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2013年6月 3日 (月)

内村鑑三(20 )

   参加者群像

 

  

  夏期講談会は、翌一九○一年と一九○二年に第二回、第三回の会合

が、聖書研究社主催によって同一時期にもたれた。 

  場所も同じであったが、校名だけ、第二回は角筈女学校、第三回は

精華女学校に変更されている。(*下の写真は、第二回夏期講談会)

               Photo_10

  第二回夏期講談会の写真(*上)には鑑三とその長男祐之、講師の巌本

善治を中心にして、小山内薫、志賀直哉、倉橋惣三、浅野猶三郎(なおさ

ぶろう)、斉藤宗次郎らが写っている。 

  志賀直哉(*下の写真)は、書生の末永馨にさそわれ、その第二日目か

ら参加している。

             Photo

  このことは「内村鑑三先生の憶ひ出」をはじめ作品「大津順吉」の

「草稿」に出てくる。 

  志賀直哉はつづいて第三回の会合にも出席し、以後、一九○八(明治

四一)年ごろまで約七年の間、鑑三の聖書研究会に通いつづける。 

  志賀直哉にとり、鑑三は、祖父の直道、友の武者小路実篤(*下の写真)

とならび、もっとも影響を与えた人になる。                   



  Photo_16

  小山内薫(*下の写真は、後年の小山内)は、第一回の会合から

出席 していたが、彼が新生体験を味わうのは、この第二回夏期講談会

である。 

  初恋の女性が七月二四日に結婚して絶望、その直後の二五日に開催

された夏期講談会で小山内は「第二の誕生日」を迎えたと述べている。

                         Photo_14

  小山内が一九二三年の四月から『東京朝日新聞』に連載を始めた小説

「背教者」には、角筈の夏期講談会の状景が、実に鮮やかに描かれている。 

  これには全三回にわたり開かれた会合がいりまじって描かれてはいるも

のの、鑑三こと森川先生をはじめ、じっさいに語られた話や出来事がふん

だんにあらわれる。 

  登場する人物も、「天岡」は、前述した青山士(あきら)であり、「深田」は

古代ハス(*下の写真)咲かせることで知られる大賀一郎である。 

           Photo_8


  「柴田」は、やはり前に述べた児童心理学者で東京女子高等師範学校

教授になる倉橋惣三、「南」も東大教授になる西沢勇志智である。「山田」

で登場するのが小山内薫本人である。 

  小山内は、夏期懇談会のあと、これまた一九○六年ごろまで、約七年間

にわたって、鑑三のもとに通い、一時は鑑三の家族とともに鎌倉で夏を過

ごした時もあるほど目をかけられた。



  第三回の夏期講談会の写真には、鑑三と長男祐之、講師の大島正健を

中心に、右の述べた青年たちのほかに、海保竹松、鹿子木員信、太田十

三男(とみお)、石橋智信、魚住影雄(折蘆)たちの顔が見え、さらにただ

一人軍服姿の有島武郎(*下の写真)が立っているのが印象的だ。

                      Photo_4

 

  有島武郎が、鑑三をはじめて訪ねたのは一八九七(明治三十)年のこと

であり、その後『東京独立雑誌』などを愛読、一九○一年には鑑三たちの

創立した札幌独立キリスト教会に入会している。 

  第三回夏期講談会の開催のころ、たまたま、一年志願兵に入隊中であり、 

兵舎から参加したのだった。有島と鑑三との関係についてはのちに、もう

一度述べることになるであろう。

 

  四   平和の道 

 

  『聖書之研究』
 

 

   聖書雑誌

 

 

  『東京独立雑誌』の廃刊のあと、ただちに鑑三が、雑誌『聖書之研究』を

創刊する決意を固めたことは、『東京独立雑誌』の最終号(七二号、七月

五日)に、『聖書之研究(*下の写真)発刊の広告を出していることでわ

かる。

           Photo_5

            


  この早わざは、かねてアマスト大学在学中より、『聖書之研究』という名

の雑誌をいつかは公刊したいとの希望を胸に秘めていたためだった。

  そのすばやい決断に反して、第一号の創刊は、すんなりとはかどらなか

った。

 それは、八月中旬に信州を訪れた鑑三が、とりあえず上田を拠点として

直接伝道に出ることを定めたからだ。

  それほど鑑三にとって、直接伝道の思いは断ちがたいものだった。

ところが、それを決行する直前になり「思いも依らぬ故障」が生じ、信州行

きは実現できなくなった。その「故障」が何かはわかっていない。



  こうして、ふたたび鑑三は、『聖書之研究』の創刊に全精力を尽くした。

直接伝道に代わるものとしては聖書研究所を設け、それをキリスト教の

教師の養成所にする計画をたてた。

  聖書研究所の構想は、その京都の在住して、月曜日にキリスト教教義

学校を開いていたころより描かれたものだった。鑑三の当時抱いた最大

の夢の一つであった(一八九六年一月十四日付ベル宛書簡)。

  一九○○(明治三三)年十月三日、『聖書之研究』の第一号(九月三十日

付)がついにでき、書店の店頭にならんだ。

  その冒頭で鑑三は、『東京独立雑誌』との相違を、高らかに「宣言」の

かたちで、こう述べている。

  「法律(おきて)はモーセに由りて伝わり、恩寵と真理はイエス・キリスト

に由りて来れり(約翰〔ヨハネ〕伝第一章十七節)

  『聖書の研究』雑誌は『東京独立雑誌』の後身なり。彼なる者は殺さんが

為に起こり、是なる者は活かさんが為に生まれたり。彼なる者は傷つけん

が為に剣を揮い、是なる者は癒さんが為に薬を投ぜんと欲す。

  責むるは彼の本分なりしが、慰むるは是の天職たらんと欲す。義は殺す

者にして愛は活かす者なり。愛の宣伝が義の唱道に次ぐべきは正当の

順序なり。

  『聖書之研究』雑誌は当(ま)さに、この時において起こるべきものなり」
   


           



  ここに掲げられたヨハネ伝一章一七節の言葉が示すように、『東京独立

雑誌』が「義」を説くモーセの律法ならば、『聖書之研究』は「愛」を伝える

キリストの福音であると鑑三はみている。

  前者が旧約の時代ならば、そのあとに後者による新約の時代がくるの

は、ものの順序としている。

  殺さなければやむことのない人の正義でなく、叩いてやわらぐ神の正義

こそ永久の平和をもたらす道であるとも言っている。

  『聖書之研究』とはいうが、ただの講義録でもなければ、高所より一方的

に教えを説くものでもない。

  今日に活きた書として聖書を読み、これによって癒された人間が、その

喜びを他に分かつものである、との立場を鑑三は表明している。





   天職


  『聖書之研究』の創刊号の表紙には、上段に横書きで’THE  BIBLICAL 

STUDY.'と英文で書かれ、その下にラテン語の’Pro  Christo et  Patria.'

さらにつづいて、この語の日本語訳「基督の為め国の為め」の文字が刷ら

れている。

  'Pre Christo  et  Patria.'の言葉が若き日からのモットー二つのJの表現

であることはいうまでもない。

  創刊号では「感話」「説教」、聖書の「講話」と「研究」など、全八○ページ

のうち、約五○ページ分を主筆の鑑三が執筆している。

  あとは、田村直臣、住谷天来、吉野臥城、飯泉規矩三の寄稿と黒木耕一

の夏期講談会記録などからなっている。

  後日、鑑三が、繰り返し述べているように『聖書之研究』は日本で最初の

聖書雑誌であり、それが売れるとは思いもよらぬことだった。

  それだから、初号の刊行よりひと足先に、朝報社に客員として復帰して

いたのだった。

 これは、社長黒岩涙香の要請に応じたかたちであるが、鑑三の方からも

「社会改良の秘訣」がわかったから『万朝報』に書きたいとの申し出もあっ

た(周六手記「内村鑑三氏再来す」一九○○年九月十五日『万朝報』)。

  鑑三の「帰来録」は、『万朝報』の九月一八日号に掲載され、今度は日本

文を中心とした文章がたびたび掲げられることになる。



  当初、それほど期待をかけなかったはずなのに、『聖書之研究』の売れ

行きは、意外に好調だった。

  発売して三日後の十月六日に書かれた宮部金吾宛の書簡のなかで、

三千部の初号が、ほとんど品切れとの嬉しい悲鳴を伝えている。

  それは、『東京独立雑誌』にまさるとも劣らぬ売れ行きであり、創刊号に

関しては再版を出すほどだった。

  このため、初号で生徒を募集して十月に発足したばかりの聖書研究所

を、『聖書之研究』の第二号では、家屋の狭いことと、所長鑑三の多忙と

を理由に、生徒募集中止の広告を出している。

  聖書研究所の実質的な閉鎖案内とみてさし支えないものだ。十一月

十五日付で再版された初号には、聖書研究所の広告はもう不必要の

ためか消えている。(*下の写真は、『聖書之研究』  )

                                Photo_12

                
  この後、『聖書之研究』は、一時二千部ほどに発行部数の下ることがあ

ったが、晩年には四千数百部を数えるほどになり、鑑三の死にいたるま

で継続される一生の中心的な仕事となった。

  鑑三は、ようやく長い間、求めていた天職に出会ったといえるであろう。

しかし、前述したように、信州での直接伝道が実現していたならば『聖書

之研究』の発行はなかった。

  鑑三本来の夢は、あくまで『聖書之研究』という雑誌の発行にはなく、

直接伝道におかれていたのだ。

  この意味では『聖書之研究』の刊行をもって鑑三が、宿願の天職に到達

したとみるのは少し早すぎる。

  もし『聖書之研究』の刊行を、鑑三の天職の果実とするならば、その花に

あたるのは直接伝道である。

そうなると、花も実もある天職への到達は、『聖書之研究』とあわせて、

自宅で直接伝道としての聖書研究会が始められるときを待ちたい。 

【つづく】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

            



                      

 

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