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2013年5月 7日 (火)

内村鑑三(2 )

   
 、若き日の夢

 

 上州人

 

 高崎

 

  群馬県の人たちに子供のころから親しまれているカルタとして「上毛か

るた」がある。 

 群馬県内の名所旧蹟、産物、歴史上の人物などがよみこまれたもので、

一九四七(昭和二二)年に作られた。たとえば「も」では、 

     紅葉(もみじ)に映(は)える妙義山(*下の写真) 

となっている。

                      Photo


  カルタの人物には、関孝和、新島襄、内村鑑三、田山花袋などがとりあ

げられている。 

                          Photo_2

 内村鑑三は「こ」の字のところであらわれる。 

   心の燈台内村鑑三

               Photo_3

 文字札の裏面には簡単な説明が添えてあり、内村鑑三は次のように

描かれている。 

  「宗教家評論家として世界的偉人、高崎藩の江戸屋敷に生れ、札幌農

学校から米国の大学に学び、帰朝後迫害と貧窮の中に著述に専念し聖 

書の研究を発行、日露戦役には非戦論を唱えた熱烈な基督教者であった。 

  『如何にして基督教者となりしか』は世界的名著である。歿年 昭和五年

三月」


  これでわかるように鑑三は、一八六一年三月二三日(太陰暦では万延

二年二月一三日)に、江戸小石川鳶坂上にあった高崎藩の武士長屋に生

れた。 

  父は同藩藩士宜之(よしゆき)、母はヤソである。

 

  鑑三が満五歳のとき、御側(おそば)頭取をつとめていた父宜之は、

藩の軍制を洋式に改革することを主張したが、藩論の一致を見ず、かえ

って高崎に謹慎を命ぜられる。家族は父とともに高崎に移った。これが、

鑑三の上州の風物に接した最初である。 

  高崎の柳川町には、現在、その住居跡に「内村鑑三先生居宅跡(*下の

写真)と記された石碑が建てられている。

         Photo_4
 

  町の近くには烏(からす)川が流れ、子供のころの鑑三は、夏がくるたび

に、この川で魚取りに夢中になった。後年、札幌で水産学を志すことにな

ったのも、この少年時代の影響があるだろう。



  劣悪なる者


  烏川は、その少し下流で碓氷(うすい)川と合流する。ちょうどふたつの

川が合流する辺りを見下ろす小高い位置に今は高崎公園がある。

 (下の写真は、烏川と碓氷川)

          Photo_5

            Photo_6
          

 
  高崎公園の一角、頼政神社の境内に内村鑑三の記念碑が建てられて

いる。碓氷黒石を用いて一九六一(昭和三六)年に造られた。

  (*下の写真は、高崎公園と頼政神社)

            Photo_7
                     Photo


  それには、鑑三の作った次の漢詩が刻まれている。

     
     上州人

 上州無智亦無才

  剛毅朴訥易被欺

  唯以正直接万人

  至誠依神期勝利

              鑑三

         Photo_9

  上州人は無智で無才であり、ぶこつで飾りけがなく、人にあざむかれや 

すい。 

 ただ、正直をもって万人に接し、まごころを尽くして神による勝利を待つ、 

との意味であろう。



  この詩は晩年の作で、一九三○(昭和五)年二月一二日の日記によると、

病床の鑑三を群馬県富岡教会の牧師住谷天来が見舞いに訪れたときに

詠まれたものである。

  天来は、鑑三の旧友であるだけでなく漢詩では先生格であった。

天来が三篇の漢詩を鑑三に与えたのに対し、鑑三の応じた一篇がこの詩

である。

  ただ日記に書きとめられた詩と記念碑に刻まれた詩とは、文字のうえで

やや相違がある。

  記念碑の方で「唯以正直接万人」となっている部分が、日記では「唯以

正直対万事」となっている。記念碑の文は、鑑三が別に書いた自筆の書に

よったものである。

  鑑三と天来とは、ともに上州人であり、この詩が、題名のように上州人の

ことを詠んでいることはまちがいない。



  しかし、鑑三が、ここで上州人と言っているのは、とりもなおさず鑑三

自身のことだ。

 このことをよく表しているのが「私は上州人である」という当時の短文で

ある。そのなかで鑑三は、こう述べている。

  「上州人は日本人の内で最も劣悪なる者である。然るに神の恩恵に由

て私は少しく神の深い事を知るを得て感謝である。

  キリストの十字架の下に立ちて、己が罪の為に泣いたことの無い人は

私の心の底を窺い知ることは出来ない。」

  ここで鑑三が「上州人は日本人の内で最も劣悪なる者」と言うとき、それ

はなにも過去の自己のことを述べているのではない。

  「私は上州人である」との題名がよく語るように、今なお「劣悪なる者」

しての自分のことである。漢詩の「上州無智亦無才」も同じである。

(*下の写真は、内村鑑三と新島襄) 

           Photo_10


  鑑三は、高崎藩の誇り高き武士の子として生まれ、あとで述べるように

その学んだ学校では抜群の成績を示した。

  その人間が、一生の終わり近き日に、自分のことを「無智亦無才」とも

「最も劣悪なる者」とも表白しているのだ。どうしてそうなったのか。

  ここにたどりつく歩みこそ、そのまま鑑三の一生の道であったのでは

ないか。  【つづく】

 

 

 

 


 

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