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2013年5月25日 (土)

内村鑑三(14 )

   地人論




  『地理学考』は、その最版本(一八九七年)から題名を『地人論』と改めて

いるところからもわかるように、地と人との交渉のなかで人類の歴史をみ

る立場より書かれたもので、地理学者であるとともに歴史書でもある。 

  アマスト大学在学時代に愛読したA・ギョーの『地と人(The Earth and

Man )』の影響を強く受けている。 

 

  本書でもっとも鑑三が力点を置いたのは第九章の「日本の地理と其天

職」である。 

   二年前、『ジャパン・デイリー・メイル』に寄せた英文「日本国の天職」を

さらに展開させたもので、島国日本が、アメリカ大陸とアジア大陸との両

文明を媒介する位置にあることから、人類文明史に神から与えられた

日本の天職をみようとしている。

 

  この見方自体は、山路愛山が評しているように(『国民之友』二二七号)、

そのころでも、さほど新しい見方ではなかったかもしれない。 

  ただ、それがいったん鑑三の筆にかかると、東西文明の媒介者である

ことに自己の使命を見出していたために、俄然、いきいきとして躍動感を

帯びたものになったのである。






  余は如何にして基督信徒となりし乎



  ’How  I  Became  a  Christian’(余は如何にして基督信徒となりし乎)は

鑑三の前半生の自伝である。 

  武士の子として生まれ、札幌農学校でのキリスト教入信、独立教会の建

設、渡米して、エルウィンの精神薄弱児養護院における勤務、アマスト大学、

ハートフォード神学校での勉学のありさまを、日記をもとにして綴ったもので

ある。

  最初から、アメリカ人を対象として書かれたもののため、いささか日本人

としての力味がみられはするが、鑑三自身の歩みを知るうえからはもちろん、

明治前期の青年の精神をみるためにも、代表的な伝記文学である。

 
                        Photo

 

  一八九三(明治二六)年の末にほぼでき上がり、アメリカからの出版を希

望していたが、話がまとまらず、一八九五年五月、まず日本の警醒社書店

より刊行、同年十一月、アメリカのフレミング・H・レベル社より、’Diary of

a  Japanese  Convert ’の題名で刊行された。

 

  その後、ドイツ語、フィンランド語、スウェーデン語、デンマーク語、フラン

ス語の翻訳が刊行され、ことにドイツでは版を重ねて迎えられ、哲学者の

オイケン、宗教社会主義者のラガツ、神学者のブルンナー、神学者にして

医師のシュヴァイツァーなどにも読まれた。





 

  日本及日本人




  ’Japan  and  the  Japanese’(日本及日本人)は『余は如何にして基督

信徒となりし乎』とならぶ鑑三の二大英文著作である。

  一九○八年の改版木からは、題名を’Representative  Men of  Japan’

と改めている。

  新しく書き下ろした西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮の

五人を論じた本文に続き、’A Temperance  Island  of  the  Pacific(太平

洋の禁酒島)’’Japan:Its  Mission (日本国の天職)’’Justification  of 

the Corean  War (日清戦争の義)’の旧稿三篇が加えられている。

  ちょうど日清戦争の進行中であり、傑出した日本人と「日清戦争の義」を

海外に紹介する意図があったものとみられる。 

  後年、’Representative  Men  of   Japan’と改題されてからは、序文に

あたる一章と附された三篇は省かれた。

 

  本書もまたドイツ語訳とデンマーク語訳とが刊行された。鑑三の後年の

日記には、この書が、フランスの元首相クレマンソーによっても読まれた

ことを知り、感激している記述がある。







   京都時代




  鑑三の京都在住時代は、このようなキリスト教的著作が、あいついで世

に出て、鑑三も一時は著作生活で立つことを思ったほどであったが、暮ら

しは決して楽ではなかった。

 

  この時代の鑑三を経済的に支えたのが、京都の便利堂の中村弥左衛門、

弥二郎の兄弟であり、鑑三は、その家にしばらく滞在したこともある。 

  現在、美術印刷物の製作で知られる便利堂には、鑑三滞在の記念碑が

建てられている。



  便利堂は、また、一八九四(明治二七)年に鑑三が、箱根で開催された

キリスト教青年会第六回夏期学校でおこなった講演「後世への最大遺物」

を一八九七年に最初に刊行している。

 

  「後世への最大遺物」は、人間が後世に遺すものとして、金銭や事業や

思想をあげるのでなく、「勇ましい高尚なる生涯」を説いたものである。 

  立身出世主義の華やかな時代に、真っ向から反対の価値ある生き方を

示した。

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 夏期学校の参加者はもとより、広く読者に深い感銘を与え続けている

書物である。

  作家の森敦(あつし)氏(*下の写真)は、同じ本を十数冊も購入するほ

ど愛読したという(新『内村鑑三全集』21巻付録「月報」20)。

                               Photo_2


  不遇だった京都時代の鑑三を助けた人物として、鑑三が一生その恩を

忘れないのが、『国民之友』の徳富蘇峰(*下の写真)である。

                             Photo_3

  蘇峰のおかげで鑑三は、『国民之友』に「流鼠録」や「日清戦争の義」

「日蓮上人を論ず」「農夫亜痲士(アモス)の言」「何故に大文学は出ざる乎」

「如何にして大文学を得ん乎」を発表、生活の資をえるとともに、その文名

を高めることができた。

 

  鑑三が同誌に寄稿した「何故に大文学は出ざる乎」と「如何にして大文

学を得ん乎」の二篇は、折しも勃興しつつあった「大文学論」または「国民

文学論」の声に応じたものである。

  鑑三が「大文学」の条件として、理想性、世界性、独創性、文学者の品性

をあげたことは、日本の文学史上、注目されてよいことであった。 

  しかしながら、当時の日本の文壇に、この声はかえりみられなかった。

 

 かわって、正宗白鳥のような地方在住の若い読者が、これにより「如何に

生くべきか」の目を見開かれ、刺激を与えられた。

  このころ、『国民之友』の編集にしたがっていたのが、国木田独歩(*

下の写真)である。

                        Photo_4
 

  独歩もまた同誌に掲載された鑑三の作品を介して、この作者に敬愛

を抱いた一人である。 

  一八九六年の春、妻の信子に去られて、失意のうちにあった独歩は、

アメリカ行きを思いたち、このことを京都の鑑三に手紙で相談している。

 

  鑑三は、これに答えた手紙のなかで、しきりと旧約聖書のホセア書を読

むことを勧めている。

  ホセア書は、前述したように、かつて同じく妻に去られた鑑三が、そのに

がい経験をとおして、神にちかづくことのできた一篇であったからだ。

 

 

   日清戦争 

 

  『国民之友』に寄せた「日清戦争の義」(一八九四年九月)は、その前号

に英文で掲載された’Justtification  of  the Corean  War’(二三三号)の

訳であり、これはさらにさかのぼると、八月十一日の『ジャパン・ウィークリ

ー・メイル』に寄せた’Justification for  the  Korean  War ’が最初である。

 

  鑑三はこれによって、欧米諸国に向かい、日清戦争が「義戦」であること

を訴えようとしたのだ。

  日清戦争を、はじめは弱い朝鮮を守る「義の為の戦争」であり、「慾の戦

争」ではないとみた鑑三であったが、一八九五年四月、講和条約が調印さ

れるや、鑑三は、その戦争が結局は「慾の戦争」であったことを知り

「義戦」を訴えたことを心から後悔した。

 

  一八九六年一二月二五日の『福音新報』に寄せた次の詩は、その怒

をぶっつけたもので、近代日本の反戦文学のうえからも重要な位置を占

めるものといってよい。

 

    寡婦(やもめ)の除夜


  月清し、星白し、
 

 霜深し、夜寒し、 

  家貧し、友少なし、 

  歳(とし)尽きて人帰らず、

 

  思(おもい)は走る西の海 

  涙は凍る威海湾(いかいわん) 

  南の島に船出せし 

  恋しき人の迹(あと)ゆかし


  人には春の晴衣(はれごろも)
 

  軍功(いくさいさお)の祝酒(いわいざけ) 

  我には仮りの侘住(わびずまい) 

  独り手向(たむく)る閼伽(あか)の水


  我空(むなし)うして人は充(み)つ
 

  我衰えて国栄う 

  貞(てい)を冥土(めいど)の夫(つま)に尽くし 

  節(せつ)を戦後の国に全うす

 

  月清し、星白し、 

  霜深し、夜寒し、 

  家貧し、友少なし、 

  歳尽きて人帰らず。



  鑑三は、この詩をのちに『小憤慨録  下』(一八九八年)に再録するにあ

たり、副題として「明治廿九年の歳末、軍人が戦勝に誇るを憤りて詠める」

との言葉をつけ加えている。






   名古屋英和学校




  京都時代の鑑三は、著作活動のほかに第三高等学校の学生を相手に

聖書講義を開いたりして伝道もおこなっていた。 

  北海道空知の集治監で教誨師(きょうかいし)をしていた留岡幸助とはじ

めて対面したり、石井十次の岡山孤児院を訪ねたのも、このころのことで

ある。

 

  この間、一八九四年三月一九日には一女が生まれた。前年の暮れに、

日本人の手になる最初の聖書註解書ともいわれる『貞操美談  路得記』を

刊行したばかりのこともあってルツと命名した。

 

  文筆による多少の収入はあったが生活の苦しさにはかなわず、一八九

六年九月からは、名古屋英和学校の教師として赴任した。 

  名古屋英和学校は、米国のメソヂスト・プロテスタント教会により、一八

八七(明治二十)年に創立された学校である。「敬神愛人」をその校訓として

いた。

 

  一八九六年九月、地もとの『扶桑新聞』に出た同校の生徒募集広告には

「今回更に農学士   米国理学士   内村鑑三氏を聘し  教授上一生面を開

かんとす」とある。 

  泰西学館のときもそうだったが、内村鑑三の名前は、充分宣伝効果を

もつものであった。

 

 鑑三は、校長A・R・モルガンの懇請と、著作活動の便利のためには

東京に近い方がよいこともあったが、なによりも生活の安定のために、

学生数わずか二百人たらずのこの名古屋の小さな学校で教えることに

した。

  名古屋英和学校が、宣教師の経営する学校であったにもかかわらず、

鑑三は珍しく衝突をひき起こさなかった(*下の写真は、当時の同校

校舎:当時としては、珍しい本格的な西洋建築で、「隣りの県庁よりも

立派」と評された。その下の写真は、同校の後身、名古屋学院大学の

名古屋キャンパス)


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  校長のモルガンに対し鑑三が好感を抱いていたことと、鑑三自身にも

自制心が働いたことによるであろう。 

  キリスト教証拠論、倫理学、地理学、歴史学などが鑑三の担当した

学科目である。

 

 「祈りつつ学び、感謝しつつ働く」ことを教えようとして、鑑三は率先して、

農園を開き、豚の飼育にあたったといわれる(『名古屋学院史』)

  【つづく】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

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