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2013年6月 1日 (土)

内村鑑三(19 )

  夏期講談会

    読書会

  『東京独立雑誌』は廃刊になったが、実は困った問題が起こった。 

それは、この夏、同誌の読書会が予定され、参加者の募集が始まって

いたことだ。

 

  会場は、鑑三が校長を勤めていた女子独立学校、会期は七月二五日

から八月三日までの十日間。申し込み締切りの七月十日までに参加予

定者は百十名を越していた。

  やむなく鑑三は、この会合を、自分の責任のもとに開く夏期講談会に

きりかえた。

 

 幸い、講師には、友人でもあり『東京独立雑誌』の寄稿者でもあった

大島正健、松村介石、留岡幸助らが出演して助けてくれることにきまった。

 (*下の写真は、後年の松村介石〔本名:すけいし〕と

留岡幸助)

                 Photo_6


         Photo_7



  夏期講談会の形式は、これまで鑑三が、度々出席していたキリスト教

青年会の夏期学校にならったものといえる。

  夏期講談会は予定どおり七月二五日に、会場の女子独立学校校主

加藤勝弥の開会の祈祷をもって幕を開けた。初日の出席者は七六人で

あった(*下の写真は、第一回夏期講談会の参加者)

           Photo_8
 

  最後の八月三日にいたる十日の間、多いときは八一人、少ないときでも

七二人の出席がみられた。 

  連日、午前中には、必ず鑑三の講演があった。鑑三の話は、コリント書、

ピレモン書などによる聖書の話、エルウィンの精神薄弱児養護院院長

カーリンの回想、クロムウェルの話、歴史の研究法などである。

 

  これに加えて、留岡幸助、大島正健、松村介石らの講演が一日にだい

たい一人はおこなわれた。そのあいまには新井薬師や、巣鴨にあった

留岡の家庭学校まで遠足とか見学に出かける楽しいひとときもあった。

(*下の写真は、若き日の留岡幸助)

          Photo_9



  参加者のうち大半が女子独立学校内に宿泊して参加していたので、

夜は、鑑三をはじめとする講師たちを囲んで自由な談話会が開かれた。 

  ある日の午後の会合では、鑑三が編著『愛吟』のなかから、朗々と詩を

吟詠し、参加者たちに、世の常の会合とは異なる高尚な集まり気分を

ひき起こしたが、全期間とおして、そんな結構づくしではなかった。

 

  会の途中の七月三一日には、旧東京独立雑誌社の社員五人(佐伯好

郎、西川光次郎、中村諦粱、坂井義三郎、安孫子貞治郎)が、猛々しい

見幕で押しかけてきて、鑑三との談判で息づまるような光景もみられた。

 

 

  失敗の一因




  この夏期講談会に、長野県穂高で私塾研成義塾を始めたばかりの

井口喜源治が、友人の萩原守衛(のちの彫刻家、碌山)とともに参加し

ていた。

 

  井口の「第一回夏期講談会参加記」(『井口喜源治と研成義塾』)によ

ると、七月二八日の日記のなかに、注目すべき記述がある。 

  井口は、その日の講談会に出席したあと、明治女学校の教師小此木

(忠七郎)を訪ねている。そこで、小此木の話として、次の言葉を伝えて

いる。

 

  「内村氏失敗の原因は、女生徒に実業を課するとて、洗濯煮焚(にたき)

等の仕事を課することあまり多きより生じたるなり。(*下の写真は、イメー

ジ)        

          Photo_10


  学校時代の生徒に、あまりかかることを課するも生徒は満足し難きも

のなれば、ついに背き去るに至るは必然なり」
 


  すなわち、この言葉の中には、『東京独立雑誌』の廃刊の理由が語ら

れていないであろうか。女子独立学校は、もともと、労働しながら学ぶこ

とを特徴とする学校だった。

 

  それが、洗濯煮焚などにおよんだうえに、過重になったことが、鑑三

の失敗の原因と小此木はみているのだ。 

  鑑三と対立した旧社員たちは、同社解散後、雑誌『東京評論』を創刊。 

その初号には、「東京独立雑誌社分裂に就いて」という記事が「附録」に

組まれている。

 

  それによると鑑三のいう女子独立学校の「公的行為」(本書九九ページ

参照)について述べるとなると、どうしても鑑三の「私事」または「失行」に

わたる。 

  あえてそこまで語る気はないと、妙に歯に衣着せた言い方になっている。



  この「私事」または「失行」が、佐伯好郎が語ったような前述の事件で

あるなら、社員たちはすぐ飛びついてきたことだろう。 

  性的スキャンダルは、日ごろ、日本の上流階層の性的退廃をはげしく

攻撃していた人物を、一撃のもとに葬りさるのに最強の武器となったに

ちがいないからだ。

 

  だが、それに踏み切れなかったのは、やはり、その事件が、それほど

確かな根拠があったわけではないことを物語る。 

  そうなると、女子独立学校において鑑三の「公的行為」とは、小此木の

いう女生徒たちに課した労働が多過ぎ、「洗濯煮焚」にまでおよんだこと

であろう。

 

  一年後の鑑三に「昨年余の女生徒が悉く余を去りし時」という述懐が

あるのは、このあらわれで、生徒の間にまず不満がつのったことだ。 

  もし「私事」にわたることがあったとするなら、それは労働としての「洗濯

煮焚」が、鑑三一家の「洗濯煮焚」まで含むことになったためではないか。 

  生徒たちが自分たちの「洗濯煮焚」をするのを、不満にすることは、時代

がら考えられないからである。




  内村くずれ
 

 

  旧東京独立雑誌社社員による鑑三のつるしあげという緊迫した一幕を

織り込んだこの講談会は、参加者たちに強烈な印象を与えた。 

  それでなくても、個性のきわだった鑑三とともに、十日間の寝食を共に

したのだ。 

青年たちはいずれも心に深い刻印を押されて会を終えている。 

  ほとぼりの容易にさめやらぬ参加者約七十余人をもって、この秋には

独立苦楽部(クラブ)が結成され、毎月一回会合をもつようになった。

 

  夏期講談会参加者が七月二六日に撮った写真(*上の写真)には、

中央に鑑三と大島正健、住谷天来が坐り、この三人を囲むようにして六三

人の人物が写っている。 

  そのなかには、のちに新劇の父といわれる小山内薫、パナマ運河開削

の技師青山士(あきら)、前述したのちの彫刻家萩原碌山に井口喜源治、

東京帝国大学教授になる西沢勇志智、児童心理学者となる倉橋惣三、

長崎高商の名物教授になる武藤長蔵らの顔がみえる。

  写真にこそ写っていないが、岡山県津山の森本慶三、長野県飯田の社

会教育家になる小林洋吉たちも参加していた。

 

  参加者の職業別では、学生が、やはり多いには多いが、半数にまでは

達していない。あとは、農業、養蚕業、教員、商業などがつづいている。 

  出身地は、文字どおり北は北海道から南は九州にまでおよんでいる。 

このように、地方で農業や養蚕業を営んでいる青年たちが、相当みられる

のが目をひく。ここには、『東京独立雑誌』の読者層の縮図が見られる。

  この夏期講談会に、はるばる丹波国何鹿(いかるが)郡志賀郷(しがさと)

(現在の京都府綾部市)から参加した青年に志賀真太郎がいた。

 

  一年前に一度鑑三を訪ねてきたことのある青年であり、一八七二

(明治五)年生まれであるから、二七歳である。夏期講談会の十日間が、

志賀の一生に与えたものは何であっただろうか。



  志賀は、このころ村役場の書記をしながら、農業に従事していた。
 

一九○二年から同村の養蚕小組長になり、つづいて助役、やがて一九

○九年から四年間、村長に就任した。

  村長時代の逸話として、小さな村にはりっぱ過ぎる小学校を建て、府下

巡視の知事に村長たちが叱られた話がある。

  鑑三が聞いたら、さぞかし喜んだことと思う。この村には同じ年に図書館

も作られている。人口わずか三千数百人の田舎の村に、早くも明治の末年

に図書館があるということは、非常に珍しい。志賀が村の文化、教育に力

を注いだあらわれである(*下の写真は、イメージ)
                       
          Photo_11


  志賀は役場を退職したあと、表具師などをして身をたてていたようである。 

ところが、村に不相応なりっぱな学校の建築にみられるように、個人の生

活の面でも、志賀は金銭的にはまったく淡白であったらしい。 

  田畑は次々と人手に渡り、生活は困窮をきわめた。そのうちに村に居ら

れなくなり、大正の末ごろ、いつのまにか村から姿を消してしまった。



  その行方を少し追うと、晩年は仏道に志し、愛知県のある海浜にある村

の堂に住みつき、浜辺から小石を拾ってきては境内に並べ、その石の言

葉に耳を傾けたり、村の青年たちに話をしたりする生活を細々としていた

という。一九三七(昭和十二)年に世を去っている(*下の写真も、イメー

ジ)

               Photo

  志賀真太郎の一生は、その晩年こそ仏の道に進んだが、若き日に出

あった鑑三の教えにのっとって生きた一生といってよい。

 

  このように鑑三に傾倒した地方の出身者には、地域の文化、教育、福祉

に尽くす一方、やがて産を失い、この世的には没落していく人々がおおい。

いわば「内村くずれ」である。 

  この世の目には恵まれない一生をたどるのだが、「後世への最大遺物」

で語られたように、それぞれ高尚な生涯を歩んだのだ。 【つづく】

 

 

 

 

 

 

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