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2013年5月13日 (月)

内村鑑三(6 )

   水産学


  一八八二年二月に、開拓使が廃止されたため、鑑三の所属は札幌県

御用係となった。 

  名称は変わっても実質的な仕事には変わりなく、漁業調査のため出張

旅行をする一方、水産学の研究もあわせておこなわれていた。

 

  このころから『大日本水産会報告』に数多くの論文を掲載しはじめる。 

その第一号(一八八二年三月)に載った「千歳川鮭魚減少の源因」や

「石狩川鮭魚減少の源因」(第二六号)などはいずれも魚の減少につき、

科学的調査をおこなったうえで対応策を述べたものである。

(*下の写真は、千歳川・・・上2枚、と今日の石狩川 )

                  Photo

        (*上は、明治初期:開拓時代の千歳川

          下は、今日の千歳川 )

        Photo_10

       Photo_11

 

  後者の報告には「天然物の消耗」の原因が「文明」の発展によること

の大きいことを強調、たとえば石炭山の採掘などをあげている。 

  今日、鮭を呼び戻す運動が、あちこちでさかんに、くりひろげられている

のをみるとき、早くも鑑三が、人間の文明による自然破壊にその原因を

認めて、その保護を力説していることは目をひく。 (*下の写真は、鮭)

        Photo_4

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  天然資源の保護をはかることと同時に、人工孵化などによって蕃殖を

増進することにも鑑三の関心は注がれた。一八八二(明治一五)年九月

上旬、高島郡祝津(しゅくつし)村でアワビ(*下の写真)の蕃殖実験をお

こなったのも、その一つである。

                        Photo_6

  鑑三のおこなったのは蕃殖のための基礎研究ともいえるもので、まず

アワビの生殖器の所在を確認することであった。 

  研究の結果、約一か月後に、その卵子を発見、また、一定の大きさ以上

のアワビにしか排卵されないこともわかり、鑑三は、小さなアワビの捕獲

禁止の提案をした。

  顕微鏡下にアワビの卵子を見つけたとき、鑑三は雀躍(こおど)りして喜 

んだ。「世界的にも珍しいと思う」と自負するような発見だった。

  ところが、そんな大発見にもかかわらず、しだいに鑑三は、職業としての

役人に疑問がつのりはじめた。

 

  それは、主として役人たちの腐敗をみたことによっていたが、他方では、

このころ、親友の宮部は、札幌農学校の教員となるため東京大学に

植物学の勉強に派遣されていたこと、太田(新渡戸)も札幌農学校で教鞭

をとっていたことが刺激になったことであろう。  

  鑑三の胸のうちには、役人をつづけていく道と、生物学の学者になる道と、

キリスト教の伝道者になる道とが三つどもえになってあらわれ、職業選択

上の迷いを生じさせた。

 

  教会建設資金としてメソヂスト教会より借りた金を返済するため、一八八

二(明治一五)年一二月に上京した鑑三は、翌年東京で開かれる予定の

水産博覧会札幌県委員として、ひきつづき東京に滞在した。 

  この間、五月に開催された第三回全国キリスト信徒大親睦会には、札幌

教会代表の名で参加、「空ノ鳥ト野ノ百合花」と題する有名な演説をおこな

って、内村鑑三の名を全国のキリスト信徒の間にとどろかせた。

 

  札幌県辞職願は、六月に受理されたが、生活のために、津田仙(*津田

梅子の父:下の肖像画)の学農社農学校の教師となる。

          Photo_7

  同年一二月からは、不本意ながらふたたび役人として農商務省の水産

課に勤め、そこで、日本産魚類目録の作成に従った。

 

   結婚と離婚 

 

 一八八四(明治一七)年三月二八日、鑑三は浅田タケと結婚。タケは、

前年の夏、鑑三が安中教会(*下の写真は、今日の安中教会)を訪問した

ときに知った女性である。

        Photo_8
 

  同志社および横浜の女学校(現在の横浜共立学園)に学び、新島襄が、

安中教会で最初に授洗した三十人の一人である。 

  二人が結婚に至るまでには、鑑三の両親、ことに母親の強硬な反対が

あり、鑑三も、一時は結婚を断念したほどであったが、なんとか挙式まで

こぎつけることができた。 

  母親の反対理由は、タケが「賢すぎる、学問がありすぎる、知的すぎる」

(一八八三年十月三十日付太田稲造宛書簡)という点にあった。

 

  上野の長蛇亭でおこなわれた結婚式に招かれたA・クララの日記によ

ると、式が終わり、司会者のM・C・ハリスが「ウチムラフーフ」と言ったとき、

花嫁の口からは、くすくすと笑いが聞こえた(Clara's  Diary. 1979)。 

  外国人女性であるクララの目にも、それは明治時代の日本人女性として

異様に映じたようだ。



  その年七月、鑑三が農商務省の役人として榛名湖(*下の写真)の水産

調査に出張したときには、妻タケも同行し、土地の人々を少なからず驚か

せている(「柴田美能留日記」)(*下の写真は、榛名山と榛名湖)

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  やがて、この結婚は、半年ももたずに破局を迎える。離婚の理由につい

ては、タケの異性関係に或る問題があり、彼女が「羊の皮を被った狼」で

あったと述べられている以外、今日も依然として真相は明らかでない。

 

  タケと別れた鑑三が愛読したのは旧約聖書ホセア書である(中沢治樹

『若き内村鑑三論』参照)。 

  ホセアは神によって「淫行の婦人を娶れ」と命ぜられた予言者である。

のちに鑑三は、神がホセアに、この苦痛を命じた聖旨について、こう述べ

ている。

 

  「彼は辛き自身の実験に由て姦淫の意味をさとった。妻が夫に背くの

心は、民が神に背くの心であるを知った(何西何〔ホセア〕書の研究)。 

  タケとの離婚は不幸な出来事であったが、鑑三の罪意識と信仰、女性観

などに及ぼした影響は大きく、もしそれがなかったとしたら、後年の鑑三は

別のものになっただろう。  【つづく】

 

 

 

 

 



                

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