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2013年5月10日 (金)

内村鑑三(4 )

    立行社


  このクラークの滞在中、通訳をつとめていたのが、開拓使の役人で

堀誠太郎といった。内村たちが学んでいた東京大学予備門に、札幌農学

校官費生募集の演説に来たのは、この堀である。(*下の写真は、当時の

東京大学予備門)

             Photo

  東京英語学校時代にすでに同校より佐藤昌介、大島正健などを第一期生

として迎えていた札幌農学校(*下の写真)では、優秀な人材をひき続き確

保するため、東京大学予備門の生徒割愛をさかんに文部当局および同予

備門に働きかけていた。

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  六月に同校を訪ねた堀の演説が、北海道の開拓より説き起こし、北国の

風物の興味深い話、学校の官費生の特典につき、熱弁をふるったとされる

のも、この情熱のあらわれにほかならない。



  堀の演説にはげしく心をゆり動かされた生徒のなかから、さっそく一二人

もの応募者があったことは、それでなくとも生徒の割愛に渋面をみせていた

校長を驚かせた。そのなかの一人が鑑三であった。 

  鑑三が、後年「先生はなぜ(東京)帝大にはいらなかったんですか」との

質問に応じて「金がなかったからさ」と呵々(かか)大笑しながら答えた話が

伝えられている。

 

  鑑三の札幌行きについては、北海道の大自然への憧憬とか健康のこと

なども考えられるが、この経済的理由が、やはりもっとも直接的な原因で

あったであろう。 

  札幌農学校に入れば、官費ですべて生活がまかなわれたのである。 

没落士族の子弟で、しかも多勢の弟妹をかかえた家の長男鑑三にとり、

官費生の話は、なによりも魅力であった。

 

  それに、今日では、ただ札幌農学校というと、数ある実業学校の一つの

ように聞こえるが、その時代では、それは東京大学とあいならぶ数少ない

官立の高等教育機関であった(*下の写真は、今日の北海道大学)

                      Photo_3
                     Photo_4


  それにしても、鑑三が、東京大学予備門在学中に札幌農学校に入学す

ることになるのは、それまで定めていた進路の大幅な変更であることには

ちがいなかった。 

  その前の病気休学につづき、少年である鑑三が、このように経済上の

理由で進路の変更を余儀なくされたことは、ともに記憶されてよい。 

  こうして人生における病と貧の問題を、鑑三は、早くも少年期において身

をもって体験したのだった。



 
  東京大学予備門から札幌農学校に入学の定まった学生たちは、札幌へ

の出発に先立ち、芝にあった開拓使御用宿植木屋で、一か月間の合宿を

させられた。

  この間に、洋服などが支給されている。鑑三と太田稲造、宮部金吾、岩崎

行親(のちの第七高等学校長)の四人が立行社と名のる交わりを結成した

のも、この時であった。

 

  身をたて道をおこなうため、四人は「女色、飲酒、煙草、を必ず用いぬ事

を約束」(太田稲造の太田時敬宛一八七七年一○月二七日付書簡)した。

  板垣退助が土佐で起こした自由民権運動の結社を立志社(一八七四年

設立)と呼ぶが、志を立て、身をたてようとすることは、この時代の青年た

ちに共通の抱負であった。 

  海路、札幌に向かった鑑三の胸にも立身出世をとげて、国家のためにつ

くす有為の人となろうとする志が、あかあかと燃えていたことであろう。

 

   入信 

 

  ところで、第二期生たちが札幌に到着するのを手ぐすね引いて待ちかま

えていたのは、すでにキリスト教に全員入信を誓っていた第一期生たち

である。 

  彼らは、第二期生たちを、同じくキリスト教に入れようと、到着後ただち

執拗な勧誘をしかけた。

 

  鑑三が、札幌神社の前に額づき、農学校にはびこる異国の神の撲滅を

祈ったことは、『余は如何にして基督信徒となりし乎』にも述べられている

ことである。 

  第一期生の大島正健によると、開識社といわれる学生の結社に入会した 

入信前の鑑三は、そこでの演説で「余は神を信ぜず、また悪魔をも信ぜず、

ただ人間の心中に存在する一片の精神を信ず、能(よ)くその指導に従えば、

人の人たる道を践(ふ)むに足る」と昂然として言い放っていたという(大島

正健「学生時代の内村鑑三君」)(*下の写真は、当時の内村鑑三)

 Photo_5

  クラークが遺したものの一つに禁酒禁煙の誓約があるが、この方は鑑三

も入学直後に署名している。それは、東京で結んだ立行社の約束となんら

矛盾するものでもなかったからである。 

  しかし、キリスト教への入信には頑強に抵抗した。異国の教えであるキリ

スト教に入ることは、日本への裏切行為になると思われたのだった。

 

  その鑑三もついに同年一二月、クラークの遺した「イエスを信ずる者の

誓約」に署名し、キリスト教に入信することになった。 

  鑑三が署名したのは、必ずしも、キリスト教の信仰にひかれるところがあ

ったからではなかった。 

  第一期生の手ごわい勧誘にあい、第二期生が太田稲造以下次々と署名

したこと、とりわけ同室の親友宮部(*下の写真)の署名が響いていた。

                  Photo_8      


  当時は、札幌といっても、人口はわずか、二、三千にすぎない淋しい

田舎町であった。 

  そのなかでも札幌農学校では全員が寮生活を送り、外国人教師から英語

による講義を受けていた。 

  そこでの生活様式は、衣服に洋服を支給されたのをはじめ、食事も西洋

料理というように、衣食住すべて洋風によっていた。

  鑑三たちの周辺は、いわば西洋社会の一部分がぽっかり切り抜かれて、

そのまま日本の札幌に移されたといっても過言でないような空間が出現し

ていたのだった(*下の写真は、今日でも寒さ厳しい札幌 の冬景色)

                        Photo_10


  近代の日本社会でキリスト教の受容の、大きな障害となったのは、既存

の日本社会の血縁的、または地縁的共同体による規制であった。 

  すすんでキリスト教を受容したのは、「イエ」と「ムラ」を離れて都会に出

ていた身軽な若者たちである。 

  札幌農学校の学生たちも、その意味では、「イエ」や「ムラ」の共同体の

規制からもっとも遠い空間におかれていた。

  しかも、洋風一色にいろどられた空間に隔離されて生活していた。

 

そのうえ上級生全員がキリスト信徒ときている。連日の入信攻撃にあって

は抵抗を保つことの方がむずかしい。 

  鑑三とともに立行社を結成した親友の宮部や太田が署名し、残された

鑑三は、いつまでも非キリスト信徒でとどまることができず、やはり立行社

の一人であった岩崎行親らと同じ日に署名したのだった。

 

  「イエスを信ずる者の誓約」に署名したことは、これによって、鑑三が

キリスト教に入信したとはいっても、別に回心をともなった入信ではなかっ

た。鑑三の回心は、後述するようにアマスト大学在学中に訪れる。

  キリスト教への入信は、立行社を結成したときの誓いが語るように相手

が異国の神であることを除けば、それほど違和感をともなわなかった。 

  それでも、鑑三の生活に若干の変化をもたらしたことは、やはり『余は

如何にして基督信徒となりし乎』にくわしく記されているとおりだ【つづく】



 

 

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