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2013年6月 7日 (金)

内村鑑三(23 )

  鉱毒視察 

 

  十二月十日には田中正造の明治天皇直訴事件があり、ついで十二月

二七日には、田村直臣を委員長、安部磯雄を監督委員として、八百余人

の学生からなる鉱毒被害地視察旅行がおこなわれた。

 

  「学生大挙鉱毒視察」の旗をかかげた一行には、指導者として鑑三も

木下尚江、加藤咄堂とともに加わった。 

  鑑三は海老瀬小学校前で昼食後に一度演説したあと、夕方には古河駅

前で大八車(*写真は、イメージ)の上から、学生たちに向かって「鐘の如

き声、風の如き弁」(『毎日新聞』十二月二九日)で叫んだ。 

             Photo_5

  なお、この学生たちの鉱毒被害地視察には、志賀直哉も、角筈の聖書

研究会で鑑三の勧誘を聞き、勇んで参加するつもりだった。 

  ところが、その希望を父に話したところ、父の強硬な反対に出あった。 

それは、足尾銅山は、元来直哉の祖父直道が、旧藩の財政再建のため

に始めた事業であり、それを古河市兵衛にひき継がせていたものだから

である。

 

  直哉と父との間に激しい口論の生じたことは、作品「祖父」などに描かれ

たところである。 

  志賀直哉の文学に深い影を落としている父子関係の対立は、「霊の父」

鑑三の言葉に従おうとした直哉の、「肉の父」との対立の一面をもっていた

といえる。



  翌一九○二年に入ると、鑑三は、四月二日の鉱毒問題解決演説会に

出席したことなどを除くと、表立った運動には姿を見せなくなる。かわって、

いっそう聖書の研究に沈潜していった。 

  鑑三は、もともと足尾の鉱毒問題が、単に物質的な鉱毒ではなく、それ

よりもっと激甚な毒である古河市兵衛のみだらな心の慾望によるとみて

いた。 

  それが、鉱毒反対運動にかかわるなかで、反対運動の実践家にも被害

地の農民にも、慾望による腐敗堕落のあることを認めた。

 

  このことが、社会の改良には、社会自体の改良よりも、まず個人の改良

が優先され、それには聖書によるしかないとの思いを深めたのだった。

  この年三月十日に開かれた理想団晩餐会の席上、安部磯雄の演説の

あとに、社会の改良法をめぐり、「内村が個人、安部が社会と個人」(『万朝

報』四月三日)と言ったという。 

  同じ理想団に属しながら、キリスト者鑑三とキリスト教社会主義者安部

磯雄との歴然とした相違を語るものだ。

 

 

  田中正造

 

 

  さらに、このころ発行された『聖書之研究』のなかで、鑑三は「聖書を

棄てよと云ふ忠告に対して」という一文を書き、今は聖書を棄てて立つ

ときであると唱える人もあるが、「渡良瀬川沿岸に聖書の行渡る時は鉱毒

問題の解決せらるる時である」とさえ言いきっている。 

  このとき、「聖書を棄てよ」と勧告したのが、実は田中正造であったことを、

鑑三は、その文を単行本『感想十年』に再録するにあたり、つけ加えている。


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  田中が、一九○○年に川俣事件を傍聴していてあくびをし、官吏侮辱罪

に問われて一九○二年六月十六日から七月二六日まで入獄すると、『聖

書之研究』に、「田中正造翁の入獄」を載せて、これを「惨事」とみた。 

  なぜなら、窮民を救おうとした田中が入獄の苦難にあずかっているの

に反し、その窮民を作っている古河市兵衛の方は、正五位の位をもらって

天下をのし歩いていたからである。



  田中正造がはじめて聖書に接したのは、この入獄中のことであった。
 

田中の後半生に附き従った島田宗三は、獄中の田中に聖書の差し入れ

をしたのが鑑三であったように語ったともいわれる(林竹二『田中正造』)。 

  鑑三に「聖書を棄てよ」と勧めた田中が、わずか、その言葉の二、三か

月後には聖書に接し、以来死に至るまで、これを愛読した。 

  死去の際「遺物としては新約聖書、菅笠、日記帳、鼻紙、石ころ少々だけ」

が遺されたことを永島与八は伝えている。

 

  鉱毒反対運動の前面にこそ立たなくなったとはいえ、鑑三は、その後も

被害地の人たちへの支援を惜しまなかった。クリスマスには『聖書之研究』

読者に対し、被害地住民へのプレゼントの呼びかけをし、その品物を届け

に現地へみずから出かけている。

 

  一九○五(明治三八)年のことになるが、田中正造が鑑三あてに記した

谷中村の強制買収に関する「陳情書」が残されている。 

  田中は娘ルツ(*下の写真)が死んだ年、金平糖一袋をもってお悔みに

あらわれた。それが二人の最後の別れとなった。

 Photo_2

                     

                      Photo_2


                  





   
非戦論

 

   義戦

 

 

  日清戦争では「義戦」を唱え、賛成した鑑三であったが、結局、日本の慾

のための戦いであったことを知ると、それが終わるやいなや、すぐに「義戦」

としたことを深く恥じた。

  かわって日露戦争では、はじめから非戦論に立った。ところが、日清戦争

の結果と悔恨の念が、そのまま鑑三を非戦論者にさせたのではない。

  鑑三が、日清戦争の終結にあたり、いたく恥じたのは、それが、世界に

向かって弁じたように義のための戦争ではなかったことだけである。

 

  世にある「義戦」そのものは、まだ認めていたといえるのだ。

  「義戦」とみられる戦争につき、鑑三が必ずしも否定的ではなかったし

るしを、少しみることにしよう。

 

  鑑三は、まもなくして起こった、西欧列強に対する小国ギリシャの戦い

には、前述したように心からの声援を送り、「勇敢な小国ギリシャよ、われ

われが東から戦いつづけるように、西から戦いつづけと」(英文「ギリシャ

万歳」)と言っている。

                           Photo_3

  米西戦争については、アメリカが勝ってキューバがスペインの手から

自由になることを望み「この戦争によって、善にして高貴な目的の他の

戦争のばあいと同じように、この地球上に、より多くの正義が訪れるで

あろう」(英文「米国の参戦論」)と述べている。

                      K


  ここには自由を与え、正義をもたらす高貴な戦争を是認する思想が残

っている。 

 独立のためにイギリスと戦う南アフリカのボーア人を支持しているのも、

同じ見地からである。 

  むしろ正義を犠牲にしていたずらに「平和、平和!」と叫ぶことをから

かっている(英文「平和、平和!」)。

                        Photo_4

  『万朝報』英文主筆時代も『東京独立雑誌』時代も通じて、この論調に

は大きな変化はみられなかった。



  では鑑三が、義戦論から、明らかな非戦論、それも絶対的非戦論に

転ずるのは、いつからなのであろうか。 

  『聖書之研究』の一九○二年十月号では、軍人の一読者からの手紙に

そえて、まだ「神の真理も時には剣を以て護らなければならない」と述べ、

片手に聖書をもち、残る手に剣をさげた「自由のために戦う戦士」に讃辞

を送っている。 

  これをみても鑑三が、『聖書之研究』時代に入っても、まだなお、正義の

ための戦いなら、それをよいものとして肯定していたことがわかる。

 

  おそらく鑑三が、絶対的非戦論にいたるのは一九○三年に入ってから

のことだろう。 

 戦争となればすべて絶対的に否定する思想に達するのは、前に述べた

ように、鑑三が、ひたすら聖書に沈潜した結果である。  【つづく】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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