内村鑑三(6 )
水産学
一八八二年二月に、開拓使が廃止されたため、鑑三の所属は札幌県
御用係となった。
名称は変わっても実質的な仕事には変わりなく、漁業調査のため出張
旅行をする一方、水産学の研究もあわせておこなわれていた。
このころから『大日本水産会報告』に数多くの論文を掲載しはじめる。
その第一号(一八八二年三月)に載った「千歳川鮭魚減少の源因」や
「石狩川鮭魚減少の源因」(第二六号)などはいずれも魚の減少につき、
科学的調査をおこなったうえで対応策を述べたものである。
(*下の写真は、千歳川・・・上2枚、と今日の石狩川 )
(*上は、明治初期:開拓時代の千歳川
下は、今日の千歳川 )
後者の報告には「天然物の消耗」の原因が「文明」の発展によること
の大きいことを強調、たとえば石炭山の採掘などをあげている。
今日、鮭を呼び戻す運動が、あちこちでさかんに、くりひろげられている
のをみるとき、早くも鑑三が、人間の文明による自然破壊にその原因を
認めて、その保護を力説していることは目をひく。 (*下の写真は、鮭)
天然資源の保護をはかることと同時に、人工孵化などによって蕃殖を
増進することにも鑑三の関心は注がれた。一八八二(明治一五)年九月
上旬、高島郡祝津(しゅくつし)村でアワビ(*下の写真)の蕃殖実験をお
こなったのも、その一つである。
鑑三のおこなったのは蕃殖のための基礎研究ともいえるもので、まず
アワビの生殖器の所在を確認することであった。
研究の結果、約一か月後に、その卵子を発見、また、一定の大きさ以上
のアワビにしか排卵されないこともわかり、鑑三は、小さなアワビの捕獲
禁止の提案をした。
顕微鏡下にアワビの卵子を見つけたとき、鑑三は雀躍(こおど)りして喜 んだ。「世界的にも珍しいと思う」と自負するような発見だった。
役人に疑問がつのりはじめた。
それは、主として役人たちの腐敗をみたことによっていたが、他方では、
このころ、親友の宮部は、札幌農学校の教員となるため東京大学に
植物学の勉強に派遣されていたこと、太田(新渡戸)も札幌農学校で教鞭
をとっていたことが刺激になったことであろう。
鑑三の胸のうちには、役人をつづけていく道と、生物学の学者になる道と、
キリスト教の伝道者になる道とが三つどもえになってあらわれ、職業選択
上の迷いを生じさせた。
教会建設資金としてメソヂスト教会より借りた金を返済するため、一八八
二(明治一五)年一二月に上京した鑑三は、翌年東京で開かれる予定の
水産博覧会札幌県委員として、ひきつづき東京に滞在した。
この間、五月に開催された第三回全国キリスト信徒大親睦会には、札幌
教会代表の名で参加、「空ノ鳥ト野ノ百合花」と題する有名な演説をおこな
って、内村鑑三の名を全国のキリスト信徒の間にとどろかせた。
札幌県辞職願は、六月に受理されたが、生活のために、津田仙(*津田
梅子の父:下の肖像画)の学農社農学校の教師となる。
同年一二月からは、不本意ながらふたたび役人として農商務省の水産
課に勤め、そこで、日本産魚類目録の作成に従った。
結婚と離婚
一八八四(明治一七)年三月二八日、鑑三は浅田タケと結婚。タケは、
前年の夏、鑑三が安中教会(*下の写真は、今日の安中教会)を訪問した
ときに知った女性である。
同志社および横浜の女学校(現在の横浜共立学園)に学び、新島襄が、
安中教会で最初に授洗した三十人の一人である。
二人が結婚に至るまでには、鑑三の両親、ことに母親の強硬な反対が
あり、鑑三も、一時は結婚を断念したほどであったが、なんとか挙式まで
こぎつけることができた。
母親の反対理由は、タケが「賢すぎる、学問がありすぎる、知的すぎる」
(一八八三年十月三十日付太田稲造宛書簡)という点にあった。
上野の長蛇亭でおこなわれた結婚式に招かれたA・クララの日記によ
ると、式が終わり、司会者のM・C・ハリスが「ウチムラフーフ」と言ったとき、
花嫁の口からは、くすくすと笑いが聞こえた(Clara's Diary. 1979)。
外国人女性であるクララの目にも、それは明治時代の日本人女性として
異様に映じたようだ。
その年七月、鑑三が農商務省の役人として榛名湖(*下の写真)の水産
調査に出張したときには、妻タケも同行し、土地の人々を少なからず驚か
せている(「柴田美能留日記」)。(*下の写真は、榛名山と榛名湖)
やがて、この結婚は、半年ももたずに破局を迎える。離婚の理由につい
ては、タケの異性関係に或る問題があり、彼女が「羊の皮を被った狼」で
あったと述べられている以外、今日も依然として真相は明らかでない。
タケと別れた鑑三が愛読したのは旧約聖書ホセア書である(中沢治樹
『若き内村鑑三論』参照)。
ホセアは神によって「淫行の婦人を娶れ」と命ぜられた予言者である。
のちに鑑三は、神がホセアに、この苦痛を命じた聖旨について、こう述べ
ている。
「彼は辛き自身の実験に由て姦淫の意味をさとった。妻が夫に背くの
心は、民が神に背くの心であるを知った」(何西何〔ホセア〕書の研究)。
タケとの離婚は不幸な出来事であったが、鑑三の罪意識と信仰、女性観
などに及ぼした影響は大きく、もしそれがなかったとしたら、後年の鑑三は
別のものになっただろう。 【つづく】
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