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2013年5月 9日 (木)

内村鑑三(3 )

    英学




  高崎にあって、はじめは白井という人より手習いを授けられた鑑三は、

高崎藩の設けた英学校に入り東京から招かれた「小泉先生」より、はじ

めて英語を教えられた。

 

 このときのことを思い出して詠まれた歌がある。 

    腰に刀(とう)帯びて学びしABCD  罪断つ道の端緒(はじめ)たらん

とは


  この英学校は、みずからも大学南校で英語を学んだ藩主大河内輝声

によって創設されたものである。 

  憲政擁護運動で知られる尾崎行雄(*下の写真)も、その少年時代は、

この英学校で学んだ。

                          Photo_2


  古き秩序と父の凋落とを目のあたりにした少年鑑三が、儒学に代わり、

次代の学問として英学にいそしむようになったのも自然である。 

  一八七三(明治六)年、鑑三は単身上京して、有馬私学校英学校に

入学した。 

  有馬私学校は、有馬頼咸(よりしげ)を校主として、この年、赤坂表に

あるその邸内に開業されたばかりの学校である。 

  学科は皇漢兼学、英学、数学、習字学の四科に分かれ、生徒は約二百

人在籍していた。ここでは、のちの日本銀行総裁、三島弥太郎といっしょ

であった。三島とは、ふたたびアマスト大学でも交友を結ぶ。




  有馬私学校に約一年学んだあと、鑑三は東京外国語学校の下等四級

に編入した。 

 同校は、開成学校の語学部が独立したものであり、英語学のほかに仏語

学、独逸語学、魯語学、漢語学が設けられていた。 

  鑑三が入学した年、英語学のみ、さらに独立して東京英語学校になり、

一八七七年(明治一○)年には東京大学予備門となる。

 

  各過程は、下等第六級から上等第一級までおかれ、一年で二級進み、

六年間で修了する制度になっていた。 

  鑑三が入学したとき、下等第三級には、のちの首相加藤高明(*下の

写真)、同級の下等第四級には政治家となる末松謙澄、下等第五級には

経済学者となる天野為之、北大総長になる佐藤昌介、下等第六級には

ローマ字の田中館愛橘(たなかだてあいきつ)、生物学者となる石川千代

松、札幌農学校で同期となる植物学者宮部金吾らが在学していた。

              Katou

  

  鑑三は、この学校で、教師のM・M・スコットより、グループ・メソッドとも

呼ばれる新しい英語教育を受けた。 

  これまで授けられていた英語教育が、単語暗記主義と文法尊重主義

であったのに対し、スコットは英語を単語に分けることなく、まとまった文

(グループ)として覚えさせ、作文をはじめ実地にどしどし使わせるやり方

をとった。 

  鑑三は、この教育に接し「新天地」に導き入れられたように感じた。

 

  休学 

 

  英語学校に在学中、鑑三は病気にかかり一年あまり休学をした。病名

は肋膜炎とも結核ともいわれる。当時東京で開業していた杉田玄白の

後裔杉田玄瑞から治療を受けた。鑑三自身は、この病気休学中のことに

ついては、ほとんどなにも残していない。

 

  英語を学ぶために単身で上京した少年が、一年余の期間を病床で過

ごさなければならなかったのだ。このことは、人生につき何か感じさせる

ものを与えたにちがいない。

  病気で一年遅れたことにより、復学した東京英語学校では、太田(新渡

戸)稲造(*下の写真)宮部金吾とは同級になる。 

              Photo_7
         

   この二人とは、ただ同級となっただけでなく、とくに親交を結び、一日お

きに学校以外の所、たとえば湯島の聖堂などで会うことにした。 

  三人が会ったときの会話は必ず英語を用いることにし、あやまって

日本語が口に出たら五厘の罰金が課せられた。

 

  この英語学校在学中、内村は、ウィルソンの第三リーダーのなかで、

はじめて旧約聖書の物語に接した。 

  創世紀のアブラハム、ヤコブ、イサクの話で、それは内村の心に忘れ

がたい印象を与えたと語っている。 

  ウィルソンの第三リーダーには「聖書物語」が収められている。しかし、

第二リーダーにも、神やモーセの十戒の紹介はある。

 

  鑑三の英文著書『余は如何にして基督信徒となりし乎』( How  I  Became

Christian ) によると、学校友だちの一人と連れだち、築地の外人居留

地の教会に行き、婦人宣教師の話を聞いたことが記されているが、これも、

有馬私学校か、東京英語学校に在学中のことである。

 

 

  札幌バンド




  札幌農学校

 

 

  東京英語学校は、一八七七(明治一○)年四月に東京大学予備門と

改称され、そこを修了すれば東京大学への進学が認められることになっ

た。

 

  ところが、その年六月、開拓使によって設けられた札幌農学校に、鑑三

を含めて多くの学生たちが転学を希望する出来事が起こる。 

  そのまま東京大学予備門にとどまれば、おのずと最高学府の東京大学

への道が開けていたのに、鑑三たちは、なぜわざわざ北の果てなる札幌

の地で学ぶことを志したのだろうか。

 

  札幌農学校は、一八七二(明治五)年、芝の増上寺内に設置された開拓

使仮学校をその前身としている。一八七五年に札幌学校と改称されて札幌

に移転。 (*下の写真の前列左端が新渡戸稲造、その中央が内村鑑三、

後列右から二番目が宮部金吾)
                    
                           Photo_8

  一八七六年、農業の専門教育機関として札幌農学校を新設することに

なり、米国から、マサチューセッツ農科大学学長のW・S・クラーク(*下の

写真)が、教頭として招かれた。

              Photo_4


  札幌農学校に赴任してきたクラークの話はあまりにも名高い。その教育

方針は、なによりもまず人間教育に置かれていた。開学まもなく生徒一同

を集めて「紳士たれ(Be  gentleman !)」と告げ、生徒各自の「自主自行」

の精神を重視することを伝えている。

  クラークは開拓使長官黒田清隆に対し、教育の基礎として聖書を用いる

ことを主張、これを承諾させた。

 

  学科科目は、その母校アマスト大学にならい、専門科目だけでなく、

一般教養科目の学習も重視し、四年生になっても心理学や経済学の履修

が要求された。 

  クラーク自身は植物学などを担当したが、その植物学の時間に聖書の

講義があり、聖句を生徒たちに暗誦させたこともあった。



  一八七七(明治一○)年三月、クラークは、みずから「イエスを信ずる者

の誓約(Covenant  of  Believers  in  Jesus ) 」を作成し、これに、第一期

生一六人全員の署名をさせた。

  同年四月一六日、日本政府との契約期間が終わって、クラークは、いよ

いよ札幌を去る日を迎えた。

                      Photo_5


  馬に乗り島松まで送って来た学生たちに向かい、別れの言葉を述べた

あと、ふたたび馬上の人となったクラークが「少年よ、大志を抱け(Boys,be

ambitious !)」の一声を残して、白い雪道をかけ去った話は、もう札幌農学

校にまつわる一つの神話になっている。  【つづく】



 

 

 

 

 

 

 

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