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2013年6月 6日 (木)

内村鑑三(22)

   足尾銅山鉱毒事件

  人災


  足尾銅山の鉱毒について鑑三がはじめて言及したのは、前述したように

一八九七(明治三○)年三月一六日の『万朝報』英文欄であった。

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  この月上旬、鉱毒被害地農民の最初の大挙請願(押出し)がおこなわれ

たのに呼応したものだ。 

  足尾銅山の鉱毒による被害は、一八八○年代にあらわれていて、渡良瀬

(*下の写真)の魚に被害が出始めた。

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  その後、度重なる洪水のたびに、それまでの沃土は不毛の地と化し、とく

に一八九六(明治二九)年の三回にわたる大洪水は、渡良瀬川沿岸の住民

に甚大な被害をもたらした。

 

  被害地住民の大挙請願は、一八九八年まで三度にわたっておこなわれ、

そのたびに警官隊と衝突をくり返した。 

  ついに一九○○(明治三三)年二月になされた被害民の第四回目の大挙

上京は、利根川北岸の川俣で警官隊との大衝突をまねき、数十人が検挙

された。いわゆる川俣事件である。



  鑑三が、はじめて鉱毒地を訪れたのは、その翌年の四月二二日のこと

である。 

 前日の四月二十一日、鑑三は、栃木県足利の友愛義団に招かれ、巌本

善治、木下尚江(*下の写真)とともに講演した。

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  友愛義団は、土地の青年実業家たちによって、一八九二(明治二五)年

に設立された団体で、会員は百三十余名いて、廃娼運動などの社会改良

に尽くしていた(*下の写真は、木下尚江、島田三郎著『廃娼の急務』)

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  鑑三の友愛義団のための演説は、風邪のためと場所が末広座という劇

場であったために気がのらず、短い感想にとどめたように自分では語って

いる。 

  だが、同行した木下尚江が『毎日新聞』四月二五日号に記した報告に

よると、「社会改良の両面」と題して「鋭利なる舌鋒、奇警なる言辞巧みに

満場を激動」したとある。



 鉱毒被害地の巡遊は、巌本善治が明治女学校の開校式をひかえて帰京

したため、鑑三と木下尚江との二人でなされた。

  木下の方は『毎日新聞』の現地特派員として、一年前に同地を一度訪れ

たことがあった。そのときには冬枯れでよくわからなかった土地が、今度は、

春を迎えているにもかかわらず、いまだ青草を生じず黒肌をさらしているの

を見て歎いた。

  木下と異なり、はじめて被害地に足を踏みいれた鑑三は、かつて札幌農

学校で土壌学を学んだ者の目で土地を見、その被害の激しさを知って驚い

た。

 

  「余の十数万の同胞が家を失い地を失うを見て余は黙し能わざる」思い

にかられ、帰京するやさっそく筆をとって『万朝報』に書いたのが「鉱毒地

巡遊記」(四月二五日―三○日)である。 

  鑑三はそのなかで、鉱毒の原因を、天災ではなく、経営者古河市兵衛の

起こした人災であると断じた。 

 

 

  理想団



  五月二一日には、神田の東京キリスト教青年会館で足尾鉱毒問題に

つき「同情者」の会が開かれ出席した。 

  津田仙が座長をつとめ、巌本善治、島田三郎、島地黙雷、田口卯吉

(*下の写真)、松村介石、三宅雄二郎、矢島楫子(かじこ)ら三十余名

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が集まり、田中正造(*下の写真)が説明をした。

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  その結果、鉱毒調査有志会が結成され、鑑三は、巌本らとともにその

なかの調査委員五人の一人に選ばれた。 

  鉱毒調査有志会の調査は、六月二一日から鑑三を主査としておこな

われた。現地では田中正造がその案内役を果たした。

 

  一八九一(明治二四)年の帝国議会において、最初の鉱毒問題につい

ての質問をおこなった田中であったが、この調査をもって、「本問題も漸く

にして国家問題に至りたる見世(みせ)開き」と評価している。 

  この調査会の第一回報告は、鑑三をはじめ巌本善治、田中弘之、高木

政勝らの連名で同年十一月に出された。

 

  この夏の七月二十日には、鑑三は『万朝報』の黒岩涙香、天城安政、

園城寺清、幸徳伝次郎(*下の写真)、堺利彦、斯波貞吉、山県五十雄 

とともに発起人となり、理想団を発足させた。

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  前もって黒岩が『万朝報』に「平和なる激文」(七月二日)と題し、社会の

救済のため、理想団を提唱、加入を呼びかけていたので、この時までに

五百余人の入会希望者があった。発会式の席上議決された「理想団宣

言」を次に引用する。 

  「社会人心の腐敗堕落、年に月に甚だしきは、何人も認めて而(しこう)

して概嘆する所なり。 

  これを救うの道は人々自らを正しくして以て人に及ぼすに在り。この理

は何人も知る所なりといえども、個々分立(ぶんりゅう)するが為に、以て

大勢に抗するに足らず。 

  今日の急はまずこの分立する者を合して一団の勢力と為すに在り。これ

理想団の興る所以(ゆえん)なり。時勢を憂うる者。来りて相共に社会救

済の原動力たるを期せよ。」



  社会の救済にあたり、まずみずからを正しくすることから始め、やがて人

に及ぼせという。このあたりは、鑑三の意見が色こく反映された「宣言」と

なっている。 

  朝報社への再入社に際し、鑑三が黒岩に洩らした「社会改良の秘訣」と

は、あるいはこの理想団結成のことであろうか。 

  この後、理想団は各地にあいついで支部の結成をみることになるが、

それには鑑三が黒岩涙香と同伴して出席することが多く、二人が、運動

の中心的存在であることを語っている。

 

  それとならび理想団の支部の設けられたところをみると、旧『東京独立

雑誌』や『聖書之研究』の地方の読者を柱として結成されていることも見

逃せない。 

 ただ理想団には、安部磯雄、片山潜、木下尚江なども加入していて、

同じく個人を改良してから社会の改良におよぶといっても、鑑三と社会

主義者の間はもちろん、鑑三とキリスト教社会主義者の間にも、その重点

のおきどころに相違があった。この開きはやがてあらわになっていく。

 

  ポーコ


  同年夏に開催された第二回夏期講談会には、鉱毒被害地である群馬

県邑楽(おうら)郡西谷田村の青年永島与八が参加している。

  永島与八は、被害地農民の第一回大挙請願のころから、反対運動の

指導者として活躍、田中正造の片腕のような存在であった。のちに『鉱毒

事件の真相と田中正造翁』(一九三八年)を著わす。

  永島は一九○○年の川俣事件で逮捕されたとき、獄中で鑑三の『求安

録』を読み感動した。それが、第二回夏期講談会に出席するきっかけと

なったのだった。

  鑑三は、永島のことを「足尾銅山鉱毒事件が産出せし最も有益なる結

果の一」と言い、その後も永島の「獄裡の嬰児」を『聖書之研究』に四回に

わたり掲載させている。

  また一九○二年四月には、永島の出身地西谷田村を訪れ、心界改善

の必要につき講演をした。

  一九○一年の秋は、鑑三が、足尾銅山鉱毒反対運動にもっとも直接的

にかかわった季節であった。十一月一日には東京キリスト教青年会館で

おこなわれた足尾鉱毒演説会に、巌本善治、安部磯雄、木下尚江、島田

三郎たちと出席し、問題が実は「色慾問題」であることを説いた。

  岡山から上京してまもない青年竹久夢二(*下の写真:右側の男性)が、

鑑三と安部磯雄の演説を聞き、貧しい人のための学校を建てようと思った

というのは、このときの演説会のことだろう。

  その後、夢二は、よく知られているように社会主義思想に接近する。

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  十一月二九日には、鑑三は桐生教会訪問の帰途、佐野駅で下車して

被害地にたち寄っている。

  十二月十二日には、ふたたび東京キリスト教青年会館で巌本善治、

黒岩涙香、幸徳伝次郎、佐治実然、三宅雄二郎らと足尾鉱毒演説会を

開き、古河市兵衛に対してポーコを加えよと叫んだ。

  ポーコとは、南北戦争前の米国において、奴隷廃止論者たちが、奴隷を

かかえる金持を見つけるたびに、「あれは人道を無視し、神をけがす悪人

だ」とののしった方法とのことだ。  【つづく】

 



 

 

 


 

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