フォト
2017年1月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
無料ブログはココログ

« 内村鑑三(14 ) | トップページ | 内村鑑三(16 ) »

2013年5月27日 (月)

内村鑑三(15)

    三  野に吼える





    『万朝報』記者



 
  一八九七(明治三十)年を迎えてほどなく、名古屋の鑑三のもとへ、

朝報社社長、黒岩涙香(るいこう)が訪ねてきた。黒岩涙香(*下の写真)

は、以前『都新聞』の主筆をしていたこともあり、すでに翻訳小説家として

も知られていた。

                Photo
 

  『万朝報(よろずちょうほう)』(*下の写真)は、一八九二(明治二五)年

十一月一日に、創刊された日刊新聞であった。 

  絵入りで赤紙を用い、一般大衆を読者対象とした新興新聞である。

高級な政治記事よりは、お家騒動である相馬事件、新宗教の蓮門教事件、

名士の私行の暴露などをとりあげ、しだいに「赤新聞」の名をとどろかせて

いった。

            Photo_2

  このため「赤新聞」は悪徳新聞の異名ともなり、黒岩涙香(本名周六)の

ことを「まむしの周六」と呼ぶ者もいた。
 
  日清戦争より、購読者が飛躍的に増大すると、編集陣も拡大をせまられ、

涙香は、この機会に人材を探して、『万朝報』の信用の昂揚をはかること

にした。 

  内藤湖南(*下の写真)、森田思軒、斎藤緑雨などに入社を乞い、その

結果は上々であった。             Photo_8 

 こうして涙香の新路線の、決定版として白羽の矢が立てられたのが鑑三

であったのだ。 

  涙香は、鑑三のことを、その実兄の黒岩四方之進を通じて聞き知って

いた。黒岩四方之進は、札幌農学校において鑑三の一期先輩にあたり、

『余は如何にして基督信徒となりし乎』では「パタゴニア人」の名で登場す

る人物である。

 

  もちろん鑑三の文名は、その著書や論文を通じて知悉していて、宗教界

における高潔な人としてだけでなく、ジャーナリストとして卓抜した才能と、

自由な英語力の持主であることを見込んだためである。 

  涙香が、わざわざ名古屋を訪れ、鑑三に朝報社入社を懇請する場面は、

さながら一幅の絵である。

 

  鑑三は、はじめ、同紙が、さかんに人身攻撃をおこなっている新聞である

ことにためらいを示した。 

  また日本の社会が「堕落の極」に達し、救済の見込みがなくなっているの

で、もう見捨てているとまで言った。

 

  これに対し、涙香は、しばらくでも来て新聞配達の地位から社会を見たら

どうか、まだ少しは改革の望みがある、絶望するには早過ぎると答えた。 

  このあと、鑑三の沈黙の時間が長時間つづいた。 

やがて鑑三は次の歌を口ずさんで、たち上がった。 

    思ひきや我が敷島の道ならで   浮世の事を問はる可しとは

 

  この絵は黒岩涙香の描いたものである(「内村鑑三氏の退社を送る」

一八九八年五月二一日)が、すこぶる芝居がかってもいる。 

  それは必ずしも涙香の筆のせいだけでなく、鑑三には、このような芝居

じみたところが、その芝居嫌いに反してあったといえる。 

  引用されている歌は『太平記』に出てくる二条為明の歌である。 

『太平記』は若きころよりの愛読書の一つであった。



   入社

 

  鑑三には、一生の仕事として伝道者となることの方向づけはされていた。 

学校教師をしていても、広い意味で伝道者の仕事に従っているつもりだ

った。 

  それが新聞記者となると、まったく思いもよらない「浮世の事」であった

にちがいない。

 

 それでも結局、入社に応じたのは、鑑三の著作がある程度の反響を

呼んだことにより、ペンのもつ力を知らされたからであろう。 

  新聞記者となることが、必ずしも「浮世の事」になるのではなく、ペンを

通じた伝道という仕事に期待を抱いたためだった。

 

  一八九七(明治三十)年二月十四日の『万朝報』第一面のトップには、

次のような鑑三入社の記事が掲げられた。

 

  内村鑑三氏入社 

    農学士内村鑑三氏は今回当社の請いを諾し、来りて朝報の編輯(へん

しゅう)局に入れり。氏が社会の観察家として、熱心なる評論家として、 

今日の思想界に如何の地位を独占せるやは、世人の既に知る所ならん 

  朝報はこれを機として紙上またさらに幾多の刷新を加え、進んで止まざ

る本来の精神を発揮せんとす、切に読者の凝視せられんことを乞う

 

  これをみても、鑑三が、破格の扱いで朝報社に迎えられたことがわかる。 

鑑三の入社と相前後して、同社の編集局には、久津見息忠(くつみやす

ただ)(蕨村〔けっそん〕)、山県五十雄(いそお)、斯波(しば)貞吉、幸徳

伝次郎(秋水)(*下の写真)、堺利彦(枯川 (*下の写真)などが迎え

られた。

                   Photo_3

            Photo_4


  そのなかでも鑑三だけは、社長の涙香も「先生」の称をつけて呼んだ。 

『万朝報』が三千号を発行したとき(一九○二年)の記念写真に、鑑三

が涙香と並んで最前列の中央に坐しているのは、その社内での位置を

物語っている。

 

  涙香は、先に述べた文の中で「氏の入来るを見るや一座粛然として襟

を正せり」と言っている。 

  これも、ただの道徳家が一社員として加わったのみなら、だれも襟を正

すことはなかったであろう。社長涙香が「師兄」として仰ぐ人物が入ってき

たから行儀よくしたのである。


 

    英文欄




  朝報社での鑑三の仕事は、英文欄主筆ということだった。それまで

同紙の英文欄は、アメリカ人のF・W・イーストレーキが担当して、週三回

載されていた。 

  それが、鑑三が主筆となってからは毎日掲載されることになり、掲載場

所は一面の上段から下段に移された。

 

  最初の英文記事は二月十六日の’New  English  Edition (新しい英文

欄主筆)、である。

  鑑三はそのなかで、新しい担当者は「日本人中の日本人」であり、日本

の最良の伝統とともに世界の最高の文明に対し開かれた心でのぞむ決

意であることを披歴している。
   


  翌二月十七日の文章では、イギリスの観察力豊かな旅行家でさえ、

石狩川流域の藺草(いぐさ)の群生(*下の写真)を稲田として描いている

ことを例にあげ、日本人の見解を表明するには日本人の筆による必要を

力説している。

                          Photo_7
         
 

  これらを通じて、鑑三が、まず、日本の意見を誤りなく、外国または日本

にいる外国人たちに伝えようとしたことがわかる。

  この考えにたち鑑三は、世界に起こる出来事に対し、なんら憶すること

なく、堂々と論評を加えた。自己の見解を日本を代表する心構えで書いた。

 

  このため、東洋における西欧の大国の治外法権や、恥ずべき非行に対し

ては手きびしい攻撃を加えた。他方、それらの大国の支援を受けるトルコ

に抗し、敢然と戦う小国ギリシャ(*下の写真)に声援を送った。

                    Photo_6

  極東の一隅日本より送られた鑑三の声援は、はるばるギリシャまで届き、

しばらくしてアテネの新聞『エンプロス(Empros)』より、鑑三が『万朝報』に

書いた記事をとりあげた新聞が送られてきた。 

  これを報じた鑑三の英文「ギリシャからの反響」は、手放しの喜びに溢れ

た文章になっている。 

  ペンの仕事が、日本からはるかに離れた小国を激励することになったと

いうこの重い事実は、執筆者にとり、もっとも生きがいと充足感とを与えら

れたにちがいないのだ。

 

  その文章につづいて翌日に書かれた「ギリシャへの同情」になかでも、

鑑三は、小国ギリシャへの同情をあらわす反面、トルコを支援する大国を

呼ぶとき、きまって「キリスト教信仰をもつ」とか、「キリスト教徒の」という

形容をつけ加えている。そこには英文欄主筆としての鑑三の論評の一姿

勢が出ている。 

 

  すなわち、キリスト教的な正義感に立ち、世界の貧しく抑圧されている

小国に肩入れする一方、大国、それもキリスト教を自称してきた大国を

たたくことである。

  当然、鑑三のような姿勢は、日本にいる外人系新聞から歓迎される

はずはなかった。 

 『万朝報』の新しい英文欄主筆に対して、次々と反感が伝えられたことは、

さらにそれに応じた鑑三の文章が多く書かれたことでわかる。 【つづく】
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 

« 内村鑑三(14 ) | トップページ | 内村鑑三(16 ) »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

Links