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2013年6月14日 (金)

内村鑑三(28 )

  秋たけなわ


  新しい柏木の地と建物に住み『聖書之研究』は百号を数え、内外の青年

たちに仰がれ、鑑三のうえには、やっとささやかながら、波瀾の少ない、

充ち足りた日々が訪れていた。鑑三のお気に入りの次の短文ができたのも、

このころのことである。 

  「秋酣(たけなわ)なり。 

  コスモス開き、茶梅(さざんか)咲き、木犀匂い、菊花薫る。 

  燈前夜静かにして筆勢急なり。知る天啓豊かにして秋酣なるを」

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  これは、よほど会心の作であったとみえ、できるとすぐに、この原稿を

持って食堂にあらわれ、大声で読み上げると「どうだ、どうだ」と家族に

せまったと伝えられている(内村祐之『鑑三・野球・精神医学』)。

 

  一○四号の巻頭に掲げられるのにさきだち、千葉の教友海保竹松にも

書き送られている。 

  『聖書之研究』に掲載された「秋酣なり」の直後には「人生の四期」と題す

る文が収められている。人生を春夏秋冬の四期にたとえたものであり、

春と夏とが過去のもの、冬が未来のものとして述べられているのに対し、

秋は今訪れたものとして語られている。

「人生の秋は来れり。感涙滴々、顧み、黙し、謝し、祈る。実は識らざる

間に熟し、事は企てざるに成れり。寂寥に感謝伴い、孤独に祝福溢(あふ) 

る。秋は実(じつ)に静かなる楽しき時期なり」

 

  これは、あながち、季節が秋であることばかりによるものではなかろう。

鑑三自身、年齢四八歳を数え、おのずから静かに実る人生の秋酣の思い

があったのだ(*下の写真は、講演中の内村鑑三)

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  柏会 

 

  やがて、その翌年の秋には、聖書研究会の性格を少なからず変えること

になる一団の入会をみた。 

  それは、第一高等学校で校長新渡戸稲造のもとに読書会グループを

形成していた学生たちが、新渡戸の紹介状を持って鑑三の門に投じてきた

ことである。それまで柏木の聖書研究会に出席していた一高生は、天野貞

(*下は、後年の天野貞祐)、黒木三次ら二、三人にすぎなかった。

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  黒木三次も、もとは、学習院時代の友人志賀直哉に導かれて通っていた

のだが、聖書研究会の有様を、新渡戸の読書会で話したところ、会員のな

かに鑑三の会にも出たいとの願いがたかまったのだった。 

  新渡戸の読書会には、現役の一高生だけでなく、卒業して東京帝国大学

や京都帝国大学に進学していた学生たちも顔を出していた。



  このころ柏木の聖書研究会のうちには、東京教友会が存在していたので、

この新米の一団は、あらたに鑑三によって柏会となづけられた。 

  一高の校章である柏葉と柏木の地名とをかけた名であろう。十月二九日

に第一回の柏会の会合が開かれ、明治末年には、会員数は二十数人に達

している。

 

  柏会のおもだった会員の名前を挙げよう(カッコ内はのちの職業)。 

  岩永祐吉(同盟通信社社長、作家長与善郎の実兄)、金井清(諏訪市長)、

川西実三(東京府知事、日本赤十字社社長)、黒崎幸吉(伝道者)、沢田廉

三(国連大使)、膳桂之助(実業家)、高木八尺(やさか・東大教授)、田中耕

太郎(文部大臣、最高裁判所長官)、田島道治(宮内庁長官)、塚本虎二(伝

道者)、鶴見祐輔(作家、衆議院議員:下の写真)、前田多門(文部大臣)、

三谷隆正(一高教授)、森戸辰男(文部大臣)、藤井武(伝道者)、矢内原

忠雄(東大総長)。 

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  東大法学部の卒業生が多いために、このほかにも外交官や司法官、ある

いは他の官僚になった人が相当いる。 

  これらの人々のなかから、とくに戦後、日本の文部大臣が、前述の天野

貞祐を含めて四人も出ていることが目をひく。

 

  角筈時代に一年ほど通ってきた安倍能成(*下の写真は、後年の安倍

能成)を入れると五人になる。「不敬事件」によって戦前の日本の教育界

からもっとも危険視され、忌避された鑑三の門から、世がかわって戦後に

は、国家の教育の最高責任者の地位に五人も就く人が出たのだから皮肉

である。 

              Photo_5


 

  信仰上、必ずしも鑑三と同一の教えを保ったとはいえないが、いずれも

一種のバックボーンの持主だった。この一時期を除くと、その後文部大臣

はたいてい政治家で占められるようになってしまった。

 

 

 

    白雨(むらさめ)会

 

   柏会に属した一団は、鑑三の門に投じたあとも、依然として新渡戸に、

職業のことをはじめとして世話になる機会がたびたびあり、新渡戸を一生

の師とすることには変わりなかった。彼らは、鑑三と新渡戸の二人をともに

人生の師としたわけだ。

 

  ところが、同じ師といっても、おのずから機能の相違があった。 

鑑三が人生の「父」としての師であるとするなら、新渡戸は人生の「母」と

しての師であった。このややタイプの異なる二人の師にともに導かれた

ところに、青年たちの成長があったといってよい。 

 

  柏会が結成された二年後の秋、『聖書之研究』誌には、その読者なら、

だれでも聖書研究会に出席してよいことが告げられた。 

  これを目にしてさっそく十月一日から来聴したのが、矢内原忠雄や坂田

祐らの青年たちである。

 

  矢内原は、柏会に加入したが、坂田祐、南原繁(*下の写真は、後年

の南原繁)らは、別に会を作り、それを、翌一九一二(明治四五)年一月

三十日より発足させ、鑑三により白雨会と命名された。

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  それは坂田らが、はじめて鑑三の聖書研究会に出席したとき、旧約

聖書の詩篇六五の講義があり、そのなかに、硬い大地をやわらげる神の

めぐみの「白雨(むらさめ)」のことが出てくるためだった。 

  白雨会会員の南原はのちに東大総長に、坂田は関東学院院長になり、

ヘボンの研究家となる高谷道男も出た。


  信仰と樹木

 

  角筈以来の教友会に、柏会と白雨会の会員が加わり、このころの聖書 

研究会には、毎回、約数十人の聴講者があった。

  これらの青年たちを前に鑑三の語った講演のなかで、青年たちの胸に

とくに深く刻み込まれたのは、一九一一(明治四四)年十月二二日の日に

語られた「デンマルク国の話」である。

 

  「デンマルク国の話」は、デンマークが、一八六四年のドイツおよびオー

ストリアとの戦争に敗れ、シュレスヴィヒ・ホルスタインの両州を失ったも

のの、ダルガス父子の不屈の信仰と努力とにより、残された荒地に樹を

植え、その地をみごとに美しい緑地と化した話である。

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  鑑三は、あとで、これに「信仰と樹木とをもって国を救いし話」との副題を

つけた小冊子を作り、配布した。鑑三のこの本は広く読まれることとなり、

日本の山林のみならず朝鮮の山々にも、何十万本、何億本もの植林を

よぶことになった。 

  「デンマルク国の話」は、現実の樹木を植える話であるが、柏木の地に

集まった若い人々の魂に、鑑三は、その愛する日本のため、信仰という

心の樹木を植え、水を注ごうとしたのだった。  【つづく】

 

 

 

 

 

 

 

 

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