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2013年6月13日 (木)

内村鑑三(27 )

  社会主義


  その翌月には、社会主義者福田英子(ひでこ:下の写真)の聖書研究会

への出席を拒絶している。

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  志賀直哉の思い出によると、ある日講義が終わって祈りを済ませたあと、

鑑三は、ふいに彼女の方を向き、小声で「貴女はこれから来ないように」と

囁いた。

 

  そして返事も待たずに出て行った。彼女は、ただ軽く頭を下げ、それ以後

出席しなくなったという。

  しかし、福田英子は『世界婦人』に「内村先生に上(たてまつ)る書」(同年

三月十五日、六号)を書き、鑑三は、キリスト教と社会主義とはあいいれぬ

というが、心界のみならず物界の貧者弱者を救済しようとする社会主義は、

神の摂理の一現象ではないのか、いや、むしろ現状では心霊上の救済に

勝って物界の救済をはかることが、神の真意にかなうものではないかと

述べ、鑑三の教示を乞うている。



  これに応じて直接答えた鑑三の文章は見当たらないが、約一か月後に

刊行された『聖書之研究』(八七号)には「社会主義」と題して次の一文が

ある。 

「基督教に似てしかも最も非なる者を今日我国において唱えらるる社会

主義なす。 

  これ聖書に所謂(いわゆ)る不法の隠れたる者なり。これに敬虔なし、

恭順なし、平和なし、これ単に不平と頑抗と破壊の精神なり、これ僕 

(しもべ)を主に叛かせ、弟を兄に叛かせ、弟子を師に叛かしむるの精神 

なり。 

  服従を絶対的に拒絶せしむる悪魔の精神なり。余輩は永き忍耐の後

にこの断を発せざるを得ざるに至りしを悲しむ(帖撤羅尼迦〔テサロニケ〕

後書二章七節)」



  鑑三のこの一文は、かつて、社会主義者たちと親しく接していた人間と

しては、例になくきびしく、また感情的である。 

  これが、福田英子破門事件と密接な関係をもつものであり、それをもとに、

鑑三にあびせられた社会主義者たちの攻撃に応ずるものであることについ

ては、松尾尊(たか)ヨシ氏の見方とまったく一致する。

 

  鑑三は、そういう出来事のなかに、社会主義者の本性、つまり「不法」

み、帝国主義者とは異なるものの同じく戦いを好む体質を認めたのでは

ないか。 

  それだけに、鑑三は、角筈聖書研究会と『聖書之研究』の読者からなる

教友会に、真に「霊」の兄弟としての交わりを期待し、言行ともに平和な

人々の育成をはかろうとしたのだ。

  一九○五年の秋に、鑑三のなそうとした「三大事業」の一つ「友人の団

合」の具体化として教友会をみたが、教友会は、残る二つ「聖書の新研

究」と「平和主義の唱道」にもかなったものだった。

 

 

  柏木の青年たち 

 

  今井館

 

  クヌギ林に囲まれた角筈の地を去り、同じ淀橋町内の芋畑のなかに

ある柏木に移ったのは一九○七(明治四十)年十一月のことだった。 

  非戦論で朝報社を退社してからの鑑三の生活は、『聖書之研究』を

刊行する以外には、角筈にひきこもり、少数の青年たちに聖書を説く

のみで、さながら村の聖者のようにひっそりと生きていた。

 

 鑑三自身、外部の講演や執筆の依頼はひき受けず、隠れた生活を送っ

ているつもりであったし、ひとからも「角筈の隠者」とか「角筈の聖者」と

呼ばれたりした。 

  この生活態度は、柏木に移っても維持されたが、青年たちに聖書を説

く建物は少し広くなった。それは、一人の女性より建物の建築費の寄贈

があったためである。



  大阪の香料商に今井樟太郎(くすたろう)という人物(*下の写真)

いた。若いころ神戸の組合派のキリスト教会で受洗した信者である。

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  『東京独立雑誌』を愛読し、それが解散におちいったときには、さっそ

く鑑三に厚い同情の手紙を寄せ、失意の鑑三に大きな慰めを与えた。

  鑑三は、「暗夜の中の一つの星」だったと述べている。二人がはじめて

出会ったのは、一九○○年の秋に鑑三が京都で講演をしたときである。

そのときの鑑三の講演に、今度は、事業不振で苦境に立っていた今井

の方が励まされた。

 

  今井は、それ以来立ち直り、事業も好転した。しかし、それもつかの間

で一九○六(明治三九)年には急死する。鑑三は、亡き今井のため、

次の墓碑銘を書いた。 

  馨(かぐ)わしき人ありたり 

  馨しき業に従事し 

  馨しき生涯を送れり 

  茲(こと)に馨しき紀念を留む



  鑑三は、今井が役員をつとめていた大阪の天満教会で開かれた一周年

記念会に出席し「友交の秘義」と題した講演をした。 

  今井の未亡人ノブから、鑑三の事業のため一千円の寄附の申し出を受

けたので、鑑三は一つの建物を建てることに決めた。

 

  完成するまでには、これを聖書研究所と言ったり、教友の精神的修養所

とか呼んだりしているが、要するに、これまで自宅の書斎でおこなっていた

聖書講義の会場となる建物である。 

  この建物は、住宅とならんで柏木の地に一九○七年末にはできあがった。 

八畳と六畳の二間からなっていた。 

  これが、のちのちまで今井館と呼ばれ、無教会主義キリスト教の本拠と

なる建物の最初の起こりである(*下の写真は、今日の今井館教会)

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  来訪者




  今井館が成ったことにより、聖書研究会の収容人数にいくらか余裕が

生じ、一九○八年の春からは、『聖書之研究』の一年以上の購読者には

出席が認められるようになった。 

  今井館の開館式は、『聖書之研究』が第百号を迎えた一九○八年六月

に、その祝いをかねて挙行された。

 

  鑑三には、『商売成功の秘訣』という小冊子があるように、商売や商人を

それだけで軽くみず、誠実なあきないを奨励した。 

  その影響をなんらかのかたちで受けた実業家、商人に、今井のほかにも、

清水の鈴与のあとをつぐ沢野通太郎、静岡の製茶業者原崎源作、岩波書

店の岩波茂雄(*下の写真:若き日の岩波と後年の同氏)、新宿中村屋の

相馬愛蔵と黒光夫妻(*その下の写真)長野県星野温泉の星野嘉助、

岡山県津山の実業家森本慶三、宇都宮の肥糧商青木義雄らがいる。


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  柏木に移る前年のこと、はるばるドイツから、鑑三を頼って来日した一人

の青年がいた。名をW・グンデルトといい、その父の書店からは、すでに

『余は如何にして基督信徒となりし乎』と『日本及日本人』のドイツ語訳が

刊行されていた。

  後者の訳者、J・ヘッセはW・グンデルトの叔母の夫である。二人の間に

設けられた子供が、作家のヘルマン・ヘッセ(*下の写真:若き頃と後年

のヘッセ)であるから、ヘルマン・ヘッセとW・グンデルトとは、いとこの関

係にあたる(高橋健二『ヘルマン・ヘッセ』)。

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  鑑三の英文著作は、英語圏ではそれほど歓迎されなかったが、日露戦

争後、ドイツや北欧諸国で迎えられ、訳書があいついで刊行された。

 このことは、金銭面のみならず、精神面でも、鑑三の心にうるおいを

与えた。

 

  そのドイツ語訳とゆかりの深い青年が、遠路日本まで鑑三を慕って来

訪したことに鑑三は感激した。 

  隣家に住居を見つけたことをはじめ、家庭の一員のように待遇した。

その後、グンデルトは、新潟県村松で伝道生活を送り、五高、一高など

でも教え、最後はハンブルク大学(*下の写真は、今日の同大学)の学長

として、ドイツの日本学の大家になった。  【つづく】

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