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2013年5月17日 (金)

内村鑑三(8 )

    進路

  その罪の克服とあわせ、鑑三の心の悩みを、いっそう深めたのは、将来

進むべき職業の方向が定まらないことである。 

  具体的に言うと、どの大学で何を学ぶかが、定まらないことだ。 

養護院の院長夫人はユニテリアンであり、ハーヴァード大学に入ることを

勧めた。

 

  しかし鑑三が、渡米するや、まずフィラデルフィアに来たのは、同地にある

ペンシルヴァニア大学に学ぶ目的を持っていたからである。 

  米国で再会した新島襄は、その母校のアマスト大学(*下の写真は、

今日のアマスト大学)をしきりに勧める。

                    Photo
 

  もしペンシルヴァニア大学に進むならば、医学と生物とを学び、医師に

なる道が開かれる。 

  アマスト大学に進むばあいは、シーリー総長(*下の写真:「内村鑑三

記念文庫デジタルアーカイブ」参照)のもとに伝道者となることである。

鑑三は、この両者のいずれを選ぶべきか、迷いに迷った。

                                Photo_2

  貧しくて多勢の家族を支えていくためには、医師になる道が望ましい。 

鑑三の希望は、もしペンシルヴァニア大学で奨学金が与えられさえする

なら、ここに入り医師になる方に傾きかかった。 

  他方、新島は、この有望な青年を見込んで、熱心にアマスト大学を

勧める。 

 鑑三には、伝道者となり、キリストの教えを日本に広め、日本をキリスト

教国にするのが、入信以来の夢である。




  同年の夏、鑑三は、半年間働いたエルウィンを去り、ボストンの北

約五十キロのところにあるグロースターを訪れた。 

  グロースターは、大西洋につき出たアン岬にある漁港町で、米国一の

漁場として知られていた。それが、鑑三の足を、この町に向かわせた一つ

の理由であったが、鑑三は、この町で祈りつつ、将来の進路につき、回答

を見出すことをはかった。

 

  アン岬の夕景(*下の写真は、今日のアン岬の夕景)は、鑑三が一人

祈るのにふさわしく静かだ。この地にいる間に、英文で「大和魂」を記し、

メソヂスト派の雑誌に送った。

                            Photo_3

  こうして、日本のためいずれの職業につくがよいかに、最後の断が

下された。鑑三が選んだのはアマスト大学に入学し、伝道者となる道で

あった。 

  この決断を下すことにより、「魂の最大の重荷を、底知れぬ深さのグロ

ースター湾に投げ込んだ」鑑三は、清新な気持ちをもってアマスト大学に

向かったのであった。

 

 

   アマスト大学
 

 

  アマスト大学に、ギボンの『ローマ史』五冊のみを持って到着した鑑三が、

最初に訪れたのは、総長シーリーであった。 

  札幌に学んでいるころから、その令名を聞いていた鑑三は、この総長の、

がっちりした体で抱えられるようにして迎えられた。

 

  その翌日には、札幌農学校入学以来、憧れの人であったW・S・クラーク

訪ねている。

 晩年、この世的には必ずしも幸福でなかったクラークは、鑑三に、自分

がこの世でなした最も貴い仕事として、日本における札幌農学校の事業

を語った。 

  翌年三月、クラークの訃報を聞くと、鑑三はただちに筆をとり、その日本

での貴い仕事を米国人に紹介した。 

 

  ボストンから西に約百キロのところにあるアマスト大学は、一八二一年

に創立された小さな学校である。近くをコネチカット川*下の写真)が流れ、

はるかにホリヨークの山なみをのぞむ自然環境豊かな地にある。校舎の

点在する林の樹木にはリスが昇り降りし、広大なキャンパスは芝生が美

しい。牧歌的な学園である。

                                Photo_4

                 Photo_5

 

  米国時代のことを記した「流鼠録(りゅうざんろく)」のなかで鑑三は、あの

歴史もあり、規模も大きく、名声に富むハーヴァード大学でなく、この田舎

の小さなアマスト大学を選んだ理由を、次のように言っている。

  「「アマスト」の重んずる所は、むしろ徳にありて智にあらず、主義にあり

て事業あらず、鍛錬にありて識量にあらず、人を離れて自然と自然の 

神とに交わるにあり、拠典(オーソリテー)に頼らずして独創の見を促す  

にあり、高潔なる主義を慕うもの、厳然たる独立を愛するもの、倹を好む  

もの、峻を悦ぶものは、来たりてこの校に学ぶもの甚だ多し」 

 


  このハーヴァード大学とアマスト大学との比較は、あたかも日本の東京

帝国大学と札幌農学校との比較を連想させられる。 

  鑑三の経歴をみるとき、官軍に対して佐幕派の藩士の家に生まれ、東京

大学ではなく札幌農学校に進み、米国では、ハーヴァード大学でなくアマス

ト大学に学ぶコースをたどる。




  ここには、一つの共通点を見出すことができる。官軍、東京大学、ハー

ヴァード大学を陽とするならば、佐幕派、札幌農学校、アマスト大学は

陰である。 

  もちろん、後者といってもエリートであることには変わりないが、それでも

前者のコースが華やかな表の街道であることと対照すると、やはり暗い陰

のある裏の街道である。

  前者のコースを悠々と行く能力を備えた鑑三が、その人生において、

後者の道を歩み、またそれを選んだことは、他の陰を帯びて人生を歩む

人間への共感を育てることになったのではないか。 

  後述するように、教会に対する無教会の唱道も、同じ対照の延長線上

にある。

 

     回心





  選科生として三年に編入したアマスト大学での生活は、偉大な総長シー

リーの暖かな魂へのみとりに守られ、鑑三が第二の母校というにふさわし

い生活をもたらした。 

  一八八六年三月八日、鑑三に訪れたキリスト教信仰上の回心と名づけ

られる体験は、この情愛溢れる師シーリーの導きによったものだ。 

  アマストで学ぶようになってからも、心内の自己中心的傾向、つまり罪

の克服をめぐる闘いは依然として継続していた。

 

  ところが、ある日、シーリーは鑑三に向かって、次のような言葉を投げ

かけた。 

  「内村、君は君の内をのみ見るからいけない。君は君の外を見なけれ

ばいけない。 

 何故おのれを省みる事を止めて、十字架の上に君の罪を贖(あがな)い

給いしイエスを仰ぎみないのか。 

  君の為す所は、小児が植木を鉢に植えて、その成長を確かめんと欲して、

毎日その根を抜いて見ると同然である。

  何故に、これを神と日光とに委ね奉り、安心して君の成長を待たぬ

のか」(「クリスマス夜話=私の信仰の先生」)
                       Iesu
  この一言の示唆により、鑑三は回心を体験した。これまでわかりかけて

いたものが雲を払い、十字架のキリストの贖いの意味が、鑑三に明らか

に示されたのだ。 

  言いかえれば、罪の克服と言うことは、人間の努力や道徳的な行為に

よるものでないことを覚らせられたのである。

 

  この回心の体験は、鑑三の心の世界を一転して明るくした。五月二六日

の日記には 

「小鳥、草花、太陽、大気、―なんと美しく、輝かしく、かぐわしいことか!」

との歓喜の目でみた自然の讃歌がみられる。

  鑑三の味わったこの回心の体験は、彼がキリスト教に入信して以来、

徐々に形成されつつあった新しい人間観を確立させたものともいってよい。

 

  それは、行為主義、律法主義に対し、信仰主義にもとづく人間観、価値

観である。 

 行為主義の人間観では、よい行為の数多くできる人々、すなわち善人、

賢者、強健な人間が尊ばれ、これに反して、罪人、貧者、愚者、病人、

弱者は軽んじられる。

 

  ところが、信仰のみによる信仰主義の人間観では、善行の多寡は問わ

れない。 

 この信仰主義の人間観においてはじめて、罪人、貧者、愚者、病人、

弱者は、同じ人間とみなされるのだ(*下の写真は、アマスト大学

在学中の内村鑑三)

                           Photo_6

  一八八八年、アマスト大学を卒業するにあたり、鑑三は選科生として

入学したにもかかわらず大学当局は、正規の卒業生扱いとし、理学士

(Bachelor  of  Science )の称号を授けた。 

  現在、アマスト大学の総長室には、石河(いしこ)光哉の描いた鑑三の

肖像画がかけられている。  【つづく】

 

 

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