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2013年5月11日 (土)

内村鑑三(5 )

    愛の共同体



 キリスト教の唯一神信仰が、多神教信仰の結果、鑑三をおちいらせて

いた神々の要求の相互衝突から、鑑三を解放したことが、その一つである。 

  だが、鑑三の生活に、なによりも大きな変化を与えたのは、立行社の誓い

が、自己一身の修養にとどまったのに対し、キリスト教は、他者との交わり

の宗教であったことだ。 

 

  鑑三は、キリスト教に入信したからには、まず、信徒相互の間の交わりは

「兄弟よりは密接な関係」という新しいものでなくてはならないと考えた。 

  血肉にもとづく兄弟の愛は本能的なものだが、キリスト信徒の愛は信仰

による。 

  ここにはじめて鑑三は、キリスト教的愛のきずなで結ばれる共同体を体験

することになった。ただし、その愛は、いまだ倫理的、努力的なものであった。




  大島正健、佐藤昌介、伊藤一隆、黒岩四方之進たち第一期生といっしょ

に、札幌農学校で、この愛の共同体を形成した第二期生は、鑑三を含めて

七人であった(*下の写真は、後年の大島正健と佐藤昌介)

            Photo_2

  七人はそろって一八七八(明治一一)年六月二日、メソヂスト監督教会

教師のM・C・ハリスにより、洗礼を受けた。その年の暮には同教会に

入会した。 

  これは「イエスを信ずる者の誓約」に「機会のありしだい福音主義教会に

おもむき、試問と洗礼とを受け、入会することを約束する」とあったためで

もある。

 

  洗礼の結果、第二期生の七人は、それぞれ自分でクリスチャンネーム

を選んでつけた。 

  太田稲造はパウロ、宮部金吾はフランシス、足立元太郎はエドウィン、

広井勇はチャールズ、高木玉太郎はフレデリック、藤田九三郎はヒュー

であり、鑑三が選んだのがヨナタンである。 

  鑑三は、旧約聖書サムエル書に出てくるダビデに対するヨナタンの友愛

にあやかって、これを選んだと言っている。ここにもキリスト教入信に寄せ

る鑑三の心意が反映している。 

 

  札幌には、そのころまだ教会はなかったので、毎日曜日の礼拝は学内

で開かれ、水曜日には祈祷会が守られた。「教師」の役は、めいめい交代

でつとめた。 

  メソジスト監督教会やイギリス監督教会の宣教師たちは、まれに札幌を

訪問するだけであったから、祈祷は、形式にこだわることなく、学生たちが

勝手な流儀で行なっていた。

 

  一見、原始キリスト教を想像させるような素朴な集会であったが、活力に

富んでいた。鑑三が、のちに、たびたび讃美歌の一節 

  我らの心をキリストの愛に    繋ぐその索(つな)は祝すべきかな 

をあげて回顧するように、固い結合と和気に溢れたものだった。

 

  この一団が、近代日本のプロテスタント史上、横浜バンド、熊本バンドと

ならび札幌バンドと呼称されることになる(*下の写真は、横浜バンド:

中央が若き日の植村正久)

             Photo_3


  この楽しい集会に最初の影がさすことになったのが、一八八○年の第

一期生の卒業である。 

  第一期生のなかには、伊藤一隆のようにイギリス監督教会の宣教師

から受洗していた者もいた。 

  このころ札幌に同派は講義所を開いていたから、今まで、同じ農学校の

なかで一つの集会を続けていた集団のなかより、この講義所へ出席する

者が出て、仲間は二つに分裂することになる。

  鑑三たちは、この事態に直面して、「はじめて教派主義の悪弊」を感じた

と述べている。





   
白官邸

 

  こうして青年たちが独自の力で自分たちの教会を建設しようとする努力

が開始された。 

 新しい教会の建物といっても、第一期生は社会人一年生であり、あとは

まだ学生の身分である。資金があるはずはなく、結局、メソジスト監督教会

から借金のかたちで援助をとりつけ、建設の準備を進めた。

 

  一八八一年の七月になると、今度は、鑑三たち第二期生も卒業の日を

迎えた。鑑三は「漁業もまた学術の一なり」と題する卒業演説をおこなった。 

  また、入学以来、常に首席を保ってきた鑑三が、卒業生を代表して別れ

の挨拶を述べた。教師たちに対して感謝の意を表したあと、後輩を激励、

最後に同級生に向かって、こう語りかけた。

 

  「今吾輩は本校の学科を卒業したりといえども、決して榲袍(おんぽう・・・

「おん」は、本来は「イト偏」ですが、適字が見つからず、とりあえずキ偏で

書いています。)安んずるものに非(あ)らず。 

  これより艱難の道に入りぬべし。今日はその艱難の途の門戸なり。 

諸君よ、請う、安逸に肯(がえん)ぜず、その屍を北海の浜に暴(さ)らすの

素志を棄つるなかれ」 

 

  これは、この式に一年生として列席していた志賀重昂(しげたか)の日記

に書きとめられた言葉である。 

  鑑三のこの挨拶は、後輩の志賀の心を大きくゆさぶったのみでなく、参列

者一同に深い感動を与えた(*下の写真は、後年の志賀重昂)
       

            
                          Photo_8


  卒業にあたり、鑑三と太田稲造、宮部金吾の三人は、札幌の小公園偕

楽園に行き、将来、一身を二つのJ、すなわちJesus Japan とに捧げる

とを誓いあった。 

  これを誓うのは簡単であったが、両者にともに尽くすことは鑑三にも稲造

にも一生を通じて大きな課題となる。 (*下の写真は、左から太田稲造、

宮部金吾、内村鑑三:その下は、後年の宮部金吾)

                                Photo_9
      
              Photo_10

  鑑三らは卒業後、官費生の約束にしたがい、開拓使御用係に任ぜられ、

月給三○円を給せられることになった。 

  鑑三は、民事局勧業課につとめ、水産を担当した。札幌農学校では、

第二期生たちに、正規の学業のほかに、特別の学科を選んで研究させる

方針をとっていて、鑑三の専攻していたのが動物学であり、なかでも水産学

であったのだった。



  キリスト信徒たちの待望の新しい教会は、とりあえず、南二条西六丁目

にあった古い家屋を購入して、それを教会とすることになり、一八八一年

一○月には、その家屋が手に入り、礼拝もはじめられた。

 

  二軒続きの長屋の半分であり、五〇人も入ると、もう満員となる建物

である。外壁が白く塗られた洋館であったため、白官邸と呼ばれたもの

である(*札幌独立キリスト教会:昔と今)

              Photo_5


        Photo_6

 

  これが今日の札幌独立教会の前身である。同じ一○月には札幌YMCA

も結成され、鑑三は、その副会長になった。  【つづく】
                    

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