                           Photo_5

             Photo_6



 鑑三の文章は、一時は自分の後継者とまで思っていた有島が、背教後

も、いつかたち返る日のあるのを常に待ち望んでいたことを切々と述べ、

その死の原因を、心中深いところの空虚より生じた「コスミックソロー(宇宙

の苦悶)」とみるものだった。

 

  旧師としての情愛に溢れる一文であるが、同時に、自殺したこと、しかも

夫ある女性との死のかたちをとったことにつき、烈しい怒りを表白したもの

だ。 

  背教によって神を馬鹿にした者は神から馬鹿にされる。有島の死に、

そんな「近代人」の悲劇を見出している。



  有島の死の報せが届けられて、一週間後の七月一五日、柏木の聖書講

義で鑑三は「神は侮るべからず」と題した講演をおこなった。 

  そのなかで鑑三は、神は忍耐深くて、そう簡単には怒らないが、ときに

は神に背いて得意でいる者に、手痛いさばきを下すと語った。

 

  その予言を的中させるかのように関東大震災が起こったのは、それから

まもなかった。 

 震災直後の九月十日付で発行された『聖書の研究』に、鑑三は「神は侮

るべからず」の講演を載せ、それが、有島事件の後で、大震災の前に語

られたものであることを、わざわざことわっている。

 

 

  関東大震災



  関東大震災が起こった九月一日、鑑三は、長野県沓掛に滞在中だった。
 

強震を感じ、東南方面に火炎のあがるのを見た。東京に大激震のあった

ことを夜になって知らされて家族のことが案じられ、翌二日帰京した。 

  柏木の聖書講堂も家屋も、さいわい被害は軽少であったが、過去四年

の間聖書講演をおこなってきた大手町の大日本私立衛生会館は、倒壊

のうえ消失した。

 

  関東大震災を経験した鑑三の最初の感想は、『主婦之友』の十月号に

「天災と天罰及び天恵」として掲げられた。 

  これを読んで気づくのは、鑑三が、この大地震を、短絡的に神によって

惹き起こされたものとはみていないことである。 

  地震そのものには正義も道徳もなく、たとえ東京に一人の悪人がいな

くても地震は起きるべき時に起こったに相違ないと、まず言う。




  すなわち鑑三は、関東大震災を、有島事件とその讃美という、世間の

堕落した風潮と結びつけはするが、両者の直接の結合はしていない。

意外にさめている。

 

  「無道徳の天然の出来事はこれに遇う人に由て、恩恵にもなり、また

刑罰にもなるのでありますとの言葉で示されるように、そこに、神の語ら

んとする意味をくみとらんとしているのだ。

 

  関東大震災は、東京市民の堕落に対して下された刑罰であると断定す

るのでなく、刑罰にあたるものと鑑三は意味づけるのである。 

  当然、関東大震災は終末ではなく、終末の「模型」である。もちろん

「模型」によって、人は終末にそなえることを学ばなければならない

(「末日の模型」)。



  この関東大震災を、そのまま天罰とみるか、それとも天災にすぎない

が、そこに意味を認めるか、ということは、よほど鑑三を悩ませたらしく、

くり返しとりあげている。 

  若き日に一度は科学者になることを志した鑑三には無理からぬ問い

である。 

 再臨運動を非科学的と評した反対者に向かい「蛙一匹解剖したこと

のないものにはわからない」と広言したこともあった。

 

  他方、いわゆる「再臨狂」からは一線を引いていたので、大震災を即座

に天罰とみることは許されなかった。

  病気を例にして鑑三はたくみに説明する。病気を治すのは生理学的方

法によるが、それだけでは人生は足りない。人間は病気にかかった摂理

上の意味を求めようとする。

 

  そこになんらかの警告を読みとり、同一の病気の別の原因の除去をは

かる。そうすると、そのことが生理学的な病気にも好結果をもたらすことが

ある(「理学と信仰」)。 

  この病気を震災に置きかえれば、ほぼにたことがあてはまると考えたの

だった。  【つづく】

 

 

 

 

 

2013年6月20日 (木)

内村鑑三(32)

   ロマ書の講演


   民族自決



  再臨信仰により、人類は年とともに進歩するとの観念をくつがえし「人道

の事においては人類はたしかに年と共に退歩しつつある」(「基督再臨を

信ずるより来りし余の思想上の変化」)、とまでみるようになった鑑三である。

 

  第一次世界大戦が終わり、国際連盟が成立しても、それによる平和の

維持には懐疑的な感想をもたらすのみだった。 

  「国際連盟まさに成らんとす。然れども成るも成らざるが如し。これに由 

て世界の平和は来らない。戦争は止まない。死と罪とは依然として存し、 

この世は依然として涙の谷、死の蔭、非哀(かなしみ)の里である。のみな 

らず暗黒は滅することなくしていよいよ増しつつあるように見える。  

  縦(よ)し国家的戦争は止むとするも、階級的戦争は始まり、而して後者 

の残忍なる、到底前者の比ではない。

 

  中欧同盟は斃れて拉典(らてん)同盟は起こらんとし、民族自決主義は 

愛蘭(アイルランド)に、埃及(エジプト)に、印度(インド)に騒擾(そうじょう) 

を生んで止まず。  

  世界戦争に由て解決せられし問題よりも優(はるか)に多く、戦争後の 

世界は戦争前のそれよりも遥かに危険である(「連盟と暗黒」)。

  (*下の写真は、国際連盟本部と、その議場)

                           Photo

          Photo_2

  第一次世界大戦は終わっても、戦争が残したものは、戦前よりもはるか

に危険な世界とみる。ことに、階級的戦争と民族自決主義のはらむ二つの

大きな緊張をあげているのは、なかなか鋭い史観である。

 

  鑑三は、日本国はもとより、個人個人の独立についても日ごろから力説

していたが、他民族の独立にも同じような関心をはらっていた。なかでも隣

の朝鮮民族の心情には深い理解を寄せていたといってよい。

 

   朝鮮

  日清戦争で「義戦」を唱えたのも、朝鮮に対する義侠心より出たもので 

あったが、 一八九五(明治二八)」年に閔妃(びんぴ

(*下の写真)が暗殺されたときには、これを朝鮮に

における日本人の大失敗とみて、ただちに筆をとっ

て「時勢の観察」を書いている(発表は翌年)。


                      Photo

 
   『万朝報』の英文欄主筆時代には、台湾で罪なき人々の血が流されて

いることを摘発する一方、朝鮮の幸福と独立とを第一としなかった日清戦争

の終結が、朝鮮を結果的に別の隷属に追い込んだことを追及している。

 

  このあと在日東京朝鮮キリスト教青年会総務として一九○六年に来日した

金貞植とは、とくに親交を結び、朝鮮に対する認識を深めた。

  この年の夏に千葉県鳴浜で開かれた夏期懇話会で、日本人が朝鮮にし

ていることを罪悪とみ、次のように語った。 

  「朝鮮の為に一滴の涙をそそぐ新聞記者は日本には一人もいない。国民

にも多くはあるまい。日本人の無情を証して余りある(『内村鑑三談話』)

 

  一九一○年の日韓併合にあたっては、国を取って喜ぶ日本とは反対に、

国を失って悲しむ民に思いを寄せ、日本が結局は領土を増大して霊魂を

失ったことを嘆いている(「領土と霊魂」)。

 

  その翌年起こった一○五人事件(いわゆる寺内総督暗殺陰謀事件)では、

朝鮮にいた金貞植の紹介で鑑三を訪ねてきた林鐘純の口から実状を知

った。 

  このことを鑑三が『コーベ・クロニクル』のR・ヤングに伝えた結果、同紙

には事件が精力的に報道されることになる。



  東京の朝鮮キリスト教青年会の青年たちを対象にして、少なくとも一九

一五年五月、一九一七年四月、一九二二年三月の三度の講演をおこなっ

ている。 

  前二回の講演では外面的合同と異なる真の合同につき語ったが、後の

講演後の日記では朝鮮人には信仰問題より独立問題の方が関心がある

らしいとの言葉を洩らしている。

 

  朝鮮人留学生のなかから、鑑三の聖書研究会に出席する青年たちも

少なくなかった。東京高等師範学校に学んでいた金教臣(*下の写真)

や咸錫憲たちである。

                Photo_2

  鑑三の教えをもっともよく解しているのは朝鮮人学生であること、日本人

は朝鮮人に学ぶことが多くあること、鑑三のもとに九年間学び、感謝して

帰国する朝鮮人学生を見送って、このことだけでも聖書研究会をしてきた

かいがあること、などが、鑑三の日記のあちこちに書きとめられている。

 

  鑑三の朝鮮および朝鮮人観は、この時代のなかでは、卓越したものだ

った。それにもかかわらず、いくらか日本人としてのナショナリズムに色づ

けられていたことも否めない。鑑三のもとに集まった朝鮮人学生たちは、

その愛国的信仰心からも影響を与えられたのだった。

 

  金教臣、咸錫憲、宋斗用らの青年たちは、帰国したのち、一九二七年に

雑誌『聖書朝鮮(*下の写真)を創刊して、朝鮮での無教会主義キリスト

教の集会を開始した。


               Photo_3

   ロマ書



  金教臣が、鑑三の聖書研究会にはじめて出席したのは、一九二一(大正

一○)年一月一六日のことであるが、ちょうどこの日から、聖書研究会では

ロマ書の講義が開講された。

  ロマ書の講義は、一九二二年十月二二日までの全六十回つづけられた。

講演としては、もっとも長期にわたる大連続講演となり、のちに分厚い単行

本『羅馬書の研究(一九二四年:下の写真)として刊行された。

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  再臨運動のあと、鑑三が、聖書研究会で語ってきたのは、旧約聖書の

モーセの十戒、ダニエル書、ヨブ記であった。これらはいずれも神の義を

語ったものである(*下は、預言者ダニエルとヨブ)

                     Photo_5

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  神に背を向け、人間のみの自足的な文明にはしる近代人に対して、

神によらない文明の末路を描き、同時に、人間が神によるとはどういうこ

とかを述べたものであるといえよう。

  これについで開始されたのが、新約聖書のパウロの書簡であるロマ書

であった。

 ロマ書の中心は「義人は信仰に由りて生くべし(一章一七節)とある

ように、人の救済は善行によるのでなく、ただ信仰のみによるとの信仰

義認の思想にあった。

  これは、あのアマスト大学時代にシーリー総長の導きによって見出され

た古い、古い信仰である。

  再臨運動にたずさわって、鑑三にわかったのは、自分のことを棚に

あげて、やみくもに再臨運動を高唱する信者のあまりにも多いことだった。

  そこには、再臨運動自体が一つの善行と化す危険がみられた。そのた

め、鑑三には、あたかも楕円形の二つの中心のように、キリスト教の二大

教義として、十字架のキリストを仰ぎ見る信仰と再臨信仰とを、一体として

あわせ説く必要が生じたのだ。  【つづく】



 

 

 

 

2013年6月18日 (火)

内村鑑三(31)

   再臨運動

 

  前々から再臨信仰を説いている東洋宣教会ホーリネス教会の中田重治

(じゅうじ:下の写真)、日本組合キリスト教会の木村清松と語り合い、

鑑三は三人で新年よりキリスト再臨運動を起こすことにした。


                          Photo


  いよいよ一九一八(大正七)年一月六日、鑑三たちは、聖書の預言的研

究演説会を神田の東京キリスト教青年会館で開催し、再臨運動の幕は

切って落とされた。

 

  この日鑑三が語ったのは「聖書研究者の立場より見たる基督の再来」で

ある。 

 鑑三は話のなかで、教会をはじめとする平和主義者や社会主義者の

努力によっては、地上に平和のこないことがわかり、その事業を完成する

のはキリストであること、まさにこれが聖書の中心的真理である。

  再臨の希望の書として聖書を読むとき、聖書の一句一句がみな躍動し

くると説いた。

 再臨信仰にいたったことは、鑑三の信仰の生涯を三段階に分けてふりか

えらせた。 

  第一段階は、札幌農学校における入信であり、それはキリストのもとへ

の招きであった。 

  第二段階は、アマスト大学での回心であり、それはキリストによる贖罪を

信ずることにより、罪から解放されることであった。 

  第三段階が、再臨の信仰である。これにより、罪から解放はされたが、

この世では、その栄光は訪れず、それが再臨の世において与えられるこ

との希望を持つことである(「信仰の三段階」)。



  この意味で再臨運動は二重の性格をあわせもっている。第一は、文字

どおり、キリストの再臨を待望するという希望の信仰である。 

  信仰と愛のみでなく、信、望、愛の言葉が語るように、キリスト者にとり

もう一つの重要なものである希望が強調されていることである。 

  第二は、現世を人間の行為によって究極的に改めることができるという

思想を、まったく断ち切ったことである。 

  ここにいたって、はじめて、鑑三の心のなかに、かすかながら残されて

いた行為主義の要素が払拭されたといってよい。

 

 

  再臨の世

 

  ここで、しばしば問われるのは、それでは現世での事業とか伝道とかの

行為は、どれも空しいことなのかということである。鑑三は言っている。 

もしも再臨による新しい世界の訪れがないなら、その方が空しい。再臨 

とともにはじまる新しい世界で、現世での仕事が神によって完成されると 

思えば、ずっとはりあいが出るのだ

 

  それまでの鑑三の思想との相違は、次のようにまとめられるかもしれない。 

  鑑三は、それまでも神に導かれない人間の行為により、現世が改めら

れ、平和がもたらされるとは、もちろん考えなかった。 

  従来は、神に導かれた人間により、もしかすると、現世が改められ、平和

がもたらされるという、栄光を見ることができるのではないかと思っていた

のだ。 

  ここで神の栄光をあらわす人間は、たとえ神の器として働いたにすぎな

くても、その人に栄光のあらわれたことは認める立場だ。



  ところが、再臨の思想では、いかなる人間でも、現世では神の栄光を、

結局はあらわすことのできる存在とはみなされない。 

  したがって人間は、どれほど信仰の厚い人でも一片の栄光すらあらわ

すものでなくなる。鑑三の達した第三の段階とはこの段階である。

 (*下の写真:再臨運動を共にした中田重治、内村

鑑三、木村清松  〔左より〕)

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  この段階のもたらした思想こそ、人間を、それが現世的行為はいうまで

もなく、信仰的な行為であっても、その多寡によって価値をつけない思想

である。行為主義の否定の徹底である。 

  鑑三の再臨信仰は、聖書の見方や、講演の内容、運動の進め方に、

やや批判される余地もあるにはあったが、行為主義を徹底的に否定した

人間観のうえでは、その生涯でもっとも高くて深いところに達したものとい

えよう。

 

 

   伝道旅行



 聖書の預言的研究演説会は、第一次が一月から三月まで東京キリスト

教青年会館、第二次が日本基督教希望団の名で、四月から五月まで

三崎町のバプチスト会館でおこなわれた。

   この間、大阪、京都、神戸へ、二度にわたり再臨運動の講演旅行に出

かけている。 

 六月から七月の約一か月間は北海道に再臨信仰をひっさげて伝道旅行、

このほか秋にかけて、福島県、宮城県、山形県、岡山県へと目まぐるしく

東奔西走の伝道旅行がくり拡げられた。

 

  柏木の聖書研究会では、そのなかにつくられていた教友会、エマオ会

(柏会の後身)、白雨会などが、鑑三の再臨運動に協力するため、合同し

て柏木教友団を結成した。 

  秋からの聖書講演会も場所を東京キリスト教青年会館に移しておこな

われることになった。

 

  鑑三は、ムラの隠者から、一躍、マチの預言者へと変貌したのだ。この

講演会には数百人の人々が参集し、『聖書之研究』は発行部数を五、

六千部に増大した。  確かな手応えが充分あったとみてよい。



  手応えが大きかったことは、それだけ強い反発も招いた。とくにキリスト

教界は、これを冷淡視した。その結果、これまで鑑三が聖書講演会の

会場としていたキリスト教青年会館を、同青年会の役員小崎弘道(*

下の写真)らの圧力で追われることになって、会場を丸の内の大日本

私立衛生会講堂に変えなければならなくなる。

           Photo_6

  会場を追われたのにもかかわらず、かえって鑑三の気勢は上がった。

「福音丸の内に入る」と称し、キリスト教が皇居と直面する日本の中央部

で語られるようになったのを喜んだ。 

  日本のキリスト教会のなかでもっとも多数の聴衆を集めていることに、

若き日の夢が大きく実現した感慨にひたっている。



  ただし、このころからしだいに、熱狂的な再臨信仰の人たちとの協同

運動からは手を引くようになった。 

  また弥次馬のような群衆が、講演中に出入りしてやまない、騒々しい

集会のやり方を改めた。





 
  再臨信者

 

  脱皮をはかったかいがあって、鑑三の聖書講演会は、多勢集まりながら

実に静粛な集会となった。 

  当時の会員の思い出によると、会場の最前列には、何十台ものベッド

が並べられる。身体障害のある人たちが、そこに臥して講演を聞くため

である。

 

  鑑三の講演が終わり最後の祈りが済むと、人々は黙って席を立つ。

外に出ても、しばらく沈黙がつづいたままである。それは、あまりにも感動

が強く、声が出なかったことによるという。

 

  再臨運動そのものは、事実上、会場の大手町移転をもって終了したと

みられるが、再臨信仰は、最後まで持ちつづけた。 

  鑑三の日記から拾うと、一九二五年三月二四日には、A・シュバイ

ツァー*下の写真)の『基督教と世界の諸宗教』を読み、「再臨信者は

アルベルトシュバイツェルを味方として有して、強力な援軍を感なき能わ

ずである」と言っている。

                               Photo_2

  同年五月二十日にはカール・バルト(*下の写真)のキリスト教観を

述べた評論に接し、「批評家はこれを“危機の神学”と称するも、これを

“再臨神学”と称してよかろう」と考えた。

                          Photo_3


  一九二九年十一月一日の日記には、「世界最大の科学的哲学者なる

ニュートンと仏国のパスカルのキリスト再臨の信仰について読み大いに

この事に関する自分の信仰を強められた」と記している。

 

  シュバイツァアーも、バルトも、ニュートンも、パスカルも、いづれも再臨

信者とされている(*下の肖像画は、ニュートンとパスカル)


           Photo_4

             Photo_5


 

  没後刊行された『聖書之研究』の最終号には、その前年(一九二九年)

に執筆された「再臨提唱の必要」という一文が収められている。 

  再臨運動は止めても、再臨信仰は終生抱きつづけられたのだった。

【つづく】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2013年6月17日 (月)

内村鑑三(30)

    六  コスモスをのぞむ

  再臨運動

   欧州の戦乱


  鑑三の後半生に展開された最大の運動は、一九一八(大正七)年に開始

される再臨運動である。 

  キリストの再臨を待望するこの運動は、直接には、一九一六(大正五)年

八月、米国の親友D・C・ベルから送られてきた『日曜学校時報(サンディ・

スクール・タイムズ)』の一記事を読んでひき起こされたものだ。

 

  しかしながら再臨思想そのものなら、そうとう以前から鑑三は知っていた。 

それが鑑三の信仰のなかでリアルなかたちをとり、火を点ぜられたのが再

臨運動といってよい。それまでの道程をみよう。

 

  一九一四(大正三)年七月二八日、第一次世界大戦の勃発をみた。その

二十日ほど前、鑑三は、現世のことと非戦につき論じたものを集めた『宗教

と現世』を刊行したところだった(*下の写真は、第一次戦争下の前線

基地での兵士たち)

              Photo

                   Photo_2


  その本の序文で鑑三は、非戦を唱えるかどうかは宗教の真偽を見分け

る唯一の試金石であるとさえ言っている。 

  オーストリアとセルビアとの間で始まった戦火は、またたく間に全ヨーロッ

パに拡大された。交戦諸国はいずれも、いわゆるキリスト教国である。

 

  そうなると、鑑三に言わせれば、戦争をするキリスト教国のキリスト教は、

みな虚偽の宗教にほかならない。 

  『聖書之研究』に掲載した「欧州の戦乱と基督教」のなかで鑑三は、この

たびの戦争は、ヨーロッパ諸国の「国土の強奪心」より起こったものであり、

神と聖書の教えに反する行為であること、神はこれによっていわゆるキリ

スト教国をさばき、虚偽のキリスト教を滅ぼさんとしていると述べている。

 

 

浄土信仰 

 

  戦争に狂奔するヨーロッパ諸国のキリスト教にあいそをつかせたのとは

対照的に、このころよりにわかに鑑三は、日本の法然や親鸞(*下の肖像

画は法然と親鸞)の信仰に親しみをみせる。

                     Photo_3

                    Photo_4



  法然については、ルツの死後まもなく、パウロ(*下の肖像画)と同じよう

人物として述べている。

               Photo_5


 もともと臆病であり柔和な人間であったパウロと法然が、ともに来世の信

をえたことにより、見違えるほど剛毅の人となったとみる。この後も「我

が信仰の友」や「我が信仰の祖先」を通じて、しきりと、法然や親鸞の信仰

を讃えるようになる。

 

  鑑三が、この時期に、法然や親鸞の浄土系の信仰に、とくに親しみをみ

せたのは、ひとつにはルツの死後、急速にたかまった永世や来世への関

によっている。 

  それとならび、米国における排日法への反発と第一次世界大戦の勃発

による欧米のキリスト教国への絶望があった。

 

  ヨーロッパの戦乱は、鑑三にはキリスト信徒に、その「信仰の独立」

ながす声と聞こえたのだった。日本に、源信、法然、親鸞の信仰がある

以上、信仰のことでは、必ずしも欧米人に学ぶ必要はないのだと言いきっ

ている。

 

 

  近代人批判






  日本の浄土系信仰への接近とあわせ、この大正初期の鑑三に顕著に

目立ち始める思想は「近代人」への批判である。「近代人」を鑑三は、

このように定義している。 

「近代人は自己中心の人である。自己の発達、自己の修養、自己の実

現と、自己、自己、自己、何事も自己である」(「近代人」)

 

  鑑三は「近代人」を、自我は発達しているが自己中心の人とみる。

そのような「近代人」は何によってもたらされたのか。 

  第一次世界大戦との関連で、それは近代文明であるとして、こういう。 

  「人類の最善、これを称して文明と謂う。曰く政治、経済、殖産、工業と、

而(しか)して、その竟(おわ)る所は戦争なり。 

  国民は文明に進むと称して実は孜々(しし)として戦争の準備を為しつつ

あるに過ぎず。 

  神を目的とせざる労働の結果はすべてかくの如し。空の空なり。砲煙と

なりて消失す。 

 文明を最善と称するは誤称なり。徒労と称すべし。文明は人を欺く砂漠

の蜃気楼(ミラージ)たるに過ぎず」(「文明=砲煙」)

         Photo_6


         Photo_7

            Photo_8


  ナショナリズムにもとづく、欧米文明と「近代人」批判のうえでは、鑑三も

日本主義者や国粋主義者と変わりない。これは、大正期にみられた多くの

宗教的ユートピア運動にも共通する。

 

  ところが、それらの運動が、しだいに日本主義運動に捲き込まれていっ

たのに反し、鑑三には、歯止めが効いていた。 

  その歯止めとなったのが、神への信仰である。その神は、ただ人の

手によってつくられたにすぎないものは、国家でも制度でも人間の地位

でも、それを絶対化することをすべて否定する存在だった。

 

  「文明の最後」と題した講演のなかで、「人類が神の援助に依らずして

自分の智慧と能力(ちから)とに由りて自分の安全と幸福とを計る事、其事

が文明である」と言っている。 

  すなわち、神を目的とせず神に導かれないところが、近代文明の特徴

であり、その近代文明の生み落とした「駄々っ子」が「近代人」とされるのだ。

 

   神に導かれない文明は、自己中心の「近代人」を育て、自己中心的な

「近代人」の国土拡張の野心により世界大戦はひき起こされた。戦争は

神なき人間主義文明の所産とみる。 

  やがて、鑑三は、このような文明が、自然の桜の木を枯らせていることを、

上野の山に花見に出かけて嘆いている。

 

  人間が自分のことしか考えない文明が、他を傷つけ、自然をむしばんで

いることに、きびしい警告を発しはじめる。 

  では、神に導かれる文明が世界の進歩をもたらすのかというと、必ずし

もそうではなかった。若き日に、はじめてキリスト教国アメリカを見たとき、

鑑三は、その腐敗した光景に幻滅し、一度は、キリスト教とキリスト教国

の文明とをわけて考えようとした。

 

  しかし、アマスト大学での歴史の講義で、モースから教えられた「歴史は

人類進歩の記録である」との言葉が示すように、人類の歴史は神の導き

により、一進一退をくり返しながらも徐々に進歩に向かいつつあるとの、

救済史的な進歩史観を長年、保ちつづけてきたのだった。 

  ところが、ルツの死と第一次世界大戦の勃発は、たとえ神の導きがある

にせよ、この世での人の手による理想世界の実現の希望を消失させた。

 

 

   再臨信仰

 

  ことに近代に起こったものは、すべて悪いものと映じ、近代の新しい学問

である聖書の自由な研究には一時かなり傾きかかっていた鑑三であった

が、それも、この時期にはふたたび、以前の保守的な、かたい見方に、

たちかえりををみせている。こうして鑑三の心には、再臨信仰を受け入れ

る準備が、ほとんど用意を終えていたといえるのである。

 

  一九一六年の夏、ベルより送られてきた『日曜学校時報』には、C・G・

トランプルの書いた「キリストの再臨は果して実際的問題ならざる乎」とい

う一文が載っていた。 

鑑三の、再臨信仰はこれによって目を見開かされたという。

                    Photo_9

  ところで、トランプルのこの論文は、とりたてて新味のあるものでもなけ

れば、すぐれたものでもない。なんの変哲もないとすら言うことのできる

文章である。 

  つまり、鑑三の心内が熟しきっていて、なにかで火をつければ、それで

もう充分発火するような状態にあったとみてよい。

 

  翌一九一七年には、第一次世界大戦への米国の参戦があった。この

ことは、わずかに残していたキリスト教国アメリカによる平和回復の望み

を微塵にうちくだくことになった。 

  もはや、人類の歴史が、同じ人類の世のつづく流れのなかで好転をみる

ことは絶望的となった。人類の歴史を変えるのは、その歴史が質的に変わ

る時を待つしかない。

 

  そのように質的に変わる時とは、聖書によれば、あのキリストがもう一度

人の世に来ることによって開幕を告げると記されている。 いまはその時を

待望するしかない、鑑三はこう信じた。

  一九一七(大正六)年十月三一日、東京キリスト教青年会館で、鑑三は、

ルター研究家の村田勤、佐藤繫彦とともに宗教改革四百年記念講演会を

開いた。

 

  同じ会場で同じ日の昼には、井深梶之助、海老名弾正、小崎弘道らの

宗教改革記念会がおこなわれたが、夜に開かれた鑑三たちの会合の方

が、はるかに盛会だった。

 

  これによって鑑三は、自分にある使命の降ろされているのを確信したと

いえるだろう。 

  日本にも宗教改革の時が訪れようとしていること、そのために立ち上が

る時であると決意を固めたのだ。  【つづく】

 

 

2013年6月15日 (土)

内村鑑三(29)

   ルツの死


  ルツ記


  鑑三の最初の子供は、一八八五(明治一八)年四月十五日にタケとの

間に生まれたノブである。 

  誕生当時、鑑三は米国に留学中であり、妻タケとの関係は、籍こそ残っ

ていたものの離婚にひとしかった。鑑三は父の宜之を介して、先方に

ノブをひき渡すよう求めたが、それは実現をみなかった。

ノブは、兄浅田信芳のもとで育てられた。

 

  一九○二年の春になり、鑑三は、すっかり成長して一七歳になったノブ

とはじめて対面、ノブがあまりにも世俗的な女にみえ、いたく失望した。 

  しかし、その後、ノブは父の感化を受けて同じ信仰を持つようになり、

小学校教師を勤めたあと日永初太郎と結婚、一九六七年にその一生を

終えている。



  「不敬事件」後若くして死んだかずには子供がなかった。一八九二年

の春ごろ、築山もとという女性と一時結婚したとみられるが、この結婚に

ついては不明なことが多い。 

  終生連れ添うことになるしづことの間には、二人の子供が生まれている。 

一八九四(明治二七)年三月一九日生まれの娘ルツと一八九七(明治

三十)年十一月十二日生まれの長男祐之である。ルツの生まれたのは、

生活のもっとも緊迫した京都在住時代だった。 

 

  名前をルツと名づけたのは、旧約聖書のルツ記にちなんでいる。ルツ

の生まれる三か月前に鑑三は、日本人による最初の聖書註解書ともい

われる小冊子『貞操美談 路得(ルツ)記』を刊行したばかりであった。 

  旧約聖書ルツ記のルツは、異邦人の女であったが、その夫の亡きあと

も、姑ナオミによくつくし、貧しい暮らしを共に支えあった女性である。

                     Photo

  食物をえるため、麦畑で落穂拾いをした話は、画家ミレーの絵にも描か

れて親しまれている(*この下の絵画)

                   Photo_2

          Photo_3



 

   ルツは鑑三好みの女であり小冊子の方には、鑑三の理想とする女性像

が投影されている。 

  娘の名にルツを選んだことは、父親の熱い祈りを感じさせられる。 

 

  愛娘の死 

 

  ルツは、写真でわかるように、父の鑑三と実に顔だちのよくにた娘だった。 

鑑三も、これを認めている。それだけに可愛くてたまらなかったようだ。

気持ちのやさしい普通の女の子として育てられた。

                       Photo_4


  それが、女学校を一九一一(明治四四)年の春に卒業したあと、にわか

に病床に就くことが重なった。高熱がつづき、病気の確かな原因はつかめ

なかった。今日からみると結核の疑いが濃い。 

  ルツの病状は時々悪化し、同年十月二二日に「デンマルク国の話」がな

されたのは、看病でいつもの聖書講義の準備ができなかったためだ。

 

  近くの東洋宣教会の教師笹尾鉄三郎と、鑑三は親しく往来する仲だった

が、ある日笹尾を訪ねてきた鑑三は、笹尾に向かい、せっぱつまった

調子で、「娘ルツの、生きるも死ぬるも、あなたにまかせる」と言ったこと

もある。 

 

  その年の暮ごろより、ルツの病状は、頻々(ひんぴん・・・「しばしば」の意)

と重大な状態におちこんだ。 

 十二月一日には、鑑三の家で一時働いたことのある少女高橋ツサ子

が故郷の花巻で死去し、鑑三は葬儀に参列した。その死はルツには

内緒とされた。

 

  こえて翌一九一二(明治四五)年一月に出された『聖書之研究』には、

何度も復活、来世、希望のことが述べられ、死は「生命の一状態より他

状態に移ること」にすぎないと断言するような言葉がみられた。

 

  聖書のなかから「少女(むすめ)は死にたるに非ず寝たるのみ」(ルカ伝

八章五二節)との言葉がひかれている。 

  いくら鑑三といっても人の子の親であることに変わりはない。我が子の

病気の癒されるのを願って、その祈祷は熱心に捧げられていた。 

  しかし、それにかかわりなく、ついに一九一二(明治四五)年一月十二日

の早朝、ルツは息をひきとった。 
 


  臨終の三時間前、鑑三は、ルツに洗礼を授け、聖餐にあずからせた。

病み細った手で盃を飲みほしたルツは、喜色に満ちた顔をし鮮やかな

声で、 

  「感謝、感謝」 

をくり返した。ルツが遺した最後の言葉は、 

  「モー往きます」 

との微笑をたたえながらの一声だった。 

  この光景を目のあたりに見た鑑三に「霊魂不滅は明白に証明」された

のだった(一月二十日付青木義雄宛書簡)。

 

  親友の宮部にあてた一月二三日付の手紙ではこう言う。 

  「娘の死状、誠に美しく、これ死にはこれ無く、transitionにこれ有り候。

霊魂不滅はほとんどdemonstrated fact なりと存じ候。これcreed には

これ無く、factにこれ有り候」

 

  一月十三日におこなわれたルツの葬式を、鑑三は永遠の別れの葬式

とは認めず、これをルツの天国に嫁ぐ結婚式であるとよんだ。 

  柏木の聖書研究会に通いだしてまだ日の浅い矢内原忠雄は、はじめて

出たキリスト教の葬式でこの言葉を聞き驚いた。 

  さらに雑司ヶ谷墓地での埋葬にまでつき従ったところ、鑑三が、棺に

かける土をつかむや、その手を高くさし上げ、 

  「ルツ子さん万歳」 

と絶叫するのを目撃、雷に打たれたように立ちすくんだ。キリスト教に

入るということは大変なことだ、と身をひきしめられる思いがした(矢内原

忠雄「先生の涙」)。

 

 

  我等は四人 

 

  ルツの死は、鑑三にとって大きな打撃を与えたが、信仰思想のうえでは、

永世とか来世とか復活とかいわれる世界や考えに対する実在感をいっ

そう深めた。

 

  ワーズワース(*下の写真)の「我らは七人である」を思わせる詩「我等

は四人である」が書かれたのは、その直後のことである。 

            Photo_6

       

  我等は四人であった、 

  而(しか)して今尚(な)お四人である、 

  戸籍帳簿に一人の名は消え、 

  四角の食台の一方は空しく、 

  四部合奏の一部は欠けて、 

  讃美の調子は乱されしと雖(いえど)も、 

  而かも我等は今尚四人である。

 

   我等は今尚四人である、 

 
   地の帳簿に一人の名は消えて、
 

   天の記録に一人の名は殖(ふ)えた、 

   三度の食時に空席は出来たが、 

   残る三人は、より親しく成った、 

   彼女は今は我等の衷(うち)に居る、 

   一人は三人を縛る愛の絆となった。
 

   
   然し我等は何時(いつ)までも斯(か)くあるのではない、
 

   我等は又前の如く四人に成るのである、 

   神の箛(ラッパ)の鳴り響く時、 

   寝(ねぶ)れる者が皆な起き上がる時、 

   主が再び此地に臨(きた)り給う時、 

   新しきエルサレムが天より降る時、 

   我等は再び四人に成るのである。

 

  ここには、やがて表面化する再臨思想がうたわれている。ルツの死が、

来世と永世と復活の世界に間近く鑑三をひきつけたことは、その世界の

到来を告げるキリストの再臨を待望させることになる。



  このころ『東京独立雑誌』時代の短文を集め『独立短言』が出された。
 

これを読んだ穂高の井口喜源治は、鑑三に手紙を寄越して、近頃、鑑三

の書くものをみるに『東京独立雑誌』時代と比べると、あまりにもこの世

離れをしている。 少しは国家の前途に対し、獅子吼するような預言が

あってはどうかと言った。 

  これを読んだ鑑三は、自分には、もはや、キリスト、天国、復活、永世の

ことを除いてなにも語ることはないのだと答えている(「闇中の消息」)。

 

  ルツの死を迎えるまでの鑑三は、次代の日本をになうような俊秀たちが、

多くその門に投じ、これらの青年を育てることをとおして、「富国強兵」とは

異なる聖なる日本を建設しようと望んでいた。 

  ところがルツの死は、その矢先に出会った我が家の若木の、文字どおり

夭折だった。

 

  「デンマルク国の話」で語ったような樹木とはちがって、人を育てることの

むずかしさを、鑑三はしみじみと知らされたことであろう。

  世直しについて、鑑三は徐々に、それが人の手により実現するものでは

なく、神の意思によることを確信するようになってはいたが、その神の意思

を受けて働く人が、必ずしも育てきらぬうちに散ってしまう悲痛を味わされた

のだ。 

  ルツの死去した秋、鑑三は次の歌を詠んでいる。 

   我が家の庭の白百合散りてより  一層淋し秋の夕暮  

  【つづく】

         Photo_5

 

 

 

 

 

 

 

2013年6月14日 (金)

内村鑑三(28 )

  秋たけなわ


  新しい柏木の地と建物に住み『聖書之研究』は百号を数え、内外の青年

たちに仰がれ、鑑三のうえには、やっとささやかながら、波瀾の少ない、

充ち足りた日々が訪れていた。鑑三のお気に入りの次の短文ができたのも、

このころのことである。 

  「秋酣(たけなわ)なり。 

  コスモス開き、茶梅(さざんか)咲き、木犀匂い、菊花薫る。 

  燈前夜静かにして筆勢急なり。知る天啓豊かにして秋酣なるを」

             Photo


          Photo_2

  これは、よほど会心の作であったとみえ、できるとすぐに、この原稿を

持って食堂にあらわれ、大声で読み上げると「どうだ、どうだ」と家族に

せまったと伝えられている(内村祐之『鑑三・野球・精神医学』)。

 

  一○四号の巻頭に掲げられるのにさきだち、千葉の教友海保竹松にも

書き送られている。 

  『聖書之研究』に掲載された「秋酣なり」の直後には「人生の四期」と題す

る文が収められている。人生を春夏秋冬の四期にたとえたものであり、

春と夏とが過去のもの、冬が未来のものとして述べられているのに対し、

秋は今訪れたものとして語られている。

「人生の秋は来れり。感涙滴々、顧み、黙し、謝し、祈る。実は識らざる

間に熟し、事は企てざるに成れり。寂寥に感謝伴い、孤独に祝福溢(あふ) 

る。秋は実(じつ)に静かなる楽しき時期なり」

 

  これは、あながち、季節が秋であることばかりによるものではなかろう。

鑑三自身、年齢四八歳を数え、おのずから静かに実る人生の秋酣の思い

があったのだ(*下の写真は、講演中の内村鑑三)

           Photo_8

 

  柏会 

 

  やがて、その翌年の秋には、聖書研究会の性格を少なからず変えること

になる一団の入会をみた。 

  それは、第一高等学校で校長新渡戸稲造のもとに読書会グループを

形成していた学生たちが、新渡戸の紹介状を持って鑑三の門に投じてきた

ことである。それまで柏木の聖書研究会に出席していた一高生は、天野貞

(*下は、後年の天野貞祐)、黒木三次ら二、三人にすぎなかった。

                 Photo_3

  黒木三次も、もとは、学習院時代の友人志賀直哉に導かれて通っていた

のだが、聖書研究会の有様を、新渡戸の読書会で話したところ、会員のな

かに鑑三の会にも出たいとの願いがたかまったのだった。 

  新渡戸の読書会には、現役の一高生だけでなく、卒業して東京帝国大学

や京都帝国大学に進学していた学生たちも顔を出していた。



  このころ柏木の聖書研究会のうちには、東京教友会が存在していたので、

この新米の一団は、あらたに鑑三によって柏会となづけられた。 

  一高の校章である柏葉と柏木の地名とをかけた名であろう。十月二九日

に第一回の柏会の会合が開かれ、明治末年には、会員数は二十数人に達

している。

 

  柏会のおもだった会員の名前を挙げよう(カッコ内はのちの職業)。 

  岩永祐吉(同盟通信社社長、作家長与善郎の実兄)、金井清(諏訪市長)、

川西実三(東京府知事、日本赤十字社社長)、黒崎幸吉(伝道者)、沢田廉

三(国連大使)、膳桂之助(実業家)、高木八尺(やさか・東大教授)、田中耕

太郎(文部大臣、最高裁判所長官)、田島道治(宮内庁長官)、塚本虎二(伝

道者)、鶴見祐輔(作家、衆議院議員:下の写真)、前田多門(文部大臣)、

三谷隆正(一高教授)、森戸辰男(文部大臣)、藤井武(伝道者)、矢内原

忠雄(東大総長)。 

              Photo_4
 

  東大法学部の卒業生が多いために、このほかにも外交官や司法官、ある

いは他の官僚になった人が相当いる。 

  これらの人々のなかから、とくに戦後、日本の文部大臣が、前述の天野

貞祐を含めて四人も出ていることが目をひく。

 

  角筈時代に一年ほど通ってきた安倍能成(*下の写真は、後年の安倍

能成)を入れると五人になる。「不敬事件」によって戦前の日本の教育界

からもっとも危険視され、忌避された鑑三の門から、世がかわって戦後に

は、国家の教育の最高責任者の地位に五人も就く人が出たのだから皮肉

である。 

              Photo_5


 

  信仰上、必ずしも鑑三と同一の教えを保ったとはいえないが、いずれも

一種のバックボーンの持主だった。この一時期を除くと、その後文部大臣

はたいてい政治家で占められるようになってしまった。

 

 

 

    白雨(むらさめ)会

 

   柏会に属した一団は、鑑三の門に投じたあとも、依然として新渡戸に、

職業のことをはじめとして世話になる機会がたびたびあり、新渡戸を一生

の師とすることには変わりなかった。彼らは、鑑三と新渡戸の二人をともに

人生の師としたわけだ。

 

  ところが、同じ師といっても、おのずから機能の相違があった。 

鑑三が人生の「父」としての師であるとするなら、新渡戸は人生の「母」と

しての師であった。このややタイプの異なる二人の師にともに導かれた

ところに、青年たちの成長があったといってよい。 

 

  柏会が結成された二年後の秋、『聖書之研究』誌には、その読者なら、

だれでも聖書研究会に出席してよいことが告げられた。 

  これを目にしてさっそく十月一日から来聴したのが、矢内原忠雄や坂田

祐らの青年たちである。

 

  矢内原は、柏会に加入したが、坂田祐、南原繁(*下の写真は、後年

の南原繁)らは、別に会を作り、それを、翌一九一二(明治四五)年一月

三十日より発足させ、鑑三により白雨会と命名された。

            Photo_6

 

  それは坂田らが、はじめて鑑三の聖書研究会に出席したとき、旧約

聖書の詩篇六五の講義があり、そのなかに、硬い大地をやわらげる神の

めぐみの「白雨(むらさめ)」のことが出てくるためだった。 

  白雨会会員の南原はのちに東大総長に、坂田は関東学院院長になり、

ヘボンの研究家となる高谷道男も出た。


  信仰と樹木

 

  角筈以来の教友会に、柏会と白雨会の会員が加わり、このころの聖書 

研究会には、毎回、約数十人の聴講者があった。

  これらの青年たちを前に鑑三の語った講演のなかで、青年たちの胸に

とくに深く刻み込まれたのは、一九一一(明治四四)年十月二二日の日に

語られた「デンマルク国の話」である。

 

  「デンマルク国の話」は、デンマークが、一八六四年のドイツおよびオー

ストリアとの戦争に敗れ、シュレスヴィヒ・ホルスタインの両州を失ったも

のの、ダルガス父子の不屈の信仰と努力とにより、残された荒地に樹を

植え、その地をみごとに美しい緑地と化した話である。

           Photo_7


  鑑三は、あとで、これに「信仰と樹木とをもって国を救いし話」との副題を

つけた小冊子を作り、配布した。鑑三のこの本は広く読まれることとなり、

日本の山林のみならず朝鮮の山々にも、何十万本、何億本もの植林を

よぶことになった。 

  「デンマルク国の話」は、現実の樹木を植える話であるが、柏木の地に

集まった若い人々の魂に、鑑三は、その愛する日本のため、信仰という

心の樹木を植え、水を注ごうとしたのだった。  【つづく】

 

 

 

 

 

 

 

 

2013年6月13日 (木)

内村鑑三(27 )

  社会主義


  その翌月には、社会主義者福田英子(ひでこ:下の写真)の聖書研究会

への出席を拒絶している。

          Photo

  志賀直哉の思い出によると、ある日講義が終わって祈りを済ませたあと、

鑑三は、ふいに彼女の方を向き、小声で「貴女はこれから来ないように」と

囁いた。

 

  そして返事も待たずに出て行った。彼女は、ただ軽く頭を下げ、それ以後

出席しなくなったという。

  しかし、福田英子は『世界婦人』に「内村先生に上(たてまつ)る書」(同年

三月十五日、六号)を書き、鑑三は、キリスト教と社会主義とはあいいれぬ

というが、心界のみならず物界の貧者弱者を救済しようとする社会主義は、

神の摂理の一現象ではないのか、いや、むしろ現状では心霊上の救済に

勝って物界の救済をはかることが、神の真意にかなうものではないかと

述べ、鑑三の教示を乞うている。



  これに応じて直接答えた鑑三の文章は見当たらないが、約一か月後に

刊行された『聖書之研究』(八七号)には「社会主義」と題して次の一文が

ある。 

「基督教に似てしかも最も非なる者を今日我国において唱えらるる社会

主義なす。 

  これ聖書に所謂(いわゆ)る不法の隠れたる者なり。これに敬虔なし、

恭順なし、平和なし、これ単に不平と頑抗と破壊の精神なり、これ僕 

(しもべ)を主に叛かせ、弟を兄に叛かせ、弟子を師に叛かしむるの精神 

なり。 

  服従を絶対的に拒絶せしむる悪魔の精神なり。余輩は永き忍耐の後

にこの断を発せざるを得ざるに至りしを悲しむ(帖撤羅尼迦〔テサロニケ〕

後書二章七節)」



  鑑三のこの一文は、かつて、社会主義者たちと親しく接していた人間と

しては、例になくきびしく、また感情的である。 

  これが、福田英子破門事件と密接な関係をもつものであり、それをもとに、

鑑三にあびせられた社会主義者たちの攻撃に応ずるものであることについ

ては、松尾尊(たか)ヨシ氏の見方とまったく一致する。

 

  鑑三は、そういう出来事のなかに、社会主義者の本性、つまり「不法」

み、帝国主義者とは異なるものの同じく戦いを好む体質を認めたのでは

ないか。 

  それだけに、鑑三は、角筈聖書研究会と『聖書之研究』の読者からなる

教友会に、真に「霊」の兄弟としての交わりを期待し、言行ともに平和な

人々の育成をはかろうとしたのだ。

  一九○五年の秋に、鑑三のなそうとした「三大事業」の一つ「友人の団

合」の具体化として教友会をみたが、教友会は、残る二つ「聖書の新研

究」と「平和主義の唱道」にもかなったものだった。

 

 

  柏木の青年たち 

 

  今井館

 

  クヌギ林に囲まれた角筈の地を去り、同じ淀橋町内の芋畑のなかに

ある柏木に移ったのは一九○七(明治四十)年十一月のことだった。 

  非戦論で朝報社を退社してからの鑑三の生活は、『聖書之研究』を

刊行する以外には、角筈にひきこもり、少数の青年たちに聖書を説く

のみで、さながら村の聖者のようにひっそりと生きていた。

 

 鑑三自身、外部の講演や執筆の依頼はひき受けず、隠れた生活を送っ

ているつもりであったし、ひとからも「角筈の隠者」とか「角筈の聖者」と

呼ばれたりした。 

  この生活態度は、柏木に移っても維持されたが、青年たちに聖書を説

く建物は少し広くなった。それは、一人の女性より建物の建築費の寄贈

があったためである。



  大阪の香料商に今井樟太郎(くすたろう)という人物(*下の写真)

いた。若いころ神戸の組合派のキリスト教会で受洗した信者である。

          Photo_2

  『東京独立雑誌』を愛読し、それが解散におちいったときには、さっそ

く鑑三に厚い同情の手紙を寄せ、失意の鑑三に大きな慰めを与えた。

  鑑三は、「暗夜の中の一つの星」だったと述べている。二人がはじめて

出会ったのは、一九○○年の秋に鑑三が京都で講演をしたときである。

そのときの鑑三の講演に、今度は、事業不振で苦境に立っていた今井

の方が励まされた。

 

  今井は、それ以来立ち直り、事業も好転した。しかし、それもつかの間

で一九○六(明治三九)年には急死する。鑑三は、亡き今井のため、

次の墓碑銘を書いた。 

  馨(かぐ)わしき人ありたり 

  馨しき業に従事し 

  馨しき生涯を送れり 

  茲(こと)に馨しき紀念を留む



  鑑三は、今井が役員をつとめていた大阪の天満教会で開かれた一周年

記念会に出席し「友交の秘義」と題した講演をした。 

  今井の未亡人ノブから、鑑三の事業のため一千円の寄附の申し出を受

けたので、鑑三は一つの建物を建てることに決めた。

 

  完成するまでには、これを聖書研究所と言ったり、教友の精神的修養所

とか呼んだりしているが、要するに、これまで自宅の書斎でおこなっていた

聖書講義の会場となる建物である。 

  この建物は、住宅とならんで柏木の地に一九○七年末にはできあがった。 

八畳と六畳の二間からなっていた。 

  これが、のちのちまで今井館と呼ばれ、無教会主義キリスト教の本拠と

なる建物の最初の起こりである(*下の写真は、今日の今井館教会)

             Photo





  来訪者




  今井館が成ったことにより、聖書研究会の収容人数にいくらか余裕が

生じ、一九○八年の春からは、『聖書之研究』の一年以上の購読者には

出席が認められるようになった。 

  今井館の開館式は、『聖書之研究』が第百号を迎えた一九○八年六月

に、その祝いをかねて挙行された。

 

  鑑三には、『商売成功の秘訣』という小冊子があるように、商売や商人を

それだけで軽くみず、誠実なあきないを奨励した。 

  その影響をなんらかのかたちで受けた実業家、商人に、今井のほかにも、

清水の鈴与のあとをつぐ沢野通太郎、静岡の製茶業者原崎源作、岩波書

店の岩波茂雄(*下の写真:若き日の岩波と後年の同氏)、新宿中村屋の

相馬愛蔵と黒光夫妻(*その下の写真)長野県星野温泉の星野嘉助、

岡山県津山の実業家森本慶三、宇都宮の肥糧商青木義雄らがいる。


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             Photo_4
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  柏木に移る前年のこと、はるばるドイツから、鑑三を頼って来日した一人

の青年がいた。名をW・グンデルトといい、その父の書店からは、すでに

『余は如何にして基督信徒となりし乎』と『日本及日本人』のドイツ語訳が

刊行されていた。

  後者の訳者、J・ヘッセはW・グンデルトの叔母の夫である。二人の間に

設けられた子供が、作家のヘルマン・ヘッセ(*下の写真:若き頃と後年

のヘッセ)であるから、ヘルマン・ヘッセとW・グンデルトとは、いとこの関

係にあたる(高橋健二『ヘルマン・ヘッセ』)。

                        Photo_6

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  鑑三の英文著作は、英語圏ではそれほど歓迎されなかったが、日露戦

争後、ドイツや北欧諸国で迎えられ、訳書があいついで刊行された。

 このことは、金銭面のみならず、精神面でも、鑑三の心にうるおいを

与えた。

 

  そのドイツ語訳とゆかりの深い青年が、遠路日本まで鑑三を慕って来

訪したことに鑑三は感激した。 

  隣家に住居を見つけたことをはじめ、家庭の一員のように待遇した。

その後、グンデルトは、新潟県村松で伝道生活を送り、五高、一高など

でも教え、最後はハンブルク大学(*下の写真は、今日の同大学)の学長

として、ドイツの日本学の大家になった。  【つづく】

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2013年6月11日 (火)

内村鑑三(26 )

  五   木々を育てて



   教友会

  骨肉の争い

  角筈聖書研究会は、一九○一(明治三四)年夏に発足以来、会員を

約二五人に限り、毎日曜日ごとに角筈の鑑三の自宅で集会がおこなわ

れてきた。ところが、二年後の九月、鑑三は、突然その研究会を解散し

てしまった。 

  それは、「弟子を作り、教会を作るとの疑察」を受けるのを嫌ったため

と言っている(一九○三年九月十六日付斉藤宗次郎宛書簡)。

 

  教会のない者の教会の意味で無教会主義を唱える鑑三が、一個の教会

とまぎらわしいものを作っているとみられるのが、気になったらしい。

  角筈聖書研究会の解散にひきつづき、その翌月には、非戦論で朝報社

を退社した。そうなると『聖書之研究』の刊行のほかは、とくに仕事がなく

なったことになる。 

  一九○四年の年が開けると早々に、一度は閉じた角筈聖書研究会を再

開させたのも、そんな事情によるだろう(*下の写真・・・1909年、柏木

の書斎にて)

Photo_4

  角筈聖書研究会の再開には、もう一つ別の深刻な原因を求めることが

できる。それは、一九○二(明治三五)年の夏ごろから始まった、実弟

達三郎たちの長兄鑑三に対する反抗である。 

  鑑三によると、実弟たちの反抗の理由は、鑑三が、自分の家で扶養して

いる両親に対し、キリスト教の教師のくせに不親切であるということにもと

づく。

  実弟たちの側には、鑑三の母までが加担しているという(同年八月二十

日付宮部金吾宛書簡)。



  朝報社を辞したあとの鑑三の収入は『聖書之研究』によるしかなかった。

それも発行部数は下降して、一家の生活を支えるのは苦しかった。 

  家庭の経済的な窮状が、いっそう、母や弟たちの燃え始めた反逆の火

に油を注ぐことになる。



  前述した小山内薫の短編「沈黙」には、戦時中の「先生」が、「決闘」や

「暗殺」の脅迫を受けたり、「売国奴」「敵国の探偵」などと罵られたことが

記されている。 

  これらは、小山内が当時、鑑三の助手役を勤めていたことからみて、いず

れも、鑑三の身辺をじっさいにおびやかした事実であったと思われる。

  それは、とりもなおさず、鑑三の家庭や家族にも不安と苦悩とを与えたこ

とになる。

 

 母や弟たちにとっては、「不敬事件」以後、「またか」の思いがしたにちが

いない。そんな不満が反抗を助長した。 

  日露戦争の戦われている最中の一九○四年十一月十一日、精神障害

にもおちいっていた母が死去、弟の達三郎は、母を死に至らしめたのは

鑑三であると責め、葬儀の場でも兄に妨害と侮辱を加えた。

 

  鑑三と弟たちとの間の「骨肉」の争いは、とうとう、風刺画でしられた北沢

楽天の『東京パック』*下の写真は、本人と、その雑誌『東京パック』)

まで登場、鑑三が両親を踏みつけた銅像の漫画が描かれ、それに

『耶蘇教信者の裏と表』との題名がつけられている(*尚、下に掲載した

『東京パック』は、この時の記事とは別のもの)。

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   教友会

 

  鑑三が、しきりに「骨肉」の兄弟に対し「霊」の兄弟のことを口にしだす

のは、このころのことだ。「骨肉」の兄弟の頼りなさに反して「霊」の兄弟

の厚い交わりに傾斜していったのは自然である。

 

 これが角筈聖書研究会の再開につらなり、やがて『聖書之研究』の読者

組織である教友会結成の呼びかけを生んだとみることができる。

  一九○五(明治三八)年の秋を迎えるにあたり、鑑三は当面、実行したい

「三大事業」として、次のことをあげている。 

  第一、聖書の新研究 

  第二、平和主義の唱道 

  第三、友人の団合

 

 これらの事業のうち、はじめの二つは、これまでの仕事の継続といえる。

目新しいのは、最後の「友人の団合」である。まもなく、その具体化したも

のとして教友会設立の計画が発表された。 

  教友会は、『聖書之研究』読者を対象とした「信仰的並に友誼的団合」と

定められ、「主旨」では、こううたわれている。

  「我等、神とその遣わし給える独子イエスキリストを信ずる者、ここに相 

結んで教友会を組織す。父なる神の援助を得て同志相扶け神の聖旨に 

合える生涯を送らんことを期す」

 

  この「主旨」に共鳴する者が二人以上あれば教友会を組織することが

でき、東京の教友会を中心に全国の教友会は連合一致をはかるものと

された。 

  この結果、東京では、角筈に教友会が設立され、地方では、新潟県の

柏崎、大鹿、三条、長野県では上田、小諸、東穂高、千葉県では鳴浜

(なるはま)、栃木県では下野(宇都宮)、岩手県では花巻などに続々と

結成をみた。

 

 これらの教友会の結成された地方をみると、その多くは農村部にあって、

『万朝報』時代の理想団支部の置かれたところであり、その地方には古く

からの有力な読者のいることだ。 

  そういう有力者には、鑑三自身も書簡などを通じて、かなり積極的に

友会設立をうながし、彼らが中心となって教友会が結成されている。



  一九○六(明治三九)年の夏には新潟県柏崎で夏期懇話会を開き、翌年

夏には千葉県鳴浜でも同じ懇話会を開催しているが、それぞれ、柏崎教友

会、鳴浜教友会のある地である。 

  夏期懇話会には全国から教友たちが参集した。一九○○年から三年間

続いて角筈で開かれた夏期懇話会の復活とみることができる。



  教友会の性格につき、鑑三は「信仰的並に友誼的団合」にとどまるものと

ことわっているが、『聖書之研究』によって結ばれる全国的な宗教組織の

結成になったことは否めない。 

  鑑三にこの教友会結成におもむかせた動因については、先に述べたとお

りであるが、教友会を結成することで、鑑三が目指したものも何かあったの

ではないだろうか。

 

 

  平和協会




  日露開戦に先だち、鑑三は、どの文明国にもあるが、日本にはないもの

として平和教会の設立を『万朝報』を通じて訴えている(「平和協会の設立

を望む」)。 

  それは、単に平和を主張するための協会でなく、「軍備全廃、戦争絶対

的廃止を目的とする志士仁人の会合」である。

 

  鑑三には、もし、そういう団体が日本にできていて、その戦争廃止論が、

本人の間に少しでも広まっていたならば、あるいは日露の開戦を抑え

る声になったと考えたのかもしれない。 

  あとで大隈重信(*下の写真)を会長とした大日本平和協会には反対

するが、そのころは、少なくとも、平和協会なるものにいくらか期待をもっ

ていた。

            Photo_3

  もちろん教友会は、直接、平和をうったえる団体ではなかったが、『聖書

之研究』の読者のなかに少なからず鑑三の非戦論と平和主義に共鳴する

人々がいた。 

  そのような熱心な読者を対象に、まずお膝もとから地固めをはかろうとし

たのではないか。

 

  日露戦争では、非戦論は小さな声にすぎなかったため開戦を迎えてしま

った。 

 教友会は、この反省に立って、平和を作り出す人々の団体を目ざしたも

のということができる。 

  それが、かつての理想団の支部と地盤を共通にしている意味では、鑑三

を盟主とする理想団の再編成的な性格もつものといってもよい。

  往時の理想団には、社会主義者も含まれていたが、それをふるい落とし

た団体である。

 

  非戦論者や平和論者が、その意見を主張したり世界に平和をもたらす

方法は、とうぜん平和的な方法でなくてはならない。 

  このように考えていた鑑三は、社会主義者との間の一線を、より鮮明に

するため、一九○七年二月には、『基督教と社会主義』を小型の「角筈パ

ムフレット」として刊行した。収めた文は前に『聖書之研究』に発表したもの

である。 【つづく】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2013年6月10日 (月)

内村鑑三(25 )

   退社

 

  それにもかかわらず国民は、満州人の利益を考えるよりも、日本人の

目先の利益をふりかざす勇ましい声に流されていった。 

  こうなると『万朝報』といっても読者によって成り立つ一企業である。 

非戦論の主張が読者に歓迎されぬとみるや、機を見て同社の立場を開戦

論にきり変えることにした。

  非戦論にこだわる記者たちは、節を曲げないかぎり、同社を去るしかな

かった。それに、前々から社内にくすぶっていた新旧社員の対立も働いた。

 

  ついに十月九日、鑑三は、同社の幸徳秋水、堺枯川とともに社を辞した。 

退社の言葉を、鑑三は単独で、幸徳と堺とは連名で記し、十月十二日の

紙上に別々に掲載した。 

  ここには、同じ非戦論による退社とは称されても、キリスト教による鑑三

と、社会主義による幸徳、堺との相違のあることがわかる。



  鑑三が、退社にあたり、黒岩涙香に宛てて書かれた文章も残されている。
 

そこでは、入社のときに『太平記』所収の歌一首を引用したのにあやかり、

今度も『太平記』のなかから万里小路(までのこうじ)藤房の遁世の歌が

ひかれている。 (*下の写真は、イメージ)

  住み捨つる山を憂世のひととはば、あらしや庭の松に答へん 

                   Photo_8

     

   鑑三は、これをもって「俗文壇」を去り、以後「聖文壇」にしか筆をとらぬ

覚悟であった。文字どおり「憂世」を離れ、「遁世」に入ろうとしたのである。 

  『万朝報』退社後も、鑑三は、主筆である『聖書之研究』を通じて「預言

者哈巴谷(ハバクク)の声」にみられるように、一種悲痛な非戦論を掲げ

ていたが、その笛に踊るものなくついに一九○四(明治三七)年二月には

日露開戦の破目にいたった。 

 

  矛盾 

 

  旅順港での日本海軍大勝利の報に接した鑑三が、古い愛国心に一日

中とらわれ、思わず隣近所に聞かれるような大声で「帝国万歳」を三唱し

たことは名高い話である(二月十一日付山県五十雄宛書簡)。 

  さすがに鑑三は「帝国万歳」を唱えたあと「矛盾した人間だ、私は!」と

つけ加えている。

                       Photo_2

                 Photo_3


  同時に英字新聞の『コーベ・クロニクル』に投稿するため、英文「今次戦

争に関する所感」を執筆中であったが、これまた、戦争は日露の戦争屋に

よる慾のための戦争であるとはいいながら、日露開戦の一因を、キリスト

教国ロシアの非キリスト教国日本に対する無礼な態度にみている。外に

向かうと、どうしても素朴な愛国の情を断ちがたいのだ。


  これは、鑑三自身も気づいているように、確かに一見矛盾であるが、

また矛盾ではない。 

これこそ二つのJの統合によって成り立っている鑑三の実の姿であ

るといえるだろう。

 

  「帝国万歳」を叫んだからといって、すぐに本性が現われたときめつける

のは早計である。反対に、その感情を抜きにした非戦論だけが実像でも

なかった。 

  両者をともに包む道を求めつづけて、ようやく、その統合にたどりついた

ところだ。

 

 統合は、ときには弛緩をみせたり、一方の極に傾くことがあっても、まっ

く解体してしまうことはなかった。 

  このことが、鑑三の思想の幅となり魅力となり、さまざまな読者をひき

つけることにもなったのである。




  『聖書之研究』の読者のなかには、鑑三の感化で兵役に服することや

軍備のための納税を拒否しようとする青年が出た。 

  日露戦争に従軍している軍人のなかからは、苦悩をうちあける青年も

いた。そういう青年たちに対して、鑑三は、あくまで非戦論の原則はくず

さなかったが、「真理」と「真理の応用」とはやや区別し、「真理の応用」に

ついては慎重であった。

 

  非戦論の最大根拠とするところが、無抵抗主義によってたつならば、

その主張の手段も、同じく無抵抗主義を用いることを、さとしている。

(*1905年1月、日露戦争下の鑑三、父宜之、長男祐之〔右より〕)

 Photo_5

                     

 

  平和への道

 

  日露戦争が始まると、鑑三自身が、こぼしているように、戦時下の非

戦論者の生活は、ひまで無用な存在であった。 

  世間の人々から孤立したばかりでなく、戦争に協力して活動する日本

のキリスト者からも孤立した。同じキリスト者で非戦論にまわったのは

上州安中教会の牧師柏木義円など、きわめて少数を数えるだけだった。

 

  戦争の阻止をはかって、平和を維持しようとする望みが、開戦によって

断たれた以上、非戦主義者のできることは、一日も早く平和を回復させよ

うとする道しかなかった。 

  それは、結局、平和の福音であるキリストの教えを説くことである。戦争

によって平和がもたらされるのでなく、キリストによる平和の福音を宣べ

伝えること、この意味での平和主義者に一人一人のなることが、唯一の

平和への道とみた。 

  人を殺すためではなく、人を活かすための出陣には、喜び勇んで出か

けた。 

  このころ鑑三の助手役をつとめていた小山内薫の、後年の短編小説に

「沈黙」がある。 

  この小品は、まさにそのような「出陣」の一コマを描いたものである。

容易に鑑三とわかる「先生」が黒煙を吐く軍港を訪れ、その地で軍人を

相手に独立伝道をおこなっている外国の婦人宣教師E(横須賀で伝道し

ていた日本名星田光代、つまりエステラ・フィンチのことだろう)を助けて、

戦中にかかわらず軍人に向かって非戦論を述べる。その小説の一部を

ひくことにしよう。

 

  「E さんの短い祈祷を前にして、先生の談話が始まった・・・・私は忙しく

鉛筆を動かし始める・・・ 

  また・・・・非戦論である・・・・尤(もっと)もこの頃先生の頭脳(あたま)を

支配してるものはそれより外にないのだから、為方(しかた)がないとは

言うものの、この場合、この聴衆・・・・私は硝子窓の外の暗闇にしばしば

人影の動くある(ママ)を疑った・・・・坂を降りて行く酔っぱらい水兵の濁っ

た叫(どな)り声には、しばしば胆を寒くした・・・・この間もここに寄宿して

いる士官が水兵に喧嘩を吹っ掛けられたと言うではないか!

  先生の非戦論はトルストイズムではない・・・・もっと深い・・・・もっと

現実的だ・・・・カントの永久平和論・・・・スペンサア・・・・「戦争という者は、

果してその予(あらかじ)め目的とした所のものを獲得し得らるるもので

あろうか。」・・・・これには聴く人が大分動かされたようだ・・・・私も動か

された・・・・先生の・・・・あの眼の光・・・・舌の力・・・・熱・・・・しかも冷静

なる理路・・・・ 

  非戦論と軍人・・・・非戦論と基督信者の軍人・・・・非戦論者の軍人が

職務に対する態度・・・・談話は一時間と四十分で終った・・・・」

 

  これは一九○九年に発表された作品であり、鑑三が当時説いていた

非戦論の一班と、軍港横須賀でそれを説く緊迫感がよく、描写されている。

 

 

  野獣


  日露戦争下にクリスマスを迎えた鑑三は、クリスマスは平和主義者の 

日であって、「主戦論者はこの日を守るの資格を有せず」(「平和主義者 

の日」)と述べた。

  この言葉に拍手喝采を送った青年に、のちに大河小説『大菩薩峠』を

著わす中里介山(*下の写真は、後年の介山)がいた。介山は、この

半年ほどあと鑑三の雑誌(このころ『聖書之研究』は『新希望』と改題)に

「予が懺悔」を寄せている

             Photo

  やがて日露戦争は、日本の勝利をもって終わりを告げた。その後には、

日本国中あげて大祝宴の酔声ばかりたかまり、非戦論者のか細い声は、

たちまちかき消されてしまった(*下の写真は、当時の提灯行列)

                           Photo_6

  たとえ聞こえたとしても嘲笑か憫笑しか投げかけられなかったにちがい

ない。戦勝後の非戦論者の立場は、戦中にましてみじめなものであった。 

 

  ところが、当の鑑三は、きわめて意気軒昂としていた。この度の戦争に

よって、いっそう深く戦争の非と害毒をさとったとも言っている。 

  それは、戦勝によって、日本人が、たとえば、味方の被害は隠し、敵の

被害のみを針小棒大に報ずる虚報に踊らされ「真理を貴ぶの念」を失い、

また「人命を貴ぶの念」まで失ったからである。

 

  こうして、戦争が、結局平和をもたらさず、かわって新しい戦争をそなえ

ていることを予言する。 

  「日清戦争はその名は東洋平和のためでありました。然るにこの戦争は、

さらに大なる日露戦争を生みました。日露戦争もまたその名は東洋平和 

のためでありました。 

 然しこれまた、さらに大なる東洋平和の戦争を生むのであろうと思います。

戦争は飽き足らざる野獣であります(「日露戦争より余が受けし利益」)

 

  この鑑三の予言はあたっていた。それまでより幾十倍、幾百倍もの大き

な「東洋平和のための戦争」が起こり、戦地の人々を苦しめ、みずからも

悲惨な体験をしたことは、まだ我々日本人の記憶に新しい。 【つづく】

 

 

 

 

 

2013年6月 8日 (土)

内村鑑三(24 )

  絶対的非戦


  聖書の言葉との出会いは、「平和の福音(絶対的非戦主義)」の冒頭

に掲げた次の二つの聖句でも知られる。 

  「平和を求むる者は福(さいわい)なり。その人は神の子と称(とな)えら

るべければなり」馬太〔マタイ〕伝五章九節) 

  「イエス彼に曰いけるは、爾(なんじ)の剣を故処(もと)に収めよ、凡て剣 

を取る者は剣にて亡ぶべし(同二六章五二節)

 

 Photo_6


  「余が非戦主義者となりし由来」のなかでは、鑑三は、非戦主義者とな

った四つの理由をあげている(*既述)

 

  第一にあげているのが聖書の研究である。とくに新約聖書を全体の

精神からくみとるとき、戦争はいかなる意味においても肯定することは

できなくなったと言っている。 

  第二にあげているのが数年前、ある人たちの攻撃にあったとき、我慢し

て無抵抗主義を押しとおし、それがよい成果をもたらしたという「生涯の

実験」による。

 

  この「攻撃」とは、もちろん、東京独立雑誌社社員によるものである。

  鑑三の「実験」をさらにさかのぼると、徳富蘇峰の就官を「変節」と非難

したとき、街頭で山路愛山(*下の写真)から殴打されたことも含まれる

であろう。

            Photo_7

  鑑三が別の文で「もし他人が余を殴った時に、余が彼を殴りかえした

ならば、余はその時すでに彼に負けたのである」(「君子国の外交」)と

述べているのは、おそらくそのときの体験が、念頭にあったにちがいない。 

  こうした鑑三の態度は、同じ一九○三年に山路愛山との和解という効験

をもたらしていたのだった。



  第三は、ここ十年間の歴史の動である。日清戦争は、うたった目的に

反してかえって朝鮮の独立を危うくし、日本人の道徳には腐敗をもたらした。

 世界に目を転ずると、米西戦争は、自由であった米国を圧制国に変えて

いる。戦争は世界を悪くしているのだ。

 

  第四の理由となっているのは、米国発行の新聞『スプリングフィールド

・リパブリカン』 を愛読していたことだ。 

  この平和主義的な新聞をとおして、鑑三は、世界の平和主義者たちの

「名論卓説」にふれることができた。 

  鑑三が一連の非戦論のなかで引用しているトルストイ(*下の写真)

いうまでもなく、スペンサーや公法学者グロチウス(*その下の写真)など

の説に接したのも、同紙を通じたことによるのではないか。

                   Photo_8

            Photo_9

   
  ここでは、鑑三はフレンド派のことを「私は永の間、米国に在るクエー

カル派の友人の言にさからいて可戦論を維持してきました。 

  然るにこの二、三年前頃より、ついに降参を申し込まねばならなくなり

ました」と言っているにすぎないが、その教派のキリスト教の影響は小さ

くない。

 

 同派の友人ウィスター・モリスが、鑑三の非戦論に与えた大きな作用に

ついては、「モリス氏記念講演」や書簡を通じて、たびたび語られること

になる。

 

 

  戦争廃止論

 

 

  日本とロシアとの間の緊張が高まるにしたがい、国内の世論にも開戦

非開戦をめぐる議論は熟してきた。 

  優勢な開戦論を背景に東京帝国大学の戸水寛人(ひろんど)以下七人

の教授たちが、満州問題につき開戦を唱える建議書を政府に提出、それ

の公表されたのは六月二四日のことである。

  鑑三が『万朝報』に「戦争廃止論」を書いたのは、六月三○日だ。このこ

とは「七博士」の建言を見て、決然として筆をとったことをあらわしている。

 

  絶対的非戦論を鮮明に述べた本論の全文をかかげよう。 

「余は日露非開戦論者であるばかりでない。戦争絶対的廃止論者である。

戦争は人を殺すことである。そうして人を殺すことは大罪悪である。そうし

て大罪悪を犯して個人も国家も永久に利益を収め得ようはずはない。



  世には戦争の利益を説く者がある。然り、余も一時はかかる愚を唱えた

者である。しかしながら今に至ってその愚の極なりしを表白する。 

  戦争の利益は、その害毒を贖うに足りない。戦争の利益は強盗の利益

である。

 

 これは、盗みし者の一時の利益であって(もしこれをしも利益と称するを

得ば)、彼と盗まれし者との永久の不利益である。 

  盗みし者の道徳はこれが為に堕落し、その結果として彼はついに彼が

剣を抜いて盗み得しものよりも数層倍のものを以て彼の罪悪を償わざる

を得ざるに至る。

 

  もし世に大愚の極と称すべきものがあれば、それは剣を以て国運の進

歩を計らんとすることである。

近くはその実例を(明治)二十七、八年の日清戦争において見ることが

できる。 

 二億の富と一万の生命を消費して日本国がこの戦争より得しものは何

であるか。

 

  僅少の名誉と伊藤博文伯が侯となりて彼の妻妾の数を増したることの

ほかに日本国はこの戦争より何の利益を得たか。 

  その目的たりし朝鮮の独立はこれがために強められずしてかえって弱

められ、支邦分割の端緒は開かれ、日本国民の分担は非常に増加され、 

その道徳は非常に堕落し、東洋全体を危殆(きたい)の地位にまで持ち

来ったではないか。 

  この大害毒大消耗を目前に視ながらなおも開戦論を主張するが如きは

正気の沙汰とはとても思われない。



  もちろんサーベルが政権を握る今日の日本において余の戦争廃止論が

ただちに行われようとは余といえども望まない。 

  しかしながら戦争廃止論は今や文明国の識者の輿論となりつつある。 

そうして戦争廃止論の声の揚がらない国は未開国である。然り、野蛮国

である。

 

  余は不肖なりといえども今のときにあたってこの声をあげて、一人なりと

も多くの賛成者をこの大慈善主義のために得たく慾(おも)う。 

  世の正義と人道と国家とを愛する者よ、来(きたっ)て大胆にこの主義

に賛成せよ」

 

 
  短い文章ながら、意をつくした格調の高い一文となっている。それでい

て決して高踏的でもない。 

  とにかく宗教家の非戦論というと、いたずらに自己の信条のみをふり

かざした観念的なものになりがちであるが、鑑三の論には、そのくさみが

薄い。

 

  損得勘定
 

 

  たとえば、戦争の利益を説く開戦論者の議論を逆手にとり、同じ利益の

次元で戦争廃止を訴えようとしている。 

  戦争は強盗の利益のようなもので、一時的には利益を得たと思って

も、長い目でみると不利益となる。それは、日清戦争の結果、東洋の緊張

かえって増大し、そのために日本の軍事負担は増加され、道徳的にも

堕落という不利益を招いたことを説く。 

  この行間には『万朝報』の読者を相手に、時々刻々と開戦に向かいつ

つある世論の方向を、必死になって転じようとする鑑三のなまの声が聞

こえるようである。 

 

  鑑三の同じ論法は他の文章にもみられる。軍人を使って日清戦争に勝

った日本国民は、これとは裏腹に軍人たちにより苦しめられることになり、

「その富のほとんど全部を捧げて軍人保育の料」に費やしているのではな

いか(「殺す者は殺される」)。

 

  日露戦争に、かりに勝利を収めたとしても「九段坂上、招魂社内の遊

就館において、分捕品の少々と血だらけの軍服ぐらいとが陳列さるるの

ほか、国民を永久に益するものは何もあるまい」(「平和の実益」)と述べ、

平民である読者の損得勘定に働きかけている。
 
  読者の損得勘定に訴える書き方を、鑑三がとっているとはいえ、ただ

日本の利益になればそれでよいと決して言っているのではないことは

自明である。

  満州問題の解決は「如何(どう)するのが満州ならびに満州人のために

最も利益であるか」(「満州問題解決の精神」)をはかるべきであり、ロシア

も日本も、自国の利益のことを考えてはならないと断言している。

                         Photo_10

  ロシアも日本も、その利益のためだけ考えているから「名は日露の衝突

であれ、実は両国の帝国主義者の衝突である」(「衝突の真義」)と述べ、

戦争というものが、帝国主義の所産であることを鋭くついている。

  【つづく】

 

 



 

 

2013年6月 7日 (金)

内村鑑三(23 )

  鉱毒視察 

 

  十二月十日には田中正造の明治天皇直訴事件があり、ついで十二月

二七日には、田村直臣を委員長、安部磯雄を監督委員として、八百余人

の学生からなる鉱毒被害地視察旅行がおこなわれた。

 

  「学生大挙鉱毒視察」の旗をかかげた一行には、指導者として鑑三も

木下尚江、加藤咄堂とともに加わった。 

  鑑三は海老瀬小学校前で昼食後に一度演説したあと、夕方には古河駅

前で大八車(*写真は、イメージ)の上から、学生たちに向かって「鐘の如

き声、風の如き弁」(『毎日新聞』十二月二九日)で叫んだ。 

             Photo_5

  なお、この学生たちの鉱毒被害地視察には、志賀直哉も、角筈の聖書

研究会で鑑三の勧誘を聞き、勇んで参加するつもりだった。 

  ところが、その希望を父に話したところ、父の強硬な反対に出あった。 

それは、足尾銅山は、元来直哉の祖父直道が、旧藩の財政再建のため

に始めた事業であり、それを古河市兵衛にひき継がせていたものだから

である。

 

  直哉と父との間に激しい口論の生じたことは、作品「祖父」などに描かれ

たところである。 

  志賀直哉の文学に深い影を落としている父子関係の対立は、「霊の父」

鑑三の言葉に従おうとした直哉の、「肉の父」との対立の一面をもっていた

といえる。



  翌一九○二年に入ると、鑑三は、四月二日の鉱毒問題解決演説会に

出席したことなどを除くと、表立った運動には姿を見せなくなる。かわって、

いっそう聖書の研究に沈潜していった。 

  鑑三は、もともと足尾の鉱毒問題が、単に物質的な鉱毒ではなく、それ

よりもっと激甚な毒である古河市兵衛のみだらな心の慾望によるとみて

いた。 

  それが、鉱毒反対運動にかかわるなかで、反対運動の実践家にも被害

地の農民にも、慾望による腐敗堕落のあることを認めた。

 

  このことが、社会の改良には、社会自体の改良よりも、まず個人の改良

が優先され、それには聖書によるしかないとの思いを深めたのだった。

  この年三月十日に開かれた理想団晩餐会の席上、安部磯雄の演説の

あとに、社会の改良法をめぐり、「内村が個人、安部が社会と個人」(『万朝

報』四月三日)と言ったという。 

  同じ理想団に属しながら、キリスト者鑑三とキリスト教社会主義者安部

磯雄との歴然とした相違を語るものだ。

 

 

  田中正造

 

 

  さらに、このころ発行された『聖書之研究』のなかで、鑑三は「聖書を

棄てよと云ふ忠告に対して」という一文を書き、今は聖書を棄てて立つ

ときであると唱える人もあるが、「渡良瀬川沿岸に聖書の行渡る時は鉱毒

問題の解決せらるる時である」とさえ言いきっている。 

  このとき、「聖書を棄てよ」と勧告したのが、実は田中正造であったことを、

鑑三は、その文を単行本『感想十年』に再録するにあたり、つけ加えている。


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  田中が、一九○○年に川俣事件を傍聴していてあくびをし、官吏侮辱罪

に問われて一九○二年六月十六日から七月二六日まで入獄すると、『聖

書之研究』に、「田中正造翁の入獄」を載せて、これを「惨事」とみた。 

  なぜなら、窮民を救おうとした田中が入獄の苦難にあずかっているの

に反し、その窮民を作っている古河市兵衛の方は、正五位の位をもらって

天下をのし歩いていたからである。



  田中正造がはじめて聖書に接したのは、この入獄中のことであった。
 

田中の後半生に附き従った島田宗三は、獄中の田中に聖書の差し入れ

をしたのが鑑三であったように語ったともいわれる(林竹二『田中正造』)。 

  鑑三に「聖書を棄てよ」と勧めた田中が、わずか、その言葉の二、三か

月後には聖書に接し、以来死に至るまで、これを愛読した。 

  死去の際「遺物としては新約聖書、菅笠、日記帳、鼻紙、石ころ少々だけ」

が遺されたことを永島与八は伝えている。

 

  鉱毒反対運動の前面にこそ立たなくなったとはいえ、鑑三は、その後も

被害地の人たちへの支援を惜しまなかった。クリスマスには『聖書之研究』

読者に対し、被害地住民へのプレゼントの呼びかけをし、その品物を届け

に現地へみずから出かけている。

 

  一九○五(明治三八)年のことになるが、田中正造が鑑三あてに記した

谷中村の強制買収に関する「陳情書」が残されている。 

  田中は娘ルツ(*下の写真)が死んだ年、金平糖一袋をもってお悔みに

あらわれた。それが二人の最後の別れとなった。

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非戦論

 

   義戦

 

 

  日清戦争では「義戦」を唱え、賛成した鑑三であったが、結局、日本の慾

のための戦いであったことを知ると、それが終わるやいなや、すぐに「義戦」

としたことを深く恥じた。

  かわって日露戦争では、はじめから非戦論に立った。ところが、日清戦争

の結果と悔恨の念が、そのまま鑑三を非戦論者にさせたのではない。

  鑑三が、日清戦争の終結にあたり、いたく恥じたのは、それが、世界に

向かって弁じたように義のための戦争ではなかったことだけである。

 

  世にある「義戦」そのものは、まだ認めていたといえるのだ。

  「義戦」とみられる戦争につき、鑑三が必ずしも否定的ではなかったし

るしを、少しみることにしよう。

 

  鑑三は、まもなくして起こった、西欧列強に対する小国ギリシャの戦い

には、前述したように心からの声援を送り、「勇敢な小国ギリシャよ、われ

われが東から戦いつづけるように、西から戦いつづけと」(英文「ギリシャ

万歳」)と言っている。

                           Photo_3

  米西戦争については、アメリカが勝ってキューバがスペインの手から

自由になることを望み「この戦争によって、善にして高貴な目的の他の

戦争のばあいと同じように、この地球上に、より多くの正義が訪れるで

あろう」(英文「米国の参戦論」)と述べている。

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  ここには自由を与え、正義をもたらす高貴な戦争を是認する思想が残

っている。 

 独立のためにイギリスと戦う南アフリカのボーア人を支持しているのも、

同じ見地からである。 

  むしろ正義を犠牲にしていたずらに「平和、平和!」と叫ぶことをから

かっている(英文「平和、平和!」)。

                        Photo_4

  『万朝報』英文主筆時代も『東京独立雑誌』時代も通じて、この論調に

は大きな変化はみられなかった。



  では鑑三が、義戦論から、明らかな非戦論、それも絶対的非戦論に

転ずるのは、いつからなのであろうか。 

  『聖書之研究』の一九○二年十月号では、軍人の一読者からの手紙に

そえて、まだ「神の真理も時には剣を以て護らなければならない」と述べ、

片手に聖書をもち、残る手に剣をさげた「自由のために戦う戦士」に讃辞

を送っている。 

  これをみても鑑三が、『聖書之研究』時代に入っても、まだなお、正義の

ための戦いなら、それをよいものとして肯定していたことがわかる。

 

  おそらく鑑三が、絶対的非戦論にいたるのは一九○三年に入ってから

のことだろう。 

 戦争となればすべて絶対的に否定する思想に達するのは、前に述べた

ように、鑑三が、ひたすら聖書に沈潜した結果である。  【つづく】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2013年6月 6日 (木)

内村鑑三(22)

   足尾銅山鉱毒事件

  人災


  足尾銅山の鉱毒について鑑三がはじめて言及したのは、前述したように

一八九七(明治三○)年三月一六日の『万朝報』英文欄であった。

                        Photo_4


                
               

  この月上旬、鉱毒被害地農民の最初の大挙請願(押出し)がおこなわれ

たのに呼応したものだ。 

  足尾銅山の鉱毒による被害は、一八八○年代にあらわれていて、渡良瀬

(*下の写真)の魚に被害が出始めた。

            Photo

  その後、度重なる洪水のたびに、それまでの沃土は不毛の地と化し、とく

に一八九六(明治二九)年の三回にわたる大洪水は、渡良瀬川沿岸の住民

に甚大な被害をもたらした。

 

  被害地住民の大挙請願は、一八九八年まで三度にわたっておこなわれ、

そのたびに警官隊と衝突をくり返した。 

  ついに一九○○(明治三三)年二月になされた被害民の第四回目の大挙

上京は、利根川北岸の川俣で警官隊との大衝突をまねき、数十人が検挙

された。いわゆる川俣事件である。



  鑑三が、はじめて鉱毒地を訪れたのは、その翌年の四月二二日のこと

である。 

 前日の四月二十一日、鑑三は、栃木県足利の友愛義団に招かれ、巌本

善治、木下尚江(*下の写真)とともに講演した。

                            Photo_2

  友愛義団は、土地の青年実業家たちによって、一八九二(明治二五)年

に設立された団体で、会員は百三十余名いて、廃娼運動などの社会改良

に尽くしていた(*下の写真は、木下尚江、島田三郎著『廃娼の急務』)

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  鑑三の友愛義団のための演説は、風邪のためと場所が末広座という劇

場であったために気がのらず、短い感想にとどめたように自分では語って

いる。 

  だが、同行した木下尚江が『毎日新聞』四月二五日号に記した報告に

よると、「社会改良の両面」と題して「鋭利なる舌鋒、奇警なる言辞巧みに

満場を激動」したとある。



 鉱毒被害地の巡遊は、巌本善治が明治女学校の開校式をひかえて帰京

したため、鑑三と木下尚江との二人でなされた。

  木下の方は『毎日新聞』の現地特派員として、一年前に同地を一度訪れ

たことがあった。そのときには冬枯れでよくわからなかった土地が、今度は、

春を迎えているにもかかわらず、いまだ青草を生じず黒肌をさらしているの

を見て歎いた。

  木下と異なり、はじめて被害地に足を踏みいれた鑑三は、かつて札幌農

学校で土壌学を学んだ者の目で土地を見、その被害の激しさを知って驚い

た。

 

  「余の十数万の同胞が家を失い地を失うを見て余は黙し能わざる」思い

にかられ、帰京するやさっそく筆をとって『万朝報』に書いたのが「鉱毒地

巡遊記」(四月二五日―三○日)である。 

  鑑三はそのなかで、鉱毒の原因を、天災ではなく、経営者古河市兵衛の

起こした人災であると断じた。 

 

 

  理想団



  五月二一日には、神田の東京キリスト教青年会館で足尾鉱毒問題に

つき「同情者」の会が開かれ出席した。 

  津田仙が座長をつとめ、巌本善治、島田三郎、島地黙雷、田口卯吉

(*下の写真)、松村介石、三宅雄二郎、矢島楫子(かじこ)ら三十余名

             Photo_4

が集まり、田中正造(*下の写真)が説明をした。

             Photo_5
 

  その結果、鉱毒調査有志会が結成され、鑑三は、巌本らとともにその

なかの調査委員五人の一人に選ばれた。 

  鉱毒調査有志会の調査は、六月二一日から鑑三を主査としておこな

われた。現地では田中正造がその案内役を果たした。

 

  一八九一(明治二四)年の帝国議会において、最初の鉱毒問題につい

ての質問をおこなった田中であったが、この調査をもって、「本問題も漸く

にして国家問題に至りたる見世(みせ)開き」と評価している。 

  この調査会の第一回報告は、鑑三をはじめ巌本善治、田中弘之、高木

政勝らの連名で同年十一月に出された。

 

  この夏の七月二十日には、鑑三は『万朝報』の黒岩涙香、天城安政、

園城寺清、幸徳伝次郎(*下の写真)、堺利彦、斯波貞吉、山県五十雄 

とともに発起人となり、理想団を発足させた。

               Photo_6

  前もって黒岩が『万朝報』に「平和なる激文」(七月二日)と題し、社会の

救済のため、理想団を提唱、加入を呼びかけていたので、この時までに

五百余人の入会希望者があった。発会式の席上議決された「理想団宣

言」を次に引用する。 

  「社会人心の腐敗堕落、年に月に甚だしきは、何人も認めて而(しこう)

して概嘆する所なり。 

  これを救うの道は人々自らを正しくして以て人に及ぼすに在り。この理

は何人も知る所なりといえども、個々分立(ぶんりゅう)するが為に、以て

大勢に抗するに足らず。 

  今日の急はまずこの分立する者を合して一団の勢力と為すに在り。これ

理想団の興る所以(ゆえん)なり。時勢を憂うる者。来りて相共に社会救

済の原動力たるを期せよ。」



  社会の救済にあたり、まずみずからを正しくすることから始め、やがて人

に及ぼせという。このあたりは、鑑三の意見が色こく反映された「宣言」と

なっている。 

  朝報社への再入社に際し、鑑三が黒岩に洩らした「社会改良の秘訣」と

は、あるいはこの理想団結成のことであろうか。 

  この後、理想団は各地にあいついで支部の結成をみることになるが、

それには鑑三が黒岩涙香と同伴して出席することが多く、二人が、運動

の中心的存在であることを語っている。

 

  それとならび理想団の支部の設けられたところをみると、旧『東京独立

雑誌』や『聖書之研究』の地方の読者を柱として結成されていることも見

逃せない。 

 ただ理想団には、安部磯雄、片山潜、木下尚江なども加入していて、

同じく個人を改良してから社会の改良におよぶといっても、鑑三と社会

主義者の間はもちろん、鑑三とキリスト教社会主義者の間にも、その重点

のおきどころに相違があった。この開きはやがてあらわになっていく。

 

  ポーコ


  同年夏に開催された第二回夏期講談会には、鉱毒被害地である群馬

県邑楽(おうら)郡西谷田村の青年永島与八が参加している。

  永島与八は、被害地農民の第一回大挙請願のころから、反対運動の

指導者として活躍、田中正造の片腕のような存在であった。のちに『鉱毒

事件の真相と田中正造翁』(一九三八年)を著わす。

  永島は一九○○年の川俣事件で逮捕されたとき、獄中で鑑三の『求安

録』を読み感動した。それが、第二回夏期講談会に出席するきっかけと

なったのだった。

  鑑三は、永島のことを「足尾銅山鉱毒事件が産出せし最も有益なる結

果の一」と言い、その後も永島の「獄裡の嬰児」を『聖書之研究』に四回に

わたり掲載させている。

  また一九○二年四月には、永島の出身地西谷田村を訪れ、心界改善

の必要につき講演をした。

  一九○一年の秋は、鑑三が、足尾銅山鉱毒反対運動にもっとも直接的

にかかわった季節であった。十一月一日には東京キリスト教青年会館で

おこなわれた足尾鉱毒演説会に、巌本善治、安部磯雄、木下尚江、島田

三郎たちと出席し、問題が実は「色慾問題」であることを説いた。

  岡山から上京してまもない青年竹久夢二(*下の写真:右側の男性)が、

鑑三と安部磯雄の演説を聞き、貧しい人のための学校を建てようと思った

というのは、このときの演説会のことだろう。

  その後、夢二は、よく知られているように社会主義思想に接近する。

                             Photo_7

   
  十一月二九日には、鑑三は桐生教会訪問の帰途、佐野駅で下車して

被害地にたち寄っている。

  十二月十二日には、ふたたび東京キリスト教青年会館で巌本善治、

黒岩涙香、幸徳伝次郎、佐治実然、三宅雄二郎らと足尾鉱毒演説会を

開き、古河市兵衛に対してポーコを加えよと叫んだ。

  ポーコとは、南北戦争前の米国において、奴隷廃止論者たちが、奴隷を

かかえる金持を見つけるたびに、「あれは人道を無視し、神をけがす悪人

だ」とののしった方法とのことだ。  【つづく】

 



 

 

 


 

2013年6月 4日 (火)

内村鑑三(21)

   角筈聖書研究会

 

  鑑三は、以前から自宅では家庭のための聖書講義の会を開いていた。 

それが、一九○○年の第一回夏期講談会後に、参加者によって独立苦

楽部が東京や上田、小諸などに結成されると、その会員たちを対象に

伝道活動がおこなわれるようになった。

 

  翌一九○一年三月には『聖書之研究』読者の「交通機関」を目的に、月刊

の『無教会』を発行した。  このころから毎日曜日朝、自宅で開いている聖書

講義に、参加の呼びかけもなされはじめた。 

  こうして第二回夏期講談会の前後(一説には七月二八日)には、角筈聖書

研究会いう名称の集会が発足したとみられる(*下の写真) 

            1903032_tsunohazu_



  角筈聖書研究会は、その成立の経緯からわかるように『東京独立雑誌』

の読者による東京独立苦楽部の会員を母胎に『聖書之研究』の読者や

第二回夏期講談会の出席者のなかから生まれたものだ。 

  鑑三がその家庭で開いていた聖書講義に参加を呼びかけたころ(一九

○一年三月ごろ)では、二十人位はきても収容できるように言っていたが、

やがて手狭となり、会員をぎりぎり二五人に限定した。 

  ところが出席希望者が、定員を一人オーバーしたため、二五人をくじ引き

で決めた。しかし結局は、くじで外れた一人も出席を認められたという。



  初期の会員のなかに、とりわけ熱心な十二人がいて、それは角筈十二人

組と呼ばれていた。中田信蔵によると、その十二人の氏名は次のごとくで

ある(『教友』一九一号)。 

  浅野猶三郎、安藤胖、小山内薫、小野保之、菊池七郎、倉橋惣三、小出

満二、佐藤武雄、沢野通太郎、中村新太郎、西沢勇志智、山内権次郎



  角筈聖書研究会の形成とほぼ時を同じくして『無教会』という名の雑誌が

発行されたことは、鑑三が、このころより、その集会を無教会主義的な集会

として意識しだしたことを物語るものだ。

 

 

  無教会 

 

  鑑三は、京都在住時代より特定の教会に出席しなくなっていたが、

「無教会」という言葉の初見は、一八九三(明治二六)年に刊行された

『基督信徒の慰』の「第三章   基督教会に捨てられし時」に見出される。

 

  ただし、そのころは鑑三はまだ大阪教会老松講義所の伝道を担当して

いるので、明確に無教会主義を主張して使ったものではない。 

 「無教会」について、意識して論じたのは、雑誌『無教会』の第一号に掲

げた「無教会論」が最初である。

  これは有名な文章であり、従来、何度も引用されたものであるが、やはり、

それを欠くことはできないので、冒頭の部分を記そう。

 

  「「無教会」と言えば無政府とか虚無党とか云うようで何やら破壊主義の 

冊子のように思われますが、然し決して爾(そ)んなものではありません。  

  「無教会」は教会の無い者の教会であります。即ち家の無い者の合宿所 

とも云うべきものであります。即ち心霊上の養育院か孤児院のようなもの 

であります。 

  「無教会」の無の字は「ナイ」と訓(よ)むべきものでありまして、「無にす 

る」とか、「無視する」とか云う意味ではありません。 

  金の無い者、親の無い者、家の無い者は皆な可憐な者ではありませんか。 

  そうして世には教会の無い、無牧の羊が多いと思いますから、ここにこの 

小冊子を発刊するに至ったのであります」


  ここでいう「無教会」は、雑誌『無教会』の言葉と役割との説明とも受けと

られるものであるが、後日にいっそう整序される無教会の原像を語るもの

である。

  鑑三が、「無教会」の「無」の字を、教会を否定する言葉としては用いず、

教会のない者の意味で使っているのが、肝要なところである。

 

  晩年の鑑三に「無教会は進んで有教会となるべきである」(「無教会主義

の前進」)との言葉があるように、鑑三は、最後まで教会そのものを否定す

るものではなかった。 

  鑑三が否定しようとしたのは、西洋から伝えられたキリスト教にまとわり

ついている西洋的な制度や儀礼である。 

  それとともに西洋の教派とミッションの支配下に屈服している、日本の教

会の体質であった。



  こうしてみると、鑑三の「無」は、仏教思想でいう「無」に近いものである。

ただの否定としての「無」でなく、対象を相対化し、究極的には、より高い

次元での肯定を意味する「無」である。 

  鑑三の無教会主義キリスト教は、西洋のキリスト教を相対化の目でとら

えたキリスト教であるといってよい。相対化といっても、決して、外側から

一つの宗教としてつき放して見るのでなく、キリスト教の内側にとどまりな

がら主体的に相対化したものだ。

 

 

  洗礼と聖餐 

 

 雑誌『無教会』の少し前に、鑑三は、札幌独立キリスト教会に起こって

いた問題と関連し「洗礼晩餐廃止論」を『聖書之研究』に書いている。 

  鑑三には、ルターの宗教改革以後もなお、多くのプロテスタント諸教会が

サクラメント(聖礼典)として守っている洗礼と聖餐は、キリスト信徒にとって

必要不可欠なものとみなされなかった。

 

  しかし、それは決して頑固な拒否ではなかった。現に鑑三自身、一生の

間におそらく数十人もの人々に洗礼を授けている。 

  『余は如何にして基督信徒となりし乎』のなかで述べたように、洗礼が望

まれるときには夕立の雨でもよく、聖餐にあずかりたいなら、野に出てそこ

に実っているブドウの汁でもよい、というのが、鑑三のサクラメントに対する

基本的な考え方である。

  『基督信徒の慰』では、教会についても、それは、ひとの手で作られた

白壁や赤瓦のうちにあるだけではなく、自然そのものが神の家とされる。

「無教会論」でもこう言う。

 

  「その天井は蒼穹(あおぞら)であります。その板に星が鏤(ちりば)め 

てあります。 

               Photo

 その床は青い野であります。その畳は色々の花であります。  

  その楽器は松の木梢(こずえ)であります。その楽人は森の小鳥であり 

ます。 

               Photo_2


 その高壇は山の高根でありまして、その説教師は神様御自身であり
 

ます。 是が私ども無教会信者の教会であります」 


Photo_3

 

  要するに鑑三のいう無教会は、直接、聖書に参入したことにより、西洋

キリスト教のみを唯一のあり方とみるのに対し、そこから人工的な聖職

者制、教職者の資格、礼典、建物などの制度、儀礼を取りはずそうとした

ものである。教会から人工的要素の除去をはかる自然的な教会観である。

  これは二つのJにともに自己をささげようとした鑑三が、ついにたどり

いた一つの帰結でもあった。 

  すなわち、西洋より渡来したキリスト教に入信したことにより、日本人

から責められたばかりでなく、鑑三自身にも、一種の日本への背反という

うしろめたさが作られていた。

  それが、キリスト教から、西洋臭さを可能なかぎり除くことは、いくらか

でも日本への背反という重荷を軽減するものだった。

 

  無教会主義キリスト教は、キリスト教の真髄を少しもそこなうことなく、

しかも、愛する日本にも申しわけのたつキリスト教の性格も帯びたもの

だった。

  無教会主義キリスト教が、二つのJにともにつかえようとした結果の

所産であることは、当然Japan の視点のみではなくJesus の視点も

あわせもっている。 

  キリスト教の日本化の面だけでなく、日本のキリスト教化が二大旗印と

なっていることはいうまでもない。


         
                Photo_6

                                    Photo_7

  ほかに、鑑三の無教会主義形成の原因になったものとしては、札幌で

作った独立教会、アメリカで出会ったフレンド派の影響、ハートフォード

神学校で結局、キリスト教教師の資格を取得することなく帰国したこと、

種々の事件を通じ、宣教師および彼らの発言力の強い教派との間に生じ

た軋轢などがあげられる。

 

  雑誌『無教会』の第三号には「無教会主義」の言葉もみられ、しだいに

鑑三は、無教会主義キリスト教の実質を整えていく。 

  あるときは生硬に、あるときは柔軟に、鑑三は無教会主義キリスト教

の旗をふりかざしているので、その実質は、部分的でなく全体的にとらえ

る必要があるだろう。  【つづく】

 

 

 

 

 

 

2013年6月 3日 (月)

内村鑑三(20 )

   参加者群像

 

  

  夏期講談会は、翌一九○一年と一九○二年に第二回、第三回の会合

が、聖書研究社主催によって同一時期にもたれた。 

  場所も同じであったが、校名だけ、第二回は角筈女学校、第三回は

精華女学校に変更されている。(*下の写真は、第二回夏期講談会)

               Photo_10

  第二回夏期講談会の写真(*上)には鑑三とその長男祐之、講師の巌本

善治を中心にして、小山内薫、志賀直哉、倉橋惣三、浅野猶三郎(なおさ

ぶろう)、斉藤宗次郎らが写っている。 

  志賀直哉(*下の写真)は、書生の末永馨にさそわれ、その第二日目か

ら参加している。

             Photo

  このことは「内村鑑三先生の憶ひ出」をはじめ作品「大津順吉」の

「草稿」に出てくる。 

  志賀直哉はつづいて第三回の会合にも出席し、以後、一九○八(明治

四一)年ごろまで約七年の間、鑑三の聖書研究会に通いつづける。 

  志賀直哉にとり、鑑三は、祖父の直道、友の武者小路実篤(*下の写真)

とならび、もっとも影響を与えた人になる。                   



  Photo_16

  小山内薫(*下の写真は、後年の小山内)は、第一回の会合から

出席 していたが、彼が新生体験を味わうのは、この第二回夏期講談会

である。 

  初恋の女性が七月二四日に結婚して絶望、その直後の二五日に開催

された夏期講談会で小山内は「第二の誕生日」を迎えたと述べている。

                         Photo_14

  小山内が一九二三年の四月から『東京朝日新聞』に連載を始めた小説

「背教者」には、角筈の夏期講談会の状景が、実に鮮やかに描かれている。 

  これには全三回にわたり開かれた会合がいりまじって描かれてはいるも

のの、鑑三こと森川先生をはじめ、じっさいに語られた話や出来事がふん

だんにあらわれる。 

  登場する人物も、「天岡」は、前述した青山士(あきら)であり、「深田」は

古代ハス(*下の写真)咲かせることで知られる大賀一郎である。 

           Photo_8


  「柴田」は、やはり前に述べた児童心理学者で東京女子高等師範学校

教授になる倉橋惣三、「南」も東大教授になる西沢勇志智である。「山田」

で登場するのが小山内薫本人である。 

  小山内は、夏期懇談会のあと、これまた一九○六年ごろまで、約七年間

にわたって、鑑三のもとに通い、一時は鑑三の家族とともに鎌倉で夏を過

ごした時もあるほど目をかけられた。



  第三回の夏期講談会の写真には、鑑三と長男祐之、講師の大島正健を

中心に、右の述べた青年たちのほかに、海保竹松、鹿子木員信、太田十

三男(とみお)、石橋智信、魚住影雄(折蘆)たちの顔が見え、さらにただ

一人軍服姿の有島武郎(*下の写真)が立っているのが印象的だ。

                      Photo_4

 

  有島武郎が、鑑三をはじめて訪ねたのは一八九七(明治三十)年のこと

であり、その後『東京独立雑誌』などを愛読、一九○一年には鑑三たちの

創立した札幌独立キリスト教会に入会している。 

  第三回夏期講談会の開催のころ、たまたま、一年志願兵に入隊中であり、 

兵舎から参加したのだった。有島と鑑三との関係についてはのちに、もう

一度述べることになるであろう。

 

  四   平和の道 

 

  『聖書之研究』
 

 

   聖書雑誌

 

 

  『東京独立雑誌』の廃刊のあと、ただちに鑑三が、雑誌『聖書之研究』を

創刊する決意を固めたことは、『東京独立雑誌』の最終号(七二号、七月

五日)に、『聖書之研究(*下の写真)発刊の広告を出していることでわ

かる。

           Photo_5

            


  この早わざは、かねてアマスト大学在学中より、『聖書之研究』という名

の雑誌をいつかは公刊したいとの希望を胸に秘めていたためだった。

  そのすばやい決断に反して、第一号の創刊は、すんなりとはかどらなか

った。

 それは、八月中旬に信州を訪れた鑑三が、とりあえず上田を拠点として

直接伝道に出ることを定めたからだ。

  それほど鑑三にとって、直接伝道の思いは断ちがたいものだった。

ところが、それを決行する直前になり「思いも依らぬ故障」が生じ、信州行

きは実現できなくなった。その「故障」が何かはわかっていない。



  こうして、ふたたび鑑三は、『聖書之研究』の創刊に全精力を尽くした。

直接伝道に代わるものとしては聖書研究所を設け、それをキリスト教の

教師の養成所にする計画をたてた。

  聖書研究所の構想は、その京都の在住して、月曜日にキリスト教教義

学校を開いていたころより描かれたものだった。鑑三の当時抱いた最大

の夢の一つであった(一八九六年一月十四日付ベル宛書簡)。

  一九○○(明治三三)年十月三日、『聖書之研究』の第一号(九月三十日

付)がついにでき、書店の店頭にならんだ。

  その冒頭で鑑三は、『東京独立雑誌』との相違を、高らかに「宣言」の

かたちで、こう述べている。

  「法律(おきて)はモーセに由りて伝わり、恩寵と真理はイエス・キリスト

に由りて来れり(約翰〔ヨハネ〕伝第一章十七節)

  『聖書の研究』雑誌は『東京独立雑誌』の後身なり。彼なる者は殺さんが

為に起こり、是なる者は活かさんが為に生まれたり。彼なる者は傷つけん

が為に剣を揮い、是なる者は癒さんが為に薬を投ぜんと欲す。

  責むるは彼の本分なりしが、慰むるは是の天職たらんと欲す。義は殺す

者にして愛は活かす者なり。愛の宣伝が義の唱道に次ぐべきは正当の

順序なり。

  『聖書之研究』雑誌は当(ま)さに、この時において起こるべきものなり」
   


           



  ここに掲げられたヨハネ伝一章一七節の言葉が示すように、『東京独立

雑誌』が「義」を説くモーセの律法ならば、『聖書之研究』は「愛」を伝える

キリストの福音であると鑑三はみている。

  前者が旧約の時代ならば、そのあとに後者による新約の時代がくるの

は、ものの順序としている。

  殺さなければやむことのない人の正義でなく、叩いてやわらぐ神の正義

こそ永久の平和をもたらす道であるとも言っている。

  『聖書之研究』とはいうが、ただの講義録でもなければ、高所より一方的

に教えを説くものでもない。

  今日に活きた書として聖書を読み、これによって癒された人間が、その

喜びを他に分かつものである、との立場を鑑三は表明している。





   天職


  『聖書之研究』の創刊号の表紙には、上段に横書きで’THE  BIBLICAL 

STUDY.'と英文で書かれ、その下にラテン語の’Pro  Christo et  Patria.'

さらにつづいて、この語の日本語訳「基督の為め国の為め」の文字が刷ら

れている。

  'Pre Christo  et  Patria.'の言葉が若き日からのモットー二つのJの表現

であることはいうまでもない。

  創刊号では「感話」「説教」、聖書の「講話」と「研究」など、全八○ページ

のうち、約五○ページ分を主筆の鑑三が執筆している。

  あとは、田村直臣、住谷天来、吉野臥城、飯泉規矩三の寄稿と黒木耕一

の夏期講談会記録などからなっている。

  後日、鑑三が、繰り返し述べているように『聖書之研究』は日本で最初の

聖書雑誌であり、それが売れるとは思いもよらぬことだった。

  それだから、初号の刊行よりひと足先に、朝報社に客員として復帰して

いたのだった。

 これは、社長黒岩涙香の要請に応じたかたちであるが、鑑三の方からも

「社会改良の秘訣」がわかったから『万朝報』に書きたいとの申し出もあっ

た(周六手記「内村鑑三氏再来す」一九○○年九月十五日『万朝報』)。

  鑑三の「帰来録」は、『万朝報』の九月一八日号に掲載され、今度は日本

文を中心とした文章がたびたび掲げられることになる。



  当初、それほど期待をかけなかったはずなのに、『聖書之研究』の売れ

行きは、意外に好調だった。

  発売して三日後の十月六日に書かれた宮部金吾宛の書簡のなかで、

三千部の初号が、ほとんど品切れとの嬉しい悲鳴を伝えている。

  それは、『東京独立雑誌』にまさるとも劣らぬ売れ行きであり、創刊号に

関しては再版を出すほどだった。

  このため、初号で生徒を募集して十月に発足したばかりの聖書研究所

を、『聖書之研究』の第二号では、家屋の狭いことと、所長鑑三の多忙と

を理由に、生徒募集中止の広告を出している。

  聖書研究所の実質的な閉鎖案内とみてさし支えないものだ。十一月

十五日付で再版された初号には、聖書研究所の広告はもう不必要の

ためか消えている。(*下の写真は、『聖書之研究』  )

                                Photo_12

                
  この後、『聖書之研究』は、一時二千部ほどに発行部数の下ることがあ

ったが、晩年には四千数百部を数えるほどになり、鑑三の死にいたるま

で継続される一生の中心的な仕事となった。

  鑑三は、ようやく長い間、求めていた天職に出会ったといえるであろう。

しかし、前述したように、信州での直接伝道が実現していたならば『聖書

之研究』の発行はなかった。

  鑑三本来の夢は、あくまで『聖書之研究』という雑誌の発行にはなく、

直接伝道におかれていたのだ。

  この意味では『聖書之研究』の刊行をもって鑑三が、宿願の天職に到達

したとみるのは少し早すぎる。

  もし『聖書之研究』の刊行を、鑑三の天職の果実とするならば、その花に

あたるのは直接伝道である。

そうなると、花も実もある天職への到達は、『聖書之研究』とあわせて、

自宅で直接伝道としての聖書研究会が始められるときを待ちたい。 

【つづく】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

            



                      

 

2013年6月 1日 (土)

内村鑑三(19 )

  夏期講談会

    読書会

  『東京独立雑誌』は廃刊になったが、実は困った問題が起こった。 

それは、この夏、同誌の読書会が予定され、参加者の募集が始まって

いたことだ。

 

  会場は、鑑三が校長を勤めていた女子独立学校、会期は七月二五日

から八月三日までの十日間。申し込み締切りの七月十日までに参加予

定者は百十名を越していた。

  やむなく鑑三は、この会合を、自分の責任のもとに開く夏期講談会に

きりかえた。

 

 幸い、講師には、友人でもあり『東京独立雑誌』の寄稿者でもあった

大島正健、松村介石、留岡幸助らが出演して助けてくれることにきまった。

 (*下の写真は、後年の松村介石〔本名:すけいし〕と

留岡幸助)

                 Photo_6


         Photo_7



  夏期講談会の形式は、これまで鑑三が、度々出席していたキリスト教

青年会の夏期学校にならったものといえる。

  夏期講談会は予定どおり七月二五日に、会場の女子独立学校校主

加藤勝弥の開会の祈祷をもって幕を開けた。初日の出席者は七六人で

あった(*下の写真は、第一回夏期講談会の参加者)

           Photo_8
 

  最後の八月三日にいたる十日の間、多いときは八一人、少ないときでも

七二人の出席がみられた。 

  連日、午前中には、必ず鑑三の講演があった。鑑三の話は、コリント書、

ピレモン書などによる聖書の話、エルウィンの精神薄弱児養護院院長

カーリンの回想、クロムウェルの話、歴史の研究法などである。

 

  これに加えて、留岡幸助、大島正健、松村介石らの講演が一日にだい

たい一人はおこなわれた。そのあいまには新井薬師や、巣鴨にあった

留岡の家庭学校まで遠足とか見学に出かける楽しいひとときもあった。

(*下の写真は、若き日の留岡幸助)

          Photo_9



  参加者のうち大半が女子独立学校内に宿泊して参加していたので、

夜は、鑑三をはじめとする講師たちを囲んで自由な談話会が開かれた。 

  ある日の午後の会合では、鑑三が編著『愛吟』のなかから、朗々と詩を

吟詠し、参加者たちに、世の常の会合とは異なる高尚な集まり気分を

ひき起こしたが、全期間とおして、そんな結構づくしではなかった。

 

  会の途中の七月三一日には、旧東京独立雑誌社の社員五人(佐伯好

郎、西川光次郎、中村諦粱、坂井義三郎、安孫子貞治郎)が、猛々しい

見幕で押しかけてきて、鑑三との談判で息づまるような光景もみられた。

 

 

  失敗の一因




  この夏期講談会に、長野県穂高で私塾研成義塾を始めたばかりの

井口喜源治が、友人の萩原守衛(のちの彫刻家、碌山)とともに参加し

ていた。

 

  井口の「第一回夏期講談会参加記」(『井口喜源治と研成義塾』)によ

ると、七月二八日の日記のなかに、注目すべき記述がある。 

  井口は、その日の講談会に出席したあと、明治女学校の教師小此木

(忠七郎)を訪ねている。そこで、小此木の話として、次の言葉を伝えて

いる。

 

  「内村氏失敗の原因は、女生徒に実業を課するとて、洗濯煮焚(にたき)

等の仕事を課することあまり多きより生じたるなり。(*下の写真は、イメー

ジ)        

          Photo_10


  学校時代の生徒に、あまりかかることを課するも生徒は満足し難きも

のなれば、ついに背き去るに至るは必然なり」
 


  すなわち、この言葉の中には、『東京独立雑誌』の廃刊の理由が語ら

れていないであろうか。女子独立学校は、もともと、労働しながら学ぶこ

とを特徴とする学校だった。

 

  それが、洗濯煮焚などにおよんだうえに、過重になったことが、鑑三

の失敗の原因と小此木はみているのだ。 

  鑑三と対立した旧社員たちは、同社解散後、雑誌『東京評論』を創刊。 

その初号には、「東京独立雑誌社分裂に就いて」という記事が「附録」に

組まれている。

 

  それによると鑑三のいう女子独立学校の「公的行為」(本書九九ページ

参照)について述べるとなると、どうしても鑑三の「私事」または「失行」に

わたる。 

  あえてそこまで語る気はないと、妙に歯に衣着せた言い方になっている。



  この「私事」または「失行」が、佐伯好郎が語ったような前述の事件で

あるなら、社員たちはすぐ飛びついてきたことだろう。 

  性的スキャンダルは、日ごろ、日本の上流階層の性的退廃をはげしく

攻撃していた人物を、一撃のもとに葬りさるのに最強の武器となったに

ちがいないからだ。

 

  だが、それに踏み切れなかったのは、やはり、その事件が、それほど

確かな根拠があったわけではないことを物語る。 

  そうなると、女子独立学校において鑑三の「公的行為」とは、小此木の

いう女生徒たちに課した労働が多過ぎ、「洗濯煮焚」にまでおよんだこと

であろう。

 

  一年後の鑑三に「昨年余の女生徒が悉く余を去りし時」という述懐が

あるのは、このあらわれで、生徒の間にまず不満がつのったことだ。 

  もし「私事」にわたることがあったとするなら、それは労働としての「洗濯

煮焚」が、鑑三一家の「洗濯煮焚」まで含むことになったためではないか。 

  生徒たちが自分たちの「洗濯煮焚」をするのを、不満にすることは、時代

がら考えられないからである。




  内村くずれ
 

 

  旧東京独立雑誌社社員による鑑三のつるしあげという緊迫した一幕を

織り込んだこの講談会は、参加者たちに強烈な印象を与えた。 

  それでなくても、個性のきわだった鑑三とともに、十日間の寝食を共に

したのだ。 

青年たちはいずれも心に深い刻印を押されて会を終えている。 

  ほとぼりの容易にさめやらぬ参加者約七十余人をもって、この秋には

独立苦楽部(クラブ)が結成され、毎月一回会合をもつようになった。

 

  夏期講談会参加者が七月二六日に撮った写真(*上の写真)には、

中央に鑑三と大島正健、住谷天来が坐り、この三人を囲むようにして六三

人の人物が写っている。 

  そのなかには、のちに新劇の父といわれる小山内薫、パナマ運河開削

の技師青山士(あきら)、前述したのちの彫刻家萩原碌山に井口喜源治、

東京帝国大学教授になる西沢勇志智、児童心理学者となる倉橋惣三、

長崎高商の名物教授になる武藤長蔵らの顔がみえる。

  写真にこそ写っていないが、岡山県津山の森本慶三、長野県飯田の社

会教育家になる小林洋吉たちも参加していた。

 

  参加者の職業別では、学生が、やはり多いには多いが、半数にまでは

達していない。あとは、農業、養蚕業、教員、商業などがつづいている。 

  出身地は、文字どおり北は北海道から南は九州にまでおよんでいる。 

このように、地方で農業や養蚕業を営んでいる青年たちが、相当みられる

のが目をひく。ここには、『東京独立雑誌』の読者層の縮図が見られる。

  この夏期講談会に、はるばる丹波国何鹿(いかるが)郡志賀郷(しがさと)

(現在の京都府綾部市)から参加した青年に志賀真太郎がいた。

 

  一年前に一度鑑三を訪ねてきたことのある青年であり、一八七二

(明治五)年生まれであるから、二七歳である。夏期講談会の十日間が、

志賀の一生に与えたものは何であっただろうか。



  志賀は、このころ村役場の書記をしながら、農業に従事していた。
 

一九○二年から同村の養蚕小組長になり、つづいて助役、やがて一九

○九年から四年間、村長に就任した。

  村長時代の逸話として、小さな村にはりっぱ過ぎる小学校を建て、府下

巡視の知事に村長たちが叱られた話がある。

  鑑三が聞いたら、さぞかし喜んだことと思う。この村には同じ年に図書館

も作られている。人口わずか三千数百人の田舎の村に、早くも明治の末年

に図書館があるということは、非常に珍しい。志賀が村の文化、教育に力

を注いだあらわれである(*下の写真は、イメージ)
                       
          Photo_11


  志賀は役場を退職したあと、表具師などをして身をたてていたようである。 

ところが、村に不相応なりっぱな学校の建築にみられるように、個人の生

活の面でも、志賀は金銭的にはまったく淡白であったらしい。 

  田畑は次々と人手に渡り、生活は困窮をきわめた。そのうちに村に居ら

れなくなり、大正の末ごろ、いつのまにか村から姿を消してしまった。



  その行方を少し追うと、晩年は仏道に志し、愛知県のある海浜にある村

の堂に住みつき、浜辺から小石を拾ってきては境内に並べ、その石の言

葉に耳を傾けたり、村の青年たちに話をしたりする生活を細々としていた

という。一九三七(昭和十二)年に世を去っている(*下の写真も、イメー

ジ)

               Photo

  志賀真太郎の一生は、その晩年こそ仏の道に進んだが、若き日に出

あった鑑三の教えにのっとって生きた一生といってよい。

 

  このように鑑三に傾倒した地方の出身者には、地域の文化、教育、福祉

に尽くす一方、やがて産を失い、この世的には没落していく人々がおおい。

いわば「内村くずれ」である。 

  この世の目には恵まれない一生をたどるのだが、「後世への最大遺物」

で語られたように、それぞれ高尚な生涯を歩んだのだ。 【つづく】

 

 

 

 

 

 

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