フォト
2017年1月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
無料ブログはココログ

« 内村鑑三(20 ) | トップページ | 内村鑑三(22) »

2013年6月 4日 (火)

内村鑑三(21)

   角筈聖書研究会

 

  鑑三は、以前から自宅では家庭のための聖書講義の会を開いていた。 

それが、一九○○年の第一回夏期講談会後に、参加者によって独立苦

楽部が東京や上田、小諸などに結成されると、その会員たちを対象に

伝道活動がおこなわれるようになった。

 

  翌一九○一年三月には『聖書之研究』読者の「交通機関」を目的に、月刊

の『無教会』を発行した。  このころから毎日曜日朝、自宅で開いている聖書

講義に、参加の呼びかけもなされはじめた。 

  こうして第二回夏期講談会の前後(一説には七月二八日)には、角筈聖書

研究会いう名称の集会が発足したとみられる(*下の写真) 

            1903032_tsunohazu_



  角筈聖書研究会は、その成立の経緯からわかるように『東京独立雑誌』

の読者による東京独立苦楽部の会員を母胎に『聖書之研究』の読者や

第二回夏期講談会の出席者のなかから生まれたものだ。 

  鑑三がその家庭で開いていた聖書講義に参加を呼びかけたころ(一九

○一年三月ごろ)では、二十人位はきても収容できるように言っていたが、

やがて手狭となり、会員をぎりぎり二五人に限定した。 

  ところが出席希望者が、定員を一人オーバーしたため、二五人をくじ引き

で決めた。しかし結局は、くじで外れた一人も出席を認められたという。



  初期の会員のなかに、とりわけ熱心な十二人がいて、それは角筈十二人

組と呼ばれていた。中田信蔵によると、その十二人の氏名は次のごとくで

ある(『教友』一九一号)。 

  浅野猶三郎、安藤胖、小山内薫、小野保之、菊池七郎、倉橋惣三、小出

満二、佐藤武雄、沢野通太郎、中村新太郎、西沢勇志智、山内権次郎



  角筈聖書研究会の形成とほぼ時を同じくして『無教会』という名の雑誌が

発行されたことは、鑑三が、このころより、その集会を無教会主義的な集会

として意識しだしたことを物語るものだ。

 

 

  無教会 

 

  鑑三は、京都在住時代より特定の教会に出席しなくなっていたが、

「無教会」という言葉の初見は、一八九三(明治二六)年に刊行された

『基督信徒の慰』の「第三章   基督教会に捨てられし時」に見出される。

 

  ただし、そのころは鑑三はまだ大阪教会老松講義所の伝道を担当して

いるので、明確に無教会主義を主張して使ったものではない。 

 「無教会」について、意識して論じたのは、雑誌『無教会』の第一号に掲

げた「無教会論」が最初である。

  これは有名な文章であり、従来、何度も引用されたものであるが、やはり、

それを欠くことはできないので、冒頭の部分を記そう。

 

  「「無教会」と言えば無政府とか虚無党とか云うようで何やら破壊主義の 

冊子のように思われますが、然し決して爾(そ)んなものではありません。  

  「無教会」は教会の無い者の教会であります。即ち家の無い者の合宿所 

とも云うべきものであります。即ち心霊上の養育院か孤児院のようなもの 

であります。 

  「無教会」の無の字は「ナイ」と訓(よ)むべきものでありまして、「無にす 

る」とか、「無視する」とか云う意味ではありません。 

  金の無い者、親の無い者、家の無い者は皆な可憐な者ではありませんか。 

  そうして世には教会の無い、無牧の羊が多いと思いますから、ここにこの 

小冊子を発刊するに至ったのであります」


  ここでいう「無教会」は、雑誌『無教会』の言葉と役割との説明とも受けと

られるものであるが、後日にいっそう整序される無教会の原像を語るもの

である。

  鑑三が、「無教会」の「無」の字を、教会を否定する言葉としては用いず、

教会のない者の意味で使っているのが、肝要なところである。

 

  晩年の鑑三に「無教会は進んで有教会となるべきである」(「無教会主義

の前進」)との言葉があるように、鑑三は、最後まで教会そのものを否定す

るものではなかった。 

  鑑三が否定しようとしたのは、西洋から伝えられたキリスト教にまとわり

ついている西洋的な制度や儀礼である。 

  それとともに西洋の教派とミッションの支配下に屈服している、日本の教

会の体質であった。



  こうしてみると、鑑三の「無」は、仏教思想でいう「無」に近いものである。

ただの否定としての「無」でなく、対象を相対化し、究極的には、より高い

次元での肯定を意味する「無」である。 

  鑑三の無教会主義キリスト教は、西洋のキリスト教を相対化の目でとら

えたキリスト教であるといってよい。相対化といっても、決して、外側から

一つの宗教としてつき放して見るのでなく、キリスト教の内側にとどまりな

がら主体的に相対化したものだ。

 

 

  洗礼と聖餐 

 

 雑誌『無教会』の少し前に、鑑三は、札幌独立キリスト教会に起こって

いた問題と関連し「洗礼晩餐廃止論」を『聖書之研究』に書いている。 

  鑑三には、ルターの宗教改革以後もなお、多くのプロテスタント諸教会が

サクラメント(聖礼典)として守っている洗礼と聖餐は、キリスト信徒にとって

必要不可欠なものとみなされなかった。

 

  しかし、それは決して頑固な拒否ではなかった。現に鑑三自身、一生の

間におそらく数十人もの人々に洗礼を授けている。 

  『余は如何にして基督信徒となりし乎』のなかで述べたように、洗礼が望

まれるときには夕立の雨でもよく、聖餐にあずかりたいなら、野に出てそこ

に実っているブドウの汁でもよい、というのが、鑑三のサクラメントに対する

基本的な考え方である。

  『基督信徒の慰』では、教会についても、それは、ひとの手で作られた

白壁や赤瓦のうちにあるだけではなく、自然そのものが神の家とされる。

「無教会論」でもこう言う。

 

  「その天井は蒼穹(あおぞら)であります。その板に星が鏤(ちりば)め 

てあります。 

               Photo

 その床は青い野であります。その畳は色々の花であります。  

  その楽器は松の木梢(こずえ)であります。その楽人は森の小鳥であり 

ます。 

               Photo_2


 その高壇は山の高根でありまして、その説教師は神様御自身であり
 

ます。 是が私ども無教会信者の教会であります」 


Photo_3

 

  要するに鑑三のいう無教会は、直接、聖書に参入したことにより、西洋

キリスト教のみを唯一のあり方とみるのに対し、そこから人工的な聖職

者制、教職者の資格、礼典、建物などの制度、儀礼を取りはずそうとした

ものである。教会から人工的要素の除去をはかる自然的な教会観である。

  これは二つのJにともに自己をささげようとした鑑三が、ついにたどり

いた一つの帰結でもあった。 

  すなわち、西洋より渡来したキリスト教に入信したことにより、日本人

から責められたばかりでなく、鑑三自身にも、一種の日本への背反という

うしろめたさが作られていた。

  それが、キリスト教から、西洋臭さを可能なかぎり除くことは、いくらか

でも日本への背反という重荷を軽減するものだった。

 

  無教会主義キリスト教は、キリスト教の真髄を少しもそこなうことなく、

しかも、愛する日本にも申しわけのたつキリスト教の性格も帯びたもの

だった。

  無教会主義キリスト教が、二つのJにともにつかえようとした結果の

所産であることは、当然Japan の視点のみではなくJesus の視点も

あわせもっている。 

  キリスト教の日本化の面だけでなく、日本のキリスト教化が二大旗印と

なっていることはいうまでもない。


         
                Photo_6

                                    Photo_7

  ほかに、鑑三の無教会主義形成の原因になったものとしては、札幌で

作った独立教会、アメリカで出会ったフレンド派の影響、ハートフォード

神学校で結局、キリスト教教師の資格を取得することなく帰国したこと、

種々の事件を通じ、宣教師および彼らの発言力の強い教派との間に生じ

た軋轢などがあげられる。

 

  雑誌『無教会』の第三号には「無教会主義」の言葉もみられ、しだいに

鑑三は、無教会主義キリスト教の実質を整えていく。 

  あるときは生硬に、あるときは柔軟に、鑑三は無教会主義キリスト教

の旗をふりかざしているので、その実質は、部分的でなく全体的にとらえ

る必要があるだろう。  【つづく】

 

 

 

 

 

 

« 内村鑑三(20 ) | トップページ | 内村鑑三(22) »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

Links