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2013年5月31日 (金)

内村鑑三(18 )

 天国の社会




  鑑三の純粋に理想的な「独立国」構想は、一九○○(明治三三)年四月に、

東京独立雑誌社から刊行された単行本『宗教座談』のなかに描かれている。 

  そこでは、樗牛の言う「現世の筆と紙とによりて他界の事」である天国が、

好ましい一つの国家のように述べられている。

 

  鑑三の描く天国には、それ相応の労働があり、この労働の一つとして

教育もある。 

 天国の教育が現世の教育と違うのは、そこには「政府に媚び国民に

諂(へつ)らうような」学者はおらず、「無学の故を以て人の前に羞(はじ)

感ずる事」なく、国会議員(鑑三は、今の国会議員で天国に入る者は

ほとんどいないことを付け加えている)と童子とが共に学んでいる。

 

  天国での美術は、快楽を充たすものではなく「理想の発表」であり、これ

を教えているのが、ミケランジェロ(*下の肖像画)やベートーヴェン(*下

の肖像画である。

                          Photo
 

                          Photo_5


 

  政治は「国民各個に彼れ相応の職を与え、彼をして他人の職を侵略せ

しめず、一意専心に天が彼に命ぜし職分を尽くさしむること」にあった。 

  天国の王はキリスト(*下の肖像画)である。キリストが王となったのは

謙譲の心の結果であり、それにならって天国の総理大臣には「その市民

の中で最も微(ちい)さき者」が就く。

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  鑑三の描いたこの天国の社会こそ、詩人の産といわれるにふさわしい

理想的な「独立国」の姿であった。 

  これは、たしかにユートピアであるが、鑑三は、日本の社会に、これに

近い国が出現するのを、ほんとうは夢みていたのではなかろうか。 

  それでなければ、天国の政治、教育、美術などにわたり、それほどこと

細かく述べる必要はなかったからだ。

 

  「理想の独立国」の樹立は前途遼遠であったが、鑑三は、当時、その

ひな型ともいうような「小独立国」を身近にうちたてていた。

  それは、角筈(つのはず)で女子独立学校を経営していた加藤とし(鑑三

を新潟の北越学館に招いた加藤勝弥の母)が、一八九九(明治三二)年

六月、世を去るにあたり、後事を鑑三に託し、鑑三が同校の校長に就任

したことに始まる。



  女子独立学校は加藤としによって一八八九(明治二二)年に創立され、

生徒たちは、キリスト教にもとづく教育を授かるかたわら、手芸などの労働

に従っていた。 

  これまで、ひとに雇われるかたちで教育にしたがい、不快な思いばかりし

てきた鑑三にとり、全権ある校長の地位は大きな魅力であったにちがいない。

 

  名前も『東京独立雑誌』と同じ「独立」の言葉をもつ学校だった。鑑三

校長になると同時にクヌギ林にかこまれた角筈の女子独立学校内に居

移し、『東京独立雑誌』の発行所もそこに変更した。

                       Photo_4

  『東京独立雑誌』の編集、経営の全責任をもつ主筆となったうえに、女子

独立学校校長として千五百坪の土地をもつ校内に居住したのだ。 

  いわば言論機関と教育事業とを手中にし、鑑三が一国一城の主の気分

になったのは当然である。

 

  この少し前より『東京独立雑誌』に「たらしめば文学」の欄を設け、みず

から初回に「余をして若し総理大臣たらしめば」と書いていた鑑三である。 

  たちまち「小独立国」の「大統領」になっても不思議でなかった。







   
小独立国





  もっとも、こんな境遇の鑑三を最初に「大統領」と表現したのは、社員の

佐藤迷羊であった(「小独立国」、『東京独立雑誌』三九号、一八九九年

八月五日)が、まもなく、鑑三もその気になって『東京独立雑誌』には、

「『小独立国』の現況」(四二号、同年九月五日)以下、「小独立国」の情勢

につき「大統領」みずから報告する記事が次々と目立つことになる。

 

  「小独立国」には鑑三「大統領」一家のほかに東京独立雑誌社の社員

たちも同居していた。 

  人々が、労働と読書と祈禱を共にし、時々「大統領」が一同を集めては

大笑いをさせる生活が演ぜられていた。鑑三は述べている。

 

  「『小独立国』は改造せる新日本国の小模範を以て自ら任ずるものとし

て、我等は千五百坪のこの小国より十五万方哩(マイル)の大帝国を感化

せんとする大計画を懐く者なり(「『小独立国』の新年」、『東京独立雑誌』

五四号、一九○○年一月五日)

 

  鑑三は、この角筈の「小独立国」を拠点として、そこから「余の欲する改

革」で著わしたような地上の「独立国」の樹立をはからんとしたと言えよう。 

  そのばあいも天上の理想国は常に永遠の都としてその背後にある。 

「ひな型」としての「小独立国」と、現実に可能なものとみた「独立国」と、

天上の純粋な理想国との三者が、有機的な関係を保ち、意外に柔軟で

あるのが、鑑三の「独立国」論であるといってよい。






  読者




  『東京独立雑誌』は、その実現のための唯一の武器にあたっていた。
 

手応えは充分にあり、後述する第一回の夏期講談会の出席者にみら

れるような青年たちから、熱烈な支持を受けた。

 

  正宗白鳥らの文学青年、岡山県津山の森本慶三、長野県穂高近辺の

萩原守衛(碌山(*下の写真)相馬愛蔵、井口喜源治たち、茨城県の

朝比奈儀助、根本益次郎、島根県の今岡信一良、兵庫県の魚住影雄

(折蘆)などという地方在住の青年たちにも広く愛読された。

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  魚住折葦の次の言葉は、『東京独立雑誌』が、年若い青年たちに何を

与えたかをよく代弁するものだ。 

  「かかる折柄、内村鑑三氏の『東京独立雑誌』が世を罵り社会を呪うて

現われた。 

 焔(ほのお)をはくが如き氏の不平と冷嘲熱罵は、僕をして同感の胸を

躍らせて、氏と共に慷慨の腕を扼(やく)せしめた(*「握りしめる」の意)。 

  而して氏の中心思想は正義であった。世界主義であった。換言すれば

人道あった。宗教的人道であった」(『折蘆書簡集』所収「自伝」)



  折蘆は、なおつづけて『東京独立雑誌』に心酔した一少年が、「正義の

国、義人の国」を夢みて、この現実世界が、どれほど、その理想国とあい

いれないものなるかを痛感したとも述べている。 

  『東京独立雑誌』の読者は、社会の「強権」にもとに鬱屈を感じていた

青年たちの不満や私憤を、公憤に変えたが、都会の青年のみならず、

地方の農村部にも多くの読者を見出していたことが特徴的である。

 

  それらの青年たちのなかから、後年、社会主義運動に進んだ者も少な

くない。

  同じ改革運動といっても、社会主義による改革運動との間に一線のあ

ることを鑑三が宣言するのは、もう少し後になるが、東京独立雑誌社の

社員の間にも読者の間にも、しだいに、自己自身の改革をかえりみるこ

となく、外の世界の改革のみを唱える単なる不平の士が増大するのは、

鑑三の本意ではなかった。

 

  やがて、キリスト教の救済史のうえでの日本の使命を、世界の歴史の

興亡のうちにさぐり、「背徳」の日本が亡国にいたらぬ道を、いっそう強く

唱える必要にかられようになった。 

  こうして「美訓と其註解」(三十号、一八九九年五月五日)をはじめとする

聖書の註解文の掲載がみられるようになり、四三号(同年九月一五日)

からは大論文「興国史談」の連載が開始された。






  廃刊





  ところが『東京独立雑誌』は、一九○○年七月五日の第七二号をもって、

突如廃刊されることになった。 

 その原因としては、鑑三は「余の女子独立学校における或る公的行

為」が、東京独立雑誌社社員の大非難を浴び、ついに分離しなければなら

なくなったことしか語っていない(「独立雑誌の最後」)。



  同社の社員でもあり女子独立学校の教頭でもあった佐伯好郎は、のち

の鑑三の一女子教員に対するスキャンダルをとりあげる(『佐伯好郎伝

並遺稿』が、これは、史実的にも多くの誤りを含んだ回想録であるうえ、

その女子教員の実弟と鑑三とが、この後も長く友好関係を保ったことから

みて、にわかに信ずることはできない。



  いずれにせよ、主筆鑑三と、佐伯以下、安孫子貞治郎、坂井義三郎、

西川光次郎、仲村諦粱の五人との対立はエスカレートして、同誌を廃刊し、

東京独立雑誌社を解散しなければならない局面に追い込まれた。 

  このトラブルの真相は、いまだ鑑三の生涯の一つの大きな謎になった

ままだが、次項で改めてもう一度ふれることにしたい。  【つづく】

 

 

 

 

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