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2013年5月

2013年5月31日 (金)

内村鑑三(18 )

 天国の社会




  鑑三の純粋に理想的な「独立国」構想は、一九○○(明治三三)年四月に、

東京独立雑誌社から刊行された単行本『宗教座談』のなかに描かれている。 

  そこでは、樗牛の言う「現世の筆と紙とによりて他界の事」である天国が、

好ましい一つの国家のように述べられている。

 

  鑑三の描く天国には、それ相応の労働があり、この労働の一つとして

教育もある。 

 天国の教育が現世の教育と違うのは、そこには「政府に媚び国民に

諂(へつ)らうような」学者はおらず、「無学の故を以て人の前に羞(はじ)

感ずる事」なく、国会議員(鑑三は、今の国会議員で天国に入る者は

ほとんどいないことを付け加えている)と童子とが共に学んでいる。

 

  天国での美術は、快楽を充たすものではなく「理想の発表」であり、これ

を教えているのが、ミケランジェロ(*下の肖像画)やベートーヴェン(*下

の肖像画である。

                          Photo
 

                          Photo_5


 

  政治は「国民各個に彼れ相応の職を与え、彼をして他人の職を侵略せ

しめず、一意専心に天が彼に命ぜし職分を尽くさしむること」にあった。 

  天国の王はキリスト(*下の肖像画)である。キリストが王となったのは

謙譲の心の結果であり、それにならって天国の総理大臣には「その市民

の中で最も微(ちい)さき者」が就く。

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  鑑三の描いたこの天国の社会こそ、詩人の産といわれるにふさわしい

理想的な「独立国」の姿であった。 

  これは、たしかにユートピアであるが、鑑三は、日本の社会に、これに

近い国が出現するのを、ほんとうは夢みていたのではなかろうか。 

  それでなければ、天国の政治、教育、美術などにわたり、それほどこと

細かく述べる必要はなかったからだ。

 

  「理想の独立国」の樹立は前途遼遠であったが、鑑三は、当時、その

ひな型ともいうような「小独立国」を身近にうちたてていた。

  それは、角筈(つのはず)で女子独立学校を経営していた加藤とし(鑑三

を新潟の北越学館に招いた加藤勝弥の母)が、一八九九(明治三二)年

六月、世を去るにあたり、後事を鑑三に託し、鑑三が同校の校長に就任

したことに始まる。



  女子独立学校は加藤としによって一八八九(明治二二)年に創立され、

生徒たちは、キリスト教にもとづく教育を授かるかたわら、手芸などの労働

に従っていた。 

  これまで、ひとに雇われるかたちで教育にしたがい、不快な思いばかりし

てきた鑑三にとり、全権ある校長の地位は大きな魅力であったにちがいない。

 

  名前も『東京独立雑誌』と同じ「独立」の言葉をもつ学校だった。鑑三

校長になると同時にクヌギ林にかこまれた角筈の女子独立学校内に居

移し、『東京独立雑誌』の発行所もそこに変更した。

                       Photo_4

  『東京独立雑誌』の編集、経営の全責任をもつ主筆となったうえに、女子

独立学校校長として千五百坪の土地をもつ校内に居住したのだ。 

  いわば言論機関と教育事業とを手中にし、鑑三が一国一城の主の気分

になったのは当然である。

 

  この少し前より『東京独立雑誌』に「たらしめば文学」の欄を設け、みず

から初回に「余をして若し総理大臣たらしめば」と書いていた鑑三である。 

  たちまち「小独立国」の「大統領」になっても不思議でなかった。







   
小独立国





  もっとも、こんな境遇の鑑三を最初に「大統領」と表現したのは、社員の

佐藤迷羊であった(「小独立国」、『東京独立雑誌』三九号、一八九九年

八月五日)が、まもなく、鑑三もその気になって『東京独立雑誌』には、

「『小独立国』の現況」(四二号、同年九月五日)以下、「小独立国」の情勢

につき「大統領」みずから報告する記事が次々と目立つことになる。

 

  「小独立国」には鑑三「大統領」一家のほかに東京独立雑誌社の社員

たちも同居していた。 

  人々が、労働と読書と祈禱を共にし、時々「大統領」が一同を集めては

大笑いをさせる生活が演ぜられていた。鑑三は述べている。

 

  「『小独立国』は改造せる新日本国の小模範を以て自ら任ずるものとし

て、我等は千五百坪のこの小国より十五万方哩(マイル)の大帝国を感化

せんとする大計画を懐く者なり(「『小独立国』の新年」、『東京独立雑誌』

五四号、一九○○年一月五日)

 

  鑑三は、この角筈の「小独立国」を拠点として、そこから「余の欲する改

革」で著わしたような地上の「独立国」の樹立をはからんとしたと言えよう。 

  そのばあいも天上の理想国は常に永遠の都としてその背後にある。 

「ひな型」としての「小独立国」と、現実に可能なものとみた「独立国」と、

天上の純粋な理想国との三者が、有機的な関係を保ち、意外に柔軟で

あるのが、鑑三の「独立国」論であるといってよい。






  読者




  『東京独立雑誌』は、その実現のための唯一の武器にあたっていた。
 

手応えは充分にあり、後述する第一回の夏期講談会の出席者にみら

れるような青年たちから、熱烈な支持を受けた。

 

  正宗白鳥らの文学青年、岡山県津山の森本慶三、長野県穂高近辺の

萩原守衛(碌山(*下の写真)相馬愛蔵、井口喜源治たち、茨城県の

朝比奈儀助、根本益次郎、島根県の今岡信一良、兵庫県の魚住影雄

(折蘆)などという地方在住の青年たちにも広く愛読された。

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  魚住折葦の次の言葉は、『東京独立雑誌』が、年若い青年たちに何を

与えたかをよく代弁するものだ。 

  「かかる折柄、内村鑑三氏の『東京独立雑誌』が世を罵り社会を呪うて

現われた。 

 焔(ほのお)をはくが如き氏の不平と冷嘲熱罵は、僕をして同感の胸を

躍らせて、氏と共に慷慨の腕を扼(やく)せしめた(*「握りしめる」の意)。 

  而して氏の中心思想は正義であった。世界主義であった。換言すれば

人道あった。宗教的人道であった」(『折蘆書簡集』所収「自伝」)



  折蘆は、なおつづけて『東京独立雑誌』に心酔した一少年が、「正義の

国、義人の国」を夢みて、この現実世界が、どれほど、その理想国とあい

いれないものなるかを痛感したとも述べている。 

  『東京独立雑誌』の読者は、社会の「強権」にもとに鬱屈を感じていた

青年たちの不満や私憤を、公憤に変えたが、都会の青年のみならず、

地方の農村部にも多くの読者を見出していたことが特徴的である。

 

  それらの青年たちのなかから、後年、社会主義運動に進んだ者も少な

くない。

  同じ改革運動といっても、社会主義による改革運動との間に一線のあ

ることを鑑三が宣言するのは、もう少し後になるが、東京独立雑誌社の

社員の間にも読者の間にも、しだいに、自己自身の改革をかえりみるこ

となく、外の世界の改革のみを唱える単なる不平の士が増大するのは、

鑑三の本意ではなかった。

 

  やがて、キリスト教の救済史のうえでの日本の使命を、世界の歴史の

興亡のうちにさぐり、「背徳」の日本が亡国にいたらぬ道を、いっそう強く

唱える必要にかられようになった。 

  こうして「美訓と其註解」(三十号、一八九九年五月五日)をはじめとする

聖書の註解文の掲載がみられるようになり、四三号(同年九月一五日)

からは大論文「興国史談」の連載が開始された。






  廃刊





  ところが『東京独立雑誌』は、一九○○年七月五日の第七二号をもって、

突如廃刊されることになった。 

 その原因としては、鑑三は「余の女子独立学校における或る公的行

為」が、東京独立雑誌社社員の大非難を浴び、ついに分離しなければなら

なくなったことしか語っていない(「独立雑誌の最後」)。



  同社の社員でもあり女子独立学校の教頭でもあった佐伯好郎は、のち

の鑑三の一女子教員に対するスキャンダルをとりあげる(『佐伯好郎伝

並遺稿』が、これは、史実的にも多くの誤りを含んだ回想録であるうえ、

その女子教員の実弟と鑑三とが、この後も長く友好関係を保ったことから

みて、にわかに信ずることはできない。



  いずれにせよ、主筆鑑三と、佐伯以下、安孫子貞治郎、坂井義三郎、

西川光次郎、仲村諦粱の五人との対立はエスカレートして、同誌を廃刊し、

東京独立雑誌社を解散しなければならない局面に追い込まれた。 

  このトラブルの真相は、いまだ鑑三の生涯の一つの大きな謎になった

ままだが、次項で改めてもう一度ふれることにしたい。  【つづく】

 

 

 

 

2013年5月30日 (木)

内村鑑三(17 )

    東京独立雑誌

  『東京独立雑誌』の創刊号は、こうして、「主筆  内村鑑三」「持主  山県

悌三郎」の名で発行された。

  創刊号は二段組で二十ページからなり、表紙の上段には英文で  THE 

TOKYO  DOKURITSU  ZASSHI ( THE TOKYO INDEPENDENT ) と

刷られている。

 

  当時、ニューヨークから THE  INDEPENDENT という雑誌が発行されて

いて、鑑三はこれを購読していたので、題名はそれにあやかったものと思

われる。 

  『東京独立雑誌』の表紙の裏には、次のような言葉が掲げられていた。 

  「社会、政治、文学、科学、教育、幷(なら)びに、宗教上の諸問題を正

直に、自由に大胆に評論討議す。

 

  確信にあらざれば語らず、独特の思想を含有せざる寄書は載せず、

熟読せざる書は評せず、正直と認めざる広告は掲げず、而して本誌載録

の記事に対しては、主筆幷びに持主悉くその言責に任ず」

  ここには社会万般のことにつき、確信をもって、正直に、大胆に論じよう

とする主筆の志が熱っぽく語られている。

 

  同号の英文欄には旧約聖書アモス書(*下の絵)三章八節の聖句が

引用されている。

            Photo

   それは日本語では、「獅子吼ゆ、誰か懼れざらんや、主エホバ言語

(ものいい)たまう、誰か預言せざらんや」にあたるところであり、まことに

鑑三は獅子のように吼えるつもりであった。

 

  創刊号では、主筆の鑑三のほかに、札幌農学校時代の友人大島正健

に寄稿を頼み、東京独立雑誌社社員としては我孫子貞治郎と実弟の内村

達三郎とが執筆している。



  一号から八号までは月二回、九月から終刊号である七二号までは月三

回発行された。

  初期のおもな寄稿者には、前述した大島正健をはじめ松村介石、留岡

幸助、元田作之進、田岡嶺雲、山県五十雄、駒井権之助らがいる。

 

  これらの人々は、鑑三の友人や教え子であり、創刊当初、鑑三が、そう

いう友人、知人によって助けられたことを物語る。 

  「詩壇」には蒲原有明(ありあけ(*下の写真)、児玉花外(かがい)(*

2枚目の写真左側)の、平木白星らの名がみえる。

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  一八九九(明治三二)年の第一八号からは、表紙に掲載されていた

「持主   山県悌三郎」の名が消えて「主筆   内村鑑三」のみとなった。

 

  このころ発行部数が約二千数百部を数え、経営が安定したことによる

だろう。 

 編集陣には、坂井義三郎、佐藤迷羊、西川光次郎、佐伯好郎、中村

諦粱らが加わり、雑誌の紙面は、おおかた鑑三と社員たちの手で埋め

られるようになる。




七つの改革

 

  『東京独立雑誌』は二十数ページの小誌であったが、内容はきわめて

多彩で、「社会、政治、文学、科学、教育、幷に、宗教上の諸問題」を論

じるという看板にいつわりはなかった。

 

  朝報社時代と同じく、藩閥政府、軍人、富豪、貴族などの上層社会の

腐敗、拝金主義、せまい忠君愛国主義を槍玉にあげ、かわって農民、

漁師、小売商人、人力車夫などの平民を友とし、自由、平等、世界精神、

高潔な倫理道徳を主張した。

 

  一二号(一八九八年十一月五日)には「余輩の欲する改革」と題して次

の七項目が掲げられていて、鑑三が日本社会に望んでいた改革が知ら

れる。 

  一、軍備を縮小して教育を拡張する事。  

  一、華士族平民の制を廃して、総て日本市民(シチズン)と称する事。  

  一、軍人を除くの外は、位勲の制を全廃する事。  

  一、府県知事郡長を民選となし、完全なる自治制を地方に施す事。 

  一、政治的権利より金銭的制限を取り除く事。  

  一、上院を改造し、平識以下の者をしてその議員たるを得らざらしむる事。 

  一、藩閥政府の余孽(よげつ)を掃蕩する事。

 

  鑑三は、この時代には「余輩は、かくの如き大胆なる改革が、今の政治

家の決行し得るものなりとは信ぜず、然れども、天もし未だ日本を見捨て

ずして、クロムウェル的な偉人を吾人に降ろすことあらば、その事実となり

て現われ来らんことを期す」と考えていた。

 

  彼の言葉のように、これらの改革案は当時の政治家たちが、とうてい

決行できることではなかったが、その多くが、第二次世界大戦後の日本に

おいて実現したことには驚かされる。 

  軍備の縮小、義務教育の拡大、身分制度の撤廃、位勲の廃止、知事、

市長の公選、地方自治制、参議院の設置など、「クロムウェル的な偉人」

の役割はGHQによって演じられた。 

  それが今日では、位勲制の復活をはじめ、むしろ後退したものの方が

多い。





  樗牛



  鑑三の辛辣な批判と毒舌は、当然、反感も招き、『東京独立雑誌』には、

そうした非難に応じた文章も見受けられる。

 

  雑誌『太陽(*下の写真)に高山樗牛(*下の写真)によって、「内村鑑

三君に与ふ(開書)」が書かれたのも、そのころのことだった。

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  樗牛は、鑑三の議論を、まず「愚論」ときめつけ、その理由をこう述べ

ている。 

  「生は、久しき以前より、足下の文字を読むものの一人なり、然れども

未だ一回も事実に就いて足下の経論〔*実際は、イト偏ですが、適字が

なく、ゴン偏で書いています〕策を聞きしことあらず。

 

  生を以て見れば、足下は現世の筆と紙とによりて他界の事を物語る者

なり、実在という観念は早く足下の思想より遊離して、足下は一切の事物

を仮象として見る者なり。 

  足下は理を断ぜずして情を述べ、経済を語らずして詩歌を唱う、故に足

下の意見なるものは極めて単調、極めて簡易なり」 

  樗牛は、鑑三が、結局は詩人であるという。あたかも国家に迫害されて

大を成したダンテのように、鑑三も「不敬事件」によって迫害を受けた。

これによって「明治のダンテ」となれという。



  これを読んで早速、鑑三は、「文学士高山林次郎先生に答ふ」という

一文を一三号(十一月十五日)に記した。 

  鑑三の回答は、樗牛が「愚論」とした思想と現実との遊離におかれた。 

樗牛の批評を、皮肉とみられるほど丁重な言葉で感謝したあと、次のよう

に答えている。

 

  「小生の暗愚なる、理想と実際とを識別するの明なく、理想とは是れ直

ちに実際に施すべきものなりと信じ、脳の一隅に理想を存して他の一隅を

以て実際を語るが如きは、小生はこの種の人を以て経世家と称せざるの

みならず、嘘つきまたは偽善者と呼ぶ者に御座候。 

  国家の利益なれば日本主義を唱えよ、基督教を排せよと申す筆法は、

真理その物を目的とする文士哲人の最も恥ずべきことと存じ候。 

  真理を国家の為に利用せんとすると、国家を真理に服従せしめんとす

るとは、同じように見えてその実相距(あいへだた)る甚だ遠きものに

これ有り候。 

  しかれども哲学者にして、文学者にしてしかも経世家なる先生のこと

なれば、この辺の所能(よ)く能く御含み置き下され候わば、小生共の

大幸福に御座候」



真理は国家のためにあるのではなく、真理に国家を従わせようとする

のが鑑三の立場だ。 

  しかし、樗牛の批評にまったく耳を傾けないほど石頭ではなかった。 

実は、先に掲げた七項目にわたる「余輩の欲する改革」は、このちょうど

二か月後に出されていて、それは樗牛の批判に対する具体的な回答文

とみてよい。 

  鑑三が、樗牛に答える文のなかで言明しているような理想そのものから

みると、これが、鑑三にとっては、精一杯実際的改革案であったのだ。

 【つづく】



 

 

 

 

2013年5月28日 (火)

内村鑑三(16 )

   筆誅

  しかし『万朝報』  の英文欄の読者は、そんな外国人たちばかりでは

なかった。

  「本紙の読者層」でも述べられているように、日本国内の学生たちを

はじめとする読者も多勢いた。

 

  同僚の柏軒(はくけん)こと松井広吉が、その思い出のなかで語って

いる言葉によれば、鑑三は「万朝報の一大明星」であり、鑑三の入社に

よって、同紙は、清新な青年たちを多数読者としてひきつけたとのことだ

(松井広吉『四十五年記者生活』)。

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  世界の出来事はもちろん、国内に起こる日本人でなければわからない

ような事件まで、やはりとりあげて論じているのは、この若い読者を意識

したからだろう。 

 国内の出来事にかかわる論評の姿勢も国外と変わりなかった。



  『国民新聞』の徳富蘇峰が世界一周旅行から帰国したとき、鑑三は

これを歓迎し、その経験が『国民新聞』にあらわれ、同紙が国民の注目

するところとなるだろうと他紙の宣伝めいた文を書いている。 

  この点、鑑三は、就職時の抱負で語ったように、ライバル紙に対しても

公正である。


  その蘇峰がまもなく第二次松方内閣(*下の写真は、松方正義首相)に、

内務省勅任参事官として就任したとの報を聞くや、「変節」に対し容赦ない

怒りをあらわにした。 

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  「平民の友」で売った民友社の社長が、こともあろうに藩閥政府の官僚

となったからには民友社は、名を「官友社」と改めよと罵った。

 

  前にも述べたように、蘇峰は鑑三を『国民之友』を介して世に送り出さ

せた恩人であり、その恩は一生忘れなかったが、恩は恩であり、それを

義と混同することはなかったのだった。



  鑑三が、最初に足尾銅山(*下の写真)の鉱毒をとりあげたのも、

一八九七(明治三十)年三月十六日の英文「山について悪聞四題」の

なかである。

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  四つの山とは、第一は京都の本願寺の大本山、第二が足尾銅山、

第三が顕彰碑建立をめぐる不正が発覚した上野の摺鉢山(すりばち

やま)、第四が教科書出版社の贈収賄にからまる山賊たちのことである。

 

  これらをみても、鑑三は、その英文欄を通じて、日本社会の不義不正、

とりわけ、藩閥政府や上流社会、貴族、高官、金持ち、軍人などの私利

私慾に筆誅を加え、社会の弱者の立場で発言していることがわかる。

 

  前半生の辛い体験を通じてようやく内面化されたキリスト教的価値

体系にもとづく、人間観、世界観、国家観が、そのまま適用されたものだ。

  いわば、思想の応用篇である。時代の支配的な人間観である単なる

「富国強兵」的人間観への挑戦であった。

 

 

 文体 

 

  この鑑三の姿勢は、おのずと彼の書く英文のスタイルにも一つの特徴

をもたらしている。それは、例のnot ~but ~の構文である。 

  まずはじめに、世間的、常識的な見方を出し、ただちにそれを否定し、

かわって自分の価値体系にもとづく、ときには反対の見方を提示する

文体である。

  こうした「どんでん返し」の文章は、当時一般にどの程度浸透していた

のかわからないが、少なくとも鑑三が、英和両文において愛用した文体

である。

 

  あるいはそうでないばあいにも、いきなりひとの意表をつくような結論

をずばっと文頭にかざしている。 

  鑑三の日本語の文章につき、朝報社で同僚の堺枯川は、「苦味の存

する所が胆汁」のようで「鋭利」「痛快」「勁抜」「大胆」な「言文一致」体

みている。

 

  宮崎湖処子(こしょし)は「武士の太刀を揮(ふる)って大敵を斬り倒す」

になぞらえ、言葉遣いの「斬新」「雄勁」なことをあげている。 

  『帝国文学』では「活気があり、気骨あるの文」、『新声』では「情熱に富

み、感化力」があるとみ、『中央公論』では「神彩」ある「霊筆」などと評さ

れたことがある。 

 

  いずれにせよ、男性的で鋭く、熱気、活気、霊気に富んだ独自の文で

あることは、共通に同時代人の認めるところである。この魅力がまた読者

をひきつけ、心奥にまでバイブレーションをゆき届かせるのだった。

 

  時代はやや後になるが、神戸で発行されていた英文紙『ジャパン

・クロニクル』の編集をしていた秋元俊吉によると、同紙がニューズ

・ヴァリューのある日本人として数えていたのは、政界の伊藤博文(*下

の写真)、財界の川崎、住友などとならび内村鑑三であったとのことで

ある(白井楽山編『英文記者』)。


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  それほど、内村の英文は、在日外国人および外国人系新聞からも

マークされていたことになる。 

  『万朝報』の英文欄主筆は、一八九八年五月までの一年半ほどであっ

たが、この間、鑑三は約二百数十篇の文章を書き、それは亀井俊介氏

もいうように骨身をけずる思いで書かれたものである。

 

  同僚の英文担当者には、一高時代の教え子でもある山県五十雄も

いたが、鑑三は二日に一篇の割合で執筆し、その仕事に全力を傾倒

した。 

  このことは、この間に書かれた書簡で現存する量がきわめて少なく、

あの親友ベルにあてても、ただの二通しか残されていないことでわかる。

文字どおり手紙を書いているひまもなかったのだろう。

 

 

 

    『東京独立雑誌』


    退社

 

  『万朝報』で健筆をふるっていた鑑三は、突然、一八九八年五月二二日

の同紙に「退社の辞」を掲げ、同社を去った。かわって翌月十日より主筆

として『東京独立雑誌』を創刊した。

 

  「退社の辞」には、直接辞任の理由は書かれていない。その前日『万朝

報』に黒岩涙香の書いた「内村鑑三氏の退社を送る」によると、健康上

「新聞記者の劇務に堪えず、むしろ雑誌記者として静かに世に尽くさん」

とされている。

 

  たしかに、鑑三は新聞記者として全力を傾けていたから、健康の心配

があったであろう。しかし「雑誌記者」を決して楽な道として選んだので

なかった。

  鑑三には、しだいに、英文を介した社会批判がまだるっこさを覚えて

きたにちがいない。

 

 同紙にはたまには日本文による記事を掲載することもあったが、日々

深刻の度を増している日本社会の世紀末的退廃は、それでは追いつか

ないといういらだちが生じていた。日本社会の病根に大ナタをふるうのに、

みずから主筆として雑誌を発行することを決意したのだ。

 

  鑑三が『万朝報』に入社したことにより、同紙の読者数が著しく増加した

ことも、鑑三がジャーナリストとして自立することに期待を抱かせた。 

  新しい雑誌発刊の計画は、新『内村鑑三全集』40巻に収められた

「ノート」帳によって、退社する約一か月前から進められていたことが

わかる。

 

  鑑三は四月二一日朝報社の山県五十雄とともに、その兄の山県悌三郎

を訪ね、雑誌発行の計画を相談している。 

  山県悌三郎は、一八八七年に、学海指針社を設立して雑誌『学海之

指針』を創刊、つづいて『少年園』『少年文庫』(のち『文庫』に改題)を

発行していた。 

  悌三郎は、弟の五十雄から、鑑三の人となりを知り、『東京独立雑誌』

に毎月百円の援助をすることを了承した。

 

  朝報社の黒岩にあてた辞表は正式には四月二四日に提示された。

黒岩の熱心な慰留があったにもかかわらず、決意はかたく、ついに五月

四日に黒岩は、それを受け入れ、円満退社の運びとなった。 【つづく】

 

 

 

2013年5月27日 (月)

内村鑑三(15)

    三  野に吼える





    『万朝報』記者



 
  一八九七(明治三十)年を迎えてほどなく、名古屋の鑑三のもとへ、

朝報社社長、黒岩涙香(るいこう)が訪ねてきた。黒岩涙香(*下の写真)

は、以前『都新聞』の主筆をしていたこともあり、すでに翻訳小説家として

も知られていた。

                Photo
 

  『万朝報(よろずちょうほう)』(*下の写真)は、一八九二(明治二五)年

十一月一日に、創刊された日刊新聞であった。 

  絵入りで赤紙を用い、一般大衆を読者対象とした新興新聞である。

高級な政治記事よりは、お家騒動である相馬事件、新宗教の蓮門教事件、

名士の私行の暴露などをとりあげ、しだいに「赤新聞」の名をとどろかせて

いった。

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  このため「赤新聞」は悪徳新聞の異名ともなり、黒岩涙香(本名周六)の

ことを「まむしの周六」と呼ぶ者もいた。
 
  日清戦争より、購読者が飛躍的に増大すると、編集陣も拡大をせまられ、

涙香は、この機会に人材を探して、『万朝報』の信用の昂揚をはかること

にした。 

  内藤湖南(*下の写真)、森田思軒、斎藤緑雨などに入社を乞い、その

結果は上々であった。             Photo_8 

 こうして涙香の新路線の、決定版として白羽の矢が立てられたのが鑑三

であったのだ。 

  涙香は、鑑三のことを、その実兄の黒岩四方之進を通じて聞き知って

いた。黒岩四方之進は、札幌農学校において鑑三の一期先輩にあたり、

『余は如何にして基督信徒となりし乎』では「パタゴニア人」の名で登場す

る人物である。

 

  もちろん鑑三の文名は、その著書や論文を通じて知悉していて、宗教界

における高潔な人としてだけでなく、ジャーナリストとして卓抜した才能と、

自由な英語力の持主であることを見込んだためである。 

  涙香が、わざわざ名古屋を訪れ、鑑三に朝報社入社を懇請する場面は、

さながら一幅の絵である。

 

  鑑三は、はじめ、同紙が、さかんに人身攻撃をおこなっている新聞である

ことにためらいを示した。 

  また日本の社会が「堕落の極」に達し、救済の見込みがなくなっているの

で、もう見捨てているとまで言った。

 

  これに対し、涙香は、しばらくでも来て新聞配達の地位から社会を見たら

どうか、まだ少しは改革の望みがある、絶望するには早過ぎると答えた。 

  このあと、鑑三の沈黙の時間が長時間つづいた。 

やがて鑑三は次の歌を口ずさんで、たち上がった。 

    思ひきや我が敷島の道ならで   浮世の事を問はる可しとは

 

  この絵は黒岩涙香の描いたものである(「内村鑑三氏の退社を送る」

一八九八年五月二一日)が、すこぶる芝居がかってもいる。 

  それは必ずしも涙香の筆のせいだけでなく、鑑三には、このような芝居

じみたところが、その芝居嫌いに反してあったといえる。 

  引用されている歌は『太平記』に出てくる二条為明の歌である。 

『太平記』は若きころよりの愛読書の一つであった。



   入社

 

  鑑三には、一生の仕事として伝道者となることの方向づけはされていた。 

学校教師をしていても、広い意味で伝道者の仕事に従っているつもりだ

った。 

  それが新聞記者となると、まったく思いもよらない「浮世の事」であった

にちがいない。

 

 それでも結局、入社に応じたのは、鑑三の著作がある程度の反響を

呼んだことにより、ペンのもつ力を知らされたからであろう。 

  新聞記者となることが、必ずしも「浮世の事」になるのではなく、ペンを

通じた伝道という仕事に期待を抱いたためだった。

 

  一八九七(明治三十)年二月十四日の『万朝報』第一面のトップには、

次のような鑑三入社の記事が掲げられた。

 

  内村鑑三氏入社 

    農学士内村鑑三氏は今回当社の請いを諾し、来りて朝報の編輯(へん

しゅう)局に入れり。氏が社会の観察家として、熱心なる評論家として、 

今日の思想界に如何の地位を独占せるやは、世人の既に知る所ならん 

  朝報はこれを機として紙上またさらに幾多の刷新を加え、進んで止まざ

る本来の精神を発揮せんとす、切に読者の凝視せられんことを乞う

 

  これをみても、鑑三が、破格の扱いで朝報社に迎えられたことがわかる。 

鑑三の入社と相前後して、同社の編集局には、久津見息忠(くつみやす

ただ)(蕨村〔けっそん〕)、山県五十雄(いそお)、斯波(しば)貞吉、幸徳

伝次郎(秋水)(*下の写真)、堺利彦(枯川 (*下の写真)などが迎え

られた。

                   Photo_3

            Photo_4


  そのなかでも鑑三だけは、社長の涙香も「先生」の称をつけて呼んだ。 

『万朝報』が三千号を発行したとき(一九○二年)の記念写真に、鑑三

が涙香と並んで最前列の中央に坐しているのは、その社内での位置を

物語っている。

 

  涙香は、先に述べた文の中で「氏の入来るを見るや一座粛然として襟

を正せり」と言っている。 

  これも、ただの道徳家が一社員として加わったのみなら、だれも襟を正

すことはなかったであろう。社長涙香が「師兄」として仰ぐ人物が入ってき

たから行儀よくしたのである。


 

    英文欄




  朝報社での鑑三の仕事は、英文欄主筆ということだった。それまで

同紙の英文欄は、アメリカ人のF・W・イーストレーキが担当して、週三回

載されていた。 

  それが、鑑三が主筆となってからは毎日掲載されることになり、掲載場

所は一面の上段から下段に移された。

 

  最初の英文記事は二月十六日の’New  English  Edition (新しい英文

欄主筆)、である。

  鑑三はそのなかで、新しい担当者は「日本人中の日本人」であり、日本

の最良の伝統とともに世界の最高の文明に対し開かれた心でのぞむ決

意であることを披歴している。
   


  翌二月十七日の文章では、イギリスの観察力豊かな旅行家でさえ、

石狩川流域の藺草(いぐさ)の群生(*下の写真)を稲田として描いている

ことを例にあげ、日本人の見解を表明するには日本人の筆による必要を

力説している。

                          Photo_7
         
 

  これらを通じて、鑑三が、まず、日本の意見を誤りなく、外国または日本

にいる外国人たちに伝えようとしたことがわかる。

  この考えにたち鑑三は、世界に起こる出来事に対し、なんら憶すること

なく、堂々と論評を加えた。自己の見解を日本を代表する心構えで書いた。

 

  このため、東洋における西欧の大国の治外法権や、恥ずべき非行に対し

ては手きびしい攻撃を加えた。他方、それらの大国の支援を受けるトルコ

に抗し、敢然と戦う小国ギリシャ(*下の写真)に声援を送った。

                    Photo_6

  極東の一隅日本より送られた鑑三の声援は、はるばるギリシャまで届き、

しばらくしてアテネの新聞『エンプロス(Empros)』より、鑑三が『万朝報』に

書いた記事をとりあげた新聞が送られてきた。 

  これを報じた鑑三の英文「ギリシャからの反響」は、手放しの喜びに溢れ

た文章になっている。 

  ペンの仕事が、日本からはるかに離れた小国を激励することになったと

いうこの重い事実は、執筆者にとり、もっとも生きがいと充足感とを与えら

れたにちがいないのだ。

 

  その文章につづいて翌日に書かれた「ギリシャへの同情」になかでも、

鑑三は、小国ギリシャへの同情をあらわす反面、トルコを支援する大国を

呼ぶとき、きまって「キリスト教信仰をもつ」とか、「キリスト教徒の」という

形容をつけ加えている。そこには英文欄主筆としての鑑三の論評の一姿

勢が出ている。 

 

  すなわち、キリスト教的な正義感に立ち、世界の貧しく抑圧されている

小国に肩入れする一方、大国、それもキリスト教を自称してきた大国を

たたくことである。

  当然、鑑三のような姿勢は、日本にいる外人系新聞から歓迎される

はずはなかった。 

 『万朝報』の新しい英文欄主筆に対して、次々と反感が伝えられたことは、

さらにそれに応じた鑑三の文章が多く書かれたことでわかる。 【つづく】
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 

2013年5月25日 (土)

内村鑑三(14 )

   地人論




  『地理学考』は、その最版本(一八九七年)から題名を『地人論』と改めて

いるところからもわかるように、地と人との交渉のなかで人類の歴史をみ

る立場より書かれたもので、地理学者であるとともに歴史書でもある。 

  アマスト大学在学時代に愛読したA・ギョーの『地と人(The Earth and

Man )』の影響を強く受けている。 

 

  本書でもっとも鑑三が力点を置いたのは第九章の「日本の地理と其天

職」である。 

   二年前、『ジャパン・デイリー・メイル』に寄せた英文「日本国の天職」を

さらに展開させたもので、島国日本が、アメリカ大陸とアジア大陸との両

文明を媒介する位置にあることから、人類文明史に神から与えられた

日本の天職をみようとしている。

 

  この見方自体は、山路愛山が評しているように(『国民之友』二二七号)、

そのころでも、さほど新しい見方ではなかったかもしれない。 

  ただ、それがいったん鑑三の筆にかかると、東西文明の媒介者である

ことに自己の使命を見出していたために、俄然、いきいきとして躍動感を

帯びたものになったのである。






  余は如何にして基督信徒となりし乎



  ’How  I  Became  a  Christian’(余は如何にして基督信徒となりし乎)は

鑑三の前半生の自伝である。 

  武士の子として生まれ、札幌農学校でのキリスト教入信、独立教会の建

設、渡米して、エルウィンの精神薄弱児養護院における勤務、アマスト大学、

ハートフォード神学校での勉学のありさまを、日記をもとにして綴ったもので

ある。

  最初から、アメリカ人を対象として書かれたもののため、いささか日本人

としての力味がみられはするが、鑑三自身の歩みを知るうえからはもちろん、

明治前期の青年の精神をみるためにも、代表的な伝記文学である。

 
                        Photo

 

  一八九三(明治二六)年の末にほぼでき上がり、アメリカからの出版を希

望していたが、話がまとまらず、一八九五年五月、まず日本の警醒社書店

より刊行、同年十一月、アメリカのフレミング・H・レベル社より、’Diary of

a  Japanese  Convert ’の題名で刊行された。

 

  その後、ドイツ語、フィンランド語、スウェーデン語、デンマーク語、フラン

ス語の翻訳が刊行され、ことにドイツでは版を重ねて迎えられ、哲学者の

オイケン、宗教社会主義者のラガツ、神学者のブルンナー、神学者にして

医師のシュヴァイツァーなどにも読まれた。





 

  日本及日本人




  ’Japan  and  the  Japanese’(日本及日本人)は『余は如何にして基督

信徒となりし乎』とならぶ鑑三の二大英文著作である。

  一九○八年の改版木からは、題名を’Representative  Men of  Japan’

と改めている。

  新しく書き下ろした西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮の

五人を論じた本文に続き、’A Temperance  Island  of  the  Pacific(太平

洋の禁酒島)’’Japan:Its  Mission (日本国の天職)’’Justification  of 

the Corean  War (日清戦争の義)’の旧稿三篇が加えられている。

  ちょうど日清戦争の進行中であり、傑出した日本人と「日清戦争の義」を

海外に紹介する意図があったものとみられる。 

  後年、’Representative  Men  of   Japan’と改題されてからは、序文に

あたる一章と附された三篇は省かれた。

 

  本書もまたドイツ語訳とデンマーク語訳とが刊行された。鑑三の後年の

日記には、この書が、フランスの元首相クレマンソーによっても読まれた

ことを知り、感激している記述がある。







   京都時代




  鑑三の京都在住時代は、このようなキリスト教的著作が、あいついで世

に出て、鑑三も一時は著作生活で立つことを思ったほどであったが、暮ら

しは決して楽ではなかった。

 

  この時代の鑑三を経済的に支えたのが、京都の便利堂の中村弥左衛門、

弥二郎の兄弟であり、鑑三は、その家にしばらく滞在したこともある。 

  現在、美術印刷物の製作で知られる便利堂には、鑑三滞在の記念碑が

建てられている。



  便利堂は、また、一八九四(明治二七)年に鑑三が、箱根で開催された

キリスト教青年会第六回夏期学校でおこなった講演「後世への最大遺物」

を一八九七年に最初に刊行している。

 

  「後世への最大遺物」は、人間が後世に遺すものとして、金銭や事業や

思想をあげるのでなく、「勇ましい高尚なる生涯」を説いたものである。 

  立身出世主義の華やかな時代に、真っ向から反対の価値ある生き方を

示した。

                              10



 夏期学校の参加者はもとより、広く読者に深い感銘を与え続けている

書物である。

  作家の森敦(あつし)氏(*下の写真)は、同じ本を十数冊も購入するほ

ど愛読したという(新『内村鑑三全集』21巻付録「月報」20)。

                               Photo_2


  不遇だった京都時代の鑑三を助けた人物として、鑑三が一生その恩を

忘れないのが、『国民之友』の徳富蘇峰(*下の写真)である。

                             Photo_3

  蘇峰のおかげで鑑三は、『国民之友』に「流鼠録」や「日清戦争の義」

「日蓮上人を論ず」「農夫亜痲士(アモス)の言」「何故に大文学は出ざる乎」

「如何にして大文学を得ん乎」を発表、生活の資をえるとともに、その文名

を高めることができた。

 

  鑑三が同誌に寄稿した「何故に大文学は出ざる乎」と「如何にして大文

学を得ん乎」の二篇は、折しも勃興しつつあった「大文学論」または「国民

文学論」の声に応じたものである。

  鑑三が「大文学」の条件として、理想性、世界性、独創性、文学者の品性

をあげたことは、日本の文学史上、注目されてよいことであった。 

  しかしながら、当時の日本の文壇に、この声はかえりみられなかった。

 

 かわって、正宗白鳥のような地方在住の若い読者が、これにより「如何に

生くべきか」の目を見開かれ、刺激を与えられた。

  このころ、『国民之友』の編集にしたがっていたのが、国木田独歩(*

下の写真)である。

                        Photo_4
 

  独歩もまた同誌に掲載された鑑三の作品を介して、この作者に敬愛

を抱いた一人である。 

  一八九六年の春、妻の信子に去られて、失意のうちにあった独歩は、

アメリカ行きを思いたち、このことを京都の鑑三に手紙で相談している。

 

  鑑三は、これに答えた手紙のなかで、しきりと旧約聖書のホセア書を読

むことを勧めている。

  ホセア書は、前述したように、かつて同じく妻に去られた鑑三が、そのに

がい経験をとおして、神にちかづくことのできた一篇であったからだ。

 

 

   日清戦争 

 

  『国民之友』に寄せた「日清戦争の義」(一八九四年九月)は、その前号

に英文で掲載された’Justtification  of  the Corean  War’(二三三号)の

訳であり、これはさらにさかのぼると、八月十一日の『ジャパン・ウィークリ

ー・メイル』に寄せた’Justification for  the  Korean  War ’が最初である。

 

  鑑三はこれによって、欧米諸国に向かい、日清戦争が「義戦」であること

を訴えようとしたのだ。

  日清戦争を、はじめは弱い朝鮮を守る「義の為の戦争」であり、「慾の戦

争」ではないとみた鑑三であったが、一八九五年四月、講和条約が調印さ

れるや、鑑三は、その戦争が結局は「慾の戦争」であったことを知り

「義戦」を訴えたことを心から後悔した。

 

  一八九六年一二月二五日の『福音新報』に寄せた次の詩は、その怒

をぶっつけたもので、近代日本の反戦文学のうえからも重要な位置を占

めるものといってよい。

 

    寡婦(やもめ)の除夜


  月清し、星白し、
 

 霜深し、夜寒し、 

  家貧し、友少なし、 

  歳(とし)尽きて人帰らず、

 

  思(おもい)は走る西の海 

  涙は凍る威海湾(いかいわん) 

  南の島に船出せし 

  恋しき人の迹(あと)ゆかし


  人には春の晴衣(はれごろも)
 

  軍功(いくさいさお)の祝酒(いわいざけ) 

  我には仮りの侘住(わびずまい) 

  独り手向(たむく)る閼伽(あか)の水


  我空(むなし)うして人は充(み)つ
 

  我衰えて国栄う 

  貞(てい)を冥土(めいど)の夫(つま)に尽くし 

  節(せつ)を戦後の国に全うす

 

  月清し、星白し、 

  霜深し、夜寒し、 

  家貧し、友少なし、 

  歳尽きて人帰らず。



  鑑三は、この詩をのちに『小憤慨録  下』(一八九八年)に再録するにあ

たり、副題として「明治廿九年の歳末、軍人が戦勝に誇るを憤りて詠める」

との言葉をつけ加えている。






   名古屋英和学校




  京都時代の鑑三は、著作活動のほかに第三高等学校の学生を相手に

聖書講義を開いたりして伝道もおこなっていた。 

  北海道空知の集治監で教誨師(きょうかいし)をしていた留岡幸助とはじ

めて対面したり、石井十次の岡山孤児院を訪ねたのも、このころのことで

ある。

 

  この間、一八九四年三月一九日には一女が生まれた。前年の暮れに、

日本人の手になる最初の聖書註解書ともいわれる『貞操美談  路得記』を

刊行したばかりのこともあってルツと命名した。

 

  文筆による多少の収入はあったが生活の苦しさにはかなわず、一八九

六年九月からは、名古屋英和学校の教師として赴任した。 

  名古屋英和学校は、米国のメソヂスト・プロテスタント教会により、一八

八七(明治二十)年に創立された学校である。「敬神愛人」をその校訓として

いた。

 

  一八九六年九月、地もとの『扶桑新聞』に出た同校の生徒募集広告には

「今回更に農学士   米国理学士   内村鑑三氏を聘し  教授上一生面を開

かんとす」とある。 

  泰西学館のときもそうだったが、内村鑑三の名前は、充分宣伝効果を

もつものであった。

 

 鑑三は、校長A・R・モルガンの懇請と、著作活動の便利のためには

東京に近い方がよいこともあったが、なによりも生活の安定のために、

学生数わずか二百人たらずのこの名古屋の小さな学校で教えることに

した。

  名古屋英和学校が、宣教師の経営する学校であったにもかかわらず、

鑑三は珍しく衝突をひき起こさなかった(*下の写真は、当時の同校

校舎:当時としては、珍しい本格的な西洋建築で、「隣りの県庁よりも

立派」と評された。その下の写真は、同校の後身、名古屋学院大学の

名古屋キャンパス)


           Photo_5


           Photo_6
 

  校長のモルガンに対し鑑三が好感を抱いていたことと、鑑三自身にも

自制心が働いたことによるであろう。 

  キリスト教証拠論、倫理学、地理学、歴史学などが鑑三の担当した

学科目である。

 

 「祈りつつ学び、感謝しつつ働く」ことを教えようとして、鑑三は率先して、

農園を開き、豚の飼育にあたったといわれる(『名古屋学院史』)

  【つづく】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

2013年5月24日 (金)

内村鑑三(13 )

      著作活動

    処女作

   熊本英学校教師を予定どおり七月まで勤めた鑑三は、同地を去って

京都に住んだ。 

  京都に移る途中、須磨で開かれたキリスト教青年会の第五回夏期学校

に講師として出席している。

 

  鑑三の演題は「学生と新聞紙」であったが、内容のおもしろいことでは

同じく講師として出席していた横井時雄と双壁だった。 

  鑑三は、日本のキリスト教会には二大禁物がある、それは「横井時雄君

の新神学と内村鑑三の日本教会論なり」(『基督教新聞』五二二号、七月

二八日)と語り、一同を笑わせた。



  鑑三が、自ら認める危険な「日本教会論」は、この年二月に刊行された

著書『基督信徒の慰』(警醒社書店)に記されている。 

  同書に先だち、前年十月には小冊子『未来観念の現世に於ける事業に

及ぼす勢力』(同)が出されているが、これは一度『基督教新聞』に発表さ

れた論文から成っているので、実質的な単行本のかたちの処女作は、この

『基督信徒の慰(*下の写真:「北海道デジタル図鑑」より拝借)とみてよい。

                         Photo_9


  一八九三(明治二六)年には、『基督信徒の慰』に続き、同じ二月に『記

念論文  コロムブス功績』(警醒社書店)、八月『求安録』 (同)、一二月

『貞操美談 路得記』(福音社)。 

  一八九四年に入ると二月『伝道之精神』(警醒社書店)、五月『地理学考』

(同)十一月”Japan  and  the  Japanese”(民友社)、一八九五年には五月

”How  I   Became  a  Christian ”(警醒社書店)、一八九六年には一二月に

『警世雑音』(民友社)が、あいついで刊行される。

  驚くほど多産であるとともに、今日にも残る名著の書かれた時期である。
 

それらのなかから、主な著書を簡単に紹介しよう。

 

  基督信徒の慰 

 

『基督信徒の慰』は、次の六章より成っている。 

    第一章    愛するものゝ失せし時 

  第二章    国人に捨てられし時 

  第三章    基督教会に捨てられし時 

   第四章    事業に失敗せし時 

    第五章     貧に迫りし時 

    第六章     不治の病に罹りし時

 

  序文のなかで、鑑三は「著者の自伝にあらず」とことわっているものの、

いずれも「不敬事件」によってもたらされた、著者自身の惨憺たる生活体

験から発した声といえよう。 

  「愛するものゝ失せし時」は、二年前に味わったばかりの妻かずの死に

もとづいている。ここには、のちに鑑三が繰り返し説く「聴かれざる祈祷」

の思想が顔をのぞかせている。

 

  世間には、人のおちいる不幸や災難に対し、それを信仰や祈祷の不足

に帰し、罪とみる見方がある。 

  ところが著者は、愛する者の死により、はじめて聴かれない祈祷のある

のを知り、不幸や災難を、人の行為の不足から生じた罪とみる思想を打

ち破っている。 

  これは、不幸な人々を見る目に大きな転換を与えるものである。



  「国人に捨てられし時」は、「不敬事件」により、日本国に枕するところの

なくなった体験による。

  キリスト信徒になった以上、鑑三も、この世の国とは異なる天の国のあ

ることは頭ではおぼろげに知っていた。しかし、それが心の中に実在する

までには到っていなかった。

 

  ところが、この世の国に捨てられてはじめて、天の国が明らかに見え、

自己がその国の住人となることができた。 

  鑑三のこの後の思想活動をみるとき、この天の国の発見の意義は、

はかり知れない。

 

  「基督教会に捨てられし時」では「無教会」という言葉の最初の使用が

られる。 

  教会に通っていた信徒が神と聖書以外に、外国の儀式制度や、神との

関係で聖職者、教職者の取り次ぎを認めないため、教会から嫌われて

捨てられる。

 

  しかし、かえってそのために、神の教会が白壁と赤瓦のうちにあるもの

でなく、大空のもと、自然のうちにあることを知る。 

  ここには鑑三が、外国の援助で支えられている教会の独立を主張した

ことにより、教会から遠ざけられた体験がある。

 

  それに加えて、鑑三自身が、伝道者を志しながら、結局正式の教師資

格をもたなかったため、教会内での活動に限界を知らされたことが作用

してはいないか。 

  このほか「不治の病に罹りし時」では、病者の存在理由を、この世に愛

せられる者のあるためだと言っている。

 

  このように『基督信徒の慰』は、「不敬事件」後におちいった自分自身の

にがい体験をもとに、鑑三の実らせた宗教思想の結晶である。 

  この書において、鑑三のキリスト教的な世界観、人間観は、ほぼ確立を

みせたといっても過言ではない。

 

  この書を紙の破れるまで愛読したという若き日の正宗白鳥(*下の写真)

は、これを当時の文学における最高の「私小説」とみている。それは、本書

のもつ無類の迫真力によるものだろう。

                        Photo_10



   

   
 求安録




 
『求安録』は、鑑三によれば、熊本市外詫摩ヶ原(たくまがはら)の、 

槙の樹(*下は、槙の木)のもとにある流寓で、古い支邦鞄を台にして 

書かれた。 

 Photo

  今日、その住んだあたりには、丈の高い槙の樹こそまだ残っているが、 

住家はとり払われている。

  本書の中扉に英文で引用されているのは「平安(peace)」を求めて
 

修道院を訪ねたダンテ(*下の絵)の話である。 

 Photo_2

 

  それが題名となっている本書の内容は、ダンテと同じく平安を求めて 

魂の遍歴を重ねてきた鑑三自身の精神の軌跡である。
 
  罪からの脱却を目指し、脱罪術と忘罪術とをいろいろ試みたあげく、
 

罪は神からの背反であり、贖罪のキリストの信仰によってのみ、救済 

のあることが見出されている。いわば全篇、鑑三の信仰告白の書である。 

  しかし、その末尾において「余は平安を得る途(みち)を知れり、然れ 

ども、途を知るは必ずしも途に入るにあらず」と述べているように、迷い 

や悩みはまだ残っていた。 

  次のようなテニソン(*下の写真)の”In  Memoriam ”の一節を引用して 

終わっているあたりも、ありきたりの神学書と違うところだ。 

 Photo_3

 然らば我は何なるか 

  夜暗くして泣く赤児(あかご)  

  光ほしさに泣く赤児(あかご) 

  泣くよりほかに言語(ことば)なし 

     【つづく】

 

 

 

2013年5月23日 (木)

内村鑑三(12 )

    伝道者




  一八九二(明治二五)年一月より、鑑三は横井の世話で日本組合キリ

スト教会の京橋にある講義所の説教者となった。 

  その春には大阪で開かれた日本組合キリスト教会の総会にも出席して

いる。五月からは、前述の『基督教新聞』の編集員に、横井時雄、綱島

佳吉、原田助とともに就いている。『基督教新聞』は、やはり組合派系の

週刊新聞であった。




  新潟の北越学館では、その組合派系の宣教師たちと、あれほど対立

した鑑三が、こんどは一転して組合教会の伝道者になっている。

  これは、どうしたことか。

 

  「不敬事件」により、もはや、学校の教職などに就く道を閉ざされてしま

った鑑三に、さしあたり可能な仕事は伝道者でしかなかったのだった。

  こうして、鑑三は、改めて伝道者となることを真剣に考えた。その春、

大阪で開かれた日本組合キリスト教会総会の懇話会の席上で、鑑三が、

望ましい伝道師について語ったり、『基督教新聞』に「理想的伝道師」と題

して五回におよぶ連載論文を掲載したのは、そのあらわれにほかならない。



  一八九二(明治二五)年の夏に、静養のため鑑三は、一高時代の教え子

飯山敏雄を連れ、千葉県君津郡竹岡村に滞在した。 

  鑑三が同地を訪れたのは、その地方の聖書販売人であった上州安中

教会の茂木一郎の紹介によるといわれているが、一高生鈴木一が同村

の出身であり、その父が竹岡村村長であったことにもあずかっているで

あろう(『鈴木一先生日記及書翰』)。

 

  鑑三は同地に一か月余りの滞在中、熱心に伝道をし、ついに、同地に

天羽(あまは)キリスト教会が設立されることになった。

  天羽キリスト教会の設立は、八月二五日に決定し、同教会の「信仰箇

条」と「規約」とは、鑑三の立案によって作成された。 

  つづいて八月二八日、教会創立後最初の日曜礼拝が守られたが、鑑三

が司式をするとともに、ロマ書第一章第一六節を講じている。

 

  この朝の礼拝には、若き大西祝(はじめ(*下の写真)も出席している。

礼拝が終わると、鑑三は金谷より海路帰京した(『竹岡美以教会略史』)。

                          Photo_4

  竹岡教会は、のちに、メソヂスト教会に所属することになるが、最初は

独立教会として出発したのだった。

 

  鑑三が、このように、竹岡村に一つの教会を設立したことも、伝道者と

して立とうとした意志のあらわれとみることができる。


 

  泰西学館




  千葉から帰るとすぐに鑑三は、大阪の泰西学館に教師として赴任した。

泰西学館は、これまた、組合派系の学校で大阪キリスト教会牧師宮川

経輝(つねてる)が館長をつとめていた。

 

  同教会で発行されていた『大阪基督教報知』には、鑑三を同館に招い

たのは生徒たちの尽力の結果と報道されている。

  泰西学館は貧しい生徒たちが、自分たちの手で石鹸や牛乳を行商す

ることによって支えている学校である。

 

  鑑三自身も困窮した生活を送っていたが、そんな少年たちの懇請は

拒みきれず、泰西学館へ赴く決意をしたものと思う。

  大阪に着任した鑑三は、生徒たちにひたすら学業を「天職」としてつと

めることを勧めた(『大阪基督教報知』六号)。

 

  『大阪朝日新聞』に掲載された泰西学館の生徒募集広告には、大きな

活字で内村鑑三が教師として着任することが宣伝されている。そのため、

新入生も著しく増加をみせた。

 

  あの「不敬事件」は、このころになると鑑三にとって否定的な面ばかり

でなく、彼のネーム・バリューを高める方向にも働きはじめているのだ。 

  ただし伝道者になることに腹を決めていた鑑三は、宮川の大阪キリスト

教会の伝道にも協力し、その老松町講義所で日曜学校の担当者になっ

ている。

 

  この間、鑑三は、京都の判事岡田透の娘しづと大阪で日本式の結婚

式をした。岡田は旧岡崎藩の武士で弓術をよくした。 

  娘のしづを鑑三に嫁がせるにあたり「不敬事件」のことをひとから知ら

されると、むしろ、鑑三に敵の多くあるのをよしとして嫁にやることに同意

した人物である(*下の写真は、内村鑑三、しづ夫妻)

           
    (*写真の下には、著者と妻静子  1893年〔明治26年、著者33才、

          妻静子20才〕 晩春、熊本にて)とある。
 

Photo_8

 

   再燃




  折しも、鑑三としづとの結婚と相前後して、一度は鎮静しかけていた

「不敬事件」に関連する論争が再燃しはじめていた。 

  それは、雑誌『教育時論』(二七二号、一八九二年十一月五日)に「宗教

と教育との関係につき井上哲次郎氏(*下の写真)の談話」が発表された

のに端を発している。

                  Photo_5

  井上哲次郎は帝国大学文科大学教授であり、一八九一(明治二四)年

九月には文部大臣芳川顕正の依頼で『勅語衍義(えんぎ)』を執筆、刊行

している。

 

  鑑三の「不敬事件」については、その年五月に出した『内地雑居続論』の

なかで「不忠不孝なる内村鑑三の如きは、己に畏れ多くも我が至尊なる

天子を侮辱せり、かくの如きものはもはや日本人民に非ざるなり」と攻撃し

たことがある。 

 


  井上は、『教育時論』に掲載した「談話」につづき、「教育と宗教の衝
突」

と題する論文を多数の雑誌に同時連載、これを一八九三(明治二六)年に

は単行本『教育ト宗教ノ衝突』として刊行した。 

  井上によれば、鑑三の「不敬事件」などに代表されるキリスト教の非国家

主義、出世間主義、博愛主義は、日本の国体の国家主義、現世主義、

忠孝の精神に反するとされる。

 

  この井上の所論をめぐり、キリスト教会はもとより、仏教界、思想界、

学界、教育界、ジャーナリズム界をあげて大論争が起こり、一八九三年

のマス・コミは、古今未曾有のにぎわいをみせた。

 

  鑑三自身は「文学博士井上哲次郎君に呈する公開状」を『教育時論』

(二八五号、一八九三年三月十五日)に発表し、井上の記す「不敬事件」

の記述に事実誤認の多いことを指摘するとともに、「勅語に向て低頭せざ

ると勅語を実行せざると、不敬いずれか大なる」と反論した。

 

  しかし、国家主義的な時流にのった帝国大学教授井上の発言は著し

く重んぜられ、「不敬事件」で負った鑑三の傷を深めた。 

  彼を改めて「不敬漢」にしたこの井上の追い打ちを、鑑三は晩年になっ

ても忘れなかった。





   
   熊本英学校

 

  大阪の泰西学館での教育の仕事は、学校の経営難にからむ当局の

不誠実を理由に、一八九三(明治二六)年春には辞し、代わって四月

から熊本英学校教師として赴任した。

 

  熊本英学校の校長の蔵原惟郭(これちか)は米国時代にも一時生活

を共にしたことのある友人であり、同校は海老名弾正(*下の写真)

初代校長を勤めたキリスト教主義学校である。

                            Photo_7

  熊本英学校には、夏まで勤めるという仮の約束で赴任したのだが、同校

における鑑三の教育について、生徒の一人であった竹崎八十雄は、こん

な話を伝えている。 

  鑑三が「日本の三大湖を言え」と出題したところ、生徒の一人が熊本の

江津湖(*下の写真)をあげた。

                               Photo_6

 

  鑑三はそれを聞くや「あんなのは湖ではない、ドブだ」と吐き捨てるように

言ったという(政池仁『内村鑑三伝』)。 

  鑑三は、そこでも視野の大きな人間を育てようとつとめたのだ。

  【つづく】

 

 

 

 

 

2013年5月21日 (火)

内村鑑三(11)


  不敬事件

  教育勅語

  大日本帝国憲法が一八八九(明治二二)年二月十一日に交付された

のにつづき、翌一八九十(明治二三)年十月三十日には教育に関する

勅語が発せられた。

 

  憲法公布の日、小石川上富坂にある自宅でこの報に接した鑑三は、

憲法条文に信仰の自由を述べた重要な一節のあることには意義を認め

たものの、いたずらな市中の熱狂には懐疑を示し、当日の朝、文部大臣

森有礼(ありのり(*下の写真)が暗殺されたことに深い悲しみを寄せて

いる(二月一三日付ストラザース宛書簡)。 

                        Mori

  森は外交官として米国滞在中の一八七二(明治五)年、英文で「日本

における信教の自由」を書いた人物である。 

  教育勅語は、欧米社会でキリスト教が徳育の基礎にあることに対応し

て作成されたものである。いわば大日本帝国の聖典であった。

 

  鑑三はこの年九月から、第一高等中学校の嘱託教員として勤めること

になったが、一高をはじめとする全国七つの高等中学校には、特別に

明治天皇の署名(「睦仁」)入りの教育勅語(*下の写真)が授与された。

これを、一高生たちは全員で、十二月二五日に文部省まで迎えに出向

いた。

                   Photo


  一高は一八八六(明治一九)年に設立された学校であり、鑑三がかつて

学んだ東京英語学校(のち東京大学予備門)の後身にあたる。 

  鑑三を一高の教員として木下広次校長(*下の写真)に推薦したのは、

物理学の教授木村駿吉であった。木村は、植村正久が牧師をしていた

一番町教会の長老でもあった。


           Photo_3
 

  一高の教師となった鑑三は、近い将来、日本の前途をになうことになる

有望な青年たちの教育に、大きな期待を寄せていた。そのため、本郷の

東方町にあった鑑三の小さな自宅は、生徒たちのために開放された。


 
  大日本帝国憲法が公布された日には、その条文中に天皇が「神聖にし

て侵すべからず」と定められていることを、鑑三はやはり米国にいる友人

に報じている。 

  はたして鑑三がどんな意味で、この語句を書き送ったのか、書簡の文面

だけではとらえがたい。 

  しかし、もしそれが、鑑三の心にある不安な予感をよぎらせたとしたなら、

その予感はまもなくあたることになる。





  奉読式




  一八九一(明治二四)年一月九日、一高では、新年の授業開始にあたり

年末に受領したばかりの教育勅語の奉読式がおこなわれることになった。 

  この日の式の進め方は、前もって教員たちに伝えられたのであろうか、

一高に在職していた教員のなかで、キリスト教信徒は、鑑三をはじめ木村

駿吉と中島力造との三人であったが、木村と中島とは当日欠席してしまった。

 

  鑑三一人は、心中ひそかに、或る決意をして出席することにした。その

前日、鑑三は札幌にある親友宮部金吾に宛てて手紙を書き、札幌教会

からの脱会を通告している。 

 脱会の理由については記されていないが、脱会が直接札幌教会に対す

る不満とかいうような問題ではなく、鑑三の信仰と名誉とにもとづく軽くな

い理由によることのみを伝えている。

 

  それが、教育勅語を前にして、キリスト信徒としての信仰と名誉にそった

行動をとるためなのか、それとも信仰に反した行動をとるためなのか、

今もなお見方の分かれるところである。いずれにせよ、鑑三のとる行為

が累(るい)を札幌教会に及ぼすことを防ぐための脱会通告とみてよい。

  朝八時に開始された奉読式は、風邪で休んでいる木下校長に代わり、

久原躬弦(くはらみつる)教頭が教育勅語を奉読した。

 

  このあと、教員と生徒とは、順番に教育勅語の前に進み、勅語に記され

た明治天皇の署名に対し「奉拝」することを求められた。鑑三の順番は

三番目にまわってきた。

 

  「私は迷いためらいながら、キリスト教的良心に誤りない道を選んで、

六十人の教授(全部非キリスト教信徒、私のほかにいた二人のキリスト

信徒は欠席)と千人以上の生徒の威儀をただして見守るなかで、私は

自分の考えをおし通し頭を下げなかったのであります」(三月六日および

一四日付ベル宛書簡・・・・下は、ベルの写真)


       Photo_2



  鑑三は、その「おそろしい瞬間」のことを、このように述べている。
 
  このころ、カーライルの著わした『クロムウェル伝』に夢中になっていた

鑑三は、自由と独立との大切に目を見開かれ、良心の声にしたがって、

とっさに、この行動に出たとも言っている(「読書余録」)。

 

  鑑三には、宗教的な礼拝にあたる「奉拝」は、その信仰するキリスト教の

神以外には決して捧げるべきものではなかった。 

  地上に存在するものは、たとえ天皇でも、それに宗教的礼拝(worship)

を捧げることは、それを絶対視することになる。人間を絶対視することは

宗教的良心の許すことではない。


 
  実は、鑑三自身が、この日のことを最初に報じたベル宛の手紙でさえ、

事件から約二か月後に書かれたものである。 

  そのなかでは、最初から鑑三のとる態度は定まっていたかのように述

べられているが、それは疑わしい。 

  前述したように相反する行動のどちらをとるにせよ、直前まで迷いに迷っ

ていたのが実状ではないだろうか。

 

  それだからこそ鑑三は、教育勅語を前にして一瞬頭の下げ方をためら

い、結果的には、深いお辞儀をしないままに降壇してしまったのだ。

これが、ただちに大問題を招くことになる。


 

  非難




  鑑三は、お辞儀はしたのだが、宗教的「礼拝」になるほど頭を下げなか

った。その行動を非難する声は、まず一高内部の生徒、教員らからあげ

られた。 

  なかには、鑑三の家に押しかけ、石を投ずる者までいた。

 

  事態の急速な悪化に驚いた木下校長は、鑑三に手紙を送り、教育勅語

の天皇署名に対する敬礼は、人間相互の間のことである社会上の「最重

の敬礼」であり、信仰とは別の関係であると説き、改めて敬礼を依頼して

きた。

 

  鑑三も、「礼拝(worship)」と「尊敬(respect)」が、別であれば、天皇に対

する尊敬の念には変わりないとして、この提案に同意を与えた。 

  ただ、鑑三は悪性の流感にかかって起き上がれる状態でなく、その意味

での「敬礼」は友人の木村駿吉によってなされた。

  木下校長の思惑どおりにことが運んだならば、木村の代拝によって、

鑑三のこの事件は収拾されるはずであった。

 

  しかしながら、いち早く、マスコミのキャッチするところとなり、一挙に、

内村鑑三「不敬事件」として、全国に宣伝された。これに仏教各宗派の

機関誌が便乗して、キリスト信徒による「不敬事件」を言い広めた。 

  このため、事件は拡大して、キリスト教と日本の国体の問題へと進展

していった。

 

 重い流感にかかった鑑三が病床で意識不明の状態をつづけている間に、

その身辺では、本人のまったくあずかり知らない出来事が、次々に起こった。 

  その一つは、内村鑑三名による弁明書が『郵便報知新聞』をはじめとす

る数紙に掲載されたことである。

  第二には、一八九一(明治二四)年一月三一日付で、その辞職願が一高

提出されていたことである。

 

  今日残されているこの辞表をみると、それは、印鑑まで押してあるが、

明らかに内村の筆跡ではない。 

  それでも、ただちに辞表は受理され、二月三日付で鑑三は、同校を依願

解職の身となった。 

  鑑三の病勢がややおさまって、その意識を回復したときには、鑑三は、

すでに、自分が一高の職を解かれた身であることがわかった。


   トラウマ



  憔悴した鑑三に追いうちをかけたのが、妻かずの死である。

鑑三の病気の間は、その看病につくすかたわら、外から押しかける抗議

者を、夫にかわって一手に引き受けてきたのだが、鑑三の回復と入れ替

わりに、同じ流感の冒すところとなった。 

  二か月余り病臥したあと、最後に横井時雄から洗礼を受け、四月一九日

世を去った。 

  鑑三にとっては、職業を失ったあと、たてつづけに最愛の妻をも奪われ、

悲痛きわまりなかった。 

 


  内村鑑三「不敬事件」をかえりみるとき、それが、内村個人の一生に

はかり知れない傷痕(トラウマ)を遺したことは、鑑三が、終生天皇および

その関係のことになると、複雑な感情を示すことによってもわかる。 

  この思想および宗教上に与えた影響については、著書『基督信徒の

慰(なぐさめ)』にくわしく、これは、のちに改めてとりあげたい。

 

  鑑三個人のうえのみならず、本事件は日本近代の歴史からみても、

はなはだ大きな意味をもつ事件である。 

  大日本帝国憲法において「神聖侵すべからず」とされた天皇に対して、

一個人が、現世をこえる普遍適存在を根拠に、その神聖不可侵性を否定

する行動をとったのだ。

 

  鑑三は、それがために学校を追われることになったとはいえ、人間を

絶対視し、不可侵的存在とすることに「否(ノー)!」のありうることを世に

示した。

  この世的な地上のものを、すべて相対化する思想のあることを顕(あら

わ)したといえる。また、たった一人の人間が、迷いながらではあるものの、

なによりも良心に忠実な行動に出たことは記憶されるだろう。

 

  「不敬事件」のため、日本に安らかに枕する所のなくなった鑑三を招き、

銷沈(しょうちん)の身をしばらく癒す生活を送らせたのは、札幌にいる

宮部金吾、新渡戸稲造らの旧友たちであった。札幌には一か月ほど滞在

したあと帰京した。 

  東京に戻った鑑三を励まし支えたのは本郷教会の牧師横井時雄である。

横井は、鑑三に本郷教会で旧約聖書のエレミヤ記の講義をさせたり、

『基督教新聞』に執筆の場を与えたりしている。

 

  鑑三は、これら友人の厚情をいつまでも覚え、札幌教会のためには我が

身の健康をかえりみず尽くすことになるし、晩年には不遇であった横井の

よき理解者であった。  【つづく】

 

 

 

 

2013年5月20日 (月)

内村鑑三(10 )

    学館紛争




  学館紛争は生徒をもまきこみ、生徒集会で「北越学館の独立を計らん為

の結合」を誓う誓約書が作成され、一三六人が署名した。 

  これは明らかに鑑三の方針を支持する表明であったので、学館の発起人

たちは、これを鑑三による煽動の結果とみなした。

 

  学館の最高決定機関である発起人会は、鑑三の提出した「意見書」につ

き会合を開き協議、外国人宣教師の援助をうちきることについては、その

必要のないことを決定した。

  新島襄も、自分が斡旋した鑑三によってひき起こされた紛争であるので、

両者の間の調停をはかるため、横井時雄(*下の写真)を新潟に派遣した

りしたが、その効果はなかった。

                             Photo_10
  発起人のなかでも、とりわけ激しく鑑三と対立したのは、新潟第一キリ

スト教会の牧師成瀬仁蔵(のちの日本女子大学の創立者:下の写真の

人物)であった。

                           Photo

  成瀬も負けずに「意見書」を著わし、鑑三の非を五項目にわたって陳述

したうえ解職すべきことを結論としている。 

  ついに、経営者、教師、宣教師たちからも孤立した鑑三は、争いに破れ

て、赴任後わずか四か月にして同館を辞職した。 

 

  鑑三は、これより十七年後、新潟でおこなった講演のなかで、北越学館

を去った日のことを「一二月一八日霙(みぞれ)乱るる寒風」に送られて

東京へ逃げ帰ったと述べている(「日本人の研究」)。 

  その日付と天気とをはっきり記憶しているのは、それだけ傷心の痛手の

深かったことを物語るものだ。

 

  二つのJのための第一着手として、意気揚々として赴いた新潟での教育

事業に、むなしく破れて帰京した鑑三は、一番町教会(植村正久牧師)など

で説教したり、水産伝習所、明治女学校、東洋英和学校などで教鞭をとり、

一時の生活をしのいだ。



  水産伝習所は、大日本水産会によって一八八九(明治二二)年一月

二十日、東京に開所されたばかりの学校である。 

  鑑三は、大日本水産会とは渡米前より関係が深く、その創立には発起人

として名をつらね、同会の集会ではたびたび研究報告をしたことがあった。 

  三月一六日付で同校教師を委嘱された鑑三は、動植物学の講義を担当

することになった。水産伝習所の後身である現在の東京水産大学(*尚、

同大学は2003年に、東京商船大学と合併して東京海洋大学となった)には、

鑑三のおこなった「水産動物学」講義の筆録が残されている。

 

  鑑三の水産伝習所時代の教え子には、のちに『佐渡新聞』を創刊する

森知幾(ちき)や、田岡嶺雲(れいうん)らがいた。 

  伝習所では、夏に房州の海岸で実習をおこなったが、その時のことを、

鑑三から魚類解剖の指導を受けた田岡嶺雲(*下の写真)は、こう語っ

ている。 

                            Photo_2
 

  「内村鑑三先生は、夏期の房州における実習の指導教師であった。

英文の小説を読んでいたのを目附かって叱られた。 

  先生は脳の補いになるのだとかいって、何とか燐(りん)を持薬にせら

れていた。 

 先生がメスとピンセットを執っての魚の解剖よりも、予が箴言として服膺

(ふくよう)して今に忘れざるものは『偽君子となるな』との先生の一語で

ある。 

  この一語は、予が水産伝習所の一年半中における最大の獲物であると

いってもよい」(『数奇伝』)





  明治女学校



  明治女学校は、一八八五(明治一八)年に木村熊二を校長として、やは

り東京に開校された女子の高等教育機関である。 

  明治女学校の教壇には、のちに北村透谷や島崎藤村が立ったことでも

名高い(*下の写真は、透谷と藤村)

                         Photo_3

                            Photo_4

 一八八九(明治二二)年八月、『女学雑誌』一七三号に掲載された明治

女学校の広告に教員として鑑三の名前が紹介されている。 

  明治女学校に高等科が新設されるにあたり、巌本善治、植村正久、木村

熊二、木村駿吉、島田三郎の名とならんで鑑三の氏名は、「生物学」の授業

担当者として記されている。



  ところが、鑑三が、じっさいに教員として明治女学校に勤めたことを証明

する資料は、今のところない。 

  この広告どおり実現したかどうかわからないが、ただ、この年、鑑三が

明治女学校において、六月二二日には「文学における聖書の価値」と題し

て講演したことと、九月十一日の同校の開業式に出席して、女子教育に

つき演説したことだけは知られている。

  その後も、明治女学校に鑑三はたびたび出かけて講演をおこなっている。

 

明治三十年代のことにはなるが、同校の学生であった野上弥生子(*下の

写真)は、女学校時代に聞いたもっとも感動的な話として、鑑三による講演

をあげている。

              Photo_5

  「いつかは突然、諸君は一度、太平洋の日の出を見なければいけないと

おっしゃった。 

 犬吠崎あたりに立って、朝、太平洋から昇るこんな大きな、真っ赤な太陽

を見ることが非常に必要である。形はこんなに壮大で美しくて、創造の神の

力を生き生きと認識する。 

  そういう言葉ではなかったかと思いますけれども、今の言葉でいうと、そう

いう意味のことだったんですねえ。ただそれだけのことなんですけれども、

打たれました(「妻と母と作家の統一に生きた人生」、『婦人公論』一九六

七年一月号)

          
      

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   東洋英和学校

  東洋英和学校は、一八八四(明治一七)年にカナダ・メソヂスト派により

麻生に開校された男子の学校である。同派による女子の学校が東洋英

和女学校である。 

  鑑三が教えたころの同校の総理は、メソヂスト教会牧師の平岩愃保

(よしやす)が兼任し、鑑三の父宜之は、平岩が以前に牧師を勤めていた

日本メソヂスト下谷教会の会員であった。 

  東洋英和学校で鑑三が担当したのは「万国史」であり、その教えを受けた

学生に若き日の山路愛山(*下の写真)がいる。

                Photo_7

  愛山は、一八八九(明治二二)年十一月四日、同校の天長節祝会でお

こなわれた鑑三の演説に心を打たれた一人である。それは、壇上の菊花

を指しながら愛国心を吐露した次のような演説であった。

 

  「明治廿二年の天長節において、余は麻布の東洋英和学校において

内村氏の演説を聞きたり。 

  当時彼は、その演壇を飾れる菊花を指して曰いき。この菊花は自然が

特に日本を恵みたるものの一なり。菊は実に日本に特有する名花なりと。

         Photo_8

 彼は更に声を揚げて曰く。諸生よ、窓を排して西天に聳ゆる富嶽を見よ。
 

これまた天の特に我国に与えたる絶佳の風景なり。 

              Photo_9

  されど諸生よ、記せよ。日本において世界に卓絶したる最も大なる不思

議は実に我皇室なり。天壌と共に窮(きわま)りなき我皇室は、実に日本

人民が唯一の誇りとすべきものなりと。 

  その粛々たる態度とその誠実をあらわして余りある容貌とは深く聴者の

心を動かしたりき」山路弥吉『基督教評論』)。




  田岡嶺雲や山露愛山らは、いずれも、学校の授業そのものよりも別の

話で、教師鑑三から感銘を受けているのだ。 

  これらの思い出を通じて、鑑三が、キリスト愛国」主義のため北越学館

を追われながら、少しもひるまず、二つのJの旗をいよいよ高く掲げて教育

に情熱を燃やしていたありさまがうかがわれる。

 

  この年七月三一日に、鑑三は、横浜かずと結婚している。かずは、同じ

高崎の藩士であった横浜恕の娘であり、少年時代の遊び友達であった。 

  米国にいる友人にあてた手紙に、彼女の名KazはKanzoマイナスnoで

あると紹介し、この結婚に大きな意味を見出している。 

  六人の継母につかえ、知的なヒロインではないが家事にたけた家庭的

な女性として報じている。 

  これは、前妻タケとまったく対照的である。鑑三は文字どおり、自分の

よき伴侶として、この結婚に期待していた。  【つづく】

 

 

 

 

2013年5月18日 (土)

内村鑑三(9 )

 新しい夢

 

  アマスト大学を卒業した鑑三は、シーリーの勧めで、同大学の級友

ストラザースらとともに、ハートフォード神学校に進んだ。 

  『余は如何にして基督信徒となりし乎』によると、この神学校時代には、

あまりよい思い出は語られていない。

 

  ところが後年、同じ神学校に学んだ安部磯雄(*下の写真)によると、

鑑三が同校には日本人学生として、たいへん好ましい印象を残してくれて

いたので、大助かりであったことが記されている(『社会主義者となるまで』)。  

 Photo

 鑑三は、そこでも、あい変らず勤勉な学生であったにちがいない。
   

ただ、不眠症がしだいに昂じたことにより、中途でこれを断念し、帰国しな  

ければならなくなった。



  米国で過ごした何年間かをかえりみると、鑑三には、いわゆる文化ショッ
  

クは、当時としては少ない方であった。  

  言葉の不自由は、まったくないといってよかった。衣食住の一切が洋式  

でまかなわれた札幌農学校生活があったからである。  

 

  ショックのはなはだしかったのは、キリスト教国米国の与えた宗教ショック  

(これも文化ショックの一つであるが)である。

  故国日本を出るとき抱いていた心の「空白」を、鑑三は、キリスト教の
  

聖地である米国において癒そうと期待して来た。その期待は、米国のキリ  

スト教の現実に接して微塵にうち砕かれた。  

 

  しかし、その大きな闇の支配する米国にも、故国にはみられない強い光  

のあること、その光の一端にふれることにより、鑑三は回心の体験を得ら  

れたのだった。
                     
                           
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  鑑三の心の「空白」は、これがために充たされ、はるばるキリスト教国に  

来ただけの収穫はあったのだ。   

  キリスト教はよいが、アメリカのキリスト教は駄目だ、

というのが、宗教ショックを味わった鑑三の結論である。  

 

 キリスト教文明が、もはや頂点をすぎ、腐臭さえ漂わせている間に、鑑三  

の新しい夢は、これからまだ造形を待つ素材のような日本に注がれた。

  長い間、日本社会にあって、邪宗門とされ、異国の教えとされたキリスト
  

教に入信することは、その信者にとり、どこか、日本に対し背信行為を犯  

したような、うしろめたい心理を生じさせるものである。   

 

  そこにキリスト教国米国の幻滅が加われば、キリスト教と愛国との結合 

(ふたつのJ  ) はいっそう促進される。  

  鑑三が、アマスト時代、その墓碑銘のためとして、愛用の聖書に書きと  

めた、あの有名な英文の言葉を掲げよう。  

  I  for  Japan;  自分は日本の為に   

  Japan  for  the  World;  日本は世界の為に   

  The World for  Christ;  世界はキリストの為に

  And All  for  God.   凡ては神の為に
   
   
 

     (1886年、アマスト大学在学中、聖書の見返りに記した自分の墓碑銘・・・

                    鈴木範久氏記)

 

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   日本にキリストによって与えられた新しい人間観を広めること、この戦場に  

おもむく武士の思いで、帰国した鑑三は、故国での第一歩を踏みしめた。





   二   独り立つ



   北越学館



   新潟へ



  三年半ぶりに故国の土を踏んだ鑑三は、新潟の北越学館に教頭として
  

赴任する話がまとまり、一八八八(明治二一)年六月六日、北越学館館主 

加藤勝弥と約定書をとりかわした。  

 

  このような約定書を交換すること自体が珍しい時代のためか、この約定  

書は『基督教新聞』(二五六号、六月二十日)に全文掲載されている。 

  それによると、年俸、任期(一年)のほかに、伝道にたずさわらないこと  

と信仰箇条とが定められている。  

 

  信仰箇条では唯一神の信仰とキリストにおける救済を認める以外、  

他はすべて「余一己の見解に任すべき事」との言葉を入れている。 

  ここに、北越学館に赴任していっても、なんら特定の教派により信仰上  

の束縛を受けないという鑑三の気概があらわされている。

  北越学館は、その前年に阿部欽二郎、成瀬仁蔵、加藤勝弥らによって
  

設立されたばかりの学校である。阿部欽二郎の創設した新潟英学校を  

母胎としたものである。  

 

  成瀬仁蔵は新潟第一キリスト教会牧師であり、館主となる加藤勝弥は  

キリスト教信者の県会議員であった。   

 また新潟在住の米国伝道会社所属の宣教師たちに教育上の協力を

仰いでいた。
 

Photo_5

 
 (北越学館〔左手〕の建物を移築した新潟の葛塚小学校旧校舎

     ・・・・ 鈴木氏記 )

 

 米国伝道会社も新潟第一キリスト教会も、同志社とは密接な関係をもつ

教派であり、同校へ鑑三を斡旋したのは新島襄(*下の写真)である。

                 Photo_6

  鑑三を北越学館へ招聘する話は、すでに米国滞在中、米国伝道会社の

宣教師D・スカッダーを通じて交渉があったが、そのときは、いったん断わ

っている。 

  帰国後、新島襄との接触を通じて、ふたたび、この話がもちあがり、

契約の運びにいたった。 しかし、そのまま、すんなりと赴任の日を迎えた

わけではない。



  それは、鑑三が、北越学館の、キリスト教主義のみにもとづく教育と、

外国の伝道会社からの独立につき、大きな危惧を感じたからである。 

  新島襄の六月二三日の日記によると、契約書のとりかわされた直後に

もかかわらず、鑑三が、その強い独立心により、新潟行きに難色を示して

いることが、次のように記されている。

 

  「内村氏来る。新潟将来のことを話し、加藤に書を送り、古屋野氏に書を

遣ることに決す。同氏はコンヴィクションあり、これを屈する能わず。故を

以て我が党と共に運動する能わず。いずれの所か他人の未だ甫(はじ)

めざる地に行き、伝道なり教育なり、自治孤立の主義を以て試みたき由

申されたり」(「新島日記『新島研究』五十号)

 

  さすがの新島も、鑑三の異常なまでの独立心に手を焼いたようで、鑑三

は後年、このとき新島が「君は我国基督教界の伯夷叔斉(はくいしゅくせい)

なり」と歎じたと回顧している(一九二一年九月二七日の日記)。





    対立



  このころの鑑三のモットーは「キリスト愛国(Christ  national )」であった。
 

この立場から、第一に、北越学館のキリスト教にもとづく教育には、なんら

反対するものではなかったが、それがために、東洋や日本の聖賢たちの

教えを排し、キリスト教のみを教える教育には賛成でなかった。

  第二に、外国伝道会社の宣教師の援助を得ることによって、自主独立

が大きく損なわれることを憂えたのである。

 

  この危惧が残ったため、鑑三は、正教頭としてではなく仮教頭として赴任

することにし、さらに「北越学館略則」の一部をも改めさせている。 

  「本校は正則英語を以て高等普通科を教授かつ漢文学の一科を加え

専ら作文を修習せしむ」となっていたのを、鑑三は、次のように変更させた。

 

  「本館の設立並に維持は、単に有志者の寄附金に由る。その目的は

高尚なる徳義と愛国国民主義を以て有為の生徒を要請するにあり」

  このような条件をつけても、なお鑑三はその望むような独立が、実現する

かどうかに不安を抱きながら、九月の始業に臨んだのだった。

 

  北越学館には、当時、百数十人の生徒が在籍していた。これらの生徒

に対し、鑑三は、授業のほか週五回旧約聖書のエレミア記を教えている。 

  エレミア記は古代イスラエルの愛国の預言者エレミアのことを述べたもの

である。 (*下の絵は、預言者エレミア)

                       Photo_7

 毎土曜日には、公開講演も開き、町の人たちにルーテル伝などの連続

講義をおこなったことも知られている。 

  日蓮宗僧侶による講演を企画し、宣教師たちの反対に出会ったことも

あったようだ(「同情の秘訣」)。

 

 「キリスト愛国」主義者鑑三が予感していた外国人宣教師との対立は、

早くも始業後一か月もたたぬ間に訪れた。 

  鑑三は、北越学館の発起人らに「意見書」を送付し、そのなかで外国人

宣教師による教育が無給でなされていることは、結局外国伝道会社の

援助を受けていることになり、それは北越学館設立の精神に反するとの

見解を表明した。 

  これに対し、外国人宣教師らも、このような教頭のもとではもはや勤務を

継続することはできないと辞職を通告、対立は激化した。  【つづく】

 

 

 

 

 

 

 

 

2013年5月17日 (金)

内村鑑三(8 )

    進路

  その罪の克服とあわせ、鑑三の心の悩みを、いっそう深めたのは、将来

進むべき職業の方向が定まらないことである。 

  具体的に言うと、どの大学で何を学ぶかが、定まらないことだ。 

養護院の院長夫人はユニテリアンであり、ハーヴァード大学に入ることを

勧めた。

 

  しかし鑑三が、渡米するや、まずフィラデルフィアに来たのは、同地にある

ペンシルヴァニア大学に学ぶ目的を持っていたからである。 

  米国で再会した新島襄は、その母校のアマスト大学(*下の写真は、

今日のアマスト大学)をしきりに勧める。

                    Photo
 

  もしペンシルヴァニア大学に進むならば、医学と生物とを学び、医師に

なる道が開かれる。 

  アマスト大学に進むばあいは、シーリー総長(*下の写真:「内村鑑三

記念文庫デジタルアーカイブ」参照)のもとに伝道者となることである。

鑑三は、この両者のいずれを選ぶべきか、迷いに迷った。

                                Photo_2

  貧しくて多勢の家族を支えていくためには、医師になる道が望ましい。 

鑑三の希望は、もしペンシルヴァニア大学で奨学金が与えられさえする

なら、ここに入り医師になる方に傾きかかった。 

  他方、新島は、この有望な青年を見込んで、熱心にアマスト大学を

勧める。 

 鑑三には、伝道者となり、キリストの教えを日本に広め、日本をキリスト

教国にするのが、入信以来の夢である。




  同年の夏、鑑三は、半年間働いたエルウィンを去り、ボストンの北

約五十キロのところにあるグロースターを訪れた。 

  グロースターは、大西洋につき出たアン岬にある漁港町で、米国一の

漁場として知られていた。それが、鑑三の足を、この町に向かわせた一つ

の理由であったが、鑑三は、この町で祈りつつ、将来の進路につき、回答

を見出すことをはかった。

 

  アン岬の夕景(*下の写真は、今日のアン岬の夕景)は、鑑三が一人

祈るのにふさわしく静かだ。この地にいる間に、英文で「大和魂」を記し、

メソヂスト派の雑誌に送った。

                            Photo_3

  こうして、日本のためいずれの職業につくがよいかに、最後の断が

下された。鑑三が選んだのはアマスト大学に入学し、伝道者となる道で

あった。 

  この決断を下すことにより、「魂の最大の重荷を、底知れぬ深さのグロ

ースター湾に投げ込んだ」鑑三は、清新な気持ちをもってアマスト大学に

向かったのであった。

 

 

   アマスト大学
 

 

  アマスト大学に、ギボンの『ローマ史』五冊のみを持って到着した鑑三が、

最初に訪れたのは、総長シーリーであった。 

  札幌に学んでいるころから、その令名を聞いていた鑑三は、この総長の、

がっちりした体で抱えられるようにして迎えられた。

 

  その翌日には、札幌農学校入学以来、憧れの人であったW・S・クラーク

訪ねている。

 晩年、この世的には必ずしも幸福でなかったクラークは、鑑三に、自分

がこの世でなした最も貴い仕事として、日本における札幌農学校の事業

を語った。 

  翌年三月、クラークの訃報を聞くと、鑑三はただちに筆をとり、その日本

での貴い仕事を米国人に紹介した。 

 

  ボストンから西に約百キロのところにあるアマスト大学は、一八二一年

に創立された小さな学校である。近くをコネチカット川*下の写真)が流れ、

はるかにホリヨークの山なみをのぞむ自然環境豊かな地にある。校舎の

点在する林の樹木にはリスが昇り降りし、広大なキャンパスは芝生が美

しい。牧歌的な学園である。

                                Photo_4

                 Photo_5

 

  米国時代のことを記した「流鼠録(りゅうざんろく)」のなかで鑑三は、あの

歴史もあり、規模も大きく、名声に富むハーヴァード大学でなく、この田舎

の小さなアマスト大学を選んだ理由を、次のように言っている。

  「「アマスト」の重んずる所は、むしろ徳にありて智にあらず、主義にあり

て事業あらず、鍛錬にありて識量にあらず、人を離れて自然と自然の 

神とに交わるにあり、拠典(オーソリテー)に頼らずして独創の見を促す  

にあり、高潔なる主義を慕うもの、厳然たる独立を愛するもの、倹を好む  

もの、峻を悦ぶものは、来たりてこの校に学ぶもの甚だ多し」 

 


  このハーヴァード大学とアマスト大学との比較は、あたかも日本の東京

帝国大学と札幌農学校との比較を連想させられる。 

  鑑三の経歴をみるとき、官軍に対して佐幕派の藩士の家に生まれ、東京

大学ではなく札幌農学校に進み、米国では、ハーヴァード大学でなくアマス

ト大学に学ぶコースをたどる。




  ここには、一つの共通点を見出すことができる。官軍、東京大学、ハー

ヴァード大学を陽とするならば、佐幕派、札幌農学校、アマスト大学は

陰である。 

  もちろん、後者といってもエリートであることには変わりないが、それでも

前者のコースが華やかな表の街道であることと対照すると、やはり暗い陰

のある裏の街道である。

  前者のコースを悠々と行く能力を備えた鑑三が、その人生において、

後者の道を歩み、またそれを選んだことは、他の陰を帯びて人生を歩む

人間への共感を育てることになったのではないか。 

  後述するように、教会に対する無教会の唱道も、同じ対照の延長線上

にある。

 

     回心





  選科生として三年に編入したアマスト大学での生活は、偉大な総長シー

リーの暖かな魂へのみとりに守られ、鑑三が第二の母校というにふさわし

い生活をもたらした。 

  一八八六年三月八日、鑑三に訪れたキリスト教信仰上の回心と名づけ

られる体験は、この情愛溢れる師シーリーの導きによったものだ。 

  アマストで学ぶようになってからも、心内の自己中心的傾向、つまり罪

の克服をめぐる闘いは依然として継続していた。

 

  ところが、ある日、シーリーは鑑三に向かって、次のような言葉を投げ

かけた。 

  「内村、君は君の内をのみ見るからいけない。君は君の外を見なけれ

ばいけない。 

 何故おのれを省みる事を止めて、十字架の上に君の罪を贖(あがな)い

給いしイエスを仰ぎみないのか。 

  君の為す所は、小児が植木を鉢に植えて、その成長を確かめんと欲して、

毎日その根を抜いて見ると同然である。

  何故に、これを神と日光とに委ね奉り、安心して君の成長を待たぬ

のか」(「クリスマス夜話=私の信仰の先生」)
                       Iesu
  この一言の示唆により、鑑三は回心を体験した。これまでわかりかけて

いたものが雲を払い、十字架のキリストの贖いの意味が、鑑三に明らか

に示されたのだ。 

  言いかえれば、罪の克服と言うことは、人間の努力や道徳的な行為に

よるものでないことを覚らせられたのである。

 

  この回心の体験は、鑑三の心の世界を一転して明るくした。五月二六日

の日記には 

「小鳥、草花、太陽、大気、―なんと美しく、輝かしく、かぐわしいことか!」

との歓喜の目でみた自然の讃歌がみられる。

  鑑三の味わったこの回心の体験は、彼がキリスト教に入信して以来、

徐々に形成されつつあった新しい人間観を確立させたものともいってよい。

 

  それは、行為主義、律法主義に対し、信仰主義にもとづく人間観、価値

観である。 

 行為主義の人間観では、よい行為の数多くできる人々、すなわち善人、

賢者、強健な人間が尊ばれ、これに反して、罪人、貧者、愚者、病人、

弱者は軽んじられる。

 

  ところが、信仰のみによる信仰主義の人間観では、善行の多寡は問わ

れない。 

 この信仰主義の人間観においてはじめて、罪人、貧者、愚者、病人、

弱者は、同じ人間とみなされるのだ(*下の写真は、アマスト大学

在学中の内村鑑三)

                           Photo_6

  一八八八年、アマスト大学を卒業するにあたり、鑑三は選科生として

入学したにもかかわらず大学当局は、正規の卒業生扱いとし、理学士

(Bachelor  of  Science )の称号を授けた。 

  現在、アマスト大学の総長室には、石河(いしこ)光哉の描いた鑑三の

肖像画がかけられている。  【つづく】

 

 

2013年5月16日 (木)

本日の痛快ブログ(8 )

 

    【皆さんへ】


 お早うございます。

 
  皆さん、お元気ですか?

    五月は、バラの美しい季節です。

  今、ドルトムントが、美しく咲き誇っています(下の写真)

     また、アマリリスも、見事に咲きました。

  正直、私は、庭で枯らしてしまいましたのに、

  鉢植えの妻のアマリリスは、今年も綺麗に咲きました。

  実は、もう十年物なのです。

   002no2

          003no2


 
  ところで、安倍氏が上機嫌で「あの素晴らしい愛をもう一度」を歌ったり、

菅氏が、反省にならない”居直り”をしたりで、最近の地上波テレビは、

余りにも醜悪で、観るに耐えないものばかりです。

  もはや、ブログやメルマガ、それに「You  Tube」ぐらいにしか、

観る価値(=“真実”は無いようです。
 


  今日は、「本日の痛快ブログ」として、井口和基氏の5月12日
のブログ

「イルミナティ―秘密の盟約」を、ご高覧いただきたいと存じます。

  オープニングが、昔の1960年代のテレビ映画「タイムトンネル」を彷彿と

させます。

  また、場面展開が少し早い感じで、見づらい感がありますが、たいへん

興味深い内容です。

  作中の「我等」、あるいは「我々」とは、「1%の人々」「NWO」「略奪者」

「人類の富の簒奪者」「陰のグローバル政府」「ビルダーバーグ」「国際

金融マフィア」「国際金融資本家」「TPPの相手」でなどです。

  また、彼らの言う「奴等」とは、われわれ99%の国民・庶民です。


  「
真実は、人間を自由にする(=解放する)」という聖言がありますが、

まさに真実の覚醒こそが、今日の急務です。

  今回の「You Tube」も、まさにわれわれが、明確に認識・理解すべき

真実だと思うのです。

  尚、翻訳をして下さった千早女史は、心から尊敬、かつ信頼できる方だ

思います。

   二つ目のYou  Tubeは、正直、同じ場面の繰り返しで、些か冗長な感じ

ですが、それでも、ある種のリアリティ(=真実味)が伝わってきます。

 さて、「本日の痛快ブログ(一部)」は、次の通りです。



  「非同時的学習」は「次へのレッスン」?:

  最近のYouTube番組から

  みなさん、こんにちは。


 いやはや、世の中にはいろんな情報を提供してくれるYouTube番組が
あるものである。テレビや映画やそんなたぐいのものまで、要拡散と
思われるものをだれかインターネットに保存するからである。
 このインターネットの映像配信技術の革新がなければ、フリーメー
ソンやら、イルミナティーやら、NWOやら、レプティリアンやら、ETV
(=エイリアンビークル=UFO)やら、HAARPやら、人工地震やら、
どんなものであっても、これほどまでに世に知られることはなかった
に違いない。


 なぜなら、その場合では、何でもいちいち文章にしなければならず、
その結果、証拠としての価値が著しく損なわれたり、情報拡散の速度
が遅かったにちがいないからである。そして同時に、私のこのブログも
これほどまでには知られることもなかったに違いない。


「映像」とは、それほどまでに情報としての価値が高いのである。


 さて、そんな最近の興味深いYouTube番組をここにメモしておこう。
残念ながら、exblogにはdailymotionとかそんなたぐいのものは貼り付け
ることができないようである。


 (あ)まずは、「人工地震」を国民に紹介したインドのマスコミの番組。
その名も「津波爆弾」

ツナミ・ボム(津波爆弾) 

 ここでは、スマトラ沖大地震と日本の東日本大震災も
アメリカの闇組織による「津波爆弾」だという感じの
言葉が聞き取れる。

 映像からしかわからないが、核爆弾が海底地下に仕込まれた場合と
空から海へ落とした場合、すなわち、海底地下で爆発した場合と水中
で爆発した場合の違いがはっきり見て取れるのである。
 簡単にいえば、海底地下爆発による津波は「真っ黒」だが、水中爆発
の場合は「真っ白」だということである。この違いが明瞭に見て取れるの
である。必見ですナ。


 さすがに仏教やヒンドゥーの国。日本のマスゴミは「インドの山奥で
修行しない」といけませんナ!  【つづく】

2013年5月14日 (火)

内村鑑三(7 )

     ニューイングランド生活

 

  渡米

 
  米国のペンシルヴァニア精神薄弱児養護院の看護人として、一八八五年

一月一日より、鑑三は新しい生活を始めた。 

  養護院の建物は、静かな丘の上に緑の樹々に囲まれるようにして立っ

ている。 

 前年の十一月二四日にサンフランシスコに到着してから、またたく間に

一か月余りの日数がたっていた(*下の写真は、今日のニューイング

ランド)

                  Photo

                  Photo_2


  鑑三は、米国に来た目的を、「慈善事業」を学ぶためであったと述べて

いるが、はたして、それが、渡米の真の理由であったかとなると疑わしい。 

  同じころ、札幌農学校を卒業するにあたり、二つのJに捧げることを共に

誓った友のうち、太田(新渡戸)は渡米し、宮部は母校の教師として赴任し

ていた。 

  鑑三ひとりが、不本意ながら農商務省の役人生活をさせられていた。 

 

  この職業上の迷いがあったところに、タケとの結婚の破局が加わり、

鑑三の心に大きな「空白」が生じた。 

  心内に大きな口を開けた「空白」とは、今の言葉でいえば、生きがいとか

アイデンティティの喪失ともいわれるものである。 

  その「空白」を充たすものを求めた旅こそ、渡米最大の理由であったと

みたい。何のためというより、何かを求めた旅立だった。

  渡米と書いたが、出国の直前、タケの母に記した手紙では「今日アメリカ

国を経てイギリス国へ出立仕候」(一一月五日浅田ヨネ宛書簡)と書いて

いる。 最後の目的地はイギリスにおかれていた。



  鑑三は、在京中、米国大使館通訳のW・N・ホイットニーより生理学の

指導を受けていた。ホイットニーは、フィラデルフィアのペンシルヴァニア

大学の出身である(*下の写真は、今日のペンシルヴァニア大学)

                    Photo_3

  彼の紹介でフィラデルフィアに行き、同大学の奨学金をえて、そこの

医学部で学ぶ計画も持っていた。 

  ホイットニーは、キリスト教のフレンド派に属し、その妻メリーは、ロンドン

のやはりフレンド派に属するブレスウェイト家の出身で、同家とは結婚

(一八八五年)前から大変親しかった。

 

  鑑三は、とりあえず米国に渡るが、そこで、もし計画どおり事がはかどら

なかったときには、このロンドンにあるブレスウェイト家を頼って渡英する

ことを考えていたのではなかろうか。

  ホイットニーの紹介により、フィラデルフィアで最初に訪れたのが、

やはりフレンド派の実業家W・モリスである。

 

  モリスが、鑑三をはじめ日本人学生たちの面倒を実によくみた人である

ことは、「ウィスター・モリス氏に関する余の回顧」でも語られている。 

  鑑三は、モリスに会ったが、あいにく不景気のため、当座の仕事をすぐ

見つけることは、なかなか困難であることがわかった。



  一方、札幌で鑑三たちに洗礼を授けたM・C・ハリスの夫人も、米国に

来た鑑三に種々の便宜をはかり、フィラデルフィアから約二十キロの地

ミデヤに住む、その伯父の家を紹介した。 

  エルウィンのフィラデルフィア精神薄弱児養護院は、このミデヤの近くに

あったのである。養護院を訪ねた鑑三は、院長カーリンの親切なはから

いで、同院に年内の滞在を許されたうえ、新年からは、そこでしばらく働く

ことになった。

 

 

 子供たち

 

  鑑三は、この年一月から七月までの約半年間を、同院の看護人として

働いて過ごした。 

 このエルウィンでの生活は、鑑三の一生に、はかりしれない貴重な体験

を与えた。 

  それは、この後につづくアマスト大学での回心の体験とくらべて、決して

劣らないものだ。



  昨日まで、日本の農商務省のお役人であった人間が、一夜明けたら

異国の施設の児童たちに「ジャップ、ジャップ」と呼ばれながら、そのお尻

を清める仕事に従っているのである。 

  看護人の仕事を開始した直後の鑑三が、その感慨を屈辱のように故国

の父に報じているのも無理はない。

 

  鑑三は、はじめ、この苦難を、神によって自己に課せられた試練とみ

たが、試練とみているうちは、その施設の児童に対する見方の変革は

かったであろう。 

  それが、四月に入ってからまもなくのこと、鑑三は、同養護院の創立者

であるJ・B・リチャーズの話を直接聞く機会を得た。

 

  それによって、鑑三の従っている仕事が、ただの憐愍(れんびん)事業

ではなく、子供たちの心霊の開発という、天の父の与えた聖なる仕事の

一つであり、それがまた可能であることを教えられたのだ。

  このことは、子供たち一人一人の内部に秘められた心霊のあることを

認めることでもある。

 

  一般社会にあっては、さげすまれがちな児童に対し、神の与えた同一の

心霊の存在を認めたことは、鑑三の人間観に大きな変革を与えたといって

よい。 

  この意味で、鑑三のエルウィン生活は、鑑三の一生にとり、従来考えら

れた以上にはるかに重いといえる。

 

  養護院での仕事は、その日以後、苦難ではなくなり、屈辱でもなくなった。

高い宗教的目的をもった神聖な職務として、喜んでたずさわることができた。

  鑑三と少年ダニーとの間の心暖まる話も、このころのことである。
 

ダニーは手を焼く子供であったが、少年を罰する代わりに、鑑三は自分が

一食断食をした。 

  その話が児童たちとダニー本人の耳にも伝わった結果、ダニーは、それ

までの行ないを反省し、鑑三との仲は、以前とはうってかわって親しさを

ました。



  私が、エルウィンの養護院を訪ねたのは、一九八十年夏のことである。
 

養護院の院長から、その前年、やはり鑑三のことで、韓国から一人の

白髪の老人が、同院を訪ねてきたことを聞かされた。

 

  後日、その人が咸錫憲(ハンソクホン)氏(*下の写真は、後年の同氏)

であることが判明した。咸錫憲氏(1901~1989:1924年に、内村鑑三と出

会い、多大な影響を受ける。「韓国のガンディー」と呼ばれる)は、五山学

校に在学中の青年時代、柳永模校長より、このエルウィンにおける鑑三と

ダニーとの話を聞き感銘、はじめて内村鑑三の名前を知った。

                               Photo_4
 

  いつまでもこの話を忘れることができなかった。それが、一九七九年、

米国に行ったとき、わざわざ足を、このエルウィンにまで延ばして養護院

を訪問した動機だった。

 

    懊悩 

 

  院長のカーリンは、鑑三の心身両面にわたって気を配り、六月には、

ワシントンで開催される全米慈善矯正会議に出席のため、鑑三を同行し

た。 

  鑑三は同会議に出席して、大和魂につき短い演説をした。このワシントン

滞在中、鑑三は、カーリンに連れられてクリーヴランド大統領(*下の写真)

にも会っている。 

                            Photo_5

  鑑三が、終生の友人となる実業家のD・C・ベルと会ったのも、このワシ

ントン滞在中のことだ。

  カーリンだけでなく、前述のモリスも、鑑三たち日本人学生の世話をよく

して、毎月第一土曜日には、その家で夕食会を開いたりもしていた。 

  鑑三は、米国滞在中の太田稲造、佐伯理一郎らと度々その席につら

なった。

 

 六月二十日には、フレンド派のフィラデルフィア婦人外国伝道協会の

会合に、鑑三は太田稲造とともに招かれて出席し、日本の状況について

話を求められた。 

  これが契機となり、フレンド派は、同年暮、J・コサンド夫妻をはじめて

日本に派遣することになる。

 

  カーリンやモリスなどのこのような親身の配慮にもかかわらず、鑑三が

日本を出る前から抱えていた内部の懊悩は、容易には解消されなかった。 

  別居したタケからは、復縁を迫る手紙を何度も受けとっていた。 

タケの手紙のなかには妊娠の訴えも書かれていたが、鑑三は、それを、

復縁実現のための方便とみなして、まともに受けとらなかった。

 

  ところが四月十五日、タケは、女児(ノブ)を出産した。 

この通知を五月に受けた鑑三は、子供については両親の家に引き取る

ことを申し出る反面、タケとは離縁の決意をきっぱりと表明した。 

  折から訪米中の新島襄とも、鑑三は、このころ会っている。新島はタケ

に安中教会で洗礼を授けた師であり、タケからすれば新島に鑑三との

関係修復の期待があったようだ。



  タケとのトラブルが鑑三にもたらした最大の悩みは、そのトラブル自体

ではなかった。そんな女性を一時的にせよ夢中になって愛した自己の心

の呵責であった。 

  愛慾のため目をくらませ、他をかえりみなかったこと、つまり、キリストも

日本も親も、ともにうち捨てた自己中心性が、鑑三のなかに、しだいに深刻

罪意識形成した。  【つづく】

 

 

 

 

2013年5月13日 (月)

内村鑑三(6 )

   水産学


  一八八二年二月に、開拓使が廃止されたため、鑑三の所属は札幌県

御用係となった。 

  名称は変わっても実質的な仕事には変わりなく、漁業調査のため出張

旅行をする一方、水産学の研究もあわせておこなわれていた。

 

  このころから『大日本水産会報告』に数多くの論文を掲載しはじめる。 

その第一号(一八八二年三月)に載った「千歳川鮭魚減少の源因」や

「石狩川鮭魚減少の源因」(第二六号)などはいずれも魚の減少につき、

科学的調査をおこなったうえで対応策を述べたものである。

(*下の写真は、千歳川・・・上2枚、と今日の石狩川 )

                  Photo

        (*上は、明治初期:開拓時代の千歳川

          下は、今日の千歳川 )

        Photo_10

       Photo_11

 

  後者の報告には「天然物の消耗」の原因が「文明」の発展によること

の大きいことを強調、たとえば石炭山の採掘などをあげている。 

  今日、鮭を呼び戻す運動が、あちこちでさかんに、くりひろげられている

のをみるとき、早くも鑑三が、人間の文明による自然破壊にその原因を

認めて、その保護を力説していることは目をひく。 (*下の写真は、鮭)

        Photo_4

             Photo_5


  天然資源の保護をはかることと同時に、人工孵化などによって蕃殖を

増進することにも鑑三の関心は注がれた。一八八二(明治一五)年九月

上旬、高島郡祝津(しゅくつし)村でアワビ(*下の写真)の蕃殖実験をお

こなったのも、その一つである。

                        Photo_6

  鑑三のおこなったのは蕃殖のための基礎研究ともいえるもので、まず

アワビの生殖器の所在を確認することであった。 

  研究の結果、約一か月後に、その卵子を発見、また、一定の大きさ以上

のアワビにしか排卵されないこともわかり、鑑三は、小さなアワビの捕獲

禁止の提案をした。

  顕微鏡下にアワビの卵子を見つけたとき、鑑三は雀躍(こおど)りして喜 

んだ。「世界的にも珍しいと思う」と自負するような発見だった。

  ところが、そんな大発見にもかかわらず、しだいに鑑三は、職業としての

役人に疑問がつのりはじめた。

 

  それは、主として役人たちの腐敗をみたことによっていたが、他方では、

このころ、親友の宮部は、札幌農学校の教員となるため東京大学に

植物学の勉強に派遣されていたこと、太田(新渡戸)も札幌農学校で教鞭

をとっていたことが刺激になったことであろう。  

  鑑三の胸のうちには、役人をつづけていく道と、生物学の学者になる道と、

キリスト教の伝道者になる道とが三つどもえになってあらわれ、職業選択

上の迷いを生じさせた。

 

  教会建設資金としてメソヂスト教会より借りた金を返済するため、一八八

二(明治一五)年一二月に上京した鑑三は、翌年東京で開かれる予定の

水産博覧会札幌県委員として、ひきつづき東京に滞在した。 

  この間、五月に開催された第三回全国キリスト信徒大親睦会には、札幌

教会代表の名で参加、「空ノ鳥ト野ノ百合花」と題する有名な演説をおこな

って、内村鑑三の名を全国のキリスト信徒の間にとどろかせた。

 

  札幌県辞職願は、六月に受理されたが、生活のために、津田仙(*津田

梅子の父:下の肖像画)の学農社農学校の教師となる。

          Photo_7

  同年一二月からは、不本意ながらふたたび役人として農商務省の水産

課に勤め、そこで、日本産魚類目録の作成に従った。

 

   結婚と離婚 

 

 一八八四(明治一七)年三月二八日、鑑三は浅田タケと結婚。タケは、

前年の夏、鑑三が安中教会(*下の写真は、今日の安中教会)を訪問した

ときに知った女性である。

        Photo_8
 

  同志社および横浜の女学校(現在の横浜共立学園)に学び、新島襄が、

安中教会で最初に授洗した三十人の一人である。 

  二人が結婚に至るまでには、鑑三の両親、ことに母親の強硬な反対が

あり、鑑三も、一時は結婚を断念したほどであったが、なんとか挙式まで

こぎつけることができた。 

  母親の反対理由は、タケが「賢すぎる、学問がありすぎる、知的すぎる」

(一八八三年十月三十日付太田稲造宛書簡)という点にあった。

 

  上野の長蛇亭でおこなわれた結婚式に招かれたA・クララの日記によ

ると、式が終わり、司会者のM・C・ハリスが「ウチムラフーフ」と言ったとき、

花嫁の口からは、くすくすと笑いが聞こえた(Clara's  Diary. 1979)。 

  外国人女性であるクララの目にも、それは明治時代の日本人女性として

異様に映じたようだ。



  その年七月、鑑三が農商務省の役人として榛名湖(*下の写真)の水産

調査に出張したときには、妻タケも同行し、土地の人々を少なからず驚か

せている(「柴田美能留日記」)(*下の写真は、榛名山と榛名湖)

            Photo_9

  やがて、この結婚は、半年ももたずに破局を迎える。離婚の理由につい

ては、タケの異性関係に或る問題があり、彼女が「羊の皮を被った狼」で

あったと述べられている以外、今日も依然として真相は明らかでない。

 

  タケと別れた鑑三が愛読したのは旧約聖書ホセア書である(中沢治樹

『若き内村鑑三論』参照)。 

  ホセアは神によって「淫行の婦人を娶れ」と命ぜられた予言者である。

のちに鑑三は、神がホセアに、この苦痛を命じた聖旨について、こう述べ

ている。

 

  「彼は辛き自身の実験に由て姦淫の意味をさとった。妻が夫に背くの

心は、民が神に背くの心であるを知った(何西何〔ホセア〕書の研究)。 

  タケとの離婚は不幸な出来事であったが、鑑三の罪意識と信仰、女性観

などに及ぼした影響は大きく、もしそれがなかったとしたら、後年の鑑三は

別のものになっただろう。  【つづく】

 

 

 

 

 



                

2013年5月11日 (土)

内村鑑三(5 )

    愛の共同体



 キリスト教の唯一神信仰が、多神教信仰の結果、鑑三をおちいらせて

いた神々の要求の相互衝突から、鑑三を解放したことが、その一つである。 

  だが、鑑三の生活に、なによりも大きな変化を与えたのは、立行社の誓い

が、自己一身の修養にとどまったのに対し、キリスト教は、他者との交わり

の宗教であったことだ。 

 

  鑑三は、キリスト教に入信したからには、まず、信徒相互の間の交わりは

「兄弟よりは密接な関係」という新しいものでなくてはならないと考えた。 

  血肉にもとづく兄弟の愛は本能的なものだが、キリスト信徒の愛は信仰

による。 

  ここにはじめて鑑三は、キリスト教的愛のきずなで結ばれる共同体を体験

することになった。ただし、その愛は、いまだ倫理的、努力的なものであった。




  大島正健、佐藤昌介、伊藤一隆、黒岩四方之進たち第一期生といっしょ

に、札幌農学校で、この愛の共同体を形成した第二期生は、鑑三を含めて

七人であった(*下の写真は、後年の大島正健と佐藤昌介)

            Photo_2

  七人はそろって一八七八(明治一一)年六月二日、メソヂスト監督教会

教師のM・C・ハリスにより、洗礼を受けた。その年の暮には同教会に

入会した。 

  これは「イエスを信ずる者の誓約」に「機会のありしだい福音主義教会に

おもむき、試問と洗礼とを受け、入会することを約束する」とあったためで

もある。

 

  洗礼の結果、第二期生の七人は、それぞれ自分でクリスチャンネーム

を選んでつけた。 

  太田稲造はパウロ、宮部金吾はフランシス、足立元太郎はエドウィン、

広井勇はチャールズ、高木玉太郎はフレデリック、藤田九三郎はヒュー

であり、鑑三が選んだのがヨナタンである。 

  鑑三は、旧約聖書サムエル書に出てくるダビデに対するヨナタンの友愛

にあやかって、これを選んだと言っている。ここにもキリスト教入信に寄せ

る鑑三の心意が反映している。 

 

  札幌には、そのころまだ教会はなかったので、毎日曜日の礼拝は学内

で開かれ、水曜日には祈祷会が守られた。「教師」の役は、めいめい交代

でつとめた。 

  メソジスト監督教会やイギリス監督教会の宣教師たちは、まれに札幌を

訪問するだけであったから、祈祷は、形式にこだわることなく、学生たちが

勝手な流儀で行なっていた。

 

  一見、原始キリスト教を想像させるような素朴な集会であったが、活力に

富んでいた。鑑三が、のちに、たびたび讃美歌の一節 

  我らの心をキリストの愛に    繋ぐその索(つな)は祝すべきかな 

をあげて回顧するように、固い結合と和気に溢れたものだった。

 

  この一団が、近代日本のプロテスタント史上、横浜バンド、熊本バンドと

ならび札幌バンドと呼称されることになる(*下の写真は、横浜バンド:

中央が若き日の植村正久)

             Photo_3


  この楽しい集会に最初の影がさすことになったのが、一八八○年の第

一期生の卒業である。 

  第一期生のなかには、伊藤一隆のようにイギリス監督教会の宣教師

から受洗していた者もいた。 

  このころ札幌に同派は講義所を開いていたから、今まで、同じ農学校の

なかで一つの集会を続けていた集団のなかより、この講義所へ出席する

者が出て、仲間は二つに分裂することになる。

  鑑三たちは、この事態に直面して、「はじめて教派主義の悪弊」を感じた

と述べている。





   
白官邸

 

  こうして青年たちが独自の力で自分たちの教会を建設しようとする努力

が開始された。 

 新しい教会の建物といっても、第一期生は社会人一年生であり、あとは

まだ学生の身分である。資金があるはずはなく、結局、メソジスト監督教会

から借金のかたちで援助をとりつけ、建設の準備を進めた。

 

  一八八一年の七月になると、今度は、鑑三たち第二期生も卒業の日を

迎えた。鑑三は「漁業もまた学術の一なり」と題する卒業演説をおこなった。 

  また、入学以来、常に首席を保ってきた鑑三が、卒業生を代表して別れ

の挨拶を述べた。教師たちに対して感謝の意を表したあと、後輩を激励、

最後に同級生に向かって、こう語りかけた。

 

  「今吾輩は本校の学科を卒業したりといえども、決して榲袍(おんぽう・・・

「おん」は、本来は「イト偏」ですが、適字が見つからず、とりあえずキ偏で

書いています。)安んずるものに非(あ)らず。 

  これより艱難の道に入りぬべし。今日はその艱難の途の門戸なり。 

諸君よ、請う、安逸に肯(がえん)ぜず、その屍を北海の浜に暴(さ)らすの

素志を棄つるなかれ」 

 

  これは、この式に一年生として列席していた志賀重昂(しげたか)の日記

に書きとめられた言葉である。 

  鑑三のこの挨拶は、後輩の志賀の心を大きくゆさぶったのみでなく、参列

者一同に深い感動を与えた(*下の写真は、後年の志賀重昂)
       

            
                          Photo_8


  卒業にあたり、鑑三と太田稲造、宮部金吾の三人は、札幌の小公園偕

楽園に行き、将来、一身を二つのJ、すなわちJesus Japan とに捧げる

とを誓いあった。 

  これを誓うのは簡単であったが、両者にともに尽くすことは鑑三にも稲造

にも一生を通じて大きな課題となる。 (*下の写真は、左から太田稲造、

宮部金吾、内村鑑三:その下は、後年の宮部金吾)

                                Photo_9
      
              Photo_10

  鑑三らは卒業後、官費生の約束にしたがい、開拓使御用係に任ぜられ、

月給三○円を給せられることになった。 

  鑑三は、民事局勧業課につとめ、水産を担当した。札幌農学校では、

第二期生たちに、正規の学業のほかに、特別の学科を選んで研究させる

方針をとっていて、鑑三の専攻していたのが動物学であり、なかでも水産学

であったのだった。



  キリスト信徒たちの待望の新しい教会は、とりあえず、南二条西六丁目

にあった古い家屋を購入して、それを教会とすることになり、一八八一年

一○月には、その家屋が手に入り、礼拝もはじめられた。

 

  二軒続きの長屋の半分であり、五〇人も入ると、もう満員となる建物

である。外壁が白く塗られた洋館であったため、白官邸と呼ばれたもの

である(*札幌独立キリスト教会:昔と今)

              Photo_5


        Photo_6

 

  これが今日の札幌独立教会の前身である。同じ一○月には札幌YMCA

も結成され、鑑三は、その副会長になった。  【つづく】
                    

2013年5月10日 (金)

内村鑑三(4 )

    立行社


  このクラークの滞在中、通訳をつとめていたのが、開拓使の役人で

堀誠太郎といった。内村たちが学んでいた東京大学予備門に、札幌農学

校官費生募集の演説に来たのは、この堀である。(*下の写真は、当時の

東京大学予備門)

             Photo

  東京英語学校時代にすでに同校より佐藤昌介、大島正健などを第一期生

として迎えていた札幌農学校(*下の写真)では、優秀な人材をひき続き確

保するため、東京大学予備門の生徒割愛をさかんに文部当局および同予

備門に働きかけていた。

          Photo_2


  六月に同校を訪ねた堀の演説が、北海道の開拓より説き起こし、北国の

風物の興味深い話、学校の官費生の特典につき、熱弁をふるったとされる

のも、この情熱のあらわれにほかならない。



  堀の演説にはげしく心をゆり動かされた生徒のなかから、さっそく一二人

もの応募者があったことは、それでなくとも生徒の割愛に渋面をみせていた

校長を驚かせた。そのなかの一人が鑑三であった。 

  鑑三が、後年「先生はなぜ(東京)帝大にはいらなかったんですか」との

質問に応じて「金がなかったからさ」と呵々(かか)大笑しながら答えた話が

伝えられている。

 

  鑑三の札幌行きについては、北海道の大自然への憧憬とか健康のこと

なども考えられるが、この経済的理由が、やはりもっとも直接的な原因で

あったであろう。 

  札幌農学校に入れば、官費ですべて生活がまかなわれたのである。 

没落士族の子弟で、しかも多勢の弟妹をかかえた家の長男鑑三にとり、

官費生の話は、なによりも魅力であった。

 

  それに、今日では、ただ札幌農学校というと、数ある実業学校の一つの

ように聞こえるが、その時代では、それは東京大学とあいならぶ数少ない

官立の高等教育機関であった(*下の写真は、今日の北海道大学)

                      Photo_3
                     Photo_4


  それにしても、鑑三が、東京大学予備門在学中に札幌農学校に入学す

ることになるのは、それまで定めていた進路の大幅な変更であることには

ちがいなかった。 

  その前の病気休学につづき、少年である鑑三が、このように経済上の

理由で進路の変更を余儀なくされたことは、ともに記憶されてよい。 

  こうして人生における病と貧の問題を、鑑三は、早くも少年期において身

をもって体験したのだった。



 
  東京大学予備門から札幌農学校に入学の定まった学生たちは、札幌へ

の出発に先立ち、芝にあった開拓使御用宿植木屋で、一か月間の合宿を

させられた。

  この間に、洋服などが支給されている。鑑三と太田稲造、宮部金吾、岩崎

行親(のちの第七高等学校長)の四人が立行社と名のる交わりを結成した

のも、この時であった。

 

  身をたて道をおこなうため、四人は「女色、飲酒、煙草、を必ず用いぬ事

を約束」(太田稲造の太田時敬宛一八七七年一○月二七日付書簡)した。

  板垣退助が土佐で起こした自由民権運動の結社を立志社(一八七四年

設立)と呼ぶが、志を立て、身をたてようとすることは、この時代の青年た

ちに共通の抱負であった。 

  海路、札幌に向かった鑑三の胸にも立身出世をとげて、国家のためにつ

くす有為の人となろうとする志が、あかあかと燃えていたことであろう。

 

   入信 

 

  ところで、第二期生たちが札幌に到着するのを手ぐすね引いて待ちかま

えていたのは、すでにキリスト教に全員入信を誓っていた第一期生たち

である。 

  彼らは、第二期生たちを、同じくキリスト教に入れようと、到着後ただち

執拗な勧誘をしかけた。

 

  鑑三が、札幌神社の前に額づき、農学校にはびこる異国の神の撲滅を

祈ったことは、『余は如何にして基督信徒となりし乎』にも述べられている

ことである。 

  第一期生の大島正健によると、開識社といわれる学生の結社に入会した 

入信前の鑑三は、そこでの演説で「余は神を信ぜず、また悪魔をも信ぜず、

ただ人間の心中に存在する一片の精神を信ず、能(よ)くその指導に従えば、

人の人たる道を践(ふ)むに足る」と昂然として言い放っていたという(大島

正健「学生時代の内村鑑三君」)(*下の写真は、当時の内村鑑三)

 Photo_5

  クラークが遺したものの一つに禁酒禁煙の誓約があるが、この方は鑑三

も入学直後に署名している。それは、東京で結んだ立行社の約束となんら

矛盾するものでもなかったからである。 

  しかし、キリスト教への入信には頑強に抵抗した。異国の教えであるキリ

スト教に入ることは、日本への裏切行為になると思われたのだった。

 

  その鑑三もついに同年一二月、クラークの遺した「イエスを信ずる者の

誓約」に署名し、キリスト教に入信することになった。 

  鑑三が署名したのは、必ずしも、キリスト教の信仰にひかれるところがあ

ったからではなかった。 

  第一期生の手ごわい勧誘にあい、第二期生が太田稲造以下次々と署名

したこと、とりわけ同室の親友宮部(*下の写真)の署名が響いていた。

                  Photo_8      


  当時は、札幌といっても、人口はわずか、二、三千にすぎない淋しい

田舎町であった。 

  そのなかでも札幌農学校では全員が寮生活を送り、外国人教師から英語

による講義を受けていた。 

  そこでの生活様式は、衣服に洋服を支給されたのをはじめ、食事も西洋

料理というように、衣食住すべて洋風によっていた。

  鑑三たちの周辺は、いわば西洋社会の一部分がぽっかり切り抜かれて、

そのまま日本の札幌に移されたといっても過言でないような空間が出現し

ていたのだった(*下の写真は、今日でも寒さ厳しい札幌 の冬景色)

                        Photo_10


  近代の日本社会でキリスト教の受容の、大きな障害となったのは、既存

の日本社会の血縁的、または地縁的共同体による規制であった。 

  すすんでキリスト教を受容したのは、「イエ」と「ムラ」を離れて都会に出

ていた身軽な若者たちである。 

  札幌農学校の学生たちも、その意味では、「イエ」や「ムラ」の共同体の

規制からもっとも遠い空間におかれていた。

  しかも、洋風一色にいろどられた空間に隔離されて生活していた。

 

そのうえ上級生全員がキリスト信徒ときている。連日の入信攻撃にあって

は抵抗を保つことの方がむずかしい。 

  鑑三とともに立行社を結成した親友の宮部や太田が署名し、残された

鑑三は、いつまでも非キリスト信徒でとどまることができず、やはり立行社

の一人であった岩崎行親らと同じ日に署名したのだった。

 

  「イエスを信ずる者の誓約」に署名したことは、これによって、鑑三が

キリスト教に入信したとはいっても、別に回心をともなった入信ではなかっ

た。鑑三の回心は、後述するようにアマスト大学在学中に訪れる。

  キリスト教への入信は、立行社を結成したときの誓いが語るように相手

が異国の神であることを除けば、それほど違和感をともなわなかった。 

  それでも、鑑三の生活に若干の変化をもたらしたことは、やはり『余は

如何にして基督信徒となりし乎』にくわしく記されているとおりだ【つづく】



 

 

2013年5月 9日 (木)

内村鑑三(3 )

    英学




  高崎にあって、はじめは白井という人より手習いを授けられた鑑三は、

高崎藩の設けた英学校に入り東京から招かれた「小泉先生」より、はじ

めて英語を教えられた。

 

 このときのことを思い出して詠まれた歌がある。 

    腰に刀(とう)帯びて学びしABCD  罪断つ道の端緒(はじめ)たらん

とは


  この英学校は、みずからも大学南校で英語を学んだ藩主大河内輝声

によって創設されたものである。 

  憲政擁護運動で知られる尾崎行雄(*下の写真)も、その少年時代は、

この英学校で学んだ。

                          Photo_2


  古き秩序と父の凋落とを目のあたりにした少年鑑三が、儒学に代わり、

次代の学問として英学にいそしむようになったのも自然である。 

  一八七三(明治六)年、鑑三は単身上京して、有馬私学校英学校に

入学した。 

  有馬私学校は、有馬頼咸(よりしげ)を校主として、この年、赤坂表に

あるその邸内に開業されたばかりの学校である。 

  学科は皇漢兼学、英学、数学、習字学の四科に分かれ、生徒は約二百

人在籍していた。ここでは、のちの日本銀行総裁、三島弥太郎といっしょ

であった。三島とは、ふたたびアマスト大学でも交友を結ぶ。




  有馬私学校に約一年学んだあと、鑑三は東京外国語学校の下等四級

に編入した。 

 同校は、開成学校の語学部が独立したものであり、英語学のほかに仏語

学、独逸語学、魯語学、漢語学が設けられていた。 

  鑑三が入学した年、英語学のみ、さらに独立して東京英語学校になり、

一八七七年(明治一○)年には東京大学予備門となる。

 

  各過程は、下等第六級から上等第一級までおかれ、一年で二級進み、

六年間で修了する制度になっていた。 

  鑑三が入学したとき、下等第三級には、のちの首相加藤高明(*下の

写真)、同級の下等第四級には政治家となる末松謙澄、下等第五級には

経済学者となる天野為之、北大総長になる佐藤昌介、下等第六級には

ローマ字の田中館愛橘(たなかだてあいきつ)、生物学者となる石川千代

松、札幌農学校で同期となる植物学者宮部金吾らが在学していた。

              Katou

  

  鑑三は、この学校で、教師のM・M・スコットより、グループ・メソッドとも

呼ばれる新しい英語教育を受けた。 

  これまで授けられていた英語教育が、単語暗記主義と文法尊重主義

であったのに対し、スコットは英語を単語に分けることなく、まとまった文

(グループ)として覚えさせ、作文をはじめ実地にどしどし使わせるやり方

をとった。 

  鑑三は、この教育に接し「新天地」に導き入れられたように感じた。

 

  休学 

 

  英語学校に在学中、鑑三は病気にかかり一年あまり休学をした。病名

は肋膜炎とも結核ともいわれる。当時東京で開業していた杉田玄白の

後裔杉田玄瑞から治療を受けた。鑑三自身は、この病気休学中のことに

ついては、ほとんどなにも残していない。

 

  英語を学ぶために単身で上京した少年が、一年余の期間を病床で過

ごさなければならなかったのだ。このことは、人生につき何か感じさせる

ものを与えたにちがいない。

  病気で一年遅れたことにより、復学した東京英語学校では、太田(新渡

戸)稲造(*下の写真)宮部金吾とは同級になる。 

              Photo_7
         

   この二人とは、ただ同級となっただけでなく、とくに親交を結び、一日お

きに学校以外の所、たとえば湯島の聖堂などで会うことにした。 

  三人が会ったときの会話は必ず英語を用いることにし、あやまって

日本語が口に出たら五厘の罰金が課せられた。

 

  この英語学校在学中、内村は、ウィルソンの第三リーダーのなかで、

はじめて旧約聖書の物語に接した。 

  創世紀のアブラハム、ヤコブ、イサクの話で、それは内村の心に忘れ

がたい印象を与えたと語っている。 

  ウィルソンの第三リーダーには「聖書物語」が収められている。しかし、

第二リーダーにも、神やモーセの十戒の紹介はある。

 

  鑑三の英文著書『余は如何にして基督信徒となりし乎』( How  I  Became

Christian ) によると、学校友だちの一人と連れだち、築地の外人居留

地の教会に行き、婦人宣教師の話を聞いたことが記されているが、これも、

有馬私学校か、東京英語学校に在学中のことである。

 

 

  札幌バンド




  札幌農学校

 

 

  東京英語学校は、一八七七(明治一○)年四月に東京大学予備門と

改称され、そこを修了すれば東京大学への進学が認められることになっ

た。

 

  ところが、その年六月、開拓使によって設けられた札幌農学校に、鑑三

を含めて多くの学生たちが転学を希望する出来事が起こる。 

  そのまま東京大学予備門にとどまれば、おのずと最高学府の東京大学

への道が開けていたのに、鑑三たちは、なぜわざわざ北の果てなる札幌

の地で学ぶことを志したのだろうか。

 

  札幌農学校は、一八七二(明治五)年、芝の増上寺内に設置された開拓

使仮学校をその前身としている。一八七五年に札幌学校と改称されて札幌

に移転。 (*下の写真の前列左端が新渡戸稲造、その中央が内村鑑三、

後列右から二番目が宮部金吾)
                    
                           Photo_8

  一八七六年、農業の専門教育機関として札幌農学校を新設することに

なり、米国から、マサチューセッツ農科大学学長のW・S・クラーク(*下の

写真)が、教頭として招かれた。

              Photo_4


  札幌農学校に赴任してきたクラークの話はあまりにも名高い。その教育

方針は、なによりもまず人間教育に置かれていた。開学まもなく生徒一同

を集めて「紳士たれ(Be  gentleman !)」と告げ、生徒各自の「自主自行」

の精神を重視することを伝えている。

  クラークは開拓使長官黒田清隆に対し、教育の基礎として聖書を用いる

ことを主張、これを承諾させた。

 

  学科科目は、その母校アマスト大学にならい、専門科目だけでなく、

一般教養科目の学習も重視し、四年生になっても心理学や経済学の履修

が要求された。 

  クラーク自身は植物学などを担当したが、その植物学の時間に聖書の

講義があり、聖句を生徒たちに暗誦させたこともあった。



  一八七七(明治一○)年三月、クラークは、みずから「イエスを信ずる者

の誓約(Covenant  of  Believers  in  Jesus ) 」を作成し、これに、第一期

生一六人全員の署名をさせた。

  同年四月一六日、日本政府との契約期間が終わって、クラークは、いよ

いよ札幌を去る日を迎えた。

                      Photo_5


  馬に乗り島松まで送って来た学生たちに向かい、別れの言葉を述べた

あと、ふたたび馬上の人となったクラークが「少年よ、大志を抱け(Boys,be

ambitious !)」の一声を残して、白い雪道をかけ去った話は、もう札幌農学

校にまつわる一つの神話になっている。  【つづく】



 

 

 

 

 

 

 

2013年5月 7日 (火)

内村鑑三(2 )

   
 、若き日の夢

 

 上州人

 

 高崎

 

  群馬県の人たちに子供のころから親しまれているカルタとして「上毛か

るた」がある。 

 群馬県内の名所旧蹟、産物、歴史上の人物などがよみこまれたもので、

一九四七(昭和二二)年に作られた。たとえば「も」では、 

     紅葉(もみじ)に映(は)える妙義山(*下の写真) 

となっている。

                      Photo


  カルタの人物には、関孝和、新島襄、内村鑑三、田山花袋などがとりあ

げられている。 

                          Photo_2

 内村鑑三は「こ」の字のところであらわれる。 

   心の燈台内村鑑三

               Photo_3

 文字札の裏面には簡単な説明が添えてあり、内村鑑三は次のように

描かれている。 

  「宗教家評論家として世界的偉人、高崎藩の江戸屋敷に生れ、札幌農

学校から米国の大学に学び、帰朝後迫害と貧窮の中に著述に専念し聖 

書の研究を発行、日露戦役には非戦論を唱えた熱烈な基督教者であった。 

  『如何にして基督教者となりしか』は世界的名著である。歿年 昭和五年

三月」


  これでわかるように鑑三は、一八六一年三月二三日(太陰暦では万延

二年二月一三日)に、江戸小石川鳶坂上にあった高崎藩の武士長屋に生

れた。 

  父は同藩藩士宜之(よしゆき)、母はヤソである。

 

  鑑三が満五歳のとき、御側(おそば)頭取をつとめていた父宜之は、

藩の軍制を洋式に改革することを主張したが、藩論の一致を見ず、かえ

って高崎に謹慎を命ぜられる。家族は父とともに高崎に移った。これが、

鑑三の上州の風物に接した最初である。 

  高崎の柳川町には、現在、その住居跡に「内村鑑三先生居宅跡(*下の

写真)と記された石碑が建てられている。

         Photo_4
 

  町の近くには烏(からす)川が流れ、子供のころの鑑三は、夏がくるたび

に、この川で魚取りに夢中になった。後年、札幌で水産学を志すことにな

ったのも、この少年時代の影響があるだろう。



  劣悪なる者


  烏川は、その少し下流で碓氷(うすい)川と合流する。ちょうどふたつの

川が合流する辺りを見下ろす小高い位置に今は高崎公園がある。

 (下の写真は、烏川と碓氷川)

          Photo_5

            Photo_6
          

 
  高崎公園の一角、頼政神社の境内に内村鑑三の記念碑が建てられて

いる。碓氷黒石を用いて一九六一(昭和三六)年に造られた。

  (*下の写真は、高崎公園と頼政神社)

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                     Photo


  それには、鑑三の作った次の漢詩が刻まれている。

     
     上州人

 上州無智亦無才

  剛毅朴訥易被欺

  唯以正直接万人

  至誠依神期勝利

              鑑三

         Photo_9

  上州人は無智で無才であり、ぶこつで飾りけがなく、人にあざむかれや 

すい。 

 ただ、正直をもって万人に接し、まごころを尽くして神による勝利を待つ、 

との意味であろう。



  この詩は晩年の作で、一九三○(昭和五)年二月一二日の日記によると、

病床の鑑三を群馬県富岡教会の牧師住谷天来が見舞いに訪れたときに

詠まれたものである。

  天来は、鑑三の旧友であるだけでなく漢詩では先生格であった。

天来が三篇の漢詩を鑑三に与えたのに対し、鑑三の応じた一篇がこの詩

である。

  ただ日記に書きとめられた詩と記念碑に刻まれた詩とは、文字のうえで

やや相違がある。

  記念碑の方で「唯以正直接万人」となっている部分が、日記では「唯以

正直対万事」となっている。記念碑の文は、鑑三が別に書いた自筆の書に

よったものである。

  鑑三と天来とは、ともに上州人であり、この詩が、題名のように上州人の

ことを詠んでいることはまちがいない。



  しかし、鑑三が、ここで上州人と言っているのは、とりもなおさず鑑三

自身のことだ。

 このことをよく表しているのが「私は上州人である」という当時の短文で

ある。そのなかで鑑三は、こう述べている。

  「上州人は日本人の内で最も劣悪なる者である。然るに神の恩恵に由

て私は少しく神の深い事を知るを得て感謝である。

  キリストの十字架の下に立ちて、己が罪の為に泣いたことの無い人は

私の心の底を窺い知ることは出来ない。」

  ここで鑑三が「上州人は日本人の内で最も劣悪なる者」と言うとき、それ

はなにも過去の自己のことを述べているのではない。

  「私は上州人である」との題名がよく語るように、今なお「劣悪なる者」

しての自分のことである。漢詩の「上州無智亦無才」も同じである。

(*下の写真は、内村鑑三と新島襄) 

           Photo_10


  鑑三は、高崎藩の誇り高き武士の子として生まれ、あとで述べるように

その学んだ学校では抜群の成績を示した。

  その人間が、一生の終わり近き日に、自分のことを「無智亦無才」とも

「最も劣悪なる者」とも表白しているのだ。どうしてそうなったのか。

  ここにたどりつく歩みこそ、そのまま鑑三の一生の道であったのでは

ないか。  【つづく】

 

 

 

 


 

2013年5月 2日 (木)

内村鑑三(1)

    〔皆さんへ〕

 

  皆さん、お早うございます。 

  お元気でしょうか?

 

    これからの日本は、益々暗く、かつ厳しくなっていくかと思います。 

  そんな中で、一つの手本、或いは道標(みちしるべ)となるのは、 

  一つに、人間の”生きざま”のような気がいたします。

 

     今日、植草一秀先生の思想と行動こそは、 

 その最たる模範であり、かつ道標でありましょう。

 

    ところが、ほぼ百年前の日本にも、 

 われわれの貴重なお手本が存在しました。 

   その代表的な人物が、内村鑑三(1861~1930)ではないでしょうか。

 

   しかし、極めて残念なことに、彼は、一部の人々には知られていても、 

 殆どの日本人には、余り知られていないような気がいたします。

                         Photo

   情報が氾濫する今日、全く塵かガラクタのような人物や情報が持て囃

 され、真“宝物”が埋もれていたり、或いは、実に粗末に取り扱われて

 います。まことに倒錯した世の中です。

 

   それゆえ、たとえ、すでに過去の人とはいえ、私は、真の“宝物”を掘り

 起こし、多くの方々と共に、その”価値”を、深く味わいたいと存じます。 

   その一環として、今まで取り扱って来ました内村鑑三自身が、一体どんな

 人物だったのかを、皆様にお伝えしたいと思うのです。

 

  そのための良き導き手として、鈴木範久著『内村鑑三』(岩波新書  287)

 があります。 私自身、とても参考になった良書です。 

   同著の「はじめに」におきまして、著者の鈴木先生は、こう記していらっし

 ゃいます。
  

≪初秋の裏山を歩いていたら、もうリンドウのつぼみが、落葉の蔭から

鮮やかな紫色の顔をのぞかせていた。リンドウは、内村鑑三のもっとも

好んだ秋の花である。

                   Photo_2

                          Photo_3


  内村鑑三の名を聞くと、なんとなく近寄りがたく、いかめしい人物が想像

されるかもしれないが、実は、野や山に咲く一輪の草花にも目をとめて呼

びかける人だった。


  若き日に学んだアマスト大学を去る日の前夜、自分の部屋に戻ってきた

鑑三は、三羽のツバメが室内に迷い込んでいるのを発見した。外は暗く

天気は荒れていた。

 

  ツバメは、戻ってきた鑑三を見て、いっそうおびえて飛び廻ったので、

戸外へ出すのは不安だったが、神の加護を祈って、そっとツバメを窓から

放ったこともある。

                             Photo

  本書は、そんな鑑三のささやかな小伝である。ドラマに富んだ生涯の

おもな出来事については、紙数の許すかぎり盛り込むことにつとめたが、

七○年にわたる一生と思想の全体は、とうてい述べ尽くすことはできない。

                        Photo_7

  せいぜい心がけたことは、鑑三を、思想界、宗教界のいわゆる英雄や

教祖のようには描きたくなかったことである。

  そうかといって、いたずらに突き放すこともせず、迷いや悩みにもできる

だけ分け入りながら客観的叙述を目ざした。



  近代日本の歩みをかえりみるとき、「立身出世」、「忠君愛国」、「富国

強兵」、「殖産興業(*下の絵)などの標語が、盛んにふりかざされた。 

  このことは、たとえば、どれだけ「忠君愛国」や「富国強兵」に尽くしたか

との出来高で人間の価値をはかる見方を生んだ。 

  その出来高には見せかけとごまかしの混ざることがおおかった。

            Photo_6

  このような旗印と人間の評価とが、近代の日本にもたらした悲惨な被害

は、戦争や公害をはじめ数かぎりない。さらに悪いことには、そうした被害

の犠牲となって苦しむのは、常に出来高をあげることの困難な弱い立場の

人々だった。

  鑑三という人間は「忠君愛国」や「富国強兵」への出来高を尺度に人間を

はかることに、もっとも疑問を抱き、信仰の立場から、これとは反対の人間

観を強く唱えた人である。

 

  現代社会は、産業界のみならず広く教育などの分野にまで、あいかわらず

根強い成績主義、行為主義が幅をきかせ、強まっている。 

  鑑三の思想が、今日ほど痛切に要求される時代はない。≫

                    Photo_5


    最初に、リンドウやツバメのエピソードから起筆された鈴木先生ご自身

  が内村同様、深く、かつ豊かな感性の持主であることが察せられます。 

    また、最後にありました「鑑三の思想が、今日ほど痛切に要求され

  時代はない」とのお言葉が、ほぼ三十年前のものだとしましても、今で

 も、じゅうぶん通用しましょう。

 

   いや、むしろ、「福島原発問題」などが厳存する今日ほど、この言葉は、

 強く生きた言葉だと申せましょう。 

   その内容につきましては、次回に譲りたいと存じます。  【つづく】

 

 

   

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