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2013年5月23日 (木)

内村鑑三(12 )

    伝道者




  一八九二(明治二五)年一月より、鑑三は横井の世話で日本組合キリ

スト教会の京橋にある講義所の説教者となった。 

  その春には大阪で開かれた日本組合キリスト教会の総会にも出席して

いる。五月からは、前述の『基督教新聞』の編集員に、横井時雄、綱島

佳吉、原田助とともに就いている。『基督教新聞』は、やはり組合派系の

週刊新聞であった。




  新潟の北越学館では、その組合派系の宣教師たちと、あれほど対立

した鑑三が、こんどは一転して組合教会の伝道者になっている。

  これは、どうしたことか。

 

  「不敬事件」により、もはや、学校の教職などに就く道を閉ざされてしま

った鑑三に、さしあたり可能な仕事は伝道者でしかなかったのだった。

  こうして、鑑三は、改めて伝道者となることを真剣に考えた。その春、

大阪で開かれた日本組合キリスト教会総会の懇話会の席上で、鑑三が、

望ましい伝道師について語ったり、『基督教新聞』に「理想的伝道師」と題

して五回におよぶ連載論文を掲載したのは、そのあらわれにほかならない。



  一八九二(明治二五)年の夏に、静養のため鑑三は、一高時代の教え子

飯山敏雄を連れ、千葉県君津郡竹岡村に滞在した。 

  鑑三が同地を訪れたのは、その地方の聖書販売人であった上州安中

教会の茂木一郎の紹介によるといわれているが、一高生鈴木一が同村

の出身であり、その父が竹岡村村長であったことにもあずかっているで

あろう(『鈴木一先生日記及書翰』)。

 

  鑑三は同地に一か月余りの滞在中、熱心に伝道をし、ついに、同地に

天羽(あまは)キリスト教会が設立されることになった。

  天羽キリスト教会の設立は、八月二五日に決定し、同教会の「信仰箇

条」と「規約」とは、鑑三の立案によって作成された。 

  つづいて八月二八日、教会創立後最初の日曜礼拝が守られたが、鑑三

が司式をするとともに、ロマ書第一章第一六節を講じている。

 

  この朝の礼拝には、若き大西祝(はじめ(*下の写真)も出席している。

礼拝が終わると、鑑三は金谷より海路帰京した(『竹岡美以教会略史』)。

                          Photo_4

  竹岡教会は、のちに、メソヂスト教会に所属することになるが、最初は

独立教会として出発したのだった。

 

  鑑三が、このように、竹岡村に一つの教会を設立したことも、伝道者と

して立とうとした意志のあらわれとみることができる。


 

  泰西学館




  千葉から帰るとすぐに鑑三は、大阪の泰西学館に教師として赴任した。

泰西学館は、これまた、組合派系の学校で大阪キリスト教会牧師宮川

経輝(つねてる)が館長をつとめていた。

 

  同教会で発行されていた『大阪基督教報知』には、鑑三を同館に招い

たのは生徒たちの尽力の結果と報道されている。

  泰西学館は貧しい生徒たちが、自分たちの手で石鹸や牛乳を行商す

ることによって支えている学校である。

 

  鑑三自身も困窮した生活を送っていたが、そんな少年たちの懇請は

拒みきれず、泰西学館へ赴く決意をしたものと思う。

  大阪に着任した鑑三は、生徒たちにひたすら学業を「天職」としてつと

めることを勧めた(『大阪基督教報知』六号)。

 

  『大阪朝日新聞』に掲載された泰西学館の生徒募集広告には、大きな

活字で内村鑑三が教師として着任することが宣伝されている。そのため、

新入生も著しく増加をみせた。

 

  あの「不敬事件」は、このころになると鑑三にとって否定的な面ばかり

でなく、彼のネーム・バリューを高める方向にも働きはじめているのだ。 

  ただし伝道者になることに腹を決めていた鑑三は、宮川の大阪キリスト

教会の伝道にも協力し、その老松町講義所で日曜学校の担当者になっ

ている。

 

  この間、鑑三は、京都の判事岡田透の娘しづと大阪で日本式の結婚

式をした。岡田は旧岡崎藩の武士で弓術をよくした。 

  娘のしづを鑑三に嫁がせるにあたり「不敬事件」のことをひとから知ら

されると、むしろ、鑑三に敵の多くあるのをよしとして嫁にやることに同意

した人物である(*下の写真は、内村鑑三、しづ夫妻)

           
    (*写真の下には、著者と妻静子  1893年〔明治26年、著者33才、

          妻静子20才〕 晩春、熊本にて)とある。
 

Photo_8

 

   再燃




  折しも、鑑三としづとの結婚と相前後して、一度は鎮静しかけていた

「不敬事件」に関連する論争が再燃しはじめていた。 

  それは、雑誌『教育時論』(二七二号、一八九二年十一月五日)に「宗教

と教育との関係につき井上哲次郎氏(*下の写真)の談話」が発表された

のに端を発している。

                  Photo_5

  井上哲次郎は帝国大学文科大学教授であり、一八九一(明治二四)年

九月には文部大臣芳川顕正の依頼で『勅語衍義(えんぎ)』を執筆、刊行

している。

 

  鑑三の「不敬事件」については、その年五月に出した『内地雑居続論』の

なかで「不忠不孝なる内村鑑三の如きは、己に畏れ多くも我が至尊なる

天子を侮辱せり、かくの如きものはもはや日本人民に非ざるなり」と攻撃し

たことがある。 

 


  井上は、『教育時論』に掲載した「談話」につづき、「教育と宗教の衝
突」

と題する論文を多数の雑誌に同時連載、これを一八九三(明治二六)年に

は単行本『教育ト宗教ノ衝突』として刊行した。 

  井上によれば、鑑三の「不敬事件」などに代表されるキリスト教の非国家

主義、出世間主義、博愛主義は、日本の国体の国家主義、現世主義、

忠孝の精神に反するとされる。

 

  この井上の所論をめぐり、キリスト教会はもとより、仏教界、思想界、

学界、教育界、ジャーナリズム界をあげて大論争が起こり、一八九三年

のマス・コミは、古今未曾有のにぎわいをみせた。

 

  鑑三自身は「文学博士井上哲次郎君に呈する公開状」を『教育時論』

(二八五号、一八九三年三月十五日)に発表し、井上の記す「不敬事件」

の記述に事実誤認の多いことを指摘するとともに、「勅語に向て低頭せざ

ると勅語を実行せざると、不敬いずれか大なる」と反論した。

 

  しかし、国家主義的な時流にのった帝国大学教授井上の発言は著し

く重んぜられ、「不敬事件」で負った鑑三の傷を深めた。 

  彼を改めて「不敬漢」にしたこの井上の追い打ちを、鑑三は晩年になっ

ても忘れなかった。





   
   熊本英学校

 

  大阪の泰西学館での教育の仕事は、学校の経営難にからむ当局の

不誠実を理由に、一八九三(明治二六)年春には辞し、代わって四月

から熊本英学校教師として赴任した。

 

  熊本英学校の校長の蔵原惟郭(これちか)は米国時代にも一時生活

を共にしたことのある友人であり、同校は海老名弾正(*下の写真)

初代校長を勤めたキリスト教主義学校である。

                            Photo_7

  熊本英学校には、夏まで勤めるという仮の約束で赴任したのだが、同校

における鑑三の教育について、生徒の一人であった竹崎八十雄は、こん

な話を伝えている。 

  鑑三が「日本の三大湖を言え」と出題したところ、生徒の一人が熊本の

江津湖(*下の写真)をあげた。

                               Photo_6

 

  鑑三はそれを聞くや「あんなのは湖ではない、ドブだ」と吐き捨てるように

言ったという(政池仁『内村鑑三伝』)。 

  鑑三は、そこでも視野の大きな人間を育てようとつとめたのだ。

  【つづく】

 

 

 

 

 

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