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2013年6月10日 (月)

内村鑑三(25 )

   退社

 

  それにもかかわらず国民は、満州人の利益を考えるよりも、日本人の

目先の利益をふりかざす勇ましい声に流されていった。 

  こうなると『万朝報』といっても読者によって成り立つ一企業である。 

非戦論の主張が読者に歓迎されぬとみるや、機を見て同社の立場を開戦

論にきり変えることにした。

  非戦論にこだわる記者たちは、節を曲げないかぎり、同社を去るしかな

かった。それに、前々から社内にくすぶっていた新旧社員の対立も働いた。

 

  ついに十月九日、鑑三は、同社の幸徳秋水、堺枯川とともに社を辞した。 

退社の言葉を、鑑三は単独で、幸徳と堺とは連名で記し、十月十二日の

紙上に別々に掲載した。 

  ここには、同じ非戦論による退社とは称されても、キリスト教による鑑三

と、社会主義による幸徳、堺との相違のあることがわかる。



  鑑三が、退社にあたり、黒岩涙香に宛てて書かれた文章も残されている。
 

そこでは、入社のときに『太平記』所収の歌一首を引用したのにあやかり、

今度も『太平記』のなかから万里小路(までのこうじ)藤房の遁世の歌が

ひかれている。 (*下の写真は、イメージ)

  住み捨つる山を憂世のひととはば、あらしや庭の松に答へん 

                   Photo_8

     

   鑑三は、これをもって「俗文壇」を去り、以後「聖文壇」にしか筆をとらぬ

覚悟であった。文字どおり「憂世」を離れ、「遁世」に入ろうとしたのである。 

  『万朝報』退社後も、鑑三は、主筆である『聖書之研究』を通じて「預言

者哈巴谷(ハバクク)の声」にみられるように、一種悲痛な非戦論を掲げ

ていたが、その笛に踊るものなくついに一九○四(明治三七)年二月には

日露開戦の破目にいたった。 

 

  矛盾 

 

  旅順港での日本海軍大勝利の報に接した鑑三が、古い愛国心に一日

中とらわれ、思わず隣近所に聞かれるような大声で「帝国万歳」を三唱し

たことは名高い話である(二月十一日付山県五十雄宛書簡)。 

  さすがに鑑三は「帝国万歳」を唱えたあと「矛盾した人間だ、私は!」と

つけ加えている。

                       Photo_2

                 Photo_3


  同時に英字新聞の『コーベ・クロニクル』に投稿するため、英文「今次戦

争に関する所感」を執筆中であったが、これまた、戦争は日露の戦争屋に

よる慾のための戦争であるとはいいながら、日露開戦の一因を、キリスト

教国ロシアの非キリスト教国日本に対する無礼な態度にみている。外に

向かうと、どうしても素朴な愛国の情を断ちがたいのだ。


  これは、鑑三自身も気づいているように、確かに一見矛盾であるが、

また矛盾ではない。 

これこそ二つのJの統合によって成り立っている鑑三の実の姿であ

るといえるだろう。

 

  「帝国万歳」を叫んだからといって、すぐに本性が現われたときめつける

のは早計である。反対に、その感情を抜きにした非戦論だけが実像でも

なかった。 

  両者をともに包む道を求めつづけて、ようやく、その統合にたどりついた

ところだ。

 

 統合は、ときには弛緩をみせたり、一方の極に傾くことがあっても、まっ

く解体してしまうことはなかった。 

  このことが、鑑三の思想の幅となり魅力となり、さまざまな読者をひき

つけることにもなったのである。




  『聖書之研究』の読者のなかには、鑑三の感化で兵役に服することや

軍備のための納税を拒否しようとする青年が出た。 

  日露戦争に従軍している軍人のなかからは、苦悩をうちあける青年も

いた。そういう青年たちに対して、鑑三は、あくまで非戦論の原則はくず

さなかったが、「真理」と「真理の応用」とはやや区別し、「真理の応用」に

ついては慎重であった。

 

  非戦論の最大根拠とするところが、無抵抗主義によってたつならば、

その主張の手段も、同じく無抵抗主義を用いることを、さとしている。

(*1905年1月、日露戦争下の鑑三、父宜之、長男祐之〔右より〕)

 Photo_5

                     

 

  平和への道

 

  日露戦争が始まると、鑑三自身が、こぼしているように、戦時下の非

戦論者の生活は、ひまで無用な存在であった。 

  世間の人々から孤立したばかりでなく、戦争に協力して活動する日本

のキリスト者からも孤立した。同じキリスト者で非戦論にまわったのは

上州安中教会の牧師柏木義円など、きわめて少数を数えるだけだった。

 

  戦争の阻止をはかって、平和を維持しようとする望みが、開戦によって

断たれた以上、非戦主義者のできることは、一日も早く平和を回復させよ

うとする道しかなかった。 

  それは、結局、平和の福音であるキリストの教えを説くことである。戦争

によって平和がもたらされるのでなく、キリストによる平和の福音を宣べ

伝えること、この意味での平和主義者に一人一人のなることが、唯一の

平和への道とみた。 

  人を殺すためではなく、人を活かすための出陣には、喜び勇んで出か

けた。 

  このころ鑑三の助手役をつとめていた小山内薫の、後年の短編小説に

「沈黙」がある。 

  この小品は、まさにそのような「出陣」の一コマを描いたものである。

容易に鑑三とわかる「先生」が黒煙を吐く軍港を訪れ、その地で軍人を

相手に独立伝道をおこなっている外国の婦人宣教師E(横須賀で伝道し

ていた日本名星田光代、つまりエステラ・フィンチのことだろう)を助けて、

戦中にかかわらず軍人に向かって非戦論を述べる。その小説の一部を

ひくことにしよう。

 

  「E さんの短い祈祷を前にして、先生の談話が始まった・・・・私は忙しく

鉛筆を動かし始める・・・ 

  また・・・・非戦論である・・・・尤(もっと)もこの頃先生の頭脳(あたま)を

支配してるものはそれより外にないのだから、為方(しかた)がないとは

言うものの、この場合、この聴衆・・・・私は硝子窓の外の暗闇にしばしば

人影の動くある(ママ)を疑った・・・・坂を降りて行く酔っぱらい水兵の濁っ

た叫(どな)り声には、しばしば胆を寒くした・・・・この間もここに寄宿して

いる士官が水兵に喧嘩を吹っ掛けられたと言うではないか!

  先生の非戦論はトルストイズムではない・・・・もっと深い・・・・もっと

現実的だ・・・・カントの永久平和論・・・・スペンサア・・・・「戦争という者は、

果してその予(あらかじ)め目的とした所のものを獲得し得らるるもので

あろうか。」・・・・これには聴く人が大分動かされたようだ・・・・私も動か

された・・・・先生の・・・・あの眼の光・・・・舌の力・・・・熱・・・・しかも冷静

なる理路・・・・ 

  非戦論と軍人・・・・非戦論と基督信者の軍人・・・・非戦論者の軍人が

職務に対する態度・・・・談話は一時間と四十分で終った・・・・」

 

  これは一九○九年に発表された作品であり、鑑三が当時説いていた

非戦論の一班と、軍港横須賀でそれを説く緊迫感がよく、描写されている。

 

 

  野獣


  日露戦争下にクリスマスを迎えた鑑三は、クリスマスは平和主義者の 

日であって、「主戦論者はこの日を守るの資格を有せず」(「平和主義者 

の日」)と述べた。

  この言葉に拍手喝采を送った青年に、のちに大河小説『大菩薩峠』を

著わす中里介山(*下の写真は、後年の介山)がいた。介山は、この

半年ほどあと鑑三の雑誌(このころ『聖書之研究』は『新希望』と改題)に

「予が懺悔」を寄せている

             Photo

  やがて日露戦争は、日本の勝利をもって終わりを告げた。その後には、

日本国中あげて大祝宴の酔声ばかりたかまり、非戦論者のか細い声は、

たちまちかき消されてしまった(*下の写真は、当時の提灯行列)

                           Photo_6

  たとえ聞こえたとしても嘲笑か憫笑しか投げかけられなかったにちがい

ない。戦勝後の非戦論者の立場は、戦中にましてみじめなものであった。 

 

  ところが、当の鑑三は、きわめて意気軒昂としていた。この度の戦争に

よって、いっそう深く戦争の非と害毒をさとったとも言っている。 

  それは、戦勝によって、日本人が、たとえば、味方の被害は隠し、敵の

被害のみを針小棒大に報ずる虚報に踊らされ「真理を貴ぶの念」を失い、

また「人命を貴ぶの念」まで失ったからである。

 

  こうして、戦争が、結局平和をもたらさず、かわって新しい戦争をそなえ

ていることを予言する。 

  「日清戦争はその名は東洋平和のためでありました。然るにこの戦争は、

さらに大なる日露戦争を生みました。日露戦争もまたその名は東洋平和 

のためでありました。 

 然しこれまた、さらに大なる東洋平和の戦争を生むのであろうと思います。

戦争は飽き足らざる野獣であります(「日露戦争より余が受けし利益」)

 

  この鑑三の予言はあたっていた。それまでより幾十倍、幾百倍もの大き

な「東洋平和のための戦争」が起こり、戦地の人々を苦しめ、みずからも

悲惨な体験をしたことは、まだ我々日本人の記憶に新しい。 【つづく】

 

 

 

 

 

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