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2013年6月15日 (土)

内村鑑三(29)

   ルツの死


  ルツ記


  鑑三の最初の子供は、一八八五(明治一八)年四月十五日にタケとの

間に生まれたノブである。 

  誕生当時、鑑三は米国に留学中であり、妻タケとの関係は、籍こそ残っ

ていたものの離婚にひとしかった。鑑三は父の宜之を介して、先方に

ノブをひき渡すよう求めたが、それは実現をみなかった。

ノブは、兄浅田信芳のもとで育てられた。

 

  一九○二年の春になり、鑑三は、すっかり成長して一七歳になったノブ

とはじめて対面、ノブがあまりにも世俗的な女にみえ、いたく失望した。 

  しかし、その後、ノブは父の感化を受けて同じ信仰を持つようになり、

小学校教師を勤めたあと日永初太郎と結婚、一九六七年にその一生を

終えている。



  「不敬事件」後若くして死んだかずには子供がなかった。一八九二年

の春ごろ、築山もとという女性と一時結婚したとみられるが、この結婚に

ついては不明なことが多い。 

  終生連れ添うことになるしづことの間には、二人の子供が生まれている。 

一八九四(明治二七)年三月一九日生まれの娘ルツと一八九七(明治

三十)年十一月十二日生まれの長男祐之である。ルツの生まれたのは、

生活のもっとも緊迫した京都在住時代だった。 

 

  名前をルツと名づけたのは、旧約聖書のルツ記にちなんでいる。ルツ

の生まれる三か月前に鑑三は、日本人による最初の聖書註解書ともい

われる小冊子『貞操美談 路得(ルツ)記』を刊行したばかりであった。 

  旧約聖書ルツ記のルツは、異邦人の女であったが、その夫の亡きあと

も、姑ナオミによくつくし、貧しい暮らしを共に支えあった女性である。

                     Photo

  食物をえるため、麦畑で落穂拾いをした話は、画家ミレーの絵にも描か

れて親しまれている(*この下の絵画)

                   Photo_2

          Photo_3



 

   ルツは鑑三好みの女であり小冊子の方には、鑑三の理想とする女性像

が投影されている。 

  娘の名にルツを選んだことは、父親の熱い祈りを感じさせられる。 

 

  愛娘の死 

 

  ルツは、写真でわかるように、父の鑑三と実に顔だちのよくにた娘だった。 

鑑三も、これを認めている。それだけに可愛くてたまらなかったようだ。

気持ちのやさしい普通の女の子として育てられた。

                       Photo_4


  それが、女学校を一九一一(明治四四)年の春に卒業したあと、にわか

に病床に就くことが重なった。高熱がつづき、病気の確かな原因はつかめ

なかった。今日からみると結核の疑いが濃い。 

  ルツの病状は時々悪化し、同年十月二二日に「デンマルク国の話」がな

されたのは、看病でいつもの聖書講義の準備ができなかったためだ。

 

  近くの東洋宣教会の教師笹尾鉄三郎と、鑑三は親しく往来する仲だった

が、ある日笹尾を訪ねてきた鑑三は、笹尾に向かい、せっぱつまった

調子で、「娘ルツの、生きるも死ぬるも、あなたにまかせる」と言ったこと

もある。 

 

  その年の暮ごろより、ルツの病状は、頻々(ひんぴん・・・「しばしば」の意)

と重大な状態におちこんだ。 

 十二月一日には、鑑三の家で一時働いたことのある少女高橋ツサ子

が故郷の花巻で死去し、鑑三は葬儀に参列した。その死はルツには

内緒とされた。

 

  こえて翌一九一二(明治四五)年一月に出された『聖書之研究』には、

何度も復活、来世、希望のことが述べられ、死は「生命の一状態より他

状態に移ること」にすぎないと断言するような言葉がみられた。

 

  聖書のなかから「少女(むすめ)は死にたるに非ず寝たるのみ」(ルカ伝

八章五二節)との言葉がひかれている。 

  いくら鑑三といっても人の子の親であることに変わりはない。我が子の

病気の癒されるのを願って、その祈祷は熱心に捧げられていた。 

  しかし、それにかかわりなく、ついに一九一二(明治四五)年一月十二日

の早朝、ルツは息をひきとった。 
 


  臨終の三時間前、鑑三は、ルツに洗礼を授け、聖餐にあずからせた。

病み細った手で盃を飲みほしたルツは、喜色に満ちた顔をし鮮やかな

声で、 

  「感謝、感謝」 

をくり返した。ルツが遺した最後の言葉は、 

  「モー往きます」 

との微笑をたたえながらの一声だった。 

  この光景を目のあたりに見た鑑三に「霊魂不滅は明白に証明」された

のだった(一月二十日付青木義雄宛書簡)。

 

  親友の宮部にあてた一月二三日付の手紙ではこう言う。 

  「娘の死状、誠に美しく、これ死にはこれ無く、transitionにこれ有り候。

霊魂不滅はほとんどdemonstrated fact なりと存じ候。これcreed には

これ無く、factにこれ有り候」

 

  一月十三日におこなわれたルツの葬式を、鑑三は永遠の別れの葬式

とは認めず、これをルツの天国に嫁ぐ結婚式であるとよんだ。 

  柏木の聖書研究会に通いだしてまだ日の浅い矢内原忠雄は、はじめて

出たキリスト教の葬式でこの言葉を聞き驚いた。 

  さらに雑司ヶ谷墓地での埋葬にまでつき従ったところ、鑑三が、棺に

かける土をつかむや、その手を高くさし上げ、 

  「ルツ子さん万歳」 

と絶叫するのを目撃、雷に打たれたように立ちすくんだ。キリスト教に

入るということは大変なことだ、と身をひきしめられる思いがした(矢内原

忠雄「先生の涙」)。

 

 

  我等は四人 

 

  ルツの死は、鑑三にとって大きな打撃を与えたが、信仰思想のうえでは、

永世とか来世とか復活とかいわれる世界や考えに対する実在感をいっ

そう深めた。

 

  ワーズワース(*下の写真)の「我らは七人である」を思わせる詩「我等

は四人である」が書かれたのは、その直後のことである。 

            Photo_6

       

  我等は四人であった、 

  而(しか)して今尚(な)お四人である、 

  戸籍帳簿に一人の名は消え、 

  四角の食台の一方は空しく、 

  四部合奏の一部は欠けて、 

  讃美の調子は乱されしと雖(いえど)も、 

  而かも我等は今尚四人である。

 

   我等は今尚四人である、 

 
   地の帳簿に一人の名は消えて、
 

   天の記録に一人の名は殖(ふ)えた、 

   三度の食時に空席は出来たが、 

   残る三人は、より親しく成った、 

   彼女は今は我等の衷(うち)に居る、 

   一人は三人を縛る愛の絆となった。
 

   
   然し我等は何時(いつ)までも斯(か)くあるのではない、
 

   我等は又前の如く四人に成るのである、 

   神の箛(ラッパ)の鳴り響く時、 

   寝(ねぶ)れる者が皆な起き上がる時、 

   主が再び此地に臨(きた)り給う時、 

   新しきエルサレムが天より降る時、 

   我等は再び四人に成るのである。

 

  ここには、やがて表面化する再臨思想がうたわれている。ルツの死が、

来世と永世と復活の世界に間近く鑑三をひきつけたことは、その世界の

到来を告げるキリストの再臨を待望させることになる。



  このころ『東京独立雑誌』時代の短文を集め『独立短言』が出された。
 

これを読んだ穂高の井口喜源治は、鑑三に手紙を寄越して、近頃、鑑三

の書くものをみるに『東京独立雑誌』時代と比べると、あまりにもこの世

離れをしている。 少しは国家の前途に対し、獅子吼するような預言が

あってはどうかと言った。 

  これを読んだ鑑三は、自分には、もはや、キリスト、天国、復活、永世の

ことを除いてなにも語ることはないのだと答えている(「闇中の消息」)。

 

  ルツの死を迎えるまでの鑑三は、次代の日本をになうような俊秀たちが、

多くその門に投じ、これらの青年を育てることをとおして、「富国強兵」とは

異なる聖なる日本を建設しようと望んでいた。 

  ところがルツの死は、その矢先に出会った我が家の若木の、文字どおり

夭折だった。

 

  「デンマルク国の話」で語ったような樹木とはちがって、人を育てることの

むずかしさを、鑑三はしみじみと知らされたことであろう。

  世直しについて、鑑三は徐々に、それが人の手により実現するものでは

なく、神の意思によることを確信するようになってはいたが、その神の意思

を受けて働く人が、必ずしも育てきらぬうちに散ってしまう悲痛を味わされた

のだ。 

  ルツの死去した秋、鑑三は次の歌を詠んでいる。 

   我が家の庭の白百合散りてより  一層淋し秋の夕暮  

  【つづく】

         Photo_5

 

 

 

 

 

 

 

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