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2013年5月28日 (火)

内村鑑三(16 )

   筆誅

  しかし『万朝報』  の英文欄の読者は、そんな外国人たちばかりでは

なかった。

  「本紙の読者層」でも述べられているように、日本国内の学生たちを

はじめとする読者も多勢いた。

 

  同僚の柏軒(はくけん)こと松井広吉が、その思い出のなかで語って

いる言葉によれば、鑑三は「万朝報の一大明星」であり、鑑三の入社に

よって、同紙は、清新な青年たちを多数読者としてひきつけたとのことだ

(松井広吉『四十五年記者生活』)。

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  世界の出来事はもちろん、国内に起こる日本人でなければわからない

ような事件まで、やはりとりあげて論じているのは、この若い読者を意識

したからだろう。 

 国内の出来事にかかわる論評の姿勢も国外と変わりなかった。



  『国民新聞』の徳富蘇峰が世界一周旅行から帰国したとき、鑑三は

これを歓迎し、その経験が『国民新聞』にあらわれ、同紙が国民の注目

するところとなるだろうと他紙の宣伝めいた文を書いている。 

  この点、鑑三は、就職時の抱負で語ったように、ライバル紙に対しても

公正である。


  その蘇峰がまもなく第二次松方内閣(*下の写真は、松方正義首相)に、

内務省勅任参事官として就任したとの報を聞くや、「変節」に対し容赦ない

怒りをあらわにした。 

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  「平民の友」で売った民友社の社長が、こともあろうに藩閥政府の官僚

となったからには民友社は、名を「官友社」と改めよと罵った。

 

  前にも述べたように、蘇峰は鑑三を『国民之友』を介して世に送り出さ

せた恩人であり、その恩は一生忘れなかったが、恩は恩であり、それを

義と混同することはなかったのだった。



  鑑三が、最初に足尾銅山(*下の写真)の鉱毒をとりあげたのも、

一八九七(明治三十)年三月十六日の英文「山について悪聞四題」の

なかである。

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  四つの山とは、第一は京都の本願寺の大本山、第二が足尾銅山、

第三が顕彰碑建立をめぐる不正が発覚した上野の摺鉢山(すりばち

やま)、第四が教科書出版社の贈収賄にからまる山賊たちのことである。

 

  これらをみても、鑑三は、その英文欄を通じて、日本社会の不義不正、

とりわけ、藩閥政府や上流社会、貴族、高官、金持ち、軍人などの私利

私慾に筆誅を加え、社会の弱者の立場で発言していることがわかる。

 

  前半生の辛い体験を通じてようやく内面化されたキリスト教的価値

体系にもとづく、人間観、世界観、国家観が、そのまま適用されたものだ。

  いわば、思想の応用篇である。時代の支配的な人間観である単なる

「富国強兵」的人間観への挑戦であった。

 

 

 文体 

 

  この鑑三の姿勢は、おのずと彼の書く英文のスタイルにも一つの特徴

をもたらしている。それは、例のnot ~but ~の構文である。 

  まずはじめに、世間的、常識的な見方を出し、ただちにそれを否定し、

かわって自分の価値体系にもとづく、ときには反対の見方を提示する

文体である。

  こうした「どんでん返し」の文章は、当時一般にどの程度浸透していた

のかわからないが、少なくとも鑑三が、英和両文において愛用した文体

である。

 

  あるいはそうでないばあいにも、いきなりひとの意表をつくような結論

をずばっと文頭にかざしている。 

  鑑三の日本語の文章につき、朝報社で同僚の堺枯川は、「苦味の存

する所が胆汁」のようで「鋭利」「痛快」「勁抜」「大胆」な「言文一致」体

みている。

 

  宮崎湖処子(こしょし)は「武士の太刀を揮(ふる)って大敵を斬り倒す」

になぞらえ、言葉遣いの「斬新」「雄勁」なことをあげている。 

  『帝国文学』では「活気があり、気骨あるの文」、『新声』では「情熱に富

み、感化力」があるとみ、『中央公論』では「神彩」ある「霊筆」などと評さ

れたことがある。 

 

  いずれにせよ、男性的で鋭く、熱気、活気、霊気に富んだ独自の文で

あることは、共通に同時代人の認めるところである。この魅力がまた読者

をひきつけ、心奥にまでバイブレーションをゆき届かせるのだった。

 

  時代はやや後になるが、神戸で発行されていた英文紙『ジャパン

・クロニクル』の編集をしていた秋元俊吉によると、同紙がニューズ

・ヴァリューのある日本人として数えていたのは、政界の伊藤博文(*下

の写真)、財界の川崎、住友などとならび内村鑑三であったとのことで

ある(白井楽山編『英文記者』)。


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  それほど、内村の英文は、在日外国人および外国人系新聞からも

マークされていたことになる。 

  『万朝報』の英文欄主筆は、一八九八年五月までの一年半ほどであっ

たが、この間、鑑三は約二百数十篇の文章を書き、それは亀井俊介氏

もいうように骨身をけずる思いで書かれたものである。

 

  同僚の英文担当者には、一高時代の教え子でもある山県五十雄も

いたが、鑑三は二日に一篇の割合で執筆し、その仕事に全力を傾倒

した。 

  このことは、この間に書かれた書簡で現存する量がきわめて少なく、

あの親友ベルにあてても、ただの二通しか残されていないことでわかる。

文字どおり手紙を書いているひまもなかったのだろう。

 

 

 

    『東京独立雑誌』


    退社

 

  『万朝報』で健筆をふるっていた鑑三は、突然、一八九八年五月二二日

の同紙に「退社の辞」を掲げ、同社を去った。かわって翌月十日より主筆

として『東京独立雑誌』を創刊した。

 

  「退社の辞」には、直接辞任の理由は書かれていない。その前日『万朝

報』に黒岩涙香の書いた「内村鑑三氏の退社を送る」によると、健康上

「新聞記者の劇務に堪えず、むしろ雑誌記者として静かに世に尽くさん」

とされている。

 

  たしかに、鑑三は新聞記者として全力を傾けていたから、健康の心配

があったであろう。しかし「雑誌記者」を決して楽な道として選んだので

なかった。

  鑑三には、しだいに、英文を介した社会批判がまだるっこさを覚えて

きたにちがいない。

 

 同紙にはたまには日本文による記事を掲載することもあったが、日々

深刻の度を増している日本社会の世紀末的退廃は、それでは追いつか

ないといういらだちが生じていた。日本社会の病根に大ナタをふるうのに、

みずから主筆として雑誌を発行することを決意したのだ。

 

  鑑三が『万朝報』に入社したことにより、同紙の読者数が著しく増加した

ことも、鑑三がジャーナリストとして自立することに期待を抱かせた。 

  新しい雑誌発刊の計画は、新『内村鑑三全集』40巻に収められた

「ノート」帳によって、退社する約一か月前から進められていたことが

わかる。

 

  鑑三は四月二一日朝報社の山県五十雄とともに、その兄の山県悌三郎

を訪ね、雑誌発行の計画を相談している。 

  山県悌三郎は、一八八七年に、学海指針社を設立して雑誌『学海之

指針』を創刊、つづいて『少年園』『少年文庫』(のち『文庫』に改題)を

発行していた。 

  悌三郎は、弟の五十雄から、鑑三の人となりを知り、『東京独立雑誌』

に毎月百円の援助をすることを了承した。

 

  朝報社の黒岩にあてた辞表は正式には四月二四日に提示された。

黒岩の熱心な慰留があったにもかかわらず、決意はかたく、ついに五月

四日に黒岩は、それを受け入れ、円満退社の運びとなった。 【つづく】

 

 

 

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