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2013年6月22日 (土)

内村鑑三(34)

   排日法案


  このように関東大震災の対応では、案外冷静だった鑑三であるが、こと

がナショナリズムという情念をゆさぶる問題となるとそうはゆかなかった。

晩年の鑑三の血を異常にさわがせた排日法案反対運動が、その見本で

ある。

 

  米国の排日法案反対の声は、一九一三(大正二)年に一度あげたことが

あったが、一九二四(大正一三)年、米国大統領クーリッジ(*下の写真)

の排日法案署名は、それをなおいっそう高くあげさせることになる。

            Photo

  反対のためには、三十数年前から絶交状態にあった徳富蘇峰(*下の

写真)とも旧交を回復して『国民新聞』に何度も排日反対の文を寄せた。

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  『東京日日新聞』や『万朝報』にも積極的に反対意見を書き送っている。 

松沢弘陽氏が指摘したように、珍しいことには政治家たちとも会談している。



  排日法案反対の気勢は、徳富蘇峰との旧交を回復させたり、政治家と

会見させたばかりでない。日本のキリスト教会とも共同歩調をとらせ、

植村正久(*下の写真)小崎弘道などという教会側の指導者と「対米

問題」に関してしばしば協議を重ねている。

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  キリスト教徒による対米問題協議会では、この問題につき宣言書を発表

することになり、鑑三は起草委員の一人になった。 

  鑑三の作成した「宣言」案は、日本国民に対する「大侮辱」に対して毅然

とした態度でのぞむべきことを主張し、この際米国をはじめとするキリスト

教諸国との断絶を盛り込んだ過激なものだった。

 

  さすがにこれは採用されず、じっさいに発表された「宣言」では、米国民

に反省をうながすとともに日本のキリスト教徒は、その自治独立の促進に

努力を表明するにとどまった。



 日本社会一般の世論も、米国の排日法案に反対意見が沸騰した。早く

も対米開戦まで叫ぶ者がでたほどである。日本の世論の動きとは、常に

逆をたどってきたのが、これまでの鑑三の歩みであったのに、この時ば

かりは、珍しく世の大勢と足並みをそろえた。

 

  鑑三の排日法案反対論は、米国の拝金主義(*下は、そのイメージ)

物質主義、非キリスト教精神、排他性、利己心を口をきわめて攻撃したも

ので「アメリカ嫌いの急先鋒」(「対米所感」)とも受けとられた。

 その激越な論難を異常とみるキリスト信徒も少なくなかった。

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  ところが、日本社会一般の反対感情と歩調を同じくしながら、鑑三が 

わずかに相違をみせたのは、米国の「無礼」に対しては憤激はしても、 

平和協調による関係の修復は閉ざしていなかったことである。

  一九二六(大正一五)年三月から、鑑三は朝報社時代の同僚山県

五十雄と英文雑誌『ジャパン・クリスチャン・インテリジェンサー(The

Japan  Christian  Intelligencer』を発行した(一九二八年二月廃刊)。

 

  これも、キリスト教は、なにも欧米から教えられるものばかりでなく、

日本にも、日本のものとなった仏教があるのと同じく、一個の独立した

キリスト教のあることを、世界に訴えようとしたものである。

 

  この雑誌創刊の考えが、排日法案反対運動のころより生じているこ

とからもわかるように、ひとしく根強いナショナリズムの基盤から出た

ものだった。





 
宇宙完成の祈り



 世界伝道協賛会

 

 

  関東大震災で聖書講演会場だった大日本私立衛生会館を失ったあと、

聖書研究会は、古巣の柏木の今井館付属聖書講堂(*下の写真)に戻

っておこなわれた。

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   一時、女子学院や日本青年館で開かれたこともあったが、手狭な聖書

講堂を改築したり、講演を午前と午後の二部に分けたりして、数百人の

聴衆の要望に応じた。

 

  鑑三は、一九二二(大正一一)年十月には世界伝道協賛会を創設して、

世界の伝道事業に貢献する組織を作っていた。 

  日本のキリスト者が、世界伝道に協賛しようとする試みの最初であると、

みずから語っている。 

 

  キリスト者になったということは世界の市民になったのであり、世界のた

めに尽くすことが自国のためにも尽くすことになるとみたためだった。 

  まず自分が完成してから、そのあとで世界のために尽くすという当時

流行の「修養」に似た考え方はとられなかった。

 

  ここにも、救済が自分のりっぱさとか善行のかたちでただちに現われ

るとの思想は見出されない。 

  世界伝道協賛会は毎月一回開かれ、世界の伝道のために祈り、献金

が捧げられた。

 

 世界の人のために何ひとつできないと思う者には、世界の人のために

祈ることが勧められている。 

  世界伝道協賛会に集められた献金は、一九二二年の暮に、まず、中国、

台湾、南洋諸島の伝道を援助する目的で送られた。



  台湾では、この年からふたたび山地住民に伝道を開始していた井上伊

之助(*下の写真:写真は、後年の井上)のもとに届けられた。 

             Photo_7
 

   井上は一九○四(明治三七)年ごろ、鑑三の講演を聞いたことから『聖

書之研究』の熱心な読者になっていた。

  一九○六年、台湾で仕事に従っていた父が、山地住民に襲われ殺害

された。

 

 しかし、井上は、この事件を機会に山地住民への伝道を決意、一九一

一年から一九一七年まで、幾多の困難をおかして医療伝道にあたってい

たのだった。

  中国では、イギリス人宣教師ハドソン・テイラー
(*下の写真)によって

設けられた伝道会社があり、そこへ送られた。 

                        Photo_8

  同伝道会社では、そのもとで働く中国人医師の給料として用いることを

決定、のちにさらにもう一人の中国人医師の給料に役立てられた。

 【つづく】

 

 

 

 

 

 

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