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2013年5月30日 (木)

内村鑑三(17 )

    東京独立雑誌

  『東京独立雑誌』の創刊号は、こうして、「主筆  内村鑑三」「持主  山県

悌三郎」の名で発行された。

  創刊号は二段組で二十ページからなり、表紙の上段には英文で  THE 

TOKYO  DOKURITSU  ZASSHI ( THE TOKYO INDEPENDENT ) と

刷られている。

 

  当時、ニューヨークから THE  INDEPENDENT という雑誌が発行されて

いて、鑑三はこれを購読していたので、題名はそれにあやかったものと思

われる。 

  『東京独立雑誌』の表紙の裏には、次のような言葉が掲げられていた。 

  「社会、政治、文学、科学、教育、幷(なら)びに、宗教上の諸問題を正

直に、自由に大胆に評論討議す。

 

  確信にあらざれば語らず、独特の思想を含有せざる寄書は載せず、

熟読せざる書は評せず、正直と認めざる広告は掲げず、而して本誌載録

の記事に対しては、主筆幷びに持主悉くその言責に任ず」

  ここには社会万般のことにつき、確信をもって、正直に、大胆に論じよう

とする主筆の志が熱っぽく語られている。

 

  同号の英文欄には旧約聖書アモス書(*下の絵)三章八節の聖句が

引用されている。

            Photo

   それは日本語では、「獅子吼ゆ、誰か懼れざらんや、主エホバ言語

(ものいい)たまう、誰か預言せざらんや」にあたるところであり、まことに

鑑三は獅子のように吼えるつもりであった。

 

  創刊号では、主筆の鑑三のほかに、札幌農学校時代の友人大島正健

に寄稿を頼み、東京独立雑誌社社員としては我孫子貞治郎と実弟の内村

達三郎とが執筆している。



  一号から八号までは月二回、九月から終刊号である七二号までは月三

回発行された。

  初期のおもな寄稿者には、前述した大島正健をはじめ松村介石、留岡

幸助、元田作之進、田岡嶺雲、山県五十雄、駒井権之助らがいる。

 

  これらの人々は、鑑三の友人や教え子であり、創刊当初、鑑三が、そう

いう友人、知人によって助けられたことを物語る。 

  「詩壇」には蒲原有明(ありあけ(*下の写真)、児玉花外(かがい)(*

2枚目の写真左側)の、平木白星らの名がみえる。

            Photo_2
                           Photo_3

  一八九九(明治三二)年の第一八号からは、表紙に掲載されていた

「持主   山県悌三郎」の名が消えて「主筆   内村鑑三」のみとなった。

 

  このころ発行部数が約二千数百部を数え、経営が安定したことによる

だろう。 

 編集陣には、坂井義三郎、佐藤迷羊、西川光次郎、佐伯好郎、中村

諦粱らが加わり、雑誌の紙面は、おおかた鑑三と社員たちの手で埋め

られるようになる。




七つの改革

 

  『東京独立雑誌』は二十数ページの小誌であったが、内容はきわめて

多彩で、「社会、政治、文学、科学、教育、幷に、宗教上の諸問題」を論

じるという看板にいつわりはなかった。

 

  朝報社時代と同じく、藩閥政府、軍人、富豪、貴族などの上層社会の

腐敗、拝金主義、せまい忠君愛国主義を槍玉にあげ、かわって農民、

漁師、小売商人、人力車夫などの平民を友とし、自由、平等、世界精神、

高潔な倫理道徳を主張した。

 

  一二号(一八九八年十一月五日)には「余輩の欲する改革」と題して次

の七項目が掲げられていて、鑑三が日本社会に望んでいた改革が知ら

れる。 

  一、軍備を縮小して教育を拡張する事。  

  一、華士族平民の制を廃して、総て日本市民(シチズン)と称する事。  

  一、軍人を除くの外は、位勲の制を全廃する事。  

  一、府県知事郡長を民選となし、完全なる自治制を地方に施す事。 

  一、政治的権利より金銭的制限を取り除く事。  

  一、上院を改造し、平識以下の者をしてその議員たるを得らざらしむる事。 

  一、藩閥政府の余孽(よげつ)を掃蕩する事。

 

  鑑三は、この時代には「余輩は、かくの如き大胆なる改革が、今の政治

家の決行し得るものなりとは信ぜず、然れども、天もし未だ日本を見捨て

ずして、クロムウェル的な偉人を吾人に降ろすことあらば、その事実となり

て現われ来らんことを期す」と考えていた。

 

  彼の言葉のように、これらの改革案は当時の政治家たちが、とうてい

決行できることではなかったが、その多くが、第二次世界大戦後の日本に

おいて実現したことには驚かされる。 

  軍備の縮小、義務教育の拡大、身分制度の撤廃、位勲の廃止、知事、

市長の公選、地方自治制、参議院の設置など、「クロムウェル的な偉人」

の役割はGHQによって演じられた。 

  それが今日では、位勲制の復活をはじめ、むしろ後退したものの方が

多い。





  樗牛



  鑑三の辛辣な批判と毒舌は、当然、反感も招き、『東京独立雑誌』には、

そうした非難に応じた文章も見受けられる。

 

  雑誌『太陽(*下の写真)に高山樗牛(*下の写真)によって、「内村鑑

三君に与ふ(開書)」が書かれたのも、そのころのことだった。

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  樗牛は、鑑三の議論を、まず「愚論」ときめつけ、その理由をこう述べ

ている。 

  「生は、久しき以前より、足下の文字を読むものの一人なり、然れども

未だ一回も事実に就いて足下の経論〔*実際は、イト偏ですが、適字が

なく、ゴン偏で書いています〕策を聞きしことあらず。

 

  生を以て見れば、足下は現世の筆と紙とによりて他界の事を物語る者

なり、実在という観念は早く足下の思想より遊離して、足下は一切の事物

を仮象として見る者なり。 

  足下は理を断ぜずして情を述べ、経済を語らずして詩歌を唱う、故に足

下の意見なるものは極めて単調、極めて簡易なり」 

  樗牛は、鑑三が、結局は詩人であるという。あたかも国家に迫害されて

大を成したダンテのように、鑑三も「不敬事件」によって迫害を受けた。

これによって「明治のダンテ」となれという。



  これを読んで早速、鑑三は、「文学士高山林次郎先生に答ふ」という

一文を一三号(十一月十五日)に記した。 

  鑑三の回答は、樗牛が「愚論」とした思想と現実との遊離におかれた。 

樗牛の批評を、皮肉とみられるほど丁重な言葉で感謝したあと、次のよう

に答えている。

 

  「小生の暗愚なる、理想と実際とを識別するの明なく、理想とは是れ直

ちに実際に施すべきものなりと信じ、脳の一隅に理想を存して他の一隅を

以て実際を語るが如きは、小生はこの種の人を以て経世家と称せざるの

みならず、嘘つきまたは偽善者と呼ぶ者に御座候。 

  国家の利益なれば日本主義を唱えよ、基督教を排せよと申す筆法は、

真理その物を目的とする文士哲人の最も恥ずべきことと存じ候。 

  真理を国家の為に利用せんとすると、国家を真理に服従せしめんとす

るとは、同じように見えてその実相距(あいへだた)る甚だ遠きものに

これ有り候。 

  しかれども哲学者にして、文学者にしてしかも経世家なる先生のこと

なれば、この辺の所能(よ)く能く御含み置き下され候わば、小生共の

大幸福に御座候」



真理は国家のためにあるのではなく、真理に国家を従わせようとする

のが鑑三の立場だ。 

  しかし、樗牛の批評にまったく耳を傾けないほど石頭ではなかった。 

実は、先に掲げた七項目にわたる「余輩の欲する改革」は、このちょうど

二か月後に出されていて、それは樗牛の批判に対する具体的な回答文

とみてよい。 

  鑑三が、樗牛に答える文のなかで言明しているような理想そのものから

みると、これが、鑑三にとっては、精一杯実際的改革案であったのだ。

 【つづく】



 

 

 

 

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